2009年10月28日水曜日

幸福な老後

歳のせいか最近自分の事を考える事が多くなった。メディアの報道ではこのところ世の中不景気で一般的には日本は暗いと言ったトーンだが、正直なところ自分の周辺を見渡すと結構ハッピーな人が多い。これは年代のせいだろうか?

中には僅かながら今尚すごく同情すべき人生を戦い歩んでいる人もいるし、不幸に打ちのめされていると思う人もいる。しかし同年代の友人の多くは幸せな老後を楽しんでいるように見受けられる。要は健康な老人が多いと言う事である。

幸い家族や近い親戚の若い人たちもそれなりに皆ハッピーだ。若い人の場合、これから給料が減ったりする可能性もありそうなので可哀相と言えば可哀相ではある。しかし無責任に言えば会社全体、延いては日本人全体が減給されると思えば余り悲しむには当たらない事だろう。

ここ数年は小泉竹中の改革路線とやらで、「頑張った人にはそれだけのリターンがあるように」政策が取られた結果、そんなに極端な格差社会が出現したとも思わないが少し羊羹型社会が崩れかかったようだ。しかし一億総〇〇が好きな日本人は早速選挙で結果を示し、この政策がやや否定された気配だ。

日本人(だけかどうか分からないが)は「他人の不幸は蜜の味」「隣の芝生は青い」といった言葉があるように、自分の幸福度を知り合いとの比較で割り出す習慣になっている。だから社長も同僚も同時に給料が減るのだったら仕方がないだろうで済むのではと思うのだ。私も平均的な日本人だと思っているので、これはこれでいいだろうと思うのだが・・・・

最近暇にまかせていろいろ考えると不思議に思える事もある。先ず、日本人は結構な階級が好きなのではないだろうか?明治維新で国民が全て苗字を持つようになり民主主義国家になったとされているが、私が小学校に通う頃まで華族、士族、平民、部落民の階級差別は厳然と存在していたし、現在でも一例を挙げれば官僚や国会議員は一種の特権階級の感じもある。

面白いのは階級的には上下関係を付けながら、昔から生活面での実質的な格差を嫌う様に思える事だ。(江戸時代の本陣は武士でも相当以上の階級でないと宿泊できないとかトップ階級の差は当然あった)武士も威張ってはいたろうが衣食住に於ける庶民との差は如何ほどのものだったのだろう。余り差がなかったようにも思える。

現代においても隠れた階級意識がにあるにせよ、総理大臣が毎晩ホテルのバー通いをしたくらいで非難されるのだから大変だ。欧米の社会学者から見たら研究に値するのではないだろうか。私も既に小学校時代(それも未だ4年生ぐらいの頃と記憶するが)、担任の先生が「人間の一生にとって平凡という事が最も大事な事だよ。」と諭され、妙な事にそれを未だに刷り込まれたままになっている。

こちとらは別に先生に諭されなくてもハナから非凡な才能は何も無いし、人並み以上の努力や勉強が嫌いなので心配はないのだが、どんな脈絡でこの話を聞かされたかは全く覚えていない。普通先生方は生徒に向かって、「ボーイズ ビイ アンビシャス」「刻苦勉励して<夢>を実現しろ」と言うのが一般的ではなかろうか。アメリカなんぞは良い大人になってもアメリカンドリームなんて言っている。

お陰さまで70歳になろうとする現在まで大それた夢を抱いた事もなく、だからと言って凄く損をしたと思う事もなく平々凡々と過ごしてきた。体もあちこち故障が出始めている。昔、錆びた自転車に油を差し、ぼろきれで磨いたように、これからは自分を慎重に管理して、出来るだけ長く自宅で毎日の食事を自分で摂れるようにしたいものだ。



実際にどこまでこの状態続くかは神のみぞ知るだが、極楽トンボの幸福の実感である。

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