2009年12月31日木曜日

年中行事を終えて



今日は大晦日、ここ20年近く年中行事にしている伊勢神宮参拝を済ませてきた。いつものことであるが今年の息災を感謝し来年の無事を祈願してきた。今年は例年より少し人出が多いように思う。マイカーが年々増えるのは仕方がないとして、毎年ほぼ同じ時間帯の電車で行くのだがこれが結構込んでいる。名古屋からの近鉄線が満席に近かったのは今年が始めてだ。

伊勢神宮本来の神宮式年遷宮年を数えると今年がそれにあたる。しかし先の大戦の結果、終戦直後に昭和天皇のご意向で4年延期されたので、現在は4年遅れになっており次回は平成25年ということになっている。しかし宇治橋だけは予定通り終戦直後も昭和24年に架け替えられた。そして今年も11月に無事架け替えが済んだところである。昨年までは木が老朽化して歩き難かったが今年はすべてが滑らかで、清々しい気分をもらうことができた。




外宮内宮と参拝の後、孫たちのお守り袋や義母の土産に赤福などを買い込み、猿田彦神社に参拝してから帰宅するのを恒例にしていたのだが、昨年からこれに天照大神の弟宮の月讀宮とイザナギ、イザナミ即ち先の兄弟を生んだ親神様を祀る社にも回るようになった。ここは昨年乗り合わせたタクシーのドライバーに勧められたのだが、実に森閑と静まり返って実にすばらしい。日本最高の神様のご両親様弟君様を祀り、内宮からもほんの数百メートルぐらいに位置しながら参拝者は極僅かだ。山歩きもそうだが人気が無いと本当に精霊と触れ合う事ができた様なありがたい気分になる。写真をアップして宣伝するのも少しもったいないようにも思うが、よい所を独り占めするのも気が引けるのでご参考まで。

皆様どうぞよいお年をお迎えください。

2009年12月30日水曜日

下地島

今まで見たことも聞いた事もなかった島の名前を今朝初めて知った。1分に満たないニュースだったが小沢一郎の名前と一緒に出されるとやはり相当なインパクトだ。我が家でも「お早う」の挨拶に次いで真っ先にこの話題になった。普天間移転の問題はどこに着地するのかと内心不安を感じていたところに、先日小沢の名前が出てきた。「こんなきれいな海岸を埋め立てていいのか?」と。

「やっぱり小沢が乗り出して、ランディングポイントを探してくれそうだ」と少しホッとしていた所に今朝のニュースだ。小沢の発言はタイミングが相当に図られ、内容も慎重に練られているのかも知れない。

テレビ朝日の三反園が言っていた。「彼が発言する以上はいろいろな根回しがあってのことだと思います。5月に移転先を発表、6月から子供手当を支給して7月に参院選挙。」小沢は「根拠のない発言はしない」人なんだそうだ。先ほど自民党の石波が「下地島は勿論何度も検討したが、沖縄県民(屋良県知事)との固い約束で、あそこだけには軍事施設を持ってこない事になっている。」としゃべっていた。こちらは普天間移設が15年も店晒しになっていた理由なんか何一つ知らない。しかし小沢がそんな事を知らずに発言する筈もないし、三反園が言うように根拠のある発言であってくれることを期待したい。

新政権がスタートして約3か月、先日も少し書いたが明治維新の直後戊辰戦争が勃発した事を思えば混乱は少ないとも言える。それだけ自民党員は与党ボケで根性無しになっているのかも知れない。公明党はもっとひどくて単に権力にすり寄っていただけだから、3ヶ月経った今右顧左眄しているのが明白だ。但し与党側もマニフェストに拘りすぎたりするので少々心配していたのも事実。しかし予算編成が終わると、やはり政権交代の実が少しずつ見えてきている。正月休みに入っても政府の政治家は良く働いている。 

来年国会が始まると、又政治資金と言った瑣末な問題で苦労するのだろう。せめて日米関係を早く安定させてほしいものだ。

2009年12月29日火曜日

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来年はコメントを歓迎しますのでよろしくお願いします。
皆さまどうぞ良い年をお迎えください。

2009年12月28日月曜日

歳の瀬に

先週の金曜日で早々と得意先の挨拶を済ませて土曜日には年賀状も投函してしまったので、今朝は朝から事務所の片づけやら来年の小手帳などを準備、明日ちょっとした仕事を残すだけで比較的ゆったりとした年末となった。幸い夕べ雨が降って適度な湿り気がある所にお陽様が出てきたので暖かいのもありがたい。

振り返ればあっという間の1年で、世間一般には政権交代による混乱とか不景気とかで落ち着かないようでもあるが、個人的には落ち着いて振り返る事が出来るそこそこの1年だったような気がする。

一番のハッピーは昨年の暮れに3人目の孫が誕生して、すぐに正月早々母親となった娘が夫と主に勤務先の名古屋から東京に戻ってきた。この孫も先日元気で満1歳の誕生日を迎えた。昨日、23日義母の誕生会で撮影したこの子と従兄2人の3ショットの写真が送られてきた。大きい方は既に小学校6年と5年生、3人とも元気そうで明るい顔をしている。子供たちの笑顔がもたらす幸せ感は何ものにも代え難い。

しかし大きくなると祖父との付き合い方が大分変わってくる。昨年までは冬休みに入ると依頼があって映画に連れて行ったり、2月の連休や春休みにはスキーに連れていいたりしたものだ。ところが今年は孫のスケジュールが詰まっていて、お祖父さんとに遊んでもらわなくても結構と言う事らしい。スケジュールと言っても上の子のバスケの練習とか試合が主な理由で、勉強が忙しい訳ではないのが救い?

大きな病気になった者がいなかった事も良しとしなければならないだろう。とは言っても検査入院をしたりして医者への通院はかなり増えた。年末調整に備えるために医者と薬局の領収書を合計してみた。領収証の枚数が53枚あって、案の定10万円を6千円程オーバーしていた。金額的には10年ほど前胆石で入院して以来の事だ。半分は薬代なので毎月2回以上医者通いをしている計算になる。この傾向は今後ますます高くなるのだろう。健康保険でこの2倍強を補てんしてもらっている勘定だが、支払っている国民健康保険料の方が圧倒的に多い。未だ少しは国家に貢献していると安心する。

健康維持については益々気を使うようになっている。先ず酒を飲む機会と甘い菓子を食う機会が圧倒的に減った。医者からも言われている通り1日に最低でも5千歩は歩く事を心がけた。平均すると1日7千歩ぐらいではないだろうか。ウィークデイは極力2駅先の池袋まで歩いて昼飯を食いに行く事が習慣となりつつある。休日の水泳もかなり上達して、遂にクロールで連続500m一休みして合計1000mを無理無くこなせるようになった。加齢による障害はところどころに現われているが、これは仕方がない。快適に暮らすには日々の運動を心がけて行くしか無いだろう。

趣味も大分変化をした。一番はやはりスキーだ、若い頃と比較すれば滑る日数は比ぶべくもないくもない。例え1回1日であっても雪山への胸のときめきは変わらない。スキーは体力応じてコースを選ぶことが出来るので、未だ相当行ける事だろう。スキーに行く機会が減った代わりに夏山に随分行くようになった。今年は5月から先月まで毎月のように行った。夏山は晴天ばかりではない。土砂降りの時も何度かあったが、それも今になれば全て懐かしい思い出になっている。ゴルフは一度もしなかったが山歩きがこれに代わっている。これからは高い山歩きが減り里山歩きへと移り、更には平地で名所旧跡を廻る旅になって行くのだろう。

映画館に足を運ぶことが極端に減った。テレビの映画も殆ど見なくなった。読書量も随分減った。本を読み始めると眠くなってしまうので自宅では全く読まなくなった。大先輩から、「どんな人でも生涯に読める本は高々5千冊、だから良書を選んで読まないと損だよ。」と教わった。良書を選ぶつもりもないが、1年に50冊程度は読めるかと思っていたがとても無理そうだ。今月の10日に友人が推薦してくれたデイヴィッド・ハルバースタム「朝鮮戦争」に取りついたが2週間以上掛ってやっと上巻を読み終わった。碁会所の碁も一向に強くはならないが、毎度楽しむ事は楽しんでいる。

全ては歳相応の変化だろうが、もはや最大の快楽は睡眠で睡眠時間だけは確実に増えている。それと就寝の前後に布団の上と言うか布団にもぐったままもあるが、必ずストレッチめいた動きをするようになった。

2009年12月25日金曜日

ご用納め

本日はご用納めモード。得意先にあいさつに出向くと、「まだ少し早いよ」てな顔をされてしまった。挨拶周りも簡単に済んで、後は床屋さんで散髪に回ると、ここは流石に年末らしく大分混んでいた。事務所に帰ってからは年賀状の準備。と言っても、物ぐさそのもので殆どパソコン依存、誠意のな事夥しい。それでも罰があたって2重印刷やら喪中の人への宛名を書いたり、10枚ほど無駄にしてしまった。これも毎度の事で、お年玉抽選会が終わるまでこのまま置いて、番号確認の後に郵便局で切手と交換している。

床屋さんでも言っていたが、最近は大みそかまで店を開けていても、大みそかは却って客が少ないのだそうだ。「31日は夜7時過ぎまで店は明けていますが、夕方過ぎると殆どお客さんは見えません。一昔前までは元旦の早朝までの営業で大変だったのですが楽になりました。」との事だ。

私も20年前程前までは広告会社で営業マンをしていた。当時のことを思うと25日のご用納めモードはの夢みたいな話だ。官庁関係の仕事もしていたので、この時期は毎晩遅くに役所を回って差し入れをしなければならない。各官庁で予算にかかわっているセクションでは、秋には殆ど結論の出ている予算について、正式に大蔵省から内示されるのを只管待っているのだ。大蔵省の主計局の官僚がまた相当なもので、大体昼頃出勤して来て普通の人が帰宅する時間帯になると、各官庁に資料を持ってこいと言ってくれる。場合によってはそのとばっちりがこちらに飛んでこないとも限らないので、待機している姿勢とおべっかを兼ねての差し入れとなっている。

予算編成期と称する一種のお祭り見たいものだからたまらない。この間予算官庁の官僚は担当主計局の官僚をご接待したりする。役所の方にも食糧費なる官官接待予算があるとは聞いているが、我々が陪席の栄誉にあずかり、代わりに料理屋の設営などする機会がしょっちゅうだった。これがまた面白くて、何故か主賓が主計局主査クラスだと予算官庁は最低でも課長が接待する格好を取り、主計官になると
接待側は局長クラスでなくてはいけないのだ。設営側の我々にとって厄介だったのは、大蔵の官僚は忙しいと称して6時や7時の食事時間には来てくれない。そりゃそうだろう、昼間まともに仕事をしていないのだから、夜になったら少しは格好をつけなければならない。

こちらは課長以下雁首を並べて銀座あたりの料理屋で待つうちに、女中さんが「お客様がお見えです。」と案内してくるのが9時過ぎはざらであった。料理屋の調理場にしろ女中さん達にしろ昭和の末頃になれば皆通いの勤めだ。閉店時間も大体10時としたものを拝み倒して遅くまでサービスしてもらわなければならない。そのためには普段から高級な料理屋に顔が利くようになっている必要がある。思えばこちらもそれを楽しんでいたのかも知れぬが、随分馬鹿な事をしてきたものだ。年末ぎりぎりまでこの馬鹿騒ぎをして、大蔵が予算内示をしていた訳だ。この間政治家が何をしていたかと言えば、内示の前日に大臣折衝と称して大蔵大臣と15分くらい顔を合わせて予定の百億前後が復活したというポーズをとる。出来レースなんてもの以上にたちが悪い。

予算を付けてやると威張っていた財務官僚は今どのような立ち位置を取っているのだろうか。官官の談合体質は少しは改まったのだろうか。どうも報道を見る限りは、与党の政治家も官僚のしぶとさには敵わないと言うか相当丸めこまれているようだ。自分の部下たちがテーブルの下で手を握り合って味方と敵が入り混じって連絡を取り合っている筈だ。この連絡を絶ち切る事はどうしても出来ないだろう。

現政府の政治家が良く働いているのは分かる。しかし政務3役に本当の情報が上がるようになるのは河清百年の感無きにしも非ずだ。部下が必要だと言うものを「切れ!」と言うだけの度胸を持った政治家は残念ながらまだ見当たらない。官僚が差し出す生贄を国民に見せるのが精一杯の所に違いない。やっぱり法律と言う堀に守られた官僚城は難攻不落にも思えてくる。それはその筈で、明治20年からこちら殆ど全ての法律作成を官僚に任せてきたのだから仕方がない。

マッカーサーでも落とせなかった官僚の城だ、誰一人血祭りに上げないで革命は無理だ。革命なら人殺しのような超法規的手段が必要と言う事になる。100人やそこらで城を引き取る事が出来る筈はない、10倍の人数は必要でないかえ。自民党との違いをもっと明確にしてなめられないようにしないと。「官僚に国会で答弁させない」程度では駄目だよ小沢さん、せめて政権を取った瞬間に次官以上の首を取るべきだったかも。そうすりゃ宮内庁羽毛田、駐米大使の藤崎なんて奴輩の雑音も出なかったろうに。

仕事終わった気安さで少し過激になりすぎた。

2009年12月24日木曜日

誕生会

先ずは読者の皆様にお礼を申し上げなければなりません。先日お願いした、右側にある「にほんブログ村」アイコンクリックの効果で本日<男性シニア>ジャンルで一躍1位に躍り出ました。尤もこのジャンルに現在登録されているブログ数は52サイトだそうです。登録件数705サイトの<シニア日記>では38位になっていました。
とは言え、小学校以来何をやっても学年はおろかクラスでも1番になった事が無いものですから、私は一人で喜んでいます。。(笑)
毎日書き続けるのが一つのコツのようですが、そんなに変化ある生活ではありません。小学生時代の夏休みの宿題の日記はほぼ1か月分を1日か2日で書いたものです。その時のように毎日同じことを書いていたら、「いい加減にしろ」とお叱りを蒙ってしまいます。思いつくまま気の向くままに続けたいと思いますので今後もよろしくお願いします。

最近家族ネタが無かったので今日はそれにします。昨日家内の実家の母の誕生会と言う事で(天皇陛下とは数日のずれがあるようです)家の婆さんと二人の娘の家族が横浜の実家に集まりました。私だけは何故か参加していません。いつもの休日通り午前中はプール、午後は碁会所で遊び夕食は外食でした。付き合ってくれる彼女はいませんので勿論一人です。

昔からこの手の集まりに私が参加するのはお正月だけと決まっています。同窓会などでは私が中心に居ると納まりが良いようなんですが、家族の場合はどうも私が居ない方が和気藹藹で、私が居ると異物感が漂うようです。私の方もここ数年は酒を控えていますので、酒飲み一家の宴会は長丁場すぎて若干居心地が悪くもあります。双方に丁度いい塩梅と言う訳です。

今朝の食事は、これもいつもの事ですが、婆さんから孫の報告で終始しました。昨年の文化の日に生まれた3人目の孫が居るのですが、これがかなり活発に歩いたり、何やら声を出したりして大分意思表示があるようです。大きい孫は既に6年生と5年生で、彼らも一回り大きくなっているようです。6年生の方は「そしがやレッヅ」と言うミニバスケのチーム(つい最近まで小学校のクラブ活動かと思っていましたら地域のクラブで、他校の生徒も一緒なんだそうです)に入っていて、今年からレギュラーになり、先週は世田谷区の大会で優勝したようです。

私は遊ぶことは好きですが、運動とか駆けっこには自信がありません。婆さんは小学生の頃から体育の時間が一番嫌いだったと公言するほど運動はしません。娘は少しお転婆だったかもしれませんが、チビでしたし駆けっこが早かったと言う事は無い筈です。お婿さんもおとなしい人であまり運動が得意そうには見えません。誰の遺伝子を受け継いだのかと二人で毎回不思議がっています。それにしても孫たちが元気と言うのはなによりで、老夫婦には一番明るい話題です。

「お爺さんもお正月が楽しみですよ。」と言われましたが本当に早く会いたいものです。

これとは関係ないのですが朝の会話からもう一つ。

「誕生会」で思い出したがのですが、私はほぼ毎日自宅から池袋駅まで約2.5km程を歩きます。
半分は民家で半分はビル等の商業施設でしょうか。家内の実家は正月に行くと必ず国旗が出ています。昨日の事は聞きませんでしたが、昨日私の歩いた豊島区では国旗を1本も見かけませんでした。婆さんに話したのですが「あら、そう」で終わってしまいました。自分の家で掲揚もしないでここに書くのも変な話ですが、自民党の区会議員でも良いから、音頭を取ったらどうかと思った次第です。ご近所の旦那衆との付き合いも全て婆任せなので、私に発言権が無いのが残念です。

2009年12月22日火曜日

年初の予想

当て事と褌は先から外れるので先の事を考えるのは得意でない。しかし毎年暮れには婆さんが神宮館製の暦を買ってくるので、先日もパラパラと見た。小生六白金星の年回りだが珍しく〇印になっている。当然何年かに一度は回ってくるのだから、そういう年があっても不思議はないが久しぶりにお目に掛る心境だ。例年は気をつけなければならない事を読んだりするのだが、調子づくのが嫌になって今年は深く読まない事にした。

今日は今年の初めに考えていた事を振り返るためにmixiサイトに書いていた正月の日記を読み返して見た。
最初は正月の5日に初めて書いているが、「仕事始め・・・ケ セラ セラ」とタイトルを振っているだけあって何の見通しも無かった事が分かる、いつもの事だ。続いて6日こっちには少し先の予想めいた事を書いている。タイトルは「国会、いずれ選挙、そしてその後に何が」

以下少し引用する。

>「・・・もう誰も自民党に期待はしていないので民主党中心の政権が誕生するのだろう。むしろそこから先の事が気になる。 日本は議院内閣制で三権分立というが、この制度のせいか運用の間違いか知らぬが、我が国では内閣が行政をコントロールできずに行政が内閣を動かしているのは誰の目にも明らかだ。その内閣が立法府で法案の大部分を作っているのだからとても三権分立なんて言えた話ではない。日本は正に官僚社会主義国家だ。誰かが言っていたが地球に残された三大社会主義国家(北朝鮮とキューバ)の一画だそうだ。

民主党中心の内閣が本気で行政をコントロールするためにはまず何が必要なのだろうか?当然手順をいろいろ模索はしているだろう。でもネクストキャビネット程度の生易しい事ではないはずだ。・・・」<

振り返ると、年初には民主党政権が誕生する事が常識だったのだろう。そう考えると自公政権もよく頑張って8月まで持ちこたえたものだ。おそらく先の大戦でも昭和20年の正月頃は、国民の大多数が常識的には日本が負けると思っていたのでは。両者とも頑張った結果、国民に何をもたらしたかを考えてみる必要がある。自公が頑張ったのは政権交代をより実現しやすくしたと言う意味では良かったのかも知れない。しかし昭和20年の鈴木、小磯内閣は後ろの軍閥に脅かされていた意味はあろうが、死ななくてもいい人を大勢殺してしまった結果になっている。

後知恵で偉そうなことを言ってはいけないが。民意が実際の政治に反映されるまでは最低でもこの程度(8~12ヶ月くらいか)の時間は必要なんだろうな。そう考えると最近の民主党政治は優柔不断の総理と 傲慢で剛腕の幹事長のコンビで、比較的手際よく民意を汲んでいる気がしなくもない。

問題は自民党だ。先日の総裁とのミニ集会で茨城県のお百姓さんたちでさえ「与党のあら探しばかりでなくビジョンを示せ」と言っている。総裁が答えて「先ずは、総理と幹事長の政治資金問題を徹底追及します。これが私たちの使命だと思います。」

小泉進次郎が先導する中学生の社会科見学会をマスコミに取り上げさせたり、病的な上目使いの石波政調会長がねちっこい言い回しでテレビで喋るのを見ていると情けなくなる。河野太郎の言っていたことが正しかった事には党内で大方の議員も気づいているのだろうが、柵から抜け出せない保守の悲しさだ。小生も父譲りのウルトラコンサバティヴだと思っているが、年寄りが多いと言う事は国民の大半は保守の筈だ。自民党さんよ、保守とは少数の意見にしがみ付く事であっては困ります。

2009年12月21日月曜日

雪山賛歌と登山届

暖冬と言われていた日本に寒波が来た。年寄りに寒さはいけないと決まったものだが、喜んでいる人も大勢いるに違いない。私もそうだがスキーをする人たちはホッとしている事だろう。明日は冬至、毎朝通い慣れている道で、毎日少しずつ北側によって陽ざしを求めて歩くようにしていたが、今朝は遂に道全体が日陰になってしまっていた。太陽が南の方に一番低く沈んでしまったのがよく分かる。明日はゆず湯に身を沈めゆっくり暖まる事になるだろう。毎度のことながら欧米の寒波は日本の比ではない様子だ。

冬将軍のもたらす悲劇に山での遭難がある。先週も富士山で2名が亡くなる事故が発生している。何でも8合目付近でテントを張って寝ている時にテントごと吹き飛ばされたらしい。事故にあった人たちは勿論大変なベテラン登山家であったに違いない。テレビでは素人のコメンテーターが後付けでいろいろな批判めいた事を言っていたが、高齢ハイカーとしては心からお悔やみを申し上げたい。

昔から死亡事故を起こすような人は大抵大ベテランでエキスパートと決まっている。今回はリーダーがたまたま助かってているのが、死亡された人も一人は報道でも大ベテラン、もう一人の若い人も経験5年と報じられているが実際は相当のエキスパートだろう。並の人間が真冬に富士山で天泊する筈がない。マスコミは「原因を究明して2度とこんな事故が起きないように」と決まり文句を流しているが、冬の山では事故は必ず起きるし起きない事が不思議だと知るべきで、もう少しましなコメントはできないものか。

今回の事故の批判に無届登山がある。しかし冬の富士登山届けはどこに出せばいいのだろう?届を出してそれを真剣に受け止めてくれる組織がどこかにあるのだろうか。下手に出せば「冬期登山は禁止されています」で、今度は違法登山の烙印を押されかねないのでは?登山者の身になってアドバイスする役所は日本にはない。私もアルプスに登るときは登山口に置いてあるポストに登山計画書を入れている。しかしこれとても実際に遭難した時、救助後に自宅に連絡するのに活用する程度が精一杯だろう。

友人知人に聞いたりした話だが、ニュージーランドの国立公園内のハイキングや登山は公園の管理者が事前の希望を確認して、毎日の入山者を完全に制限しているのだそうだ。装備品のチェックまであると言う話も聞いた。従って行って来た人は口を揃えて素晴らしかったと言っている。確かに日本の国立公園に限らず里山でも異常なほどの混雑(殆ど私みたいな爺と婆)を思うと『さもありなん』だ。しかしこんな事に税金を投入したらたちまち事業仕分けだろうな。

昔は雪山賛歌を歌い、山に憧れたものだ。”荒れて狂うは 吹雪か雪崩れ 俺たちゃ そんなもの 恐れはせぬぞ”確かにこんな気分の時もあったろう。しかしいつの間にかすっかり山とは無縁になっていた。それが半世紀の間を置いて又ぼつぼつと山に行きはじめている今日この頃、7月の北海道大雪山系トムラウシでの事故と言い、今回の事故と言い他人事ではない。若い日にはこんな歌もよく歌ったものだ。”娘さん よく聴けよ 山男にゃ惚れるなよ 山で吹かれりゃよ~ 若後家さんだよ”

爺になったら家族への迷惑度と救助費用を考えなくてはいけないな。

2009年12月18日金曜日

青い鳥

小学校に通い始めたころの事を時々思い出す。まだ終戦間も無い1947年4月の入学だから60年以上昔の事になってしまう。入学して最初の記憶は、担任の先生がひらがなの読み方を生徒一人一人とさしでテストをした事である。確かいろはのカードをランダムに取り出されたような記憶がある。私は半分くらいは読めたような気がするが、全部読めた子も勿論いた。考えてみると私は確か2年か1年幼稚園に通っていたのだが、いろはを半分くらいしか読めなくて普通だったのだろう。

その代りと言うのもおかしいがアルファベットについては、小学校3年生の冬にはエービーシーと全部言えたし、大文字だけであればABCを読む事も出来た。しかし今の子供に比べれば、当時の私の識字力は相当低く幼稚なものだと思う。現代では幼児の識字力はかなり高いのではないだろうか。にも拘らず本が売れなくて出版界は大分苦しいらしい。不思議で仕方無い。毎日利用する地下鉄の中で見ていると、随分小さな子が分厚い本を開いて読んでいる光景によく出くわすが、これは沿線の有名私立の生徒で例外なんだろうか?

文字を覚え始めると、当然活字を読みたくなるが我が家に絵本は殆ど無かった。しかし母や叔父叔母たちが読んだ戦前の少年少女向けの本がかなりあったように思う。すぐ近くの友人の家には講談社の絵本が沢山あった。彼の所も大きなお兄さんやお姉さんが沢山いたからだろう。彼の家に毎日ように遊びに行って一緒に絵本を読むのは楽しかった。そのうちに字を覚えると、家にある本を片端から読んだものだ。テレビが無かったことも幸いしているのだろう。ラジオは有ったが父がニュースを聞く以外、子供が触るものではないと思っていた。

兎に角日本の昔話や英雄偉人伝、アンデルセン、グリム、イソップ等の欧米の童話集、「小公子」「家なき子」「母を訪ねて3000里」「青い鳥」「フランダースの犬」「ピノキオ」等のお話とか数え上げるときりがない。絵本は別としてにして、本の挿絵は単色が多かったが情緒があったように記憶している。この時代に読んだストーリーは半世紀以上を過ぎて未だ頭の中で生きている事が多い。

しかし中には話の内容がどうしても思い出せず、もどかしく思うものがあるのも事実。私の場合は「心に太陽を、唇に歌を持て」だ。多分これが本のタイトルだったのだろうが、どうしても作者もストーリーも思い出せない。確か表紙の挿絵は帆船が難破して人が漂流している絵だったような気がする。この言葉はとても好きなのだが何方かストーリーをご存じだろうか。序にもう一つ、活字とは異なるが子供のころ母が教えてくれて以来何故か忘れられない詩がある。いつ思い出してもホッとする。

「山のあなたの空遠く 幸い住むと人のいう  ああ、われひとと尋めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ 山のあなたになお遠く、幸い住むと人のいう 」


挿絵とキャプションだけ

2009年12月16日水曜日

年賀状の準備

昨日<にほんブログ村>のアイコンに関してお願いを書きましたところ、お陰さまで早速効果が現れました。先ほど確認をしましたらシニアのランクが75位、男子シニアでは3位にランクアップしていました。誠にありがとうございます。今後ともアイコンのクリックをよろしくお願いします。

さて、やはり昨日私信を投函しようとポストに近寄ると、ポストの脇にいた郵便局員から注意されました「そちらではなくてこちらに入れてください。」こちらが不思議そうな顔をしたのだろう、「今日から年賀状の受付が始まっていますので、普通郵便の受付が変わりました。」もうそんな季節なのだ。しかし未だ喪中案内が来る可能性が多分にあるので、年賀はがきのあて名書き(と言ってもPC任せになるのだが)をする気にはならない。でも今日久しぶりに万年筆を出して試し書きをしてみた。案の定インクが入っていても出てこない。

これも恒例行事見たいもので、インクに含まれている膠成分か何かが固まってしまうのだ。確か万年筆を一晩水に漬けてペン先等で固まったものを除去して綺麗にしてからインク交換をすれば復元するようだ。しかしこれも面倒で、ここ数年ボールペンで用事は済ませてしまう。歳と共に横着は増すばかりである。しかし横着は小生だけの問題ではなくて社会全体の現象であろう。きっと日本全体が幾ら不況だと騒いでも豊かで便利にになりすぎているのだ。何度も日記には書いたが、1960年代半ば迄の暮らしを記憶している人から見れば、現代人の生活ぶりは百万長者(これも古い言い回しだ)のそれに等しいだろう。

自分に対しても勿論、他人様に高潔ぶって貧乏暮らしが良いと言ってみたり、清貧に甘んじろなんて言う気は無い。今日のテーマが何か分からなくなるが考えた。

「デフレ克服とか景気回復と言う議論が喧しい。対処方法は大別すると2通りで一つは通貨の供給量を増やすこと、もう一つは需給ギャップとやらを解消するために消費者に金を使わせる事だそうだ。前者は紙幣を増刷しろなんて訳の分からんこと言う奴もいる。後者については仕事を増やせだの新しい産業を育成しろと言っている。」

「難しい事は分からないが、どっちの意見を聞いてもピンとこない。札びらを空から撒いて景気が回復する筈もないが、景気回復のために何で無駄な工事を考えなきゃならないんだ。さもなければもっと新しいニーズとやらにマッチする商品を開発しろだと!?」

「結局のところは税金をたんまり使え、みたいな話だ。国に金がないなら政治家も役人も数を減らして何もしなければいいではないか。」

失業が増えて大変な経済危機が日本を襲う事になりそうだ。小生はどうなるか見てみたい。餓死者が続出するのか、犯罪が激増するのか、金持ちの国に買われていく女性が増えるのか。金があっても自分の体を売る商売が横行している日本の事だ、子供の頃から外国語教育なんかしなくてもどんどん国外に出て行くだろう。一方で結構優秀で勤勉な子供も沢山出てくるような気がしてならない。

子供手当があっても無くても、普通の神経を持つ人なら結婚して子供を作ろうとするだろう。何をしようが人口が急速に減るのは避けようがないだろう。年金制度も孫の次代では破たんするのではないだろうか。あと10年で農業をする人が居なくなると言っている人もいる。今年の春先に田舎で見た光景を思い起こすと本当かとも思う。

考え出すと頭が混乱してくる。政治家やそれを操っている官僚の言葉も新聞もテレビも何一つ信じる事が出来ない。 やけになると「40年も50年も先の事は考えずに今のままにしておけよ。」言いたくなる。

余り頼りにならない報道でも、政権交代で生じている混乱は今まで見えなったものをいろいろ見せてくれている。日本のみならず世界中で、極めて不安定な社会を形作っていると言う事を改めて思い知らされた。

繰り返しになるが、日本人は先祖のお陰で幸い豊かになった、ある意味では豊かになりすぎて少し呆けはじめているかもしれない。際限のない欲は身を滅ぼすだけだ。宗教家ではなく政治やメディアの世界で責任ある人たちが経済理論ではなく、いかなる哲学を持つかが問題になってきているのではなかろうか。

もう欲ボケをした私の世代や兄弟世代に言っても始まらない。願わくば子供よ、せめて孫からは、あまり全てを欲しがらず、与えられた才能と環境の範囲で人さまを頼らずご迷惑掛ける事無く生きる術を身につけて欲しいものだ。諸君の時代は我々の無責任さゆえに多分環境も相当劣化し混乱した世界になっているかもしれない。 忸怩たるものはあるが、諸君の叡智が優れたリーダーを選び、日本が世界に冠たる必要はないからそこそこに幸せな人生を送ってほしい。

思いつくまま取りとめのない事を書いてしまった。何を言いたいのか自分でもよく分からないが、書きながら孫の事を考えてしまった。

2009年12月15日火曜日

考えれば当り前か?

民主党政権になってもう3か月、大政奉還や江戸城明け渡しが済んでから戊辰戦争が始まったように旧勢力、特に官僚の抵抗は凄いものがあるようだ。世の中を変えると言うのは生易しいものではなさそうだ。しかし江戸の一町民からすると勝負がついているのははっきりしている。旧幕府軍を応援しているのはやはり少数派と言う事だろう。一町民の立場からすれば幕府が徳川であれ、薩長であれ己の生活に大きな支障が無ければどうでもいいのだろう。

とは言え明治維新の実際はどうだったのだろう?江戸城の開城と共に幕府の奉行所なんかもすぐに薩長の田舎侍が引き継いだのかなあ。現在に比べれば役人の数が如何に少ないと言っても、百万人の人口を抱える江戸を治める役人は下っ端まで数えればかなりの数居たのではなかろうか?ましてや幕臣の抵抗は眼前で繰り広げられているのだから。町民共はどのように暮らしていたのだろう?薩長としても下級の武士も引き取らなかったとすれば、よくぞ国の形を壊さずに大きな変革を成し遂げたものだ。

昨近巷の混乱を見ていると150年に足りない昔の事が不思議に思えてくる。勝手に解釈すれば、新政権が選挙で勝ったのは江戸城を明け渡されたようなものだろう。しかし中に居る武士を居抜きで引き取らざるを得なかったと言う事なんだろうか。見ていてそんな気がしてならない。維新を行うにも旧幕臣を抱え込まざるを得ない新政権の悩みは大きいだろう。官僚が「新政権に従います。」と言ったところで面従腹背は決りきった事だ。

武士とても町民と同じで、腹の中では上役の上級武士なんか徳川でも薩長でも関係ないのでは。幕藩体制の頃は違っても、現代は間違いなく自分に都合だけ考えている筈だ。都合はその場の事だから常に二股膏薬、やり易さはこちらの裁量に任せてくる奴の方が良いに決まっている。そうなれば自公政権の方が圧倒的に有利だろう。今回の政変は歴史に学んでいない事が1点ある事が露呈した。古来日本の政変は錦旗を揚げた方が勝つ事になっている。

民主党はそこを甘く考えていた訳でもあるまいが、錦旗の守りを旧幕臣のままにしておいたのは悔まれるだろう。又皇室はいつの時代も宿命として、武士たちに利用翻弄され、お可哀相ではあるがこれも世の習いか。

読者の皆様へのお願い

私の拙いブログをご覧に頂きましてありがとうございます。訳も分からず老いのすさびにブログを始めさせて頂きましたが、段々いろいろな知識が増えて新しい欲が出てまいります。もともとクローズドなミキシ―サイトで始めた日記を今年の春にオープンなブログに移転させたのはもう少し読者を増やしたいとの思いからです。この日記の右サイドに「にほんブログ村」のアイコンがあります。この日記をご覧頂きましたら是非これを一度クリックしてみてください。

昨日知ったばかりですが、このアイコンのクリック回数で、ここに登録されているブログのランキングが測定される仕掛けになっているのです。「にほんブログ村」には現在38万件強のブログが登録されていまして、うち60歳以上のシニアブログが704サイトあるそうです。私のランキングは総合で約63000位、シニアで100位だそうです。更に男性シニアと言う範疇もありまして、ここに登録されているのは僅か50件、私は5位から10位くらいにいつもいます。全シニア700件中男子50件という事実からからも世の女性シニアの優位性をご推察頂けると思います。

他の測定値としてはgoogleのAnaliticsなるものがありまして、これによって毎日のアクセス件数が分かる仕掛けになっています。こちらはブログを始めた時から見ているのですが、最初は数名だったアクセスが自己宣伝が少しずつ効いて参りまして最近は日に15名から20名位に増えつつあります。従って「にほんブログ村」のランキングも少し上がっていいと思うのですが、不思議にこちらはあまり伸びませんでした。

今まで意味も分からずアイコンを表示していたのは恥ずかしい事ですが調べてみましたら、アイコンのクリックが無いとランキングには反映されないと分かった次第です。誠に手前勝手なお願い恐縮ですがご、毎度ご一読のついでにアイコンのクリックを重ねてお願い申し上げます。

2009年12月14日月曜日

平和な国ニッポン

遂に今年も余すところ半月になってしまった。こちらの人生もますます残り少なくなってくる。めでたさも中位なりなんてとても言っていられない。かと言って何かやり残したとか、これだけは是非しなければならない事がある訳でもない。毎日をただ同じような生活リズムに乗って淡々と過ごしているだけだ。テレビのニュースも朝夕の新聞も毎日ざっとは見る事にしている。今日は新聞休刊日だが、無ければ無いで食後ゆっくり茶を喫する事が出来るので、この方が良いなとも思ってしまう。

毎日報道される経済や社会関係のニュースはざっとは見ても殆ど瞬時に忘れてしまうようだ。一昔前まではスポーツ関係のニュースなんか殆ど見る事はなかったのに、逆に最近はこっちを良く見ている。特にゴルフなんかもう2年近く前に止めてしまったのに、遼君やさくらちゃんやタイガーなんぞゴルフをした事が無い婆さんと掛け合いをしながら見てはしゃいでいる。可笑しなものだ。序に家庭内の下品な話題からで恐縮。年寄り二人が行く末を案じて暗い会話をしても仕方ないので、如何に低俗な話題をしているかをご披露することをご容赦。

たまたま今朝一番寝床に居ながらでテレビをひねったら、たまたまスポーツニュース。野村沙知代さんがタイガーの浮気について話していた「男の浮気なんて犬が電信柱に〇〇〇〇〇〇するようなものよ。」朝っぱらから不謹慎だが布団を着たまま大笑いをしてしまった。1週間の初めにこんな愉快な話を聞いたので今週は何かいい事があるかもしれない。起きて婆さんと早速この話題、タイガーウッズが可哀想だとか、早く離婚すればいいとか、浮気をしないプロゴルファーなんて遼くんぐらいしかいないのではとか、他にはやはり大金を稼ぐのも大変だろうが使う事になるともっと大変だと大盛り上がりだった。

もう一つ最近他人事でよく話題にする事、電車の中の人物百景、我が家は自家用車を持たないので夫婦とも公共輸送機関利用が多い。男子は疲れている所為か居眠りしている人が多いし、最近は漫画本を読んでいる人が少なくなっている。出版不況はこんな場面からも伺えるのかもしれない。代わりに携帯電話とゲーム機が多いなあ、ヘッドホンを聞きながら一心不乱に小さな画面に見入っているのは世界共通なんだろうか?

女子となると、すげえ婆さんでも熱心に携帯を見たりメールを打っている。どんな用事があるのかぜひ聞いてみたいものだ。老いも若きも車中での飲み食いは完全解禁だし、車中でのお化粧、これが最高に面白い。欧米では売春婦のサインだそうだが、外人さんが見たら日本では真昼間から売春婦が良く働くと見えるのだろうか?俺は、四角い鏡を取り出して真剣に付けまつげをいじっている女性の顔を見るとこっちが恥ずかしくなる。と言ったらそれを見ているオジサンの顔を見るのが又楽しいのだそうだ。

他にも万引きで生計をたてている一家が、子供に万引きをさせている時に親は自家用車の中で待っていると言うニュース。どこか不思議と言うより小泉純ちゃんではないが笑ってしまうしか無い。他人事になると沢山あって話題は尽きない、他人様から見ればこちらも相当おかしな事をしているのだろう。不況だ不況だと騒ぎながら、低い次元で生きている小生には日本と言う国は結構な国だとしか思えない。

2009年12月11日金曜日

腎機能検査

加齢による機能不全はこちらがどんなに気を付けていても次から次へと現れる。夏の終わり頃であったか区の無料老人健診があった。無料だから当然受けておいた。暫くして結果が来たので渋谷の掛り付け医に持参した。特に問題無いと言われたので、検査してもらった近くの医者には行かなかった。ところが10月になってインフルエンザの予防接種この医者に行ったところ、聞くつもりもなかったのに健康診断の結果を解説し始めた。雰囲気的には、「聞きに来ないとは如何なる了見ぞ!」とやや怒っていらっしゃる。

そして<クレアチニン:1.54>と言う項目に大きなバッテンを付けて、「このまま放置するとあと10年位で確実に人工透析と言う事になります。町の診療所なんかではなく大病院の腎臓専門医の診察を受けてください。きっと塩分制限、蛋白制限等の食事制限が必要な筈です。私でしたらすぐに日大病院を紹介します。」余りの権柄ずくにムッとしながら聞いた「塩分制限食は聞いた事がありますが、蛋白制限をするにはどんな事に気をつければいいのですか?」先生曰く「そんな事素人のあなたに説明する訳にはいきません。管理栄養士と言う職業の人に献立を作ってもらうのです。」

お医者さん相手に喧嘩する訳にもいかないので「分かりました、考えます。」と応え紹介して頂くとしても後ほどと言う事にした。次に渋谷の掛り付け医に行った時に話をすると、お医者さんも脇から何か言われ、自分の見立てとは異なっていても、もし何かあると怖いのかなあ、「じゃ、専門医に一度見てもらう事にしましょうよ。」と早速豊島区の医者の意見に同意してしまった。10年以上も掛っている医者で、私のクレアチニンがずっと前から高いのを知っているくせに。これも無視しようかとも思ったが、なにせ命より健康を大事にしている昨近なので決心した。

その結果別のルートで先週日大板橋の腎臓内科に行き、採血と採尿をして今日は腹部の超音波撮影をして診断してもらった。先週の初診でも「先生、私は10年以上前から似たような数値です。」と言ったので、今日は15年前の健康診断結果を引っ張り出して持って行った。これを見て今度の病院の検査結果(ここは患者にデータを渡さない)と見比べていたが、不思議そうな顔をして「なるほど、変わりませんね。今回も1.5なんですよ。当面はこの値を注意ぶかく見ていて2.0を越したらすぐ来て下さい。」との事で無事無罪放免になった。

検査のため朝飯抜きの半日仕事で草臥れたが、安心には代え難い。因みに私は管理しているウェブサイトに沢山のレシピを上げている関係で、知り合いに管理栄養士さんは沢山居る。たまたま今週も管理栄養士の大学の先生とご一緒する機会があったので訊ねてみた。この先生はある病院で栄養指導をしていて、人工透析の患者さんも3人預かっている正に専門家。私の蛋白価が正常と聞いて、調味料の事を聞いてきた。意外と醤油とかポンズとかの高級品に含まれるアミノ酸が影響する事、もう一つは生姜とニンニクがいけないらしい。婆さんに聞くと家庭の栄養管理士としてやや名誉を傷つけられたかのようで、「我が家の食生活は完璧なバランスを取っているので、塩分や蛋白の摂りすぎなんかあり得ない。」

私も「ご尤も。」となだめに回った。何れにせよメタボ健診なんかが典型だろうが正常値に拘りすぎるのも良くないかもしれない。

2009年12月10日木曜日

「栄花物語」 山本周五郎 著

先日読んだ高坂正堯氏の著書の中にこの本の事が出ていたので興味を持った。元来山本周五郎の小説は好きな方である。司馬遼太郎のように如何にも歴史に拘ったような書き方をせず、どこまでも小説、あるいは物語として、その時代にはこういう事があって当然と思わせる。しかも登場する人物の織りなす綾はいつも人間の情に深く訴えるものがある。高坂正堯氏に言わせると「山本周五郎程人間の醜い面を上手くえぐりだした作家はいない」となるが、確かにそうかもしれない。それだけに余計切なくなるのだ。

舞台は江戸中期、最近功績も大分見直されてきているようだが、当時は悪徳政治家の権化とされた田沼意次が小説の中心に居る。彼は老中でありながら実際は清貧に甘んじ、台頭しつつある商業資本に打ち負かされないよう武士階級を守り、徳川幕府の財政を立て直すために努力をする。しかし反対勢力、即ち権威にしがみつき言う事は格好良いが先見性に欠け台所がますます苦しい武士たち。でも数的には圧倒的に多いのだろう、その為に資本家どもにうまく乗せられてしまった保守勢力(松平定信に代表される)と戦って遂に敗れた人間として描かれている。

「白河の清きに流れに住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と言う狂歌は出てこないが、この狂歌が象徴しているような経済的に逼迫している(一人は逼迫はしていないが、侍のイメージとは程遠い)幕臣2名の友情と女性問題、家族問題が物語を織りなしていく。18世紀半ばには江戸の武士階級がどのように商業資本主義に負け始めていたかを想像するには実に参考になる。

古い権威を守りながら高楊枝をして威張ってみても、所詮人間は自分の本能や欲に沿って生きてしまうもので、一人高い志を果たそうとすることが如何に困難であり、人生は空しい事を言おうとしているのだろう。江戸の華やかな街を舞台にしているストーリーは飽く迄面白く、背景と人物の描写は丁寧で、最近のいい加減な映画や芝居と異なり本物の臨場感にあふれている。難しい事は抜きにして人情味溢れる世話もの芝居を見たような感じだ。

2009年12月8日火曜日

校歌 信濃の国 君が代 開戦記念日

先週歳末恒例の高校の同窓会(首都圏在住全卒業生が対象)が都内のホテルで開かれたので出席した。今年はやや参加者が少なくなったようだが私はいつも楽しみにしている。何故か、この会は先ず同窓生の中で著名な方の講演を聴く事が出来る。今年は2年先輩の山科鳥類研究所の山岸所長と東京大学大学院総合文化研究科教授で障害者のリハビリが専門の22年も後輩の中澤教授であった。

普段カルチャースクールなどとは無縁の生活をしている自分にとって、只でこのような有益な話を伺う事が出来るのは本当に喜ばしい限りである。この歳になると考えようでは、学芸文化に関する話は聴いても一文の徳にもならないとの見方もでるかもしれない。しかしこの歳だからこそ知識欲に燃えた若き日々を思い満足感が出るのだろう。

私は新制高校第11回生である。もう何年も出席しているが年々先輩の出席が減り、昭和34年卒業の我々も参加者の大分上の方に名前が書かれるようになってしまった。懇親会では我々の10年先輩第1回生の先輩方と同じテーブルになった。戦時中に中学に入学、中学4年の時学制が変更になって高校3年に編入して高校第1期生として卒業された方たちである。勿論高校に編入せず中学5年生をもって卒業された友人も多いとの事であった。

懇親会には校歌斉唱の他に必ず長野県の県歌とも言うべき「信濃の国」斉唱がある。音痴の私でさえこの2曲だけは声を張り上げるのだ。「信濃の国」は県下全小学校の式典では国家「君が代」についで必ず歌われたもので、長野県人で知らない人はいない筈であった。我が一族などは婚礼の時に全員で歌ったりしたものだ。

ところが、ある後輩が言うには最近小学校で「信濃の国」を教えなくなったそうである。「君が代」ですら四の五の言われたこともある位だから仕方ないかも知らぬが。プロ野球やサッカーの応援歌は知っていても、校歌、県歌、国歌は知らない人間が増えるのは良い事なのか憂うべきかは分からない。今日はたまたま大東亜戦争の開戦記念日でもある。

幸い我が一族にはこの大戦で亡くなった人はいなかった。一庶民である私としては校歌、県歌斉唱程度で自己のささやかなプライドやアイデンティーを感じる事が出来る。しかしたまには日本人として明治維新以降最大の犠牲者を出したこの戦争が日本に何をもたらしたのか、また何を日本が失ったのかを年に一度くらいは考えてみる価値はあるのだろう。

2009年12月7日月曜日

鳩山首相 リーダーシップ考

今年の流行語大賞は「政権交代」だったが、確かにこれは大きな話題にもなり画期的な出来事であった。政権交代で新総理になった鳩山由紀夫さんは毎日のようにテレビに取り上げられて一寸したスターっだ。彼は総理になる前に大臣の経験がないので、報道関係者も彼の実像をよく知らないのではないだろうか。私は彼が内閣副官房長官をしていた時内閣広報室に出入りしていたので、少し噂を聞いた事がある。結構細かいと言う話だった。

そんな事はどうでもいいが、最近の報道では彼のリーダーシップをとやかく言う話が多い。従って昨日発表になった世論調査にもその事が反映されている。成程毎日の報道を見る限り余りリーダーシップを発揮しているようには見えない。民主党に引っ張られ、亀井静香氏に振り回され、最終的には小沢氏の指示に従っているようにも見えると言えば見える。しかし考えてみると、首相が余りリーダーシップを発揮すれば今度は逆に「強権政治」とでも言って非難されるのだろう。私は周りがリーダーシップなんて煽ってほしくない。

兎に角新政権では政治家諸氏が実によく働いているように見える。首相はそれでも奥さんと相撲や芝居に行ったりはしているが、岡田さんや長妻さんは見ていて気の毒なようだ。今までの自公政権では首相が毎日飲み歩いている事ばかり報道されてきたせいか、とてもこんなに仕事をしているようには見えなかった。各大臣がバラバラに不用意な発言をしていると非難されるが、私のような庶民の立場からすれば経過が見えた方が面白いのも事実。所詮報道は皮相な事実を針小棒大にするものだから実態は全く分からないし、政治に限らないかも知れぬが、進行中の真実がメディアで明らかにされた事は先ずないと思う。

来年度の予算や沖縄の基地移転問題がどんな決着になるのか分からないが、当面は黙って見守るしか無いだろう。金持ちのお坊ちゃんにリーダーシップを期待する方が無理と言う事もよく聞く。数カ月しないと分からないだろうが、昔聞いた噂には「我が田に水を引く、自己主張が強い」と言うのもあった。昨近のぶら下がりインタビューからは一寸想像しがたいが、当時の役人からは相当に煙たがられていた様に記憶している。問題は高校の先輩小沢氏にリーダーシップをどこまで取らせるかではないだろうか。小沢氏側も今の所は後輩を「兄貴」に祭り上げて陰で操って良い気分でいるのかも知れない。しかしリーダーになるとそうでなくてもリーダーシップを発揮したくなるものらしい。その方が今よりもっとやばいと思ったりしている。

「世界史の中から考える」 高坂正堯 著

著者が1996年に亡くなってから上梓された短編の随筆集である。著者の弟子とされる中西輝政など最近の政治評論家の本は読んで面白いものに当たったためしがないが、これは久しぶりに面白かった。

歴史的に見ると、我が国では民主主義の手本とされている英国ですら現在においても尚、民主主義の建前と本音のせめぎあえはかなり存在するようでもあり、ましてや現在に至るまでの道のりに於いてはかなりの腐敗政治の道のりがあったようである。米国人の建前と本音も面白いし、ヨーロッパについては日本では忘れられているがバルカン半島の国々が如何に政治的に難しいかを指摘している。

外国の例はさておき、我が国の近代政治に於いても少し変わった角度から歴史を見る事を教えてくれる。例えば一般的に高い評価を得ている外交官の陸奥宗光や海軍の米内光政についても肝心な時に判断ミスをしている事を指摘しているし、江戸時代悪代官の代名詞とされた田沼意次については山本周五郎の小説を引き合いに出して、政治の理想と現実の調和がいかに難しいかを説いているように思われる。

現在の政治のごたごたを毎日見聞きしても、正確な情報に基づかないものが多くつまらないが、15年以上前に書かれている事を今読んでみると成程と思う事が多い。この本を読むと政党による民主政治なるものは非常に困難なもので、国民世論はどうしても情緒に流されやすいし、政治家はもこれを無視する事は出来ない。従って理性的な大政治家と言う存在自体が、この世には存在しえないものであるような気になる。

2009年12月2日水曜日

不況?

世の中不景気で大変との事だが、浮世離れしていると言われそうで恥ずかしいが昔から景気・不景気と言うものが良く分からない。就職してから今日までやれオリンピックだ、いざなぎだと様々な景気があったようだが、どの景気の恩恵にも浴していないせいかもしれない。バブル景気も一種景気が良かった時代かも知れぬが、仕事をしていて個人的に景気のお陰と言う実感はない。

逆の意味になるが、今日昼飯を食った近所の食堂で、野球帽をかぶったおじさんとセーター姿のおばさんが隣でタバコを吹かしながら話していた。「民主党も日銀もやる事が遅いわよ。こんな事じゃ景気は良くなりはしないわ。」「円が高いのだから海外に遊びに行くか、せめてドルでも買えばいいじゃないか。」「海外に遊びに行く気にもならないし、それも考えては見たけど、もっとドルが下がるのではと怖くて両替に行く気にならないのよ。」お二人は近所の職人さんらしき方と商店の女主人のような方で、ご商売が大いに影響を受けている事を不景気のせいにしてしきりに嘆いていらっしゃる。

昨日さる大学の先生とお目に掛かる機会があったが、やはり「景気はどうですか?」と質問されて返事に困ってしまった。大学で生徒と日常接しておられるので、若い人が就職できなかったりする現状を見ていると彼らに同情を禁じえないようだ。私が大学を卒業したのは1963年3月、岩戸景気とオリンピック景気の狭間での就職活動だった。当時の日本は「ものづくり日本」を目指し始めたところで技術系は兎も角、殆どの企業で事務系の採用は極端に絞り込まれ、文学部学生など高卒以下の扱いで採用するところがなったのは事実かも知れない。

高校で就職していれば地元の銀行に親の七光りで入れてもらえたかも知れないが、遊びたいばかりに東京に出て来てしまった。4年生の夏休み前東京の保証人になって頂いた方に就職相談に伺うと「いったい何を学んできたのですか?経済学部に編入して後2年勉強し直しなさい。私からお父さんにお願いしてあげます。」と説教を食らってまた勉強の話。「後悔先に立たず」を思いきり知らされたが、ここで初めてどんなにちっぽけな会社ても良いから自力で決めて就職しようと言う気になった。それから数カ月後、結果的にはひょんなことからそんな職業がある事すら知らなかったちっぽけな広告会社に採用されて波瀾万丈の人生が始まったのだが・・・・

今はもっと状況が厳しくて、大学卒業生が多い所にもってきて技術系であろうが事務系であろうが優秀な学生でも求人が少ないのだろう。確かに若い人にとって不況の影響は厳しいのかも知れない。しかしどうなんだろう、「兎に角独立して食べてさえいければ」と言う気になれば何か仕事は必ず見つかるのではないだろうか?事実私の周りにもサラリーマンだけが人生ではないといった生き方をしている若い人が何人かいる。

若者であれ老人であれ、景気が良くても悪くても現代の日本に於いては職業のえり好みをしなければ、江戸時代に飢饉が襲った農村みたいに明日食うものに事欠く様にはならないと思うのだが。問題はむしろ家族関係の在り方とか若い人が近隣といかに接すべきかを学習することなく成人に達してしまう人が居る事に問題があるように思う。自力でと言っても所詮人間は一人では何もできなく、結局誰かの世話になっているのだ。家族や近隣、友人知人とのコミュニケーションの取り方は教えるとか学ぶと言ってもどうしていいか分からないが、我々老人にも大きな責任があるように思う。

景気の話から大分離れた所に飛んでしまったが、経済とか景気と言った大きな問題はとんと理解が出来ない。所詮お天気みたいに我が力ではどうにもならない所で発生するものだから、ほっておけばいいのではと思っている。株価も景気も落ちればどこかで必ず昇りに転ずるだろう。損をする奴は自業自得だ、つい最近まで何千億円何兆円と利益を出していた会社のために何も税金を使って救済策なんか考えるまでもないだろう。自民党であれ民主党であれ誰が何をしても大差はないのだから何もしないのが一番ではないの。

友人にこの話をしたら「お前それはとんでもない心得違いだ。そんな考えでいたら日本は中国の属国になってしまうぞ。」と怒られてしまった。内心その時はそれまでの事よと思っていたりして・・・

2009年11月27日金曜日

「倫敦塔・幻影の盾」 夏目 漱石 著

子供の頃よく遊びに行った祖母の家に橙色の漱石全集が揃っていた。講談本を読み飽きた頃から祖母の家に行ってはこれを読み始め、高校を終わる頃までには全てを読んでしまった筈だが、内容はとんと思い出せない。先週書店に行ったが 読みたいと思う本が見当たらないので、書名も記憶にないこの本を買って読んでみた。

タイトルの2編の他に5件の短編集(小説ばかりではない)である。昨近日本人の漢字力低下が指摘されているが、私もご多分に漏れず同様で、先ず漢字の勉強になった。併せて中には意識的に古美文調で書かれている散文詩があったりして、ボリュームは無いが読むのに大変難儀した。これを高校時代に読んでいたとしても記憶に残らないのは当たり前、字の数を勘定していたに過ぎぬ事だろう。その上意味の分からない単語が多く、巻末に注解が40頁にわたって付記されているからまだしも、これが無ければ途中で読むのを諦めたかも知れない。

書かれたのはデビュー作「吾輩は猫である」とほぼ同時期、明治38年ころである。漱石自身も慶応3年生まれだから我々から見れば江戸時代の人みたいものである。中に「薤露行」なる1篇がある。タイトルからしてルビが無ければ読むことが出来ない。「かいろこう」と読むらしい、意は「死出の旅」に近い。これが何とアーサー王円卓の騎士のトップスター”ランスロット”を主人公にした大ロマン散文なのだ。読んだ事はないが「源氏物語」も不倫小説だと言うから日本人は元来ロマンチックが好きなんだろう。最初に収められている「倫敦塔」はそうでもないが、表現は古めかしいが全編に異性への思いが香り高く漂っている。

母の頃は漱石と言えば大流行作家だったようだが、私からすると恥ずかしい限りだが既に古文に近い。漱石は英国に留学しても英語が通じないので神経衰弱になり下宿に引きこもっていたと言われている。しかしこの短編集を読む限り彼の英語力は生中ではなかった事が良く分かる。引き籠ったのはもっと他の理由があったに違いない。例えば余りに頭が良すぎる上に神経が非常に繊細で、女性なんかでも観念的には凄く純化と言うか美化してしまう傾向があったようだ。同様に西洋の事情に接した時、勉強して自ら構築してきた観念と現実をどう整理するべきか混乱したりしたとか。

素人が勝手に無責任な事を書いたが、明治時代の人の西洋に対する思いと勉強の凄さには敬服するばかりだ。明治38年に書かれた文章に、彼女がインフルエンザになったのではないかと心配するシーンが出てくる。100年後の今日未だに同様の心配を多くの国民がしているとは情けない限りだ。

2009年11月26日木曜日

スパコン

注目の行政刷新会議事業仕分けチームが先週文科省所管の(独)理化学研究所が推進しているスーパーコンピュータの開発に待ったをかけた。
曰く「スパコンの国家戦略を再構築すべきである。従来の検討者以外の新しい研究者を入れて、新しい議論を公開しながら行うべき。現状はスパコンの巨艦巨砲主義に陥っていないか。」である。今週同所理事長の野依氏以下ノーベル賞受賞の科学者が打ち揃って記者会見を開き、反対のキャンペーンを繰り広げている。

何と言っても我が国は総理と副総理が工科系のご出身で副総理は知らぬが総理は博士号まで持っておられるとの事、スパコン復活してしまうかも。メディアは何でもネガティブな話が好きだから、当然見直し反対の肩を持つに違いない。こちらは子供の頃から算数が大嫌いな劣等生なので「巨艦巨砲主義」と言う古臭い言葉に興味を持った。他にも野依氏が理事長である事は知らなかったが「理化学研究所」も昔から頭の片隅に有って少し引っ掛かる。確か先の大戦末期、後に原爆症で亡くなった仁科博士がここで核分裂の研究をしていて理論的には日本でも原子爆弾を製造する可能性があったと聞いていたからである。

そこで理化学研究所のホームページを瞥見した。ざっと言えば総勢3000人を超す大所帯で年間総予算は1000億円を超えている。組織自体が恐竜みたいものだ。独法になったのは極く最近だが歴史は古く大正7年から90年以上の歴史がある。故事来歴を少し見ると、戦前は成程小中学生時代に聞いた偉い科学者の多くが在籍していたことが分かった。仁科博士の研究は原爆とは無関係としているし、大好きな随筆作家で科学者の寺田寅彦さんまで在籍していたのは初めて知った。

問題になっているスパコンだが40ページある年度計画の33ページ目からが「最高水準の研究基盤の整備・共用・利用研究の推進」でその最後の方にちょこっと出てくる。チームのトップは理事長が本部長として兼務しているからもっと堂々と書けばいいのに。そして(3)次世代計算科学研究:①次世代スーパーコンピュータの整備・共用の推進とあって曰く「国家基幹技術として位置付けられた超高速電子計算機(次世代スーパーコンピュータ)の開発を推進するとともに特定高速電子計算機施設の整備を進める。」とある。正に官僚的な作文。

前後は省略した。私が言いたいのはこれが完成したら誰がどんな事をしようという利用目的は何も書いていないのである。報道によれば自動車の衝突実験を実物無しで出来るくらいのことしか聞いていない。自動車メーカーが衝突実験でいくら使っているか知らないが、これをスパコンに代える必要はないだろう。一寸聞くと孫が言う所のドラえもんの何とかポケットみたいで大変便利だそうだが、私がホームページを垣間見た限りは仕分けチームの結論の方が説得力を持っている。

歴史的に見れば大きな役割をはたしてきたに違いないし、多岐にわたる組織の活動の中には必要欠くべからざるものもあるのだろう。しかし組織が大きくなりすぎるとパーキンソンの法則に則り事務屋の数は否応なしに増えてしまうのである。そして彼らが事務屋が考えるのが正に戦艦大和ではなかろうか。おそらく世界最速のコンピュータを開発してもプロのトップ棋士と碁を打たせれば叶わないだろうと思う。私が知っている鈴木梅太郎博士、仁科芳雄博士、湯川秀樹博士たちはどのように研究を深めて成果を挙げ得たのだろう。恐らく自分の頭の中をフル回転させる事によって世界に冠たる大発見をした筈だ。計算道具は算盤かあっても計算尺程度しか無かった時代だ。

科学の発見に実験と検証は大事と言うのは分かるような気がする。その為にはスパコンに頼るより自動車の実物を何百台も壊す方が良いのではないだろうか。馬鹿な市民が言っては申し訳ないが、野依博士も勲章を貰ったりして官僚に利用されているようである。そういう意味では勲章なんてものも無用の長物かもしれない。

2009年11月25日水曜日

落選議員を励ます会

昨日高校同期の友人から声が掛り、前回の衆議院選で郷里長野に於いて落選した自民党議員を励ます小規模な集会に顔を出した。どうして私に声が掛ったのか分からないし、同窓生でもない彼を何で選挙区でもない東京で励ます会を開催するに及んだかについても特に聞いては居ない。しかししばしばこの日記でも書いているように最近政治について興味を持っているので興味を持って出かけてきた。


年齢的には我々より6歳年下で前政権時代には大臣経験もあり、つい先ごろまではテレビで良く見かけた顔でもあるが、世襲議員なので代議士になるまではずっと東京で育ち東京でサラリーマンをしていたとの事。呼びかけ人の他に1名未だ経済界で活躍している同期生が居て、この二人は以前から何らかの繋がりがあるようだ。残る数名は私もそうだがこれまで何の面識もない。ついこの夏まではテレビで見ても偉そうにしていた人が少し年上と言うだけの我々に対して大変丁寧で気を遣っていたのが印象深い。6時半からの会であったが、私なんかより先に来たようで「先輩ばかりなので緊張します。」と言って寝むそうではあったが10時近くの最後まで付き合っていた。


彼は前々回を上回る約12万7千票余を獲得しながら落ちたのは余程悔やまれるようだ。彼によると今回の選挙はやはりタイミングが最悪であったらしい。当然昨年中には選挙があると言う前提で麻生政権が出来た直後から選挙区内を奥さんと手分けして10数万軒隈なく回って臨戦態勢を整えたらしい。尤もベルを押して「こんにちわ」と直接会えるのは約2割だそうだ。そしたら麻生総理が決断せずご案内の通りの状況になってしまった。「半年もたてばこの努力もすべて水の泡です。その上メディアに自民必敗と書き立てられれば元気も出なくなりますよ。」と唇を噛むような感じであった。


再起のためには長ければこれから4年近く運動をしなければならないが、つくづく考えてしまうそうだ。彼の場合は長野県では家柄が超1級なので親戚の会社に在籍する形を取ったりすることも可能らしいが、落選者は自民党の支部長になる事は出来ても兵糧の補給が極細になるらしい。ここら辺の話は具体的で言っちゃ失礼だが面白かった。そう言えば我々仲間の応援等も得ながらやっと政治家になったものの、落選した途端地元の仲間に挨拶もせず政治家をあっさり辞めて評論家になってテレビで稼ぎ、同期生の顰蹙を買った人もいる。今回彼の話を聞くと政治に携わる人間にはそれなりの覚悟が必要と言う事が良く分かった。


実は昨日の朝食時、テレビで市川海老蔵と何とか言うアナウサーの婚約報道で、扇千景以来梨園の妻は役者としての亭主を陰でサポートしなければならないので大変な苦労がある、とやっていた。これを見ながら婆さんと、役者の女房と政治家の女房は同じで夫婦で亭主の表芸を支えなければならないから大変だな、と話していたばかり。彼もこれからは育った江戸を捨てて基本的には慣れぬ長野中心の生活ならざるを得ないのだろう。奥さんも「基本的に私の居ない所に居てもらいます。」と言っていたが、選挙が近付けばそうとばかりは言っていられないだろう。


友人たちも酒の勢いもあって勝手な事を言っていた。私も負けずに「新政権で日本の経済が悪くなったり海外で信用が失墜するのは、選挙で国民が選択したのだから仕方がないと思っている。それを予告するように新政権の悪口ばかり言いたて、目先で新政権を牽制してみたところで詮無い事だろう。数年後おかしくなった日本を前提にして、自民党が政権に復帰して何をこうするのだ。と長期ビジョンを明確に打ち出さないと次の選挙に備える事にならないのでは?」と言ってしまった。


落選中であれば所属政党を客観的に振り返り、やや長期のビジョンを練る必要性も分かるだろうと思っての事だ。偉い元先生に失礼かと思ったが、流石政治家「仰る通り。」とすんなり受けてくれた。しかし谷垣氏のリーダーシップ余り期待できない風情であったのが少し可哀そうでもある。

2009年11月23日月曜日

小春日和

本日は勤労感謝の日でお休み。朝から小春日和の素晴らしい天気で、天気予報は大外れ。昨日から小学5年生の孫が炬燵に入りたいために我が家に来ている。何でもテストの結果が悪くても残念には思わないそうだが、折角祖母ちゃんの家に来ても炬燵が無いのと非常に残念に思うそうで、先週末婆さんが慌てて用意していたものだ。昨夜からずっと薄着のまま炬燵にもぐり込んで大満足の態である。

今朝は天気がいいので朝飯の後、婆さんが片づけをする時邪魔にならぬよう孫を連れて小1時間のお散歩。その後散髪をしようと思ったが床屋さんは月曜日が定休日、すっかり忘れていました。仕方ないので事務所に来てPCを立ち上げ日記を書いています。

昨日は終日曇りでしたが棒の嶺にハイキングをしてきました。朝7時37分池袋発の予定でしたが、同行の整体師のお兄さんも早く来ていたので1本早い快速で飯能に向かいました。しかし飯能からバスに乗ると雨が降りだしてしまいました。もともと雨の確立が60%だったので覚悟していったのですが、終着さわらびの湯に着くと殆ど降っていない状態です。取りあえずラッキーてな感じで登山開始です。

棒の嶺965mはバスの終点から名栗湖を巡って登山口に掛り合計6kmと少し、標高差が約700mのところにあります。コースは短いのですが前半は有間川の渓谷に沿っての登りで渡河を繰り返しながら瀧脇の鎖場などがあり、後半は枯草に蔽われた快適なハイキングコースの後キツイ木段が400段ほど続くと言う変化に富む楽しいコースです。2時間10分程で山頂です、曇りのため残念ながら山頂からの見晴らしはだめでした。

東屋があって3組のグループがコンロ持参で暖かそうな昼食を楽しんでいました。我々むさくるしい男二人組は寒さに耐えて冷たいおにぎりで我慢です。しかし、これから最高でした。昼飯をそこそこに下山、帰りは相当ゆっくり歩いたつもりでしたがそれでも2時間弱でさわらびの湯に浸ります。まさに極楽気分でした。昨日は朝から乗り継ぎが全てスムーズで池袋に着いたのは未だ5時少し回っただけの時間でした。早速同行のお兄さんとかねて狙いをつけていた焼肉屋に飛び込み乾杯。ここが店の開店1周年という事でロースとカルビが半値の480円だったりして、私の体重の1.5倍近い巨漢のお兄さんと思いっきり飲み食いしました。

同行のお兄さんは富士山一辺倒でもう10回以上のキャリアだそうですが、変化に富んだ山歩きをすごく喜んでくれました。最悪のコンディションを予想していたのですが最高の1日でした。

2009年11月20日金曜日

本当に暖冬か

友人に地球温暖化現象説にかなり疑義を持っている人が居る。

数週間前になるだろうか、気象庁から出された長期予想ではこの冬は確か暖冬だろうと言っていたような気がする。まだ本格的な冬とは言えないので分からないが、立冬以降特にこの2,3日朝夕の冷え込みはとても暖冬とは思えない。前立腺肥大の爺に冷えるのは一番いけないのだそうだ。今朝婆さんに電気毛布を出すように頼んで来た。

民主党マニフェストにケチをつける野党とと同じで、冬に入ったばかりですぐいちゃもんをつけては気象庁に申し訳ないが・・・・・・

昨日今日あたり国会が面白いのだろうが、インターネットを見ている暇がなかった。
鬼に笑われそうだが今週急に、来年初から結構忙しくなりそうな雰囲気が出てきた。

来年はゆっくり山に行けると楽しみにしていたのに、、なんて事だ。

2009年11月17日火曜日

「政権崩壊」 武田一顕 著

ラジオを聞かない私にとっては聞いた事のない名前の政治ジャーナリストである。毎日購読しているテレビコメンテーターの勝谷誠彦氏のメルマガで絶賛されていたので早速読んでみた。著者はTBSラジオ10年キャリアの国会記者との事だから知る人は知る存在ではあるのだろう。確かに面白い。

テレビではよく毎度おなじみの元〇〇新聞記者の爺くさいコメンテータが、若手の政治家を相手に偉そうに「俺の方が余程物事を知っているのだ。」としたり顔で昔のことを引き合いに出しながら説教じみた解説をしている。いつもこんなシーンを見ながら「いい加減にしてくれ、もっと参考になる意見は無いのか?」と思っていたところだ。

今回この本を読んでこのフラストレーションの寄って来たるところが分かった。この本に惹きつけられるのは、内容の全てが著者即ち記者が現場で体験、体感している事実に則して記述されている事にあるのだろう。著者の考えを自分の言葉で表現しているので非常に読みやすく分かりやすい。書かれている事はわずかここ1年そこそこの間に起った事で、全てテレビ新聞等を通じて記憶に残っている事がらである。しかしそこで報道されない些細な事からいろいろな事が見えてくる。

著者は1966年生まれとあるので未だ40歳を少し超えているかとかなりお若いようでもある。報道されていない事を気負いもなく多分正直に坦々と書かれているだけだ。しかし読者であるこちらかからすると、自民党が帝国陸軍の末期のように自ら敗戦の原因を作り、終戦を迎え烏合の衆と化していく様(これは著者が小沢一郎と対談をした後に持った感想である)にいちいち初めて納得いく思いがするのである。

著者は歴史も勉強しているようだしかなりの中国通のようでもある。首相の中国訪問には必ず同行するようだが、旅費の関係があって首相と同じ飛行機に乗れない事があるらしい。こんなちょっとした事実関係が新鮮でもある。TBSも何故ラジオ局に配属しているか分からないが、取材費がふんだんにない場所にいる事が逆に読み応えのあるレポートを生んでいるのかも知れない。

テレビ局もこれからは現場を離れた死にそこない爺の無意味な解説を公共の電波で流すのではなく、この著者のような若い人の解説も重用すべきだろう。

2009年11月13日金曜日

昨日の続き

昨日天皇陛下在位20年式典について書いた。その後皇居前広場で同じ趣旨の国民参加イベントが行われたようだ。その事自体は結構だが、これを報道したNHKニュースの後「天皇」についてのアンケートが発表されたのには腰が抜けるほどびっくりした。内閣や総理大臣の人気を調査して発表するのはご愛嬌であるが、メディアが『「天皇」の存在についてあなたはどのように思いますか?身近になりましたか?』と何を考えて調査をしたのだろう。

あと10年経ったら又同じ調査でもしてみるのだろうか。「天皇」の存在を否定する意見が多くなったら天皇制廃止のキャンペーンでも始めるのだろうか。ただでさえ陛下ご自身「皇位継承については大変大きな問題」と悩んでいらっしゃると発表された翌日、非常識だと思うのは我だけだろうか。婆さんも、世が世であれば幹部全員首だろう、に賛成してうえで「この頃のNHKは少しおかしい、左翼が強い力を持っているのではないかしら?」と少し心配そうであった。

今日はオバマ大統領来日との事、ターミナルの警備は池袋あたりでも異常な位だ。約半世紀前の6月、60年安保改正反対の連日のデモでアイゼンハウアー米大統領の訪日が中止となった。以降何人もの大統領が来日されるようになり、今やデモのかけらも見られない(昨日陛下の式典にさえ反対デモがあった位だから、実際はあるのかも知れない)。昔を懐かしむわけだはないが、ポチか属国になってしまったなあという感慨も少しある。

2009年11月12日木曜日

天皇陛下在位20年記念式典

暇人の特権で昼間からテレビ中継を1時間20分丸々見てしまった。中学校の卒業式と高校の入学式以来式典らしきものに出席した事が無いので、このように改まった雰囲気は良いものだなあ、と感心した。

皇室の存在に対する思いは人さまざまだろうが、私は日本にとって欠くべからざるものと思っている。その存在は国土と同じで、理屈で説明は難しいが有って当たり前、無いと日本でなくなってしまうようにさえ思える。しかし我が子や孫の時代になるとどうなるのだろう?

子や孫くらいまでは自分は日本人と言う自覚を持って生きてくれるだろうが、来世紀になる頃日本という国家がどのようになっているかを考えるのは少し怖い。先ずこれから先々の天皇が千年と言うと嘘っぽくなるが、少なくとも明治初期から代々受け継いできた皇室の文化と精神をきちんと継承され、日本国家存続の礎となって頂きたいものだ。

皇室も今では憲法で規定された機関となって、陛下ご自身も規定されている事に忠実たらんとされていらっしゃるようだ。それはそれで致し方が無いが、実際に果たされている役割はそんな薄っぺらな筆舌で表せるようなものではないと思う。周りを取り巻く連中、中には当然国権の最高権威者共も含まれるが、己の責任も果たし得ずして陛下の宸襟を悩ませる事が無いように祈るばかりだ。

世の中には費用対効果で割り切れないものが沢山ある。国の予算は事業仕分けのようにすべて効率で割り切っても良いが、割り切れないものをどのように子供や孫に伝えていくのだろう?事業仕訳の中継も結構だが、暇な爺が見たこの式典を北朝鮮みたいに全チャンネルでゴールデンタイムに放送できれば良いのに。

2009年11月10日火曜日

互に好きな事

先日確か日曜日、我が家での会話。

休日の日課となっているプールから帰ると必ず鼻水がずるずると止まらなくなる。そこでこれ又定番の風邪薬「改源」1包の服用となる。話はここから始まった。

「プールから帰るたびに風邪薬を飲んでいたのでは仕方ないでしょう。何のために行っているの?」
「勿論健康で長生きするためさ。鼻水は消毒薬の塩素で鼻粘膜が荒れるのだろうから仕方がない。」

「実家の母は今度の連休で85歳になりますが頭はしっかりしているし大変元気よ。周りの婆さんや爺さんがやれウォーキングだ、ゲートボールだと騒いでも決して何もしない。家に居て好きな物を食べて好きなテレビを見て暮らしている。近所の一見元気そうなだった人はどんどん死んだりボケたりしているみたい。だから私も余計な事は何もしない。」

「そう言えば、楽天の野村監督も野球以外余計な事は何もしないらしい。デブも気にしないしゴルフなんかもしないようだ。長嶋さんや王さんの方が若いしアスリートらしく溌剌としていたのに病気になってしまい、年を取ってじっとしているだけの野村さんは極めて元気というか悪い所はないようだ。俺もどっちかと言えば、長嶋さんや王さんの口だなぁ。」

「ま、でも良いでしょう好きでやっているのだから。私の好きなサラリーマン川柳の傑作を教えてあげる。
”酒もたばこも 女もやらず 100まで生きた馬鹿が居る”よ。」

「成程。」と答えてみたが。我が生き方を非難しているのか、励ましているのか分からないな??

「序にもう一つ教えてあげる。”おだてりゃのぼせる 怒ればすねる 死ねば女は化けて出る”」だそうだ。

五七五の韻を踏んでいないのでどこまで本当か知らない。我が家の婆さん行動パターンは兎に角こちらと正反対、自宅に一人でいるのが大好き、運動はおろか温泉旅行さえ行く気にならないらしい。今度の連休、実家の婆さんの誕生日は、こちらは失礼して又ハイキングに行く事になった。

恐慌は日本の大チャンス 高橋洋一 著

著者は元大蔵官僚で、数理学と経済学を修めた学者でもあり、小泉竹中構造改革路線のブレーンとなって華々しく自公政権にデビューしてつい最近まで活躍していた。以前彼の著書を読んだ記憶がある。大蔵省の埋蔵金なるものを言いだしたのも彼である。

ところが、麻生内閣になって今年の春、なんとサウナ風呂の脱衣所で高級時計窃盗事件を起こして逮捕、世の中から抹殺されたと思っていた。余談になるが経済学者は手鏡事件で逮捕された植草一秀とか少し変わった人が多い様に思うが何故だろう。やはり自然科学とは異なり、少し手前勝手、牽強付会の傾向があるのだはなかろうか。特に経済学者が言う所のマクロ経済は誰の説を聞いても理解不能である。

本書に曰く「日本はリーマンショックの後麻生内閣の財政措置も中途半端な上に日銀の金融政策が間違っていたので、GDPギャップとやらが急速に拡大してデフレスパイラルで恐慌に向かっている。これを立て直すにはインフレ目標を設定して通貨の供給量を増やさなければならない。その方法論として政府発行通貨とか一人20万円相当の定額給付等のメニューが考えられる。」としている。

同じ経済学者の池田信夫氏のブログなども偶に読むが、池田氏はこんな説を一笑に付している。要するにマルクスにせよケインズにせよフリードマンにせよ世界に名だたる他の経済学者の誰を持ってきても1+1=2のようにすっきりした答えは無いのでは。だから読むだけ無駄かもしれないが、郵政改革を推進した当事者の弁明を改めて聞くのも悪くないと思って読んでみた。

この点については、郵政改革は日本経済に必要有効な改革であったが、小泉、竹中の構造改革全体を見ると極めて中途半端で、しかも裏腹に霞が関官僚にしてやられた面が多々あるとの事。特に麻生氏のブレーンになった与謝野氏が経済音痴であるような書きぶりである。

書くほうも書く方だが買って読む方も余り利口ではなさそうだ。時の政府の経済対策が常にこのような人種のご託宣で決められとすれば・・・如何なものかな?

2009年11月6日金曜日

理想と現実の狭間

民主党が政権の座についてもう50日が経った。国会も始まり総理の所信表明に続いて予算委員会のテレビ中継も始まった。見ていると面白くて結構いい暇つぶしになる。今日の参議院は余り見ていないが少し時間が出来たので川口順子の質問だけ見る事が出来た。相当な女傑とは聞いていたが、成程凄い。インド洋から補給艦撤退に関して「民生支援は昔からしているしているが代替案にはなりえない、燃料補給は民生支援とは別のテロとの戦いの後方支援なんです。総理は分かっていないのでは?」と舌鋒鋭く迫る。

聞いている此方はびっくりしてしまった。こうはっきりと何の衒いもなく、元来自衛隊が軍事にコミットしているのだから代替案も軍事支援でなくてはならぬ、と聞かされるとは。昨日イラク戦争の傭兵に関する本を読んで、テロとの戦いの空しさを痛感していた矢先だ。どうすればこの小母さんは日本が戦争の後方支援をする必要ありと考えるのだろう?彼女は大義があり、法律との辻褄があっていれば人殺しも仕方がないと考えているらしい。流石世界を股に掛ける超エリートは凡人と考えが違う。法律を知らない凡人の一人としては戦争からは出来るだけフェードアウトさせて頂きたいものだ。その結果世界から笑い物になってもいいではないか。

衆議院の予算委員会でも自民党のお歴々が閣僚に向かっていろいろな質問をする。もちろん野党だから、政府の痛い所ばかり突くのは仕方ないのだろうが、マニフェストとの不整合や総理の政治資金問題など自分たちの事は全て棚に上げ、上から目線の演説が多い。野党慣れしていないと言えばそれまでだが、何れ吐いた唾が我が身に降りかかる事も忘れているかのようだ。

片や民主党内閣の答弁、各閣僚とも相当に緊張して一生懸命務めているのは明らか。特に感じるのは代表が小沢一郎だったらこうはいかなかっただろう。代表を替っておいてよかったと思う。鳩山氏の識見能力については小沢氏より劣るかもしれないが、語り口は比較にならぬ程好感をもたれる筈だ。問題は政権与党として理想と現実の狭間でこれからどのように振る舞うのだろう。

必須の条件は役人との協力関係だが、この2カ月足らずでこれはどの程度構築出来たのだろう。多分多勢に無勢、面従腹背が相当にあって苦労しているのではなかろうか。結果的には日本郵政や人事院人事に象徴されるように、早くも役人の高笑いが聞こえてくるような気がしないでもない。あのマッカーサーGHQですら手玉に取られた日本の官僚組織だ。野党が突っつく瑣末な人事は別にしても、公約通り官僚主導の政治からの脱却は本当に出来るのだろうか?

内閣ひいては民主党に後藤田正晴さんのように、正真正銘官僚ににらみのききそうな人が居ない事が気になる。政策の大部分の成否は菅、仙石、藤井この3大臣の息が合うかどうかがポイントになるような気もするが、藤井さん大丈夫かなぁ?ばっちり後輩に取り込まれているという噂もあるし、何れにせよ結果は来年の7月参議院選挙で明らかになる。

2009年11月5日木曜日

戦場の掟 スティーブ・ファイナル著

<ワシントン・ポスト>紙特派員として長年イラクをリポートし続けてきた著者が2008年にピューリッツアー賞を受賞した作品。日本のメディアでは決して報道されない戦争を請け負っている民間企業とそこに働く人間、分かりやすく言えば傭兵の実態が赤裸々に書かれている。日本の陸自・空自も撤退し、米国も占領軍を撤退中かしてしまったかは知らぬが、街中でのテロなど相変わらず血なまぐさいニュースが時々報道されている。恐らく日本人の大半はイラク戦争に我が国がコミットした事すら忘れているだろう。

私自身もその一人だ。しかしこの本を読むと戦争が如何に酷いものかが段々分かってくる。国と国との戦争であれば、当事国の国民が悲惨な思いをするのも致し方ないかも知れない。しかしこの記者がレポートしているのは明らかに占領以降、新政権時代のテロとの戦いの話である。現在でも「テロとの戦い」は全世界の人がその責めを果たさなければいけないようにわが国でも喧伝されている。

しかしこの戦いの場となっているイラク国民から見たらとんでもない迷惑に違いない。なかでもその戦いのために生み出された新しい戦争請負産業、即ち正規の軍隊ではないが兵力の不足をカバーするために生み出された傭兵の集団の実態については米国内でも殆ど明らかにされないようである。又アメリカと言うのは不思議な国で、この機に乗じて戦争請負企業が幾つも興されて今や1000億ドル市場になっているらしい。

当然そこには命知らずと言うか馬鹿みたい人間が世界中からわんさと群がり(当然だが手にする金額は半端ではない)、企業がイラクに派遣している人数は公式発表はないが現在(2008年?)でも3万人から5万人と言われるそうだ。この本はそのうちの1人で陸軍をリタイアしてフロリダの大学で学んでいる時に気が変わり、ある民間警備会社の傭兵となって再びイラクに戻った青年と雇った会社とその同僚を核に話が展開する。

警備の対象はさまざまであるが殆どは国務省関係の人間と物資、時には軍隊そのものの護衛も引き受ける。彼らの頭にあるのはただ金による契約のみ、法律的にはイラク・米国どちらの法律も無視している。その代り、死んでもそれが公式に発表されることも無い。政府は彼らを重宝しているが、彼らとは無関係を装っている。彼らが引き起こしている無辜の民の虐殺は数知れないようだ。代わりにこのレポートの主役たちも悲惨な死に方をするのだが。

これが日本もコミットした戦争の実態かと思うと吐き気を催してくる。

2009年11月2日月曜日

都民の森で紅葉狩り


先月31日の土曜日に東京都の西のはずれ奥多摩にある都民の森をハイキングして来た。ここはもう山梨県と境を接している遠方なので意外と都民に知名度が低いように思う。私自身も一昨年の春偶然に知った。今度で3回目の訪問になるが、来る度にいい場所だと思う。アクセスに少し時間がかかるが、武蔵五日市からバスでハイキングコースの中心にある都民の森のバス停に着く。新宿から約3時間掛る。

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しかしここに来ると山奥ながら突然、駐車場、森林館、木材工芸センターとびっくりするような立派な施設が整っている。ここを中心にハイキングコースが幾つも綺麗に整備されている。特に今回歩いたコースで感激したのは中心地から三頭大滝に至るコースで、ここには木材チップがびっしり敷き詰められていて歩きやすい。コースの最高地点は「三頭山山頂(1,532m)」になっている。山頂に峰が三つある事から名付けられたようだ。


今回は昔一緒に仕事をした同世代のハーフリタイアメントと久しぶりののんびりしたハイキング、天気も打ってつけの好天、標高1100mにある都民の森センターから上は秋たけなわで広葉樹の紅葉が秋のやや弱い陽ざしに映えていた。

2009年10月30日金曜日

「燃えよ剣」 司馬遼太郎 著 

新撰組の土方歳三が現代の若い人に人気がある、と聞いた。何処に人気の秘密があるのか知りたくて読んでみた。結局秘密は発見できなかった。子供の頃から秀吉が良い奴で家康は悪い奴、新撰組は明治維新に抵抗した勢力の象徴と刷り込まれているせいか初めから好印象を持っていない。

作者が司馬遼太郎氏だから史実はかなり丁寧に調査の上書かれたのだろう。幕末の社会的な動乱の様子が伺えるし大変面白い。外的な要因にせよ世の中の価値観が大きく変わるような時は、どうしても従来の社会秩序に寄ろうとする人と、環境の変化に乗って新しい体制を作り一旗揚げようとする陣営の間に大きな摩擦が生じて社会が混乱するのは仕方がない。

江戸の末期はその大混乱に当たるのは間違いない。そしてこの混乱に乗じて一旗揚げたのが正に新撰組の近藤勇と主人公土方と言える。東京都下当時で言えば田舎の悪ガキがこの混乱で武士、しかも最終的には徳川幕府の大名格にまで出世してしまうのだ。 しかしこの混乱も最終的には血で血を洗う戦争であり、彼らが頼った徳川幕府は西国の諸藩に負けてしまう。

この小説では主人公土方はこの騒乱を単に西国諸藩悪ガキとの大喧嘩としてしか見ていなかった事になっている。 近藤の方は最初は兎も角、最後には道理らしきことも少し考えようとしたように書かれているが、土方は最初から最後まで剣で勝てるか勝てないかだけである。実際はそんな無思想ではないだろうが、そのように思えるほど人を殺しまくったと言う事だろう。

現代においてもそうだが、思想の違う人間を説得できないとすぐに力を頼んで暴力的手段に訴える輩が居る。現代では暴力団を使うとか軍隊を使うと言う訳だ。主人公土方は思想道理を置いて使われた口で、その使用者には忠実且つ戦には滅法強かったのも事実だろう。 若者に人気があるのは、武士としての潔さにあると聞くがとても同感出来ない。力が強くて道理が分からないほど厄介な奴はいない。最後に近藤が勤王に反するのは如何、と逡巡する場面がでてくる。司馬氏も新撰組を単純に美化するのは気が引けたのだはなかろうか?

2009年10月28日水曜日

幸福な老後

歳のせいか最近自分の事を考える事が多くなった。メディアの報道ではこのところ世の中不景気で一般的には日本は暗いと言ったトーンだが、正直なところ自分の周辺を見渡すと結構ハッピーな人が多い。これは年代のせいだろうか?

中には僅かながら今尚すごく同情すべき人生を戦い歩んでいる人もいるし、不幸に打ちのめされていると思う人もいる。しかし同年代の友人の多くは幸せな老後を楽しんでいるように見受けられる。要は健康な老人が多いと言う事である。

幸い家族や近い親戚の若い人たちもそれなりに皆ハッピーだ。若い人の場合、これから給料が減ったりする可能性もありそうなので可哀相と言えば可哀相ではある。しかし無責任に言えば会社全体、延いては日本人全体が減給されると思えば余り悲しむには当たらない事だろう。

ここ数年は小泉竹中の改革路線とやらで、「頑張った人にはそれだけのリターンがあるように」政策が取られた結果、そんなに極端な格差社会が出現したとも思わないが少し羊羹型社会が崩れかかったようだ。しかし一億総〇〇が好きな日本人は早速選挙で結果を示し、この政策がやや否定された気配だ。

日本人(だけかどうか分からないが)は「他人の不幸は蜜の味」「隣の芝生は青い」といった言葉があるように、自分の幸福度を知り合いとの比較で割り出す習慣になっている。だから社長も同僚も同時に給料が減るのだったら仕方がないだろうで済むのではと思うのだ。私も平均的な日本人だと思っているので、これはこれでいいだろうと思うのだが・・・・

最近暇にまかせていろいろ考えると不思議に思える事もある。先ず、日本人は結構な階級が好きなのではないだろうか?明治維新で国民が全て苗字を持つようになり民主主義国家になったとされているが、私が小学校に通う頃まで華族、士族、平民、部落民の階級差別は厳然と存在していたし、現在でも一例を挙げれば官僚や国会議員は一種の特権階級の感じもある。

面白いのは階級的には上下関係を付けながら、昔から生活面での実質的な格差を嫌う様に思える事だ。(江戸時代の本陣は武士でも相当以上の階級でないと宿泊できないとかトップ階級の差は当然あった)武士も威張ってはいたろうが衣食住に於ける庶民との差は如何ほどのものだったのだろう。余り差がなかったようにも思える。

現代においても隠れた階級意識がにあるにせよ、総理大臣が毎晩ホテルのバー通いをしたくらいで非難されるのだから大変だ。欧米の社会学者から見たら研究に値するのではないだろうか。私も既に小学校時代(それも未だ4年生ぐらいの頃と記憶するが)、担任の先生が「人間の一生にとって平凡という事が最も大事な事だよ。」と諭され、妙な事にそれを未だに刷り込まれたままになっている。

こちとらは別に先生に諭されなくてもハナから非凡な才能は何も無いし、人並み以上の努力や勉強が嫌いなので心配はないのだが、どんな脈絡でこの話を聞かされたかは全く覚えていない。普通先生方は生徒に向かって、「ボーイズ ビイ アンビシャス」「刻苦勉励して<夢>を実現しろ」と言うのが一般的ではなかろうか。アメリカなんぞは良い大人になってもアメリカンドリームなんて言っている。

お陰さまで70歳になろうとする現在まで大それた夢を抱いた事もなく、だからと言って凄く損をしたと思う事もなく平々凡々と過ごしてきた。体もあちこち故障が出始めている。昔、錆びた自転車に油を差し、ぼろきれで磨いたように、これからは自分を慎重に管理して、出来るだけ長く自宅で毎日の食事を自分で摂れるようにしたいものだ。



実際にどこまでこの状態続くかは神のみぞ知るだが、極楽トンボの幸福の実感である。

2009年10月27日火曜日

秋晴れ

台風一過、本当にすっきりした秋晴れで寒くなく暑いと言う訳でもない気持ちが良い一日だった。仕事も暇で、頭の中も掃除したみたいに空っぽの気分だ。昼飯の後1時間ほど散歩もした。気分が良いので何か楽しい事でも考えたり書いたりしてみたいが、もともと頭の中が空だったのか特に思い当る事も無い。

ここ1か月ほどは新聞テレビでも政権交代絡みの話題が連続している。お陰で我が老夫婦も殆ど政治関連の会話が多くて和やかな事だ。新政権は小鳩政権と揶揄され、権力の2重構造とも言われ、マニフェストとの整合性を問われ、同盟国アメリカからは見下されたような事を言われながら党首鳩山氏は昨日国会で初めての所信表明演説をした。

新聞テレビは冗長だとか具体性に欠けるとか酷評するのかと思っていたが、案外評価が高いのに驚いている。特に朝日新聞が内田樹氏のコメントを掲載、高い評価をしていたのはびっくりした。何れにせよ政権交代した民主党の政治家は今までの与党政治家とはかなり異なり、国民から見えるところで頑張っているようだ。

朝日新聞の例を引く迄もなく、早くもマスメディアはどちらが牛でどちらが馬か見極めようとしているような気配が濃厚だ。各種団体の自民党離れも露骨なようだ。明日から国会論戦がスタートするが自民党に反転攻勢の策はあるのだろうか?

自民党は減ったと言っても未だ数百人の国会議員を抱えているのだから、中には少し知恵のある人間が居てもいい筈だが、自民党関連ニュースは敗者の悲しさで碌なものが無い。いつも民主党の悪口ばかりである。連日やや非難めかして報道される政府や与党のあたふた振りを見て、「よし、これに乗って行けばうまく民主党の足を引っ張りダメージを与える事が出来る。」と考えているとすればかなり甘いと言わざるを得ない。国民の将来ビジョンは取りあえず民主党に預け、むしろ自民党の組織とかビジョンを明確にしないとどうにもならないのではないか。河野太郎と言わないまでも、組織形態と幹部人事そのものを大幅に変えないと話にならない。

別に自民党を応援するつもりもないが・・・

2009年10月26日月曜日

人間同士の付き合い

昨日テレビを見ていたら映画監督の山田洋次氏が、学生スタッフだけで新作を作る事にトライしている事を紹介していた。その中で「近頃の青年は人間の付き合い方が下手と言うか、分からなくなってきているのでは?原因としては核家族化が進んでいる上に、積極的に人付き合いをしなくても生きていける、むしろ一人でいる方が快適と言う子が増えているのではないか。」と話していた。成程大勢の人間を使う立場の人だけに、うまい事を言うし、よく見ているなあ」と感心した。

昔から子供に対しては「よく遊び、良くまなべ」と言ったものだ。最近は報道でも学力の評価や体力の評価についてはどの学校がどうだとか、国際比較でどうだとかといった話題ばかり。子供がどんな遊びをしているか、大人或いは年長者とどのように付き合っているかなんて事は検討の対象にもなりはしないし、報道もめったにないだろう。こういった意味では昨日のほんの数分ではあったが番組(何の番組か忘れた)は大変な示唆を含んでいた。

子供が置かれている環境も東京と田舎ではかなり異なり、田舎に行けば塾もそれほどポピュラーではないかもしれない。隣近所の付き合いも都市部よりは地方の方が濃密ではあろう。しかしテレビの普及は全国的に100%超えているし、ゲーム機にしろパソコンにせよ音楽関係の機材もそうだが、友達と遊ぶ又は大人の手伝いをする事は時間的にずっと減り続けている事は間違いないだろう。その事をいまさら言ってみても始まらないのは分かるのだが。何か基本的なところで勘違いする人間が増えている様に感じていたことの原因の一つが分かったような気がした。

既に親も先生も警官も政治家も皆お勉強の必要性は十分教育されて育ったが、教育教養とは少し違う何かが欠けている世代になってしまっている。先進的な方々が、これからは「ネットワーク型社会」と主導されるが、個人個人に人付き合いのノウハウと言うかアプリケーションがプラグインされていなくてそんな社会が上手く構築できるのだろうか?と言う素朴な疑問もわいてきた。

2009年10月22日木曜日

「青雲はるかに」 宮城谷 昌光 著

中国の歴史小説と言えばもっぱら陳舜臣氏のものだけで宮城谷氏の小説は初めてである。舞台は戦国時代、秦の昭襄王の宰相となった范雎(この字を探すだけでも大変)と言う人物が主人公。

范雎は魏の市井に生まれたありふれた青年ながら大志をもっていた。当時も一般市民が官人として栄達を志すのは並みの事ではない。艱難辛苦の結果やっと30歳位で魏に於いて官僚の端に辿り着くが、それでも大きな志を捨てなかったばかりに、主人と他国を旅行中に他国の高官と面会した事をスパイ行為と疑われ、主人の主人(魏の宰相)から半殺し以上の仕打ちを受け厠に捨てられる。

しかし幸運にも助ける人が居て、魏のお尋ね者として苦労を重ねながら10数年後に秦国に辿り着き昭襄王の目に留まる事になる。この間至る所に范雎を助ける義侠心をもつ友人、又その脇にいろいろな形で女性が絡んでくる。恋愛小説と講談本をない交ぜにしたようなものだ。秦の宰相となってからもめでたしめでたしとはならず、王朝の複雑な派閥争いの中で苦労するのは現代の政争を髣髴とさせたり賑やかな事である。

秦に於いて最高の権力者となった主人公は、最初は戦えば必ず勝ち最後に自分を貶めた昔の主人とひどい仕打ちをした魏の宰相の首は取るのだが、自分も又最晩年はやる事がことごとく裏目に出て連敗を喫し嘗ての自分のような男に権力者の座を追われる事になる。

彼の名前と、この小説の骨格(魏の宰相に些細の罪を問われて追放されたが秦国の宰相になって仇を打った)は「史記」や「戦国策」に記述があるそうなので全くのフィクションではないようだ。それにしても日本の戦国時代をさかのぼる事更に1000年の昔、しかも黄河と揚子江に挟まれた広大な地域に存在する7つの王国の広がりや人物を上手くイメージできないので読むのに少し疲れる。

史書に如何ほどの記述があるのか分からないが、ほんの数行のものだろう。そこからこれだけの作品を書かれる作者の宮城谷氏の能力には、ものすごく勉強をされているのだろうと感嘆するしか無い。併せて中国の古代史には学ぶべきものが多く、昔の日本人がこれを学ぶのを学問の基礎とした事も尤もだ。

2009年10月20日火曜日

孫の病欠

昨日小学6年生の孫が熱を出して学校を休むことになったようだ。半月ほど前にクラスに新型インフルエンザが発生したので学級閉鎖になったとかで、こちらに遊びに来ていたばかりなので少し心配ではある。家内も早速飛んで行った。19時過ぎたので家内が帰宅したか聞くのを兼ねて娘に電話をすると、取りあえず孫の熱は大分下がっているとの事。一安心であった。

昨日は例のワクチン接種の開始日(と言っても医療従事者だけで、東京ではそれもまだ始まらないらしい)と言う事もあり、医者は大混雑をしているらしい。娘はそんな所に行くと何に感染するか分からないので、との事で家内が持って行った「生薬配合カイゲン顆粒G」を飲ませただけらしい。夕方には食欲も出たようで婆さんの手料理を味見して喜ぶ顔を見て家内も帰ってきたようだ。一学年下の弟もいるが、彼は一,二か月前に新型でないインフルエンザに掛っている。

私自身も風邪をひきやすい体質なのか、仕事を休むところまではいかないが風邪をひかない年は無いぐらいだ。65歳くらいからはおまじないのつもりで毎年秋にはインフルエンザ予防のワクチン接種をしている。今年も今月早々に済ませた。思えば今回のワクチン接種の大混乱は4月の「豚インフルエンザ水際阻止大作戦」に源がある。小生はインフルエンザと風邪の違いも良く分からない方で、ワクチン接種の後で「風邪をひかないように気をつけて下さい。」と言われて目を丸くしている口だ。

ただ風邪もインフルエンザも怖いので、日々の関連報道には結構踊らされているかもしれない。しかし最近の報道内容は半年前と比べると随分変わってきている。先ず騒ぎになったと言うか騒ぎになっているインフルエンザは新型ではあるが弱毒性で、季節性のものと比較して死亡率が大きい訳ではない事がやっと報道されつつある。発熱外来に於ける受診制度と言うのも各地で有名無実化しているらしい。その代り娘の掛り付け医も大繁盛のようだ。

特に仙台市では当初より厚労省の通達を無視して医師会、保健所、感染症研究者が一体となって検討した結果、やばいと思った患者はなんでもいいから掛り付け医に行く事、その医師の判断で必要があれば保険所にDNA鑑定を申請する事に決め、これが非常にスムースに機能して未だに死亡者はゼロとの事。これは直近の「サンデープロジェクト」(テレビ朝日)で知った。

もっと遡ると、水際作戦は全く意味が無く、医療器具メーカーを儲けさせて医療従事者を疲弊させただけと言う事が明らかになっているにも拘らず、厚労省は方針の転換をしていない。政権が変わっても官僚の既定路線をやめさせるのは余程大変な事ようだ。この問題はさておき、ウィルスの感染は防ぎようがないらしい。潜伏期間などを考えれば感染しても自覚のない人は多いだろうし、考えてみれば当たり前だ。

しかし多くの感染者は軽症のまま回復するらしいとも言われている。少し安心、我が孫もただの風邪ではなくて新型であった可能性もひょっとしたらあるだろう。もしそうであれば免疫が出来てワクチン代が助かるかもしれない。その他全く角度のちがう情報で気になったものがある。慶應義塾大学医学部漢方医学センター長:渡辺賢治氏の意見である。要は新型であろうと早いうちに飲めば有効とされる漢方薬原料の不足を嘆いておられる。私の掛り付け医も風邪や山登りの筋肉痛には漢方を良く処方して下さるので注目した。

以下は下記からの引用である。
[Japan Mail Media] No.552 Extra-Edition5「医療に対する提言・レポート from MRIC」
慶應義塾大学医学部漢方医学センター センター長:渡辺賢治

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前略:
 麻黄湯がインフルエンザ治療として、何故表に出てこないのであろうか。一番の理由は原材料の供給である。麻黄湯の構成生薬は麻黄(まおう)、杏仁(きょうにん)、甘草(かんぞう)、桂枝(けいし)である。このうち麻黄、甘草は中国の北部の野生品に頼っており、収穫量に限度がある。また、現地の人たちは生活のために乱獲するが、計画栽培をしないで掘りっぱなしのため、掘った後が砂漠化し、大きな環境問題となっている。そのため中国政府は、1999年以降麻黄・甘草の輸出を規制している。 それに加えて中国の経済発展と元高基調は、生薬原料の価格を押し上げている。さらに下記に述べるような世界的な伝統医学見直しの時期に来ており、欧米での需要が急速に伸びているために、限られた生薬資源の配分バランスが崩れつつある。 
 このような生薬の不安定な供給状況で、投機的資本の介入により、価格が高騰する危険性もはらんでいる。 2002年にSARSが流行した時に、タミフル(シキミ酸)の原材料である八角の価格が10倍に高騰したと聞く。 
 もしも新型インフルエンザに漢方薬が良いということになり、原価が高騰したら日本の漢方メーカーは大きな打撃を被ることになる。ただでさえ資源の問題、砂漠化の問題で、中国は甘草、麻黄の輸出を問題視している。甘草は漢方薬の7割に使われている大事な生薬であり、理不尽な価格高騰が起こった場合、わが国の漢方製剤の生産そのものに与える影響は大である。

後略:

2009年10月15日木曜日

囲碁新名人誕生

今日は殆ど丸1日テレビとインターネットで囲碁名人戦第5局をを見ていたので仕事が極めて中途半端になってしまった。しかし20歳と言う若さの新名人井山裕太氏が誕生する名局を観戦出来た事は嬉しい限りだ。

このところ連休が続いたせいもあり碁会所を大分さぼっているが、今度の週末は是非行ってみたくなった。ゴルフやスケートもそうだが、平成生まれのチャンピオンが誕生するのを見ていると胸が熱くなる。
きっと学問や他の分野でも頑張っている若者が大勢いると信じたい。

2009年10月13日火曜日

弟と故郷の山に


10月10日からの3連休、故郷の戸隠山に長野在住のすぐ下の弟と出かけた。弟は長野で長く教員をしていたので県北の戸隠から県南の木曽まであちこちに移り住み、その間に県内の主な山は全て登りつくしたそうだ。特に信州大学に在学していた頃から山岳クラブに所属していた時期もあり、若い時にはかなり健脚を誇った時期もあったとの事。10日の夜、弟の家で夕食をご馳走になりながら聞くと、中房温泉から燕に登山、燕山荘で1泊、翌日は槍ヶ岳山荘で2泊目を過ごした後、翌日槍が岳から南岳、北穂高岳、涸沢、上高地を経由して長野迄一気に帰ってしまった事があると聞いてびっくりした。


しかし、教員をリタイアして既に6年になるそうだが、この間は山歩きを全くしていないとの事。奥さんが「お兄さんはこのところずっと鍛えていらっしゃるから大丈夫でしょうけど、ついて行けるかしら?」とちょっと心配そう。「別に山頂には届かなくても良いし、無理だと思ったら引き返せばいいから行ける所まで行ってみよう。」と気休めを言っておく。11日の朝もあまり早く出発するのも如何かと思ったので6時15分に出発、7時15分頃戸隠牧場の登山口から登り始めた。戸隠は弟も私も子供の頃から何度も来ているが、いつも奥社から登る八方睨み往復のコースが中心で、八方睨みから表山を縦走してこの牧場に降るコースは高校時代に一度しか来た事が無い。弟も同様みたいで、高妻までは初めてとの事。


ともあれ、遅い時刻からの登り始めだったが、まだ同様な登山者は居る。紅葉を楽しみながら高妻の前山に当たる五地蔵に向かう尾根道は天気も良く、比較的順調であった。しかし最初は「少しゆっくり歩いてくれ。」と頼んでいた弟が少しペースが落ちている。聞くと途中で足がつったとの事、しかしここまで2時間40分程で来ているのでほぼ予定通りだ。ここから少し降って登り返しになるので、「大丈夫か?」聞くと「大丈夫だ。」と言うので高妻山頂を目指す事にする。コースタイムは1時間50分と出ているが、未だ9時45分何とか昼までには着くだろう。昼飯を早食いすれば明るいうちに下山可能だろうとの計算だ。


案の定、ここからの登りはかなりきつい。その上ルートが細いので下山者との待ち合わせが頻繁になる。休み休みの登山になるのは良いのだが、時間がかかる。結局山頂は昼少し前、弟はかなりばてている。その上風が強くて気温が低い。山頂からの展望は殆どきかない。弟を少し休ませて1時になったので下山を始めるが弟の疲労がかなり来ている。後ろから見ていると片足で体重を支えきれないようだ。足を引きずっている感じなので、やばいとは思うが後ろから声を掛けながら1歩1歩慎重に降る。勿論後続の下山者にはどんどん道を譲る。3時間半かかってやっと一不動に辿り着く。既に登山者は一人もいない。


ここからルート時間で90分、途中鎖場あるのでここを何とか明るいうちに通過したいのでもう彼を休ませる余裕がない。声を励まして休みなしに歩いてもらう。それでも鎖場は何とか陽のあるうちに通過出来たのでほっとした。しかしここから先は沢を下り、渡河を何度も繰り返すので気は抜けない。日帰りだと思って弟の荷物を点検もしない出来たが、弟のヘッドライトが極めて古い代物で、明かりが弱い上に遠くに飛ばない仕掛けだ。ここで悔やんでも仕方がないし、真っ暗な登山道をぴったり後ろから寄り添うようにして下山。奥さんが心配したように12時間以上の山歩きになってしまった。我が家は男5人兄弟であったが、思えばこの弟が一番頑張り屋で弱音を吐く事をしない子だったかもしれない。またまた反省しきりだ。


翌、昨日は弟の奥さんも一緒に再び戸隠方面をドライブ、少し早いが紅葉を楽しみながら弟に戸隠連峰をずっと解説してもらい、中社にある「仁王門」と言う蕎麦屋でおいしい蕎麦をご馳走になって帰宅。婆さんに顛末を話すと「本当に困ったお兄さんね、2度と遊んでもらえませんよ。」と怒られてしまった。

2009年10月8日木曜日

池波正太郎の銀座日記

時代小説の作家としては一番好きな人である。かねてから食道楽と言う事はと言う事は聞き及んでいた。この本を読んで、他にも大の映画好きと言うか、映画通でもあり、新国劇の演出まで手掛けているので芝居全般に通じている事が分かる。平成の初めに比較的若くして(67歳)亡くなっているが、この日記は晩年5,6年の抜粋のようだ。

日付が無いので正確には分からない。 大正12年生まれの人としては職業柄もあったのだろう、随分モダンと言うかしゃれたお爺さんだったろう。銀座に出かけて映画を見て食べたり飲んだり買い物をしたりするのを日課のようにしていたようだ。羨ましいような日記とも言える。

しかし戦前を知る人の常かも知らぬが、昭和末期の日本に生きてその行く末を案じている気持ちがところどころに顔を出している。60歳そこそこで一所懸命に生きている感じはあるのだが、少し年寄りくささを感じるのは年代のギャップかもしれない。 時代小説の主人公は大概の場合死に向き合って生きているから格好いいのだが、作者自身も同じような気持ちで生きていたことが伺えて興味深い。

2009年10月7日水曜日

クリエイティビティー

「クオリティー・オブ・ライフ」と言う言葉を初めて聞いたのは、昭和51年(1976年)米国西海岸にあるスタンフォード・リサーチ・インスティテュートなるシンクタンクで何かのセミナーに参加した時のことだ。某民間放送の招待とは言え私がアメリカ旅行をするぐらいだから、日本人全体の生活も経済的にかなりゆとりが出始めていたと思う。意味が良く理解できない私に講師が更に説明を加えてくれた。要は「これからは経済的な豊かさだけではなくて、生活にクリエイティビティーが求められるようになるのです。」この説明を聞いてますます混乱した記憶が鮮明に残っている。

未だに生活は毎日同じ事の繰り返しで、あまりクリエイティブではない。しかし非常に稀な事ではあるが、今日は国立新美術館に行って展覧会を見てきた。一陽展に長野の山友が入選したので見に行ったのだ。平日で雨模様なのに結構な人は入っている。とは言っても上野の国宝○○展なんかに比べるとゆっくり鑑賞できるのが良い。1階から2階にかけて確か16個ほどのブースに沢山の絵画や彫刻が展示されている。これほどクリエイティブな空間は無いだろう。

普段はカレンダーの絵ぐらいしか見ていないので、先ずその壮観大きさに圧倒される。どの絵もそれなりに面白い。どの絵を見ても色がきれいだ。いろんな賞が貼りつけてある作品は成程と思うのもあるし、どこが評価されたのかよく分からないものあった。いつも思うのだが私は抽象的な絵画や彫刻の良さが殆ど理解できない。どうすればこんな状況をイメージし、且つ表現出来るのかとタイトルと作品を見比べていつも首をひねってしまう。クリエイティビティーに縁無き者は考える事が浅ましい。

そしてまた余計なお世話だろうが次の2点も心配になって来る。作者はこの絵を何処で描いているのだろうか?この絵を何処に飾るのかな?又はどのように保管するのだろう?友人の絵も展覧会場で見ていると決して大きい方ではないが(それでも100号)我が家の食卓より大きく見える。ここで時間をたっぷり過ごす事が出来たのは楽しかったが、これだけの絵を飾れる壁空間のある家って日本にどれくらいあるかなぁ、なんて余計な事をすぐ考えてしまうのだ。

2009年10月6日火曜日

偶然・・こういう事もある

朝から冷たい雨が降っているので外出すのが億劫になる人が多いだろう、と勝手に決め込み、友人が出展している作品を観るために昼休みに国立新美術館に出かけた。地下鉄も空いていたし、乃木坂のホームを歩いて行ても殆ど人が居ない。しめしめと思いながら改札に掛ると「本日国立新美術館は休館日です」と言う看板が掲示されている。またまた得意のがってん太郎をやってしまった。ここに来るまで地下鉄で2度も乗り換えるので結構な距離があり階段も多い。

健康のための散歩だったと思って引き返す際に飯田橋から乗った地下鉄有楽町線、中吊り広告を見るために一駅立っていたが、空いているので腰を下ろそうと思ってベンチによると目の前の女性が少し身をずらしてくれた。何気なく座ったが、トンネルに入って窓に映し出される隣の女性を見ているとどこかで会ったような気がする。そしてすぐに気がついたのだが、先日の選挙で投票した民主党の議員だ。よく分からないのだが襟に何か光るバッジをつけているようでもある。

ところが投票しておきながら肝心の名前が思い出せない。池袋の一駅前の東池袋のホームに入った時に思い切って声を掛けた。「人違いでしたら済みません。もしかして民主党の・・?」案の定すかさず「そうです。江端です。」と答えてくれた。「やっぱり!先日はあなたに投票しましたよ。」「それはありがとうございます。」名刺を交換したら家も近いらしい。すぐ電車が動き出して次の池袋で互いに下車して改札で別れるまでの1分か2分の事である。

「4年後になるか、相手も死に物狂いで掛ってくるでしょうから次が大変でしょう、頑張ってください。」「はい、今回も自民党の根強さが良く分かりました。頑張ります。」安っぽいカバンと500円のビニール傘を持った何処にも居そうな普通のおばさんだったが少し上品だったかな、印象は悪くなかった。ライバル小池百合子地下鉄で遭遇する事は金輪際ないだろうが、遭遇しても声はかけなかったろう。

2009年10月2日金曜日

平野 貞夫 著 「わが友・小沢一郎 」

ネット上で著者については毀誉褒貶半ばするとまでは言わぬが、結構批判的な意見も多い。しかしこれを読む限り、著者の小沢氏に対する思い入れは本物であるような気もする。

小沢一郎と言う人物は原則を重んじはするが単なる原理主義者ではないし、非情のように見られがちだが情にも結構厚いようだ。何よりも日本に議会制民主主義を根付かせる事に全身全霊で打ち込んでいる数少ない政治家の一人である事が伺える。何事も相当緻密に考え、準備を周到にしているのだろう。

我がままで傲慢と見られるのは言い訳を一切しない故みたいだ。どこまで信ずべきかは分からないが、全て信じたい。性格的に共感するところが多いせいかな?

2009年9月30日水曜日

308議席の危険性

小沢一郎の盟友で平野貞夫と言う人が居て、彼とサンデープロジェクトのレギュラー出演者の高野孟と対談を聞いた。この中で平野が面白い事を言っている。一番面白かったのは敵は常に身内に有りと言う事で、細川政権を潰したのは武村正義だというのだ。彼は小沢が8党派を纏めた時に総理にしてもらえると思っていたらしい。それが細川に行ってしまったので野中広務なんかと組んで政治改革を止めてしまったのだそうだ。従って彼は今でも正義漢面をして、小沢二重権力構造をしきりに吹聴しているのだそうだ。

これを別にすると、民主党の大量獲得議席への危険性について警鐘を乱打している。理由の一つは権力の不正な行使である。今回の選挙について、自公政権に対する国民の不満は多々あったろうが、選挙直前で小沢の秘書を逮捕した事。もしこれが無くて小沢と戦っていれば、麻生氏もこれほど負ける事はなかった筈。又、小沢の秘書逮捕の後に出てきた自民党側の同じ問題に検察が同様の対応をしていたならば、これ又そう簡単には負けなかったろう。

更に、参議院で与野党の勢力逆転したにも拘らず、自公政権は衆議院での再可決を繰り返した。この事で国民は自公政権の権力行使の仕方に非常に危険なものを感じ取った筈だ。マスコミの分析には出てこないが、それが今度の大敗に直結している事を理解しなければいけない。民主党はこの事を良く良く弁えないととんでもない事になる。

二つ目の理由、民主党の議員は若くて優秀とされる人が多いが、政治家としての発想と感性に欠けるきらいがある。換言すると民主党は脱官僚依存政治をうたいながら、最も官僚的な政党であるとも言える。何とか塾とか、外資とか、官庁とかから出てきた優秀とされる人間が多いが、これが殆ど偏差値教育で培養されてきた人種なので、論理的ではあるが人間の機微に疎いのが心配である。

今朝も婆さんと岡田外相について話をした。以下の事をテレビで放送していたらしい「岡田さんは常に割り勘、誕生日とかにワインを貰っても送料を添えて送り返すそうだ。周辺が心配して、酒席で女性を両脇に侍らすよう段取りしても、これを全く無視して無粋な話に終始してしまった。第一お金持ちでありながら若い時から決してぜいたくはさせてもらえなかった。」との事だ。

今朝我が家では、家の爺さんや麻生氏と違って真面目なのは大いに結構じゃないかと言う話だったのだが、平野氏に言わせると<乳母日傘で育ち、命を賭けたような恋愛もした事が無い人間>これが怖いのだそうだ。面白い話だったので早速本屋に行って彼の「わが友・小沢一郎」を買ってきた。

2009年9月28日月曜日

新政権発足

民主党に政権が移行したお陰で実に様々な事が見え始めている。今までと言っては悪いかも知れないが、少なくともここ10数年、特に森内閣以降ぐらいの政権与党はいったい何をやって来たのだろう?極端に言えば官僚の言いなりになって、国民のためには何もしてこなかったようなものだろう。官僚は企業と同じようなもので組織の存続が自己目的化してしている事は言うまでも無い。

企業が存続を図るには市場の変化に柔軟に対応する必要があるが、役所は国民生活の実態を観察するより政治家の鼻息や顔色を窺っていさえすればいいのだ。民主党の最高顧問渡辺恒三がいみじくも「嘗て最初に厚生大臣を拝命したが、仕事は厚生省の国会対策委員長のようなものだった。」とテレビで語っていた。政治家は国民のためでなく役人のために存在していたのだろう。

更にこの上にどう仕様も無いマスメディアの存在がある。田原総一郎が番組の中で政治家亀井静香に対して「あんた達は権力をもっているが、私たちは何も無い。聞く権利だけが我々に付与されている唯一の権利だ。」と偉そうに言っていたが、なれ合いの猿芝居の中で何をほざくかと全く笑わせてくれる。国民を一定の方向に誘導すると言う意味で、今やテレビメディアに生きている人間は、田原なんかは特にそうだが自分は最大の権力者と内心思っている筈である。

確かにこれまで私のような愚民は新聞やテレビにかなりミスリードされてきた事は事実として否定できない。しかし、最近新政権の閣僚やそのスタッフがテレビカメラの前で、「私たちはまだそんな数字を発表していません、又は、私たちは現在こういった方向で作業中でこのように考えています。」と堂々としゃべり司会者を慌てさせる場面が多くなった。内閣の記者会見をオープンにすると言っていた事も外務省を筆頭に実現しそうな雰囲気でもある。

これまでメディアに出てくる人間は、自分だけがファーストハンドの情報を豊富に持っていて、その一端をここで披瀝すれば・・・・と言う事でもったいをつけて偉そうにしていた。数日前インターネットの情報で、田中良紹が「なぜ記者はバカになるのか」について面白い事を書いている。

>以下省略して引用
「記者って何であんなバカな質問ばかりするのですか」と聞かれた。
前に「頭が悪くないと新聞やテレビの記者にはなれない」とコラムに書いた私は、「だから新聞やテレビの報道を信ずる方がおかしいのです。新聞やテレビを見ないようにして、潰れる寸前まで行かせないと、彼らはまともにはなれないのです」と答える事にしている。
当たり前の話だが、高給の記者が真面目に仕事をするはずはない。嫌われても他人と競争をし、リス   クを犯して真相に迫るより、右を見て左を見て、みんなと同じ事をした方がずっと楽だ。世間が羨ましがる地位と収入を捨ててまで危険な事はしたくない。何よりも記者はサラリーマンなのである。

現在でも八場ダムの工事中止なんかについては偏重報道が相変わらず続いている。インターネットで新聞テレビが報道しない情報を見ていると以下の記事があった。

>以下省略して引用
これはかつて長妻昭=厚労省が07年に国交省から得た資料として公表して話題になった数字だが、今になって改めてこのように報じられると再度驚いて、「これじゃあ簡単には建設を止められないわけだよな」と妙に納得してしまった。
(財)国土技術センター、(財)ダム水源地環境整備センター、(財)ダム技術センターなど八ッ場ダムに関わる公益法人7団体に04年現在で25人、同ダムの建設工事を落札した土建会社やコンサルタント会社など企業37社に03〜05年の間に52人、さらに随意契約業者57社には99人、合計176人の国交省OBが天下っているという。これは、04年前後の数年間でそうだったという話だから、発端から57年も経っている長い歴史の中で一体何人の天下り官僚がこの愚劣極まりない計画でメシを食ってきたのだろうか。恐らく1000人は下るまい。

政権交代で政治家の動きは徐々に変わり始めている。メディアも反省をして変わってほしいものだ。

2009年9月24日木曜日

上高地から奥穂高岳に


今朝は天気も日本晴れで実に気持ちが良い。と言うのは昨日までの5連休をフルに使って北アルプスの奥穂岳まで行って無事帰ってきたからだ。山に行くとき一人で出かけるのは慣れているとは言っても、流石に穂高連峰の最高峰で、しかも初めてとなると余り気安く行けない。先日鹿島槍で世話になった青年に計画を示して教えを乞うた。彼が計画を年寄り向きに修正してくれたり他にもいろいろアドバイスをくれた。特に大事な事は、先週の甲斐駒の時のように道を間違えた時には必ず元に戻る事、路線変更をしない事である。これが実に役に立ったし、山小屋の会話でも同じ事が常に話題になっていた。

19日、予想通りに台風は日本を直撃することなく小笠原から北に進路を取ったので朝から快晴。列車や19日の上高地アルペンホテルと20日の山小屋の予約は先週の水曜日だったが運良く全て予約が取れた。但し20日の涸沢小屋は、120定員の所既に200人は予約が入っているのを承知で来てくれとの事。3泊目の穂高岳山荘は予約を受けないシステムのようなので、これは予約なし。帰りの列車も指定は取らずに自由席特急券にしておく。この日は昼過ぎに予定通り順調にホテルに到着、チェックインには時間が早すぎたので上高地を散策、明日から目指す穂高の山並みが美しいがどれが奥穂なのかは分からない。ただ頂きの高さには圧倒され、あんなところに登るのかと思うといささか不思議な感じもする。

20日早朝、昨日貰った弁当を暗いホールでそそくさと済ませ、明るくなってきた6時前に出発。横尾橋までは何度も歩いているので勝手が分かるが、そこから先は未知の世界。横尾橋で軽いトイレ休憩をしただけで兎に角黙々と歩き続ける。基本的に平坦であれば2時間、山道は50分で10分休憩が理想的なペースだが、調子が良いので少しペースが速かったかもしれない。横尾橋から小1時間で本格的登りになる本谷橋と言うポイントがあり、ここで一息とガイドブックにあったが余りに人が多いのでここもパス、10:30頃には涸沢の裾に着いてしまった。穂高連峰に少しは近づいている筈だが、標高差は益々大きく感じる。

更に1時間ちょっと、11:30には涸沢小屋に到着チェックインをする。今日初めての客のようである。今回の山行きでしみじみ思うのは、山小屋は出来るだけ早い時間にチェックインをするのが何かと都合が良い事だ。この日も結果的に相当な混雑になるのだが、早いチェックインのお陰で比較的良い場所が確保できて、先ずはテラスでのんびり昼前から生ビールを呷る。隣のテーブルに居た女性に記念写真のシャッタを切ってもらう。彼女は今朝6時夜行バスで上高地に着いて、明日北穂高に登るのだそうだ。暫くするとぞくぞくと登山者が登って来る。混み合う前に入口に近い場所の指定の布団でにゆっくり骨休めが出来た。 夜は布団1枚に二人と言う感じ。予約無しの人は布団1枚に3人以上だったようだ。

21日、朝から無風快晴。既に暗いうちからヘッドライトを頼りに出発する人が多い。兎に角冒険をしてはいけないので、6時少し前の明るくなるのを待って出発。寒さもそれほどではない、少なくともタイツやステテコもはかず、Tシャツも半袖のままで上に木綿のシャツと薄いヤッケを1枚羽織るだけで十分だった。7:30には穂高岳山荘に到着、すぐにチェックイン。番頭さんが宿泊料を1000円上積みすると、「特別な個室で布団1枚確保できるサービスがあります。」との事。勿論そうしてもらう。

これが実は大正解。当日は大変な混雑になるのだが、このサービスを受ける事が出来たのは僅かに13人、内4人は連泊の人だから実質9人しかいない。この日の宿泊人数はどうやら700人(定員の3倍以上?)を超えていたようである。経験者でないとこの混みようは想像が難しいだろう。夜になると廊下から食堂まで人間と荷物で足の踏み場が無くなるのだ。ともあれ、部屋の扉から他と違う誰もいない個室に入ってゆっくりと頂上アタックの準備、と言ってもサブザックに水と食料と雨合羽を詰め替えるだけ。

7:45分山頂アタックを開始する。アタックと言う言葉に相応しく最初から梯子などが出てきて、狭くてきつい登りから始まる。既にここは相当な混雑で、山荘の横で順番を待つ必要がある。順番待ちで前を見ると昨日涸沢小屋で写真を撮り合った女性が立っている。確か昨日は一人で「明日は北穂に行きます。」と言っていた人だ。お互い顔を合わせてびっくり、「思い切ってこちらに来てしまいました。」との事。この人、昨日の話ではかなり山に行っているようだし、コースを変更するところなんか誰かに似ている。追い越し禁止道路を行くようなものなので、喋りながら一緒に行くが歩き方が全然力強い。約1時間ほどで山頂、又昨日のように写真を撮り合う。


山頂から360度の景色はもう何とも言えない壮観だ。水分を補給したり甘いものを食べたりしながら北アルプス最高地点からの眺望を心行くまで楽しむ。この時の気分は何と表現していいか分からない。二人で話をしたりしていると、何かの拍子にもう一人青年が話に入って来た。彼も山に一人で来ている口だ。山はすぐに友達が出来る。彼ら二人は涸沢にザックを置いてきているので、今夜は彼の方は涸沢ヒュッテに彼女は涸沢小屋に戻る予定だそうだ。兎に角穂高岳山荘まで3人して一緒に降り、山荘のテラスでのんびり話している時のことだ。突然「ラクー!」と言う大声が響く。

声の方を見ると、一抱えほどの大岩石が音と共に登山者の列のすぐ脇を落ちてくる。どの辺から落ち始まったかは確認していない。見た時は最後の一瞬であるが、この岩が直登の列の一番下に居た人の方に寄って来た。正に目を覆いたくなったが、狙われたその人は一瞬体をひねったようで、倒れはしたが直撃は避けたように見えた。どんな大騒ぎなるかと思ったが、周りは意外にシーンとしている。思わず「事故が発生だぁ。」と小屋に向かって大声を上げてしまった。それでやっとと言う感じで番頭が出て来て、登山者の列に声をかけていたが、倒れた人は自力で起きたようで番頭はそこまで登ってい行かない。

3人してこの事件を見ていたのは時間にすれば10分程の事だったかも知れない。暫くすると倒れた人より少し上から女性が3人、腕から出血している人が二人に両脇を抱えられて降りてきた。倒れた男性が降りてこないうちに再び列が動き出す。眼鏡を必要としない若い二人も「あの人もどうやら登り始めたようだ。」との事。しかし私には凄いショックだった。夜になって分かるのだが、山荘のテラスで大勢見ていた人の中で。同室の一人、高知県から来たおじさんが山頂アタックを取りやめたとの事だった。もし私も同じ立場にいたらそうしただろう。個室の夜の懇談ではこのルートは槍ヶ岳や剣岳(実は行った事が無い)のように登り降りを別にすべきだ、と言う事で意見が一致。一人が早速小屋に掛け合いに出かけたが超満員の状況で相手にして貰えなかった。

昼近くになったので二人は涸沢に降る事になり、部屋に戻ると隣の布団に新たに二人の客が寝ていた。暫くして一人起きて来て互に挨拶、正に文字通りの四方山話を始める。この方は東京の開業医で同行しいるのは大学2年生の息子さんで、初めての親子登山との事。大学時代は毎年夏に徳沢にある大学の診療所に来ていたので、この辺は良くご存じのようだ。しかも先月も一人で奥穂に来て例のヘリコプター墜落現場のジャンダルム迄行って来たとの事。互にこの特等室に入る事が出来た事を喜び合う。山の事ばかりでなく、先生は医療行政に関する現場からの意見を述べて、小泉竹中路線のご粗末さなどについても二人の意見が一致して大いに盛り上がる。

夕方になると先に述べた高知県からの単独登山者に石川県からの単独登山者が加わる。更に夕方遅くに凄い大きな荷物を背負ったご夫婦が入室。プロの写真家で今日はジャンダルムに三脚を立てて笠が岳の写真を撮ってきたとの事。経験からジャンダルムへの危険性よく知っているお医者さんが感嘆の声を上げる。又この先生がアマチュアながら大の写真好き、プロの道具を手に取らせて貰い、同じニコン派と言いう事で、また意気投合してカメラ談議で盛り上がる。後から入って来たもう一人は岡山県の人だったが、これ又写真好きで、話がそっちで益々盛り上がった。この岡山の人は昼前の落石事故の折に現場に居あわせ、落石そのものではないが、はじかれた礫を受け顔面を負傷、絆創膏で応急手当をして、奥穂と更にジャンダルム迄足を伸ばしてきたとの事。早速お医者さんが抗生物質や化膿止めを投薬。

小屋全体は火事場のような騒ぎになっているが、この部屋だけは別世界で、余裕をもって全員が和気藹藹で楽しい語りが続く。更にその後、娘さん一人を連れたご夫婦が登場するが、早速に2段ベッドの上で固まって身繕いをして下には降りてこなかった。残り二人分が空いているのだが5時前になると夕食のアナウンス、これもこの部屋がトップに呼ばれる。部屋から出ると廊下も足の踏み場がない程で、昼サービスに使っている食堂から土間、懇談室に至るまで人が溢れて疲れたような顔をした人達がボーと座っている。まだチェックインが出来ない人もいるようだ。恐らく今夜の夕食は9時過ぎまで掛るだろうと言う声も聞こえる。その後食堂を片づけて、遅くチェックインした人の寝るスペースを作るのだそうだ。

夕食がすんで真っ暗になってから夫婦一組が入ってきた。岐阜県から来た連泊組で「昨日北穂からここまで来て1泊、今日は前穂まで往復してきました。」これで山好き11人が揃った事になる。皆それぞれベテランだから、話を聞いていると面白い。こちらは隣のお医者さん親子に明日一緒に降ってくれと頼んで、その上に筋肉を和らげる精神安定剤まで貰って早々に寝てしまった。小さいながらも布団一組が確保されているので、山小屋とは思えないほど十分な睡眠をとる事になった。

22日、雨が今にも降りそうな気配。降り始める前に比較的山荘に近いザイテングラード(支稜線・支尾根)なる難所を越してしまおうと衆議一決、3人で6時に出発。お医者さんが荷物を置いてある涸沢ヒュッテを目指す。丁度ヒュッテ直前で雨が本格的に降ってきたので、ヒュッテで雨合羽を完全装備、上高地に向かう。道を急いで12:30上高地の合羽橋に到着。お医者さん親子は今夜は帝国ホテルを予約しているが、チェックインには少し早いと言う事で弁当を広げる。こちらも残りものを食ったりしながらストックをしまったりして一休み。お医者さんは、「明日11時にタクシーを呼んでいますから松本まで一緒にいかがですか」と親切なお話。勿論喜んでお願いをする。

彼らと別れて、大勢の観光客の中をぶらぶらと上高地アルペンホテルに向かって歩いてくると、すれ違いの中から「おやっ、また!」と声を掛けられる。何と昨日奥穂で一緒になったお二人さんではないか。二人は涸沢を我々と同じような時刻に出発して早くにここに到着、風呂で汗を流してバス待ちの時間つぶしに同じくぶらぶらしていたらしい。偶然とは言えチェックインするホテルの直前で出会うとはご縁ですね、3分違っていたら永遠のすれ違いでした。互に時間がたっぷりあるので、昨日撮らなかった互いの写真を撮り合い。青年が名刺を呉れたのでこちらも名刺をお渡しする。女性は名刺が無いのでメールで写真を送ると言ってくれた。

兎に角天気に恵まれ、楽しい人達との出会いがあり素晴らしい登山であった。その夜ホテルで相部屋、食事が同じテーブルになった青年は博多の人で奥穂から西穂経由で降りてきたとの事。流石に日本アルプスと言うだけあって、ここは全国から山好きが集まってくる事が良く分かる。23日は11時にお医者さんが呼んだタクシーに同乗、松本には1時間ちょっとで到着、指定は勿論終日満席だが丁度12:57分発のスーパーあずさに楽勝で席を確保、4時には無事帰宅した。帰宅が早かったし、夕べホテルで十分休んで疲れも無く体の調子が良いので、いつも婆さんにしてもらっている靴洗いを、自分ですると言ったら婆さんがびっくりしていた。

65歳から山登りを始めて5年、今度の山行きで山登りが少し分かったと言うか、己の考え方が大分変ったような気がする。山荘でお医者さんの息子さんから「山登りは何で楽しいのですか?」と聞かれ改めて考えた。取りあえずは「山に来ると英気と言うか、いわゆる新鮮な気が貰えるからです。」と答え「なるほど癒しみたいものですね。」この場はこの程度の会話で終わった。

上手く説明は出来ないが、山歩きは心身の健康上一番と言えるほど年寄りにとっても楽しいレジャーであるのは間違いない、来年春70歳の坂を越しても折を見て続けたい。しかし・・・・・・・楽しさの裏に潜む危険も併せて考えなければいけない。
思えば一昨年も昨年も自分自身危険な目にあっているではないか、今年は自身では辛うじて難を逃れているが、7月針の木雪渓での同行者の事故と今回の事故目撃(気丈に降りてきたおばさんが、1時間後には小屋で青い顔をして横たわっていた姿が目に焼き付いている)が記憶に新しい。一人歩きは、いろんな人と友達になれて、車に同乗させてもらえるようなメリットもあるので止める心算も無いが、全て自己責任である事だけは肝に銘じ、今後は次の3カ条を順守したい。

1.これからは危険度の高い山、難しいとされる山や場所には近づかない事にする。
2.縦走など体力的にきつく無理な計画をしない。 年相応の計画を作る事。
3.必ず山頂を目指すと言う考えはしない。

今年はもうそんなに山に行く機会は多くないだろう、と今は思うが。5月に田舎の従弟が、刈り取りが済んだら蓼科山に誘うよ、と言ってくれたが約束は果たされるのだろうか?後は整体の担当者が来月奥多摩のどこか一緒に行きませんか?があったな。昨日婆さんが「10月の連休はどこに行くのですか?紅葉はこの辺ではどこが良いの?」と聞いていた。「碁会所の大会を2カ月連続でさぼっているしなぁ」と生返事をしたが、まだ今年は2か月近くシーズンが残っている。でも今日のように爽やかな秋日和はどのくらいあるのかな?

2009年9月16日水曜日

馬鹿は死ななきゃ直らない

今日は鳩山内閣が正式に発足した。日本の将来にとってハッピーな日である事を心から祈る。鳩山氏にある種の爽やかさを感じるのは小生だけだろうか?今朝も婆さんと話したのだが、雑誌文芸春秋10月号の記事によると、鳩山さんは政策立案能力に欠けるような事を言っている。しかしそんな事はどうでも良いではないか。民主党には政策通が可なり居るようにも見える。政党リーダーに必要な資質は政策立案能力ではなくて統率力だろう。剛腕と言われる小沢氏を取り込んでいるだけでも評価したい。尤も小沢氏に言わせれば、彼が鳩山氏を取り込んでいると言う事だろう。

この日にしたり顔で政権担当能力を云々するコメンテータがいたが、よく言うものだ。国民が選択した内閣ではないか、嘘でもいいから一国民として祝いがなぜ言えぬ?

もう一言言っておきたいのは麻生内閣の引き際の醜さ。およそ日本人の美学からは隔絶した立ち居振る舞いは何とも言いようがない。これまでの1年間、日本人としてはなにかマンガか冗談の世界で弄ばれたような気がして空しい限りだ。本当に馬鹿は死ななきゃ直らない。

2009年9月15日火曜日

甲斐駒ケ岳登山



65歳から高齢者登山を始めて早5年、単なる思い付きで始めた割には結構はまっている。とは言っても体力は日に日に衰える一方なので、高い山は出来るだけ早いうちに登りたいと言う気持ちが強い。今年は既に北アルプスに2回行く事が出来たが、南アルプスには未だ行けていなかった。南アルプスの峰々は北アに比べると姿が優雅で雄大なので、もっと行きたいも気持ちもあるのだが如何せんアプローチが長すぎて気軽に行けない憾みがある。しかし先週知り合いのブログで甲斐駒ケ岳だけであれば土日1泊でも行く事が出来ると言う事が分かった。


思い立ったが吉日で早速ベースとなる仙水小屋に連絡すると、12日の土曜日は満員だと断られてしまった。ところが良くしたもので、その翌日得意先の担当者が9月14,15日と夏休みを取るとの連絡が来た。こちらも夏休みは未だ1日しか取っていなかったので、これ幸いと14日を夏休みとして13(日)、14日(月)で甲斐駒登山にする事にした。例によってがってん太郎の悪い癖で少しばかりの失敗もあったが、最高の天気に恵まれ、南アルプスの息をのむような素晴らしい景観を十二分に楽しむことが出来た。


十三日の日曜日、目的地の仙水小屋はバス停から僅か一時間足らずの行程なので朝もゆっくりで8時のスーパーあずさで甲府へ、ここから路線バスを乗り継いで12時45分登山口の北沢峠に辿り着く。ここから仙水小屋までは僅か1時間足らずの筈だ。ここで悪い癖が出た。実はこの小屋へ行くにはここから少し降って別の登山口から登り始めなければいけない。それを目の前に甲斐駒ケ岳登山口と案内板が見えたので、これで間違いないと思いこんでしまった。


1時少し前から登り始めると、どんどん降ってくる人クロスする。3,40分すると降ってくる人が不審そうに「これからどちらまで?」と聞いてくるようになる。こっちは「今日は仙水小屋です」と答えると、最初のうちは「はあ、そうですか」で済んでいたが、1時間以上歩いても小屋の気配が感じられないのでこちらもだんだん不安になって来た。地図を取り出して見ると明らかに登山口を間違えている。明日下山で使うつもりでいたルートを逆に登っているのである。標高を確認すると既に2500m近い。


しかし来る時の車中、1時間足らずの歩きで2時前に小屋に着いたら今日はどうしよう、と思案していた事もある。天気も良いので駒津峰経由で仙水小屋に行く決心をする。少し頑張れば明るいうちには小屋につくだろう、と何時ものいい加減さ。2時半頃先ず双児山に到着、下山途中に休憩している人達から相当奇異と同情を持った目でで見られる。ここから駒津峰は少し降って登り返しになる。3時20分駒津峰に到着、当然の事ながら人っ子一人居ない。既に標高は2700mを越え眼前には甲斐駒ケ岳が迫り、遠方の山々の夕映えとあいまって何とも言えない美しさを一人占めである。


今日この素晴らしい天気でこれだけの景色を堪能できたのだから、明日は途中温泉にでも入ってゆっくり帰る事に予定を変更して降り始める。双児山であった登山者が「駒津峰からの降りはかなり急です。」と同情をもって話してくれた通りかなり急である。山小屋の夕食は5時と相場が決まっているので、何とかそれまでにと気持ちは焦るが、足場は相当悪くて危険である。途中1回水飲みをしただけで小屋に丁度5時に到着。しかしこの小屋、何と5時で夕食が終わってしまっていた。「予約の小林さんですね?今食事を用意しますから。」「取り敢えずビールを一口飲ませてくれ。」と頼んで後は一人だけで食事。


小屋のご主人が言うには「消灯は7時、明日の朝は3時半に点灯して4時から朝食です。」との事。「だから時間がたっぷりありますから、帰るなんて言わないで折角ですから山頂まで行って下さい。駒津峰は直登だから標高が稼げて登りは楽なんです。明日は天気がもっと良くなりますよ。」この言葉で又気が変わる。


14日月曜日3時半小屋のご主人が来て真っ暗なのに「今日は穏やかで最高の天気です。」との事。確かに星はあるが雲も風もない。朝食が済むと20人位の客がどんどん出て行く。ヘッドライトで歩くのは未経験自信が無いと言うと、ヘッドライトが無ければ誰かの後を付いていけばいい、森林地帯を抜ける頃には明るくなりますよ。と気楽な事を言ってくれる。仕方がないので意を決してザックの中からヘッドライトやフリースを引っ張り出す。5時、宿泊客最後になったが出発、成程小屋の主の言う通り急坂は登りの方が楽かも知れない。1時間半も歩くと夜が明けて、南アルプスの山々が暗闇の中から姿を現し、"Good Morning!"と、昨日とはまた一味違う姿を見せ始める。


7時前には駒津峰に到着。大分前に出発したお年寄りと途中からほぼ一緒に登ってきたが、昨日小生がここで考えたように、「山頂はもう何度も登っているので、これ以上はは無理をせずここでゆっくりして降ります。」との事。こちらも何れそうなるだろうし、第一3000m級の山なんか来年来るかどうかも分からない、なんて考える。しかし一休みして結局山頂を目指す。ここからまた少し降って登り返しになるが、途中で直登コースと巻き道に分岐する。昨夜の主の話「急坂は登りは楽」を思い出して迷わず直登コースを選択。しかしこれが又間違い、コースと言っても岩登りの連続で2本のストックが邪魔になるほどに四つん這いで這い上がって行く感じ。コース標識が極めて分かりにくい。時間的には巻き道の方が早かったようだ。


ともあれ8時50分には山頂で記念撮影、雲も風も全く無く、360度のスカイラインの美しさは何とも言えない。本当に来てよかったと言う感じ、心の中で仙水小屋の親父に感謝を捧げる。


帰りは北沢峠発15時30分の最終バスを予定し、それに合わせて電車も甲府発18時5分の指定を取っていたが、北沢峠発12時55分発に間に合い、帰宅8時の予定が6時には家に帰ってきてしまった。


いろいろな偶然が重なり合ったのだが素晴らしい今年の夏休みだった。

2009年9月11日金曜日

歴史 上 岩波文庫 ヘロドトス著

歴史書と言えるかどうか分からないが「日本書紀」とか「古事記」が書かれたのが7世紀か8世紀とされている。この書は紀元前5世紀に書かれたとの事。作者はハリカルナッソス(ギリシャの1都市国家)のヘロドトスと特定されている。何でも世界最古の歴史書と言う事に興味を引かれて読んでみた。原作は全9巻まであるが、その3分の1の第3巻までである。

叙述される地域がエーゲ海を中心に北アフリカからユーラシア大陸の西から東はインドまでに及び、その中に点在する多数の都市国家と、そこに君臨したとされるこれ又夥しい人名が出てくるので正直訳が分からなくなる。更に自分の実証と伝聞を併せ歴史を語っているのだ。よくもまあ2500年もの昔に、嘘にしても聞き語りにしてもこれだけの著作を成し遂げたものだ。

感心するのは当時の人間が地中海を股にかけて、交易したり又は戦争をして行き来していた事が事実らしい事だ。当然キリスト教もイスラム教もまだ存在しない頃の話ではあるが、当時から歴史はペルシャ人とギリシャ人の対立、即ち戦いが基軸になっている。又、戦いのきっかけは怨恨とかいろいろあるが、他国の王族の女性を攫う事から始まっているのが多いのもも興味深い。

当時は全ての国家が独裁国家だったのだろうが、権力者にも民主的なタイプ、仁を備えたタイプ、気ちがいじみたタイプ、様々なタイプが居るのは現代と少しも変わりがない。常に戦いに備えなければ国家が成り立たない時代でもあったのだろう。いとも簡単に敵ばかりでなく身内も含め人を殺したり人肉を食う話が頻繁に出てくる。しかし人間の数が最大の資源であった筈なので、権力者は如何に人間を蓄えるかに相当意を用いていた様子が伺える。女性をやたらには殺さないし、浚ったりするのもその辺に事情がありそうだ。

日本では完全に神話の時代だが、人類の話でもあるし、スケールが大きくて結構面白い。

2009年9月10日木曜日

CHANGE

今日は抜けるような青空に風が爽やかで、珍しいくらいの秋晴れの1日だった。こんな日こそハイキングにでも出かけたいのだが、残念ながら未だ仕事に縛られて叶わない。この仕事なるものも、会社があり大勢の仲間が居てわいわいやっていれば社会の動きや変化を皮膚感覚として感じる事も出来るのだろうが、ワンマンオフィスだとそこがピンとこない。麻生氏が解散を宣言してから早2か月近い、選挙も終わって結果が出てから1週間以上も経つが、世の中がどんな風に変わっていくかが分からない。

総じてマスメディアは相変わらず「民主党は不安」のスローガンに沿って民主党マニフェストの問題点とか、連立の問題点とか、人事の予想みたい事ばかりを垂れ流している。これが正に政治空白と言う状態なんだろう。確かにこの間失業者が増えたりはしているようだが、大したニュースにもなっていない。むしろ新型インフルエンザが蔓延しつつある事や芸能人の麻薬ネタを繰り返し流している。もっと分からないのは裁判員裁判絡みの報道の多さである。この制度自体意味が良く分からないが、取りかえ引き替えこんなものを報道する事に何の意味があるのだろう?どうせこれから先、日常茶飯事となる事ではないか。
兎に角暢気なものだ。

民意或いは国民の審判が下った訳だから、出来るとかできないと言う問題も少しはあるだろうが、チェンジは間違いなくあると期待もしている。自分には伺うすべは無いが、恐らく社会では来るべき変化を予測しながらいろんな動きが出ている筈だ。中央の官僚なんかは昭和20年8月15日以降の小中学校の先生みたいものだろう。庶民は環境の変化には敏感な筈。権力の二重構造とか訳の分からない用語が多用されるが、個人的な事はそれほど大きな問題ではないように思う。自民党ばかりでなくマスメディアが大きく変わらなくてはと思うのだが、それを言うメディアにはお目に掛らない。

俯瞰的に見た時、新政権によって何が変化し何が変わらないのか、そこを的確に抉り出して示唆するメディアが見当たらない。いわゆる感度が鈍いように思えてならない。ジャーナリストの勉強不足と質の劣化で報道はステレオタイプばかり。政治家の日々の瑣末な動きにいちいち偉そうなコメントをしてふんぞり返っているアナウサーやコメンテータを見ているとうんざりする。

2009年9月9日水曜日

メタボ対策

元々どちらかと言えば肥満体質である。年齢を考えれば毎日そこそこ運動もしているつもりだし、ここ10年近く週に1回か2回はプールに行ったりしているのだが体重は殆ど減ってこなかった。常に63キロと64キロの間で上に行く事はしょっちゅうあるが、63キロを割った記憶は全く無い。メタボリックなんて事は気にしたくないのだが、3か月ほど前から新たに痩せる努力を試みている。

きっかけは先月の老人健診で、昨年同様に胴回り程度の事で因縁をつけられるのも癪だったからである。古希を前にして今更シェイプアップでもないかもしれないが、山を歩く時に、荷物を軽くするより己の体重を少し減らした方が望ましい、と言う事を読んで尤もだと思った事もある。新たな努力を始めて1ヶ月半の老人健診では昨年比大した効果は出なかった。しかし3ヶ月経った今日少し効果が出てきたようだ。

先日プールで体重を測ったところ土曜日には62キロ強、日曜日にはなんと61キロ台を示す結果になった。ちょっと嬉しいような気がしなくもない。原因は明らかだ、毎夕食後に必ず食べる事にしていたデザートをやめたのが効いてきた。元来甘党で羊羹に饅頭、ケーキなんでもござれと言うか、食事の後に甘いものを食わないと食事が終わらなかったのを、3か月ほど前に婆さんに宣言をして菓子を買うのを止めてもらい、夕食後はただのお茶だけにしている。勿論フルーツ類も夕食後は口にしない。

晩酌はもう1年以上前から止めているが、これで体重が減ると言う事は全くなかった。にも拘らず甘味断ちがこんなに効果を表すとはびっくりである。いつまで続くか分からないが、歳を取ったら余計なものは欲しがらないようにした方が身体のためにも家計にも良い事だろうから、出来るだけ続けてみようかと思っている。昔から「しない努力は努力のうちに入らない」と言うのだそうだ。その通りで「無理をせず、簡単にできる事だけやれば良い。」が我が家訓みたいものだ。

2009年9月7日月曜日

武士の娘 杉本鉞子著

福沢諭吉の「学問のすすめ」(1872年刊行)や新渡戸稲造の「武士道」(1900年刊行)に比べると、比較的新しい1925年刊行ではあるが、前2書と同様に原文は英語で書かれアメリカで発刊された本である。著者は越後長岡藩の元家老の娘で1973年(明治6年)の生れ。幼少の時から賊軍の家老の娘としてかなり苦労するが、一方武士の娘として厳しく躾けられる。躾の中には漢籍を中心とする教養はもちろん、主婦として必要な家事万端から嫁して後、夫にどのようにつき従うかと言った事まで若い時からびしっと叩きこまれたようだ。

そして15か16歳の時には嫁入り先が決まる。これが兄の友人でアメリカ在住の今で言う貿易商で、年齢は定かではないが恐らく10代で単身渡米、結婚、アメリカで二女を出産するが、夫が比較的若くして亡くなり、一度帰国するもののアメリカを永住の地と決めて再び渡米。生活の足しにするためもあってこの原稿を方々に投書したようだ。結局書物として刊行されたのは彼女が50歳を少し超えてからだと思うので、自分の半生を綴った懐旧談風になっている。

この本を読んで思うのは、現代における女性と異なり、昔の日本女性は自分の意見を言わない人形見たいものと思われている節があるがそれは全く違うのではないだろうか。むしろ江戸時代における武家の教育においては女子も男子同様に幼いころから厳しく教育されているので、自己の確立は現代女性よりはるかに高く、社会における自己の役割や責任を強く認識しているように思われる。ただその時代に於いてはマスメディアが発達していないので自己発現の機会が少なかったにすぎないのではないだろう。私にも明治20年に生まれた武士の娘の祖母が居たので、この著者を想像しながら共通点があるように思えてならない。

それともう一つ感心するのは、江戸時代末期の高級官僚は殆ど英語くらいは自家薬籠中の物としていたと言う話を聞いた事がある。5歳6歳の頃から四書五経といった難しい漢籍を繰り返し読んで理解する訓練を受けてた人に取っては、日常会話の英語をモノにするぐらいの事は朝飯前だったのだろうか?福沢、新渡戸の他に内村鑑三とか、似たような例はたくさんありそうだが、この著者も英語のレッスンについては実にさらりと述べているにすぎない。江戸末期から明治生まれの人は英語で意見を述べる事について些かの躊躇も見られない。実の驚嘆するばかりだ。

2009年9月3日木曜日

政権交代と鳩山論文

本格的な政権交代を見る事が出来そうなので、正直なところ非常にうれしい。特に今度の政権は従来の自公政権に比較すると、年代的に若返っている事が何よりと思う。新聞テレビやネット上のコメントを見ていると、素直に喜んでいるのか国民の選択を馬鹿にしているのかよく分からないものが多い。大体解説者なんて人種は殆ど爺くさい人間で、世の中の事を知りつくしたように顔をして能書きを言う。かく言う自分も全く同じ穴のむじなだが、聞いていて厭になってしまう。

若い人がこれからの時代を引き受けると言っているなら、黙って一度やらせてみる度量が何故無いのだろう。ニューヨークタイムズが一部を取り上げた鳩山代表の論文を彼のホームページに行って読んでみた。ネット上では多くの人が指摘するように極めてまともな事が書いてある。又彼の地ワシントンに於いて日本の政権交代について大がかりなシンポジュームが開催されたと言うのも大変結構な事ではないか。
そこで多数の日本通から、新政権が対米関係について旧政権と異なる舵取りをする事について懸念が出ている。ここで懸念が表明されないようでは、日本人全体がなめられている事で決して喜ぶべき事ではあるまい。

それを日本の報道機関の大多数が、あたかも憂慮すべき事のように報道するのは如何なる神経をしているのだろうか。彼らが自分の浅はかな考えを正当化又は誘導すべく、市民の声とか識者の意見を適当につまんで繋ぎ合せて報道しているように見える。しかし一方ではメディアが多様化しているせいもあろうが、国民全体で捉えると、必ずしも大メディアが考える方向に国民を引っ張り切れていないようにも思う。むしろ大メディアのご粗末さや不勉強に嫌気がさして新聞テレビ離れはますます激しくなっていくのだろう。政権交代とともに新聞テレビに登場するコメンテーターの交代も期待してやまない。

2009年9月1日火曜日

肩の荷降ろし

今日新しいプロジェクトがやっと稼働し始めた。計画から完成まで4か月近く掛ったが、大勢のスタッフの協力を得てやっと完成した。メルマガの配信システムだが読者がどの程度集まるかがこれからの課題。
配信対象は商業ベースではなく、ずっと制作管理をしてきたホームページ読者としているので急に大きな数字は望むべくもないが、やはり多いに越した事は無い。

自分で実際に購読している有料のメルマガもあるが、時々定時に送られてこない事があったり、不具合があってお詫びが来たりすることが良くある。今回送り手となってみて初めて、構築するシステムの難しさが大分分かった。ホームページのコンテンツを更新するのと異なり、先ず読者からメールアドレスという個人情報を受取り、それを管理しながら適時適切にその読者に情報を配信するのは対象が何人であれ
システム的にはかなり精緻なものが必要になる。おそらく仕事としては最後にして最大?なものになるかもしれない。

我が駄文をご愛読いただいている同期の諸兄にはピンと来ないかもしれませんが、具体的なテスト例を一つ書きます。インターネットの世界はご案内のように様々な障害があるので、メールについては出来るだけ厳重なセキュリティー対策が講ぜられています。すると多数の人に一斉にメールを送信する場合、今回構築したサーバとは別(KDDI)のウィルスチェックサーバを経由させますので送信先が100人程度なら5秒で全読者が受信完了しますが、1000人になると全てに到達まで5分、1万人が対象になると1時間10分も掛ってやっと全てに到達という試験結果です。

商業ベースのメルマガサーバが如何に高性能サーバを必要とするかを初めて知ったような次第です。
まあ、こんな自慢話をタラタラ書いても仕方がありませんのでこの辺にしておきますが、相当ホッとしています。

2009年8月31日月曜日

夏の終わり、秩父一人旅 金峰山


土日の天気が辛うじて持ちそうだったので夏山最後の登山に行って来た。秩父の「金峰山」である。
無理をしない登山を心がけようと思っていたので、いろいろ検討の結果一番楽そうなコース信濃川上からタクシーで廻り目平登山口へ行き、そこから登る事にした。土曜日の朝、幸い晴天。山に出かけるには少し遅い新宿発8:00の特急あずさで小渕沢経由小海線の信濃川上に向かう。信濃川上で降りた登山者らしき者は一人。タクシーの相乗りを期待したが誰もいない。ドライバーも大抵の人は1時間前の電車で来ますね、笑っていた。

登山口の金峰山荘で届けを出したり、飲料を補給したりして11:30頃から歩き始める。最初は千曲川の支流に沿って林道小1時間ほど歩く。ここで一休みをして持参の昼飯を川岸近くの開けたところで食っていると、次から次へと登山者が降ってくる。のんびりした奴が居るものだと言う顔で、挨拶やら簡単な会話を交わす。皆日帰りののようだ、こちらは金峰小屋泊だと言うと納得してくれる。登山は早朝に歩き始めるのが本当だろうが、今回はスロー登山と決めたのだから仕方がない。

12時40分昼飯が済んでいよいよ山登りが始まる。前回日焼けで苦労したので、婆さんが持たせてくれた日焼け止めクリームを腕にたっぷり擦り込む。未だ陽射しは強いが予報は午後から崩れるようなこと言っていたので、何とか持ってくれることを祈りながら坂道を1歩1歩踏みしめる。小1時間で「後半分です」という標識に到達。どうやら降られずに済みそうだ一安心。



ところがどっこい、4,50分歩いた時に陽が陰ったなと思う間もなくポツンと雨が降ってきた。山道なので気持は焦るが駆け出す訳にもいかず、あと少しだから何とかなるだろうと決め込んで歩き続ける。ところがところが、あっという間に雨脚が強くなる。仕方がないからザックカバーだけ取り出してザックに被せる。少し行くと二人連れの登山者が合羽を着始めている。とても付き合っていられないと思って止まらずに進むと、降り始めから5分も経っていないと思うのだがバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになった。どうせTシャツ1枚とズボンだけだ、「ずぶ濡れ結構」と根性を決めて2時40分少し前に金峰小屋に転がり込む。雨がひどいので小屋全体を写せず、取りあえず看板だけ。




薄暗くて誰もいないかと思ったが、土間の奥にある炬燵におじさんが1人新聞を読んでいる。濡れたものは土間の天井に張り巡らせて紐にかけてくれとの事。チェックインは後回しにしてザックを開いて着ているもの全てを着替えてしまう。その後チェックインを済ませ、やっと落ち着いてお茶をご馳走になっていると途中で合羽を取りだしていた二人が入って来た。と同時に2階からお客が二人降りてきた。2階に居た客は奈良から来て昨晩登山口の金峰山荘に泊り、昼前に山頂に行って素晴らしい景観たっぷり堪能してきたとの事。ずぶ濡れで来た客は今朝横浜から瑞牆山荘経由で来たとの事。

未だ3時過ぎ、5人それぞれにビールやウィスキー等を飲みながら暇にまかせての山談義。自分も飲もうかとも思ったが容器を持ち帰りと聞いてやめて、持参のドリンクだけにした。更に1時間以上経ってからまた二人連れの客がずぶ濡れで入って来た。かなり若いお兄さんで瑞牆山荘で先のおじさん二人連れと一緒だったらしい。聞くとこの悪天候下で山頂まで行ってきたとの事。山頂から目の前の5丈岩さえ見えなかったとの事。 この二人を含め7人の客のうち自分を含め5人は明朝の登頂を期する事にする。

予約の客7人が揃い5時半に夕食になる。写真を見て下さい。ごはんの上にローストチキンに焼きなすが被さっています、一皿料理ですがなかなかしゃれています。小食のため山小屋の食事を残さず食べる事の方が少ないのですが、綺麗に平らげる事が出来ました。グラスに入っているのは飲み放題の白ワインです。お椀の中も洋風スープで結構な味でした。明朝登頂の5人機嫌が良くなって明日はきっと晴れるなんて言っています。しかし小屋を叩きつけるような雨風は益々強くなってきました。


8時頃寝付いて12時頃一度起きるが外はまるで台風のようだ。3時半頃再び起きると外は静まり返っている。しめた、と早速支度を始めると部屋のはるか向こうで(60人分の寝床に7人しかいないので)やはり支度を始めた人が居る。昨日私の次に入って来たおじさん二人組、4時、まだ霧がかなり濃いが3人で行けば怖くないと山頂を目指す。30分足らずで山頂、まだ真っ暗ではあるがしかし風は全く止んでいる。そんなには寒くない。5時が近くなると東の空から徐々に赤味がさしてくる。ご来光を拝めると期待するが、拝む前に明るくなってしまった。しかし山頂で徐々に明けていく遥かな峰々、眼下に広がる雲海を静かに見ていると自然の神々しさに打たれるのか、何とも言えない清々しさを感じる。正に登山の醍醐味と言えよう。



山頂で30分以上過ごしたが朝飯が5時半なので5丈岩を経由して小屋に戻る。



殆ど乾いてはいるが大きな岩が続くので慎重に降りる。小屋に戻って朝食、今度は茶碗とお椀だけ配られて海苔、漬物、佃煮など簡単な総菜8種類がボウルに入れられ卓の真ん中に置いてある。この小屋は天水しか無いので水が貴重、節水が最大の課題のようだ。



予定より30分遅くなったが6:30に瑞牆山荘を目指して出発、おじさん二人組は瑞牆山に登らなければと10分ほど先に出発。若い二人は食事の後山頂に行ってから下山との事なので、一人でのんびり、スローなハイキングだ。天気は快晴、周囲の山々が何と言っても素晴らしい、と言っても知っているのは富士山、山頂でも見えたが段々はっきりしてくる。その他には八ヶ岳や昨年登った瑞牆山、これは降るにつれ間近に迫ってくる。途中何度も立ち止まって風景を写真に収める。今日の降りは尾根歩きでは比較的歩きやすいと勝手に決め込んでいたが、前半3分の2は大きな岩続きで歩きにくいし危険でもある。兎に角スリップだけはしないように慎重に慎重に降る。



大日岩の下で先行の二人組に追いつく。テント場があり、これから山頂に出発する人が数に居た。こちらはここで残しておいた果物やドライフルーツなどで休憩、富士見平を経由して瑞牆山荘には予定通り9:30前には到着。10:15のバスで益富の湯に向かい昼風呂でゆっくり汗を流して、これ又予定通り5時過ぎに帰宅。夏の終わりに一人ゆっくり歩いた楽しいハイキングだったと言える。

2009年8月28日金曜日

孫がもう満12歳

今週は毎日のように日記を書いてきた。よほど暇だったに違いない。年寄りの常で病気の話か孫の話しか無いのも困るが、月並みに又孫の自慢話をしよう。今日は上の孫の満12歳の誕生日。私自身12歳の時には父方、母方とも祖父は亡くなっていたので、祖父として12歳の孫の顔を見る事が出来るのは感無量と言うか幸せな気分である。昨日婆がお祝いに送ったTシャツが届いたので礼の電話が来たそうだ。その開口一番が面白い、いきなり「もしもし〇〇(苗字)です。」と言ってきたらしい。一見可愛げ無い振りをする、これが彼のキャラである。

この子は世田谷の区立小学校6年生、身体頑健とは言えないまでも、まあ丈夫な方だろう。どっちかと言えば悪ガキの方と自分で言っている。運動会で駆けっこをすると校内随一の速さだそうだ。クラブ活動はバスケットで、殆ど毎日のように遅くまで練習があるらしい。お勉強はまあそこそこなのではないだろうか。正月には5年生の2学期までの通信簿を見せてもらったが、平均値的でごく普通の評価だったと記憶している。夏休みに入って先日アニメ映画に連れて行った時に、何故か通信簿を持って来るのを忘れてしまったとの事だった。製造責任者に思いを致せば、お勉強に過大な期待をするのはとても無理、と爺も婆も最初から思っているし、もう通信簿を見せてもらう年齢ではないかもしれない。他には婆の強い希望で幼稚園の頃からピアノを習っている。

1学年下の弟が居て、この子もほぼ同じ年頃からピアノを始めさせたのだが、3年生の頃だったか先生に「予習、復習も出来ないならやめてしまいなさい。」と叱られたら「じゃあ、やめます。」と言ってさっさと辞めてしまったようだ。バスケとピアノではとても相性が悪いと思うのだが、どういう訳か上の子は未だに週1回習いに行っているらしい。これも私にはとても不思議だ。性格的にはとても面白いところがある。先ず好奇心が旺盛な事、それと茶の間などで大人と一緒に居る時、自分の好きな事に打ち込んでいるような振りをしながらその場の空気をよく読んでいる。その空気を暫く胸に畳んで、ある時ひょっとユーモアに富んだ発言をして大人を喜ばせるのだ。

最高傑作はこれ。
一家で父の実家に出かけ、帰宅してから暫くして
孫「おかあ(母への呼びかけ)、このあいだ古河(婿殿の実家)では嫁っぷりが良かったね!」
娘が婆さんに報告して来たそうだ。「てっちゃん(孫の愛称)に褒められてしまったよ。」

おまけに。
食事の最中に
孫「おかあ、胸のボタンが頑張っていますね!」
娘「あんた達がさんざん吸ったり揉んだりした所為でこんなになってしまったんだよ。」
孫「へえ、そうなんだ?」わざと「食べ過ぎ、飲み過ぎでないの!」とは言わない。

2009年8月27日木曜日

ポケットの中の宇宙  アニリール セルカン

書店で何げなく手にしたこの本を読んで、世の中にはこんな人がいるのかとびっくりした。

著者は若干36歳の青年で、しかもドイツ生まれのトルコ人(国籍という意味で)。しかし著者にとって国籍は余り意味をもっていないのではないだろうか。既に日本に10年間住んで、飛行機が成田に着陸すると「帰って来た」と感じるらしい。

工学博士で東大の助教(講師で行っている大学は国内外に多数)専門は建築と言うのもおかしなくらい様々な肩書を持っている。特に自分が本を買う動機になったのだが、長野オリンピックの時トルコナショナルスキーチームのコーチで来日している。本の表題にもなっているように宇宙開発とも密接に関係していて、NASAの宇宙飛行士にも挑戦している。

俄かには信じ難い才能を持っているのだろうが、書いている事は極めてシンプルで分かりやすく、同感するところ多。こういう若者がどんどん出てくれば地球ももっと住みやすくなるだろうな思わずにはいられない。すごい発明をしたとか大発見をしたと言う事ではなく、今のところは特に為し遂げた偉業も無いようだ。しかし発想が柔軟でとても素直に感じるのが魅力的で将来が楽しみ。

日本の良さについても感じ方が良い。好きな漢字を外国には無い概念の「無」としている。表題からすれば「空」にすればもっと良かったのではとも思った。

2009年8月26日水曜日

風の吹くままに

今度の日曜日はいよいよ総選挙、政権交代の風が吹いているそうだが、実際に起きるのだろうか?

もしそうなったら日本のどこがどう変わるのか非常に興味深い。大多数の有権者は自公政権に飽きて反対党に投票しているのだけで、国がどう変わるかなんて事については真剣に考えていない事だろう。私自身は検察制度(特に特捜制度)に変化が起きるか起きないかが最大の関心事である。当然民主党の政治家達も、マニフェストについては党としてオーソライズしては見たものの、これを政府として実行していく仕組みについては良く分かっていないのだろう。

一方政府の官僚たちは長い夏休みを楽しんだ後で、来月から始まる2学期をどんな思いで迎えるのだろう?

強かに、どんな政治家が乗り込んで来ようが、これまでに蓄積してきた情報の出し方さえ間違えなければ大した事にはならない、と高をくくっているに違いない。民主党マニフェストに関係する案件が関係する役所は、既に予算をはじめ殆どのシミュレーションを終えている筈だ。勿論人事についても整理はついていて、政府が組閣に1か月近く掛けると言っているから十分対応可能とと思っているに違いない。
組織体組織の戦いであれば官僚と民主党では横綱と褌担ぎにもならないのではと心配になる。

何と言っても60数年前に外国人の占領軍が乗り込んで来た時でさえ、慌てず騒がず「ハイ、ハイ」と言いながら自己保全を全うした組織細胞の末裔である。ましてや自民党や公明党に義理立てする必要ははなから何もない訳である。自分たちの組織が生き残れば良いだけだろう。従ってなるべく民主党マニフェストに沿った政策の実現に向けて協力する事になるだろう。しかし問題は公務員人件費の2割削減と天下り禁止条項だ。これを如何にいなすかがお役人サイドの腕の見せ所だし、民主党の力が問われる真のせめぎ合いになるだろう。

正直、個人的立場から言えば、我が家は婿も私も、民主党が本当に力を発揮したら些か生活に影響が生じかねない。小学6年生の孫でさえ「おとうの会社(本当は会社ではない)のためには鳩山さんより麻生さんが良い。」と泣かせる事を言うくらいだ。しかし肝心のおとう(婿殿)や私もそう心配はしていない。婿殿は誰に投票するか聞いていないが、少なくても私は風の吹くままである。結果現在の仕事が無くなってもいいと思っている。別に愛国心でも何でもない、昔から言う所の「世の流れには沿うて見よ。」だけの事だ。

2009年8月25日火曜日

秋風

孫の夏休みも終わらないのに今日は終日エアコンのお世話にならなかった。さわやかな秋風だ。天気予報は残暑が厳しくなるような事を言っているが、どこ迄に当てにして良いのやら。本当に今年はの気候は変だ。幸い米は何とかなりそうと言っても野菜農家の人たちはお気の毒だ。野菜が高くなるのは主婦にとって大変な事に違いない。食料品だけではなく衣料品、家電なんかも売れないのだろう、デパート、スーパー、コンビニの売り上げも皆昨年を下回っているようだ。パチンコも駄目、飲み屋も駄目、これを皆リーマンショックと結びつける事が出来るのだろうか?大型デジタルテレビが売れても、あと1年ちょっとアナログ放送が終了したらパタッと売れなくなる事は目に見えている。

自動車もハイブリット車が売れに売れているように喧伝されているが、トヨタ1社の景気が良くなっても日本の景気が良くなる筈もない。シャープや京セラはソーラーパネルの宣伝に力を入れている。電力会社から電気を買えない山小屋なら有効だろうが、目の前に電柱が立っている家に住んで、あんな物を屋根に乗っけようと言う人の気がしれない。政府が時代を開く新産業として位置付けているとしたら噴飯ものである。風力発電も同じで日本の風土に馴染まない事は経産省でも分かっている筈である。所詮日本のエネルギー源は原子力と火力に頼らざるを得ないのだ。火力も石油だけでなく石炭をもう一度見直す必要があるようだが。要はまやかしの新エネルギーではなく全く新しいエネルギー論理を発見又は創造する事だろう。

原子力も火力も共に有限の資源である。そこで新エネルギーと共に省エネという言葉が近年の流行になっている。これもかなりまやかしっぽい、従来の産業構造のまま省エネをいくら叫んでも余り意味がないように思えてならない。そもそもエネルギーの供給を必要とする「経済の成長」なる概念がそろそろ危なくなってきているのではないだろうか。今まで日本経済の牽引車であった鉄屋、車屋、土建屋、そしてこれに付随する様々な産業をどういった形で落ち着かせて、ソフトランディングさせるかについて当事者も政府も真剣に考えた方が良い。どこまで行っても前年に比べて売り上げも上がります、利益も増えます、給料は勿論増えます、が当たり前と考えてきたが、これって少し違うのではないか。

では若い人たちはどのようにして食っていけばいいのだ、「今までさんざ良い思いをして、先に死んで行くからと言って無責任な事を言うな。」と叱られることは承知の上だが、若い人たちが自由に考えれば、きっと爺共には思いもつかぬ事を発見するのではないだろうか。爽やか秋風で少し気の利いた事を書きたかったのだが、とんでもない所に行ってしまった。経済は秋風どころではないのだろうが、選挙報道で老人と若い人の対比を見ていると、やはり若くなくては思ってしまう。

2009年8月24日月曜日

「占領下日本」半藤一利・竹内修司・保坂正康・松本健一

この本がテーマとしている1945年8月から、1951年9月の講和条約調印を経て、翌年4月のその発効までの7年弱の「占領」期間。私にとっては物心がついた頃から小学生時代にかけてであるので、断片的とは言え様々記憶が残っている。勿論日本が米英を敵として戦っていた事も知っていたし、そのために父が外地に出征している事も分かっていた。特に1945年8月15日の事はかなりはっきりと記憶している。

そんな事もあり、著者(数回にわたる4人の座談をまとめているので編者か)の4人が何れも近代史について分かりやすい著書を出している人達でもあったので、期待を持って早速に読んでみた。著者の半藤氏は私の10年、竹内氏は4年、保坂氏は1年先輩、松本氏は6年後輩。何れも戦争には行っていないほぼ同世代の人達だけに、18章に亘って書かれている社会現象?に対する関心、あるいは自身が受けたインパクトについては非常に近親感がある。ただ長ずるに及んで尚、「あの時の事は一体何だったのか?」と改めて歴史を読みとくのは、さすが何れも一流の学者又は歴史研究家たる所以でもあろう。

この時期(占領下)に現代の我々の生活、社会のありようや方向性がが規定された事は、良いとか悪いとかは別に事実であろう。しかし何故そうなったかについては、たかだか半世紀前の事であるのに、この4人の学識者をもってしてももう分からなくなっている事が随分多い事に驚いてしまう。しかし今日の社会状況を考えると、日本人は歴史の検証を抜きにして、どこかには日本社会を維持存続させるための物凄い力秘めている事が分かるような気がする。

私にとっても最大の関心はなにか。敗戦、そして占領という状況下でありながら、天皇制と官僚制は殆ど無傷で温存したのは占領した側の意向なのか、はたまた被占領側のトリックだったのだろうか?誰のどんな働きで、この事が可能になったのか?今後も永遠に解き明かされる事は無いのだろう、の思いは残るが非常に面白く読める。

2009年8月21日金曜日

バランス―実利と厚み

毎週日曜日の夜の楽しみはその日の昼にNHK教育で放送された囲碁の番組を録画で見る事だ。
今週の日曜は登山の疲れで早く休んでしまったので見る事が出来ず、昨晩やっと前半の囲碁講座だけ見た。講師は石倉9段、この方は9段としては比較的若いプロ棋士で、東大の囲碁部出身、メジャーな棋戦での活躍はあまり聞かないが、9段と言うのはプロの最高段位である。特に初級者の指導についてはプロ棋士の世界でも定評があるとされている人だ。私もファンの一人でこの番組を毎回熱心に視聴している。今回は囲碁の指導に入る前に話した事が非常に印象的だったので日記に記したい。

曰く。「囲碁はいろいろな意味でバランスがとても大切、陣地の取り合いのゲームだが何でも一人占めしようとしてはいけません。」
ここまでは囲碁を少しでもする人なら誰でも知っている。「取ろう取ろうは取られのもと」だ。引き続き具体的例を挙げた。

「囲碁には実利と厚みのバランスがあります。実利とは地(最終的にその大きさで勝敗をつける陣地を言う)の事です。厚みとは地ではないのですが勝負が進むにつれて、非常に有効性が発揮される骨格(と言ったか、壁と言ったか記憶にない)のようなものです。勝負の序盤、地取りにばかり走っても、厚みが無いとじわじわと地が減って行って結局負けると言う事が良くあります。一方厚みだけでは地が足りませんから結局負けます。従ってこのバランスをどのように形成していくかという事が、プロにとってもとても大事な事となっているのです。勿論、地が好きなプロ、厚みを重視するプロいろいろ居ます。」

ここからが印象的なのだ。更に司会のお姉さんがこんな質問をした。
「実利と厚みのバランスが大切な事が分かりました。囲碁以外でも通用する事がありますか?」

「実生活でも同じ事が言えるのではないでしょうか。<実利>とは例えばお金であったり、テストの点であったりと考えていいかも知れません。すると<厚み>は友達であったり、家族であったり、趣味であったり、仕事や学校と直接関係ない所で培われている人間性や感性だったりするのではないでしょうか。やはりこのバランスがとれて、初めて豊かな人生が生まれると理解したらどうでしょう。」

半分寝ながら見ていただけで別にメモを取った訳でもないので正確ではない。しかしプロ棋士ではあるが東大で講座を持つだけあってうまい事を仰る。人生を組み立て直すにはいささか時期を逸しているが、我が意を得たりと思った。

2009年8月20日木曜日

やっと夏らしくなった

今週はやっと夏らしい日が続いている。昨日得意先を訪問したら未だ夏休みを取っている職員が多いようで、何となく静かな感じだった。日中の街も同様で、じりじりと照りつけられるのを嫌ってか人通りが少ない。時々黒っぽいスーツを着たOL やサラリーマンとすれ違うと、自分も若い時は真夏でも背広を着ていたなあと懐かしく思うと同時に、彼らは今どんな会社に勤めているのかな?とかわいそうになってくる。
余程フォーマルでない限り日本の夏にスーツは似つかわしくない。

逆に考えると電車の中やビルの中の気温を下げ過ぎているから、中途半端にビジネススーツの着用が残っているのだろう。半そでシャツ1枚で電車に乗っていると寒くてくしゃみが出てしまう。インフルエンザの話が又賑やかになってきたので、周囲の人から睨まれてしまった。暑さに強い訳ではないが、寒さには敏感な体質のようだ。唯一の家族である婆さんがこの反対で、暑さにめっぽう弱く室温設定をいつも25度ぐらいにしている。曰く「寒さは厚着をすれば凌げるけれど、暑さは着るもので凌ぎようがない。寒いと思ったら何か着て下さい。」

因みに今居る仕事部屋も設定温度は27度で、しょっちゅうエヤコンを止めている。自宅に戻っても自分の部屋と茶の間の設定温度は2度は確実に違うし、自分の部屋ではエアコンをつけっぱなして居続ける事は出来ない。婆さんはエアコンをつけっぱなしで寝ても平気なようだ。二人いた娘も気温の感じ方が一人は婆さんに似て、も一人は爺に似ているのだそうだ。人間と言うものは同じ環境に居ても同じように育たないものらしい。二人が同じ部屋で生活していた時はどうしていたのだろう?先日田舎の従妹の家に寄せてもらった時、久しぶりに網戸を通して風が吹き込んで来る座敷で夕食をご馳走になり、何とも言えない懐かしい気分になった。これが本来の日本家屋のありようだろうが、今の東京では望むべくもない。

地球にやさしい生活とかエコライフと言うが、どうもインチキくさい言葉で好きになれない。こと生活空間の温度管理に関してそんな事を真面目に考えている人間は居るのだろうか?少なくても我が家にはそんな高尚な事を考えている奴はいない。経済の許す限り快適な環境を追求するのが当たり前ではないか。電気を作って売っている会社が、政府の指導かどうか?節電を宣伝する事の不思議さ。世界どこでも一緒かな、それとも日本の不思議かな。どうでもいいが、やっぱり夏はかっと熱い日が無ければいけない。

2009年8月17日月曜日

爺が爺が岳に「富より健康」


14日の金曜日お盆にことよせて仕事をさぼり又山に行って来た。先月悪天候で途中で断念した北アルプスに再挑戦である。昼少し前に長野からバスで扇沢に到着。先月は沢の上が登山口なったが、今回は第一目標を爺が岳にしたので登山口は沢の一番下。バスから降りて大分歩かなくてはいけない。久し振りに夏らしいお天気になったせいか駐車場の混雑はタダものではない。しかし山登りには少し時間が遅いので登山客は少ない。登山口で準備をしていると若い男1女2の3人組と出会う。東京から車で来て明日鹿島槍登山の予定との事。同じ予定なので宜しくと挨拶。


3人とも野営との事で見るからに重装備である。ともあれお天気は良すぎるくらいで汗まみれになりながら登りはじめる。どこかで昼飯をと思っているとザックの中で携帯が鳴った。登山口までのバスやらで世話になった長野の従妹からだ。今回は快適な登山になりそうなことを伝えて安心してもらう。小1時間登って昼飯の握りを食う。 前方には真っ青な空にアルプスの稜線がくっきりと浮かび、遥か彼方に今日の目的地の小屋の赤い屋根がポツンと見えた。写真が下手ではっきり見えないが稜線右端にゴミみたいに見えている。ロマンチックな光景ではあるがこれから登る高低差が思いやられる。登山口で一緒だった3人組も一緒になって休憩している。

ここまで来れば全行程の3分の1は来た筈と思い、腹ごしらえは出来たしと歩き始めると、照りつける直射日光で汗が噴き出るばかりで足の方は遅遅と進まない。結局コースタイム3時間45分とあるところ喘ぎ喘ぎ4時間半もかかって、4時にやっとの思いで小屋に到着。小屋は意外と空いている様子、部屋への案内を待ってもらって、取りあえず外で一人でビールで乾杯。今朝の東京の暑さが嘘のようだし、明日登る爺が岳が眼前に聳え、眼の下には雲海、普段飲まないビールが事の他うまい。涼風を楽しみながらビール一缶を一気に飲み干し、部屋に荷物を置くともう夕飯である。

飯がすんでも外は十分明るい。再び外に出てアルプスの眺望を楽しんでいると先ほどの3人組と又顔を合わせる。野営の準備が終わり、彼らもいよいよビールで乾杯という段取りになったようである。爺も又ビールを買って乾杯に加えてもらう。ここから話はずみ自己紹介などするうちに、彼ら青年諸氏がSNSmixiでの知り合いという事が分かる。爺も実は同類と明かすと会話が益々盛り上がる。男性Sさんはmixiで山のコミュニティーを主宰するベテランで女性はそこのメンバーとの事。明日も又目的地が同じだから一緒しましょうと言う事になる。相当厚着をしてその上焼酎のお湯割りをご馳走になっていたが、寒くなってきたので7時に明日を約束して就寝。6人相部屋だが布団一組に一人なのでゆっくり寝につく事が出来た。



15日朝快晴、朝食5時、大町方面はまだ雲の下だが山々の稜線がくっきりと見ええいる。5時半頃Sさんと再開、彼らは天幕を移動しなければならないので先に出発して下さい、との事。どうせこちらはナメクジみたいなスピードだからその方が良いのだ。予定通り6時に出発、フロントには爺が岳を経由して鹿島槍までは4時間と書いてあったので一応4時間半は掛る事だろうと思っていた。爺が岳山頂目指してもう沢山の人が登り始めている。6時45分爺が岳南峰に到着、360度の展望は言うに言えない美しさだ。特に立山連峰から剣岳、剣沢雪渓は見るほどに若いアルピニストを惹きつける所以が分かるような気がする。

7時5分中峰到着、8時5分冷池山荘到着、ここで一休み。ここから本格的な山登りが始まる。いつもそうだが、標高2000mを超えると急に足が重くなってスピードが極端に落ちる。行程表で言えばここが中間地点だからあと歩行2時間(10時半到着)で鹿島槍に行きつく筈で、ここまではほぼ計画通りなのだが、中間点から先がいつも問題、計画通り行った試しがない。結局布引岳山頂には9時30分 到着。




ここからは宣伝文句が書く所の鹿島槍につづく天空の遊歩道だが、とても遊歩なんて気分では歩けない。

息も絶え絶えだが立ち止まっては吹いてくる冷たい風に助けられつつ10時43分憧れの鹿島槍山頂に到着。予定時間からは大分はみ出ているが、自分の足でこの山頂を踏みしめられた事は何よりも嬉しい。石川遼君ばりに全ての人に感謝をしたくなる。そして逆光でも何でも先ずは記念写真を撮ってもらう。このカメラもうすでに倒産した会社のカメラでどこに行っても交換電池さえ入手不可能だが、時刻が正確に記録されているので後で登山日記を書く時極めて都合が良い。少し早いのだが種池の小屋で用意してもらった弁当を広げる。よくある事だが、疲れてしまうと飯がまずくなって喉を通らない。良くない事だとは思うが、大半食い残して自宅ら持ってきた携行食で済ませる事にする。オレンジは美味かったがバナナは全く食えないほどに腐っていた、残念。


暫くするうちに若い3人組が相変わらず元気に登場、早速合流してお昼近くまで4人の山頂パーティーで盛り上がる。3000m近くの標高でありながらこんなに恵まれた環境でゆっくり出来たのは初めてかも知れない。


夕暮までここに居たい気持ちに後ろ髪を引かれながらお昼過ぎになったので下山を開始。今度は若い人達と一緒。張りきりボーイと張り切りガールズなのでかったるかったろうが、リーダーのSさんが爺を先頭に立たせてゆっくり歩かせてくれる。中間点の冷池山荘で休憩の後、再び登りに掛り爺がバテテ顎を出したら、Sさんがこれを飲んでください、と薬を呉れた。アミノバイタルとか言ったように思うが普通薬局で簡単に購入出来るらしい。嘘みたいに元気が出たので次回山行には是非購入するとしよう。何れにせよ4人で賑やかに下山、昨日と同じ4時頃に小屋に帰還。ここから夕方の宴会と就寝までは前の晩と同じ。寒さも同じ



16日朝食はやはり5時、しかし連泊の客は爺一人だったので食事の内容が大分他と違う。オムレツに良く焼けたベーコンなどが添えてあり、一般客は身欠きにしん一切れに対し我が盆には岩魚の甘露煮にがまるまる添えてある。初めて残さずきれいに平らげる事が出来た。おまけに昨晩は6人部屋に4人、ゆっくり休む事も出来た。食事の後若い人達の天幕撤収を見学、女性も含めあっという間に手際よく二張りを撤収。でも帰宅してからの手入れは大変そう、とても真似はできない。登山する人たちが出かけてからモーニングコーヒー等ゆっくりと飲んでから7時に下山開始。今朝も絶好の日和、3人組と仲良しにしてもらったので、登山口に到着後大町の温泉、さらに長野駅まで車に乗せてもらえる事になる。7月にも入浴した大町温泉薬師の湯で朝風呂を満喫、さっぱりしたところで長野に向かう。


途中酒の博物館に立ち寄り梅酒を購入、帰宅して婆さんに笑われる。更に途中の昼飯を張り切りガールKさんの発案で小川村の「おやき村」に立ち寄る事に決定。話には聞いていたが横浜っこのKさんに案内してもらう。車中で「おやきは味噌なすと野沢菜が好きだ」と話していたら、今焼いているのが偶然にもその2種類だったのにびっくり。アツいおやきを囲炉裏の火の傍で食べる、無料の味噌汁と冷たいそば茶が何とも言えない。
若い人はさらに座敷でそばを註文、こちらはお茶だけだが、湯呑に書かれた「富より健康」という言葉に感激。その後駅まで送ってもらい、始発新幹線に乗って居眠りをしながら帰京、軽井沢からは通路も満席だった。富よりも何物にも代え難いような素晴らしいお盆の休日だった。


帰宅すると婆さんがびっくりしていたが日焼けが凄い、幸い水曜日までクライアントに顔を出す必要は無さそうだ。今朝起きると両腕は肘上から手先まで真っ赤にむくんで晴れ上がり、指を曲げるのも困難である。顔もほっぺがむくんで瞼が重い。婆さん曰く「孫違って色白だから大変ですね、次回からお気を付け下さい。」と大笑い。しかし今日は思いの外足の筋肉痛が少ない。年齢的にも毎週のハイキングは無理だが本格的な秋が来る前にもう一度山に行きたい。