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国語力

ここ数年の国会審議を通して、その審議内容に何とも言えぬ違和感を感じていた人は多いのではなかろうか。言葉の応酬がかみ合わない、主に政府側答弁であるが、言っている意味が理解できない。似たような現象は記者会見等にも表れることがある。ひょっとすると、こちらの国語力に問題がある可能性も大いにあろう。言語は、発する人や受け止める側の知識や知性によって、だいぶ変わるものらしい。

人間はその齟齬を避けるために、幼少時代から教育を受けるわけだ。家族の中では意味が通じ合っても社会では通用しなければ困るので、学校教育や社会教育の必要性が生じること理解できる。そこで冒頭の本論に戻るが、広く社会一般に公開される日本語の応酬が理解できぬのは困る。我一人ならともかく、国会議員、官僚、ジャーナリスト諸氏に至るまで、似たような状態がしばしば起こっているとすれば問題だ。

自分のことを棚に上げて彼らのことを馬鹿にしくさってきたことを少し反省せねばならない。問題は言葉がかみ合わないことにあるのだから、今さら彼等の国語力と我が国語力の優劣を論じても始まらない。実は近くに読後感を書こうと思っている本を読んで分かったことがある。我が国では明治の初めまで、中国の言語をもって「国語」(少し意味が違うが、取り敢えずは「漢文」と理解してもらう)としていたらしい。

従って、社会に出て活躍するためには、家庭内なり何処かで一般社会教養としての国語(漢文)教育を受けざるを得なかった。これも初めて知ったが、四角い字ばかり並び句読点も無い中国語なる代物、これが文章化されると意外に安定していて、数百年の単位を超えて、歴史の記述もされ、法令や判決文も書け、政治や軍事を論じ、学問もでき、書簡や紀行文も書かれ標準化されてきた。従って我が国もこれに倣い、19世紀末までの「国語」は今風に言えば中国語で、現代風日本語は公式には使用しなかった。国粋主義者は気に入らぬだろうが、現実はそうなっている。

これはつい150年か140年前までのことだから「らしい」話ではなくて確定的な事実だ。以下は勝手な想像。現在はそこから英語(昔は蟹文と言ったらしい)への移行時期に当たっているので、間もなく小生の頭を悩ませている曖昧な日本語は無くなるのかもしれない。

春なのに

お天気が回復して大分春めいてきた。浪人していた孫も筑波大学に入学が決まり、目出度し目出度しと言いたいが、下の孫は残念ながら千葉大の文学部に挑戦して落ちてしまったのは少し残念。でも二人とも明るく向学心に燃えているので安心している。誰に似たのかと問われれば「俺にだろう。」と答えたいが、誰の同意も得られないことだけは間違いない。

それよりなにより日本を覆う空気の重苦しさが耐えがたい。自民党の「敵基地攻撃能力」保有の検討報道を受けて、昨日まで書いていた戦争の危機について今日も又書こうかと思ったが止めた。政治を考えると、政府のすることにインチキ臭い(言っていることと実際が違う)ことが余りにも多すぎるが、それでも内閣支持率はさほど下がらない。不思議と言うより虚しさがつのるばかりだ。

こんなとき音楽でも芝居でも映画でもいいが、趣味が少ない人間はつらい。ハイキングは良いが、そう頻繁に行けるものでもないし。書くべきことが見つからないので今日はこれでやめて読書でもしよう。

安倍総理とトランプ新大統領

昨日に引き続き、北朝鮮問題をも少し考えてみたい。素人の発想だから専門家からすれば殆どお笑い種かもしれぬが、読者の多くは成程ねと思って下さることを期待している。

自他共に政権に深く食い込んでいることを売りにしているジャーナリスト山口敬之氏は、先月の安倍・トランプ会談の際ゴルフ場往復の車中会談は一切公表されていないが、核心は北朝鮮問題にあったと語っているそうだ。どこまで信用していいか分からないが、アメリカ大統領が北朝鮮問題を深刻に受け止めることがあっても不思議はない。大統領が深刻に受け止めるほどの問題となれば、専門家によって数多くの選択肢が検討されているるだろう。

当然ながらその中には軍事作戦が含まれることは、米韓軍事演習が「斬首作戦」なんて物騒な冠が付くのを見ても明らかだ。イラクのサダム・フセインやリビアのカダフィーを排除したように圧倒的な軍事力を行使して金正恩の排除を企てることはいの一番に思いつくだろう。だがしかし、このことはそんなに簡単なことではないらしい。戦争覚悟の話だから、当然味方の損害などもできるだけ正確に見積もる必要もあろう。

常に地下数十メートルの住居を転々とする金正恩の所在や、数百ヵ所に設置されているとされるミサイルの所在と潜水艦の動向は衛星で逐一把握されているとされているが、これも本当かね、である。従って「この選択肢だけは無い」が普通で、もう少し穏便な選択肢を様々考えることになる。最も穏便なのが話し合い解決だろうが、これには第3国の仲介が不可欠で、手間もかかるし、何より外交的に柔軟な発想が必要だ。結果的にアメリカがどんな選択肢を順番に選ぶか分からない。トランプ氏のことだ、最悪の選択肢も絶対ないとは断定できないのが怖い。

トランプ氏と2日間の首脳会談を通して肝胆相照らす仲になった安倍総理には「残念ながら日本は、直接的にも間接的にも間に立っての調停はかないません。また、貴国の武力行使だけは反対せざるを得ず、お付き合い出来かねます。」とでも言ってくれたと祈りたいが、首脳会談の中身はとんと伝わってこない。

日頃の備え

昨日国会で来年度の国家予算が正式に承認されたとのこと。この先暮らし向きがどう変わるか、中身については全く判断できないが、一先ず目出度いことなんだろう。分からない序に海外事情と外交問題についても少し触れたい。アメリカのトランプ新政権政策の方向性なんてものも皆目分からないが、何やら不安定だと聞き及ぶところだ。このことが我が日本は勿論、世界各国に不安定な状況をもたらしているとのこと。

しかし大国の中国やロシアは、トランプ政権出現を余り悲観的に見てはいないようにも窺える。世界を覆っている空気の流れがおかしいのだから、小国日本とすれば出来るだけ大人しくしているにしくはない、と思えばよさそうだが、日本政府は日本を大国と勘違いしている。そこで空気を読み違えると栃木県体協の高校生雪山訓練のような悲劇にも繋がりかねない。県内山岳のベテランが嘗てこの場所で雪崩が発生なんかしたことがない、と記憶していたとしても、自然現象では何が起きるか分からない。6年前の津波でも同じことだ。

雪山訓練には縁がないので知らぬが、かすかな記憶に基づく浅知恵で言えば、雪崩対策(掘り起こしとか、ビーコン探査とか)が最重要課題だろう。更に訓練自体はシーズン初めに行うのが相場ではないか。参考に以下のページをゆっくり参照願いたい。
http://blog.goo.ne.jp/miyaburg/e/3a185cbd21a12af2e81026ea0aa69001

話があらぬ方向に行ってしまったので戻す。

トランプ氏については安倍総理は深く理解したようだが、凡人には何をしでかすか分からない人物に見える。金正恩氏も同じようなものだ。間に立つ中国やロシアは勿論双方に自制を求めているだろうが、キレやすい人間は何をしでかすか分かったものではない。兎に角隣国にこれだけの火種を抱えいている我が国で、口先の危機感はよく聞くが、実際に緊張感をもっている組織や政治家はどこにいるのだろうか?幸い総理は常に冷静沈着、キレない性格なので国民は安心しているのだろう。

老い耄れは一人で思う。「予算が上がったと喜んでいる場合か?」

読後感「吉本隆明・江藤淳前対話集」

アマゾンの内容紹介は「戦後日本を代表する二大批評家が、一九六〇年代半ばから八〇年代後半にかけて行った全対話を年代順に収める。文学から思想、政治から時代状況まで論じる、戦後批評の到達点。」とある

作家の江藤淳氏については「海は甦る」を読んだ記憶があるので知っていた。吉本隆明氏については全く知らなかった。両氏とも作家や詩人と言うより、自分自身が文学者であることを強く意識されていたように思う。故に評論家としても高い評価を受けていたのだろう。

両氏は文学についてはかなり共感するところはあったようだが、社会に対する見方ではだいぶ異なっていたみたいで、そこがこの対談集の面白いところであった。吉本氏は1924年(大正13年)生まれで東工大電気化学科の出身にも拘らず若い頃から詩作の才能を発揮されていたようだ。戦後は労働組合運動のも関わった経験もある。一時は自ら左翼系の評論家と称したほどだが、著作業で生きていく決心して多くの文芸評論を手掛けるが、1980年代半ばチェルノブイリ原発事故後におきた、文壇の反原発運動に反旗を翻したりしている。反原発運動がいきなりエコな生き方と言うことに反発したようだが、この辺が如何にも東工大出身らしい。社会思想的には凡人には少しわかりにくいように思えた。

江藤氏は1932年(昭和7年)生まれで慶応義塾大学英文科出身、学生時代から文芸評論を活発に行っている。若くして米国に留学。終戦を境とした日本における価値観の変化や、外国人の目で見た日本及び日本人についても肌身で感じるところがあったのだろう。「日本人とは」を文学を通して追及した人生であり、どちらかと言えば保守的な論客としての評価が定着していたようだ。両氏がともに認めておられるが、お二人の社会的立場が世間的には保守と革新と正反対とみられる傾向にあったようだが、対談では屡々意見が一致する。

哲学的な問答なので少しわかりにくい意味もあるが、文学部の出身でありながらまともな本も読まず、当然のこととして文学や言葉の持つ意味を真剣に考えたことが無かった身としては、触発されるところが多分にあったが、中で一つだけ記すなら、お二人の共通認識に「100年後も日本と言う国が存在するかどうか」がある。もし日本国が亡くなっても人種としての日本人は残るわけだが、その彼らはどのように生きるのだろうか?」何故にこの発想が生まれたか忘れた…

籠池劇場

森友学園の籠池理事長の国会証人喚問についての感じ方はいろいろあろう。ブログを書いて特段意見を述べるまでもない。

不思議に思うのはただ一つ、政府自民党としての狙いは籠池氏を偽証罪で告発して犯罪人に仕立てることにあったと思っていた。安倍総理の「悪意に満ちた証言であった」との発言はあったようだが、告発したとの報道が出てこない。なんでそんなに手間取るのか、まさか国対委員長が思い付きで証人喚問を口走った筈もなかろう。司法関係と十分な打ち合わせをしての段取りではないのか?疑問が募るばかりだ。

土曜日なので休もうと思ったが、余りにも面白いブログを読んだので、プリントして婆さんにも読ませてあげた。我が夫婦普段からテレビドラマは見ないが、籠池劇場ほど面白いドラマは他にあるまいとのこと。

読者諸氏も是非下記ページをご参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=8320

異次元の空間

1997年に亡くなられてから大分になるので、嘗てかなり流行った作家の山本七平氏の名前を耳にする機会は殆ど無くなった。氏の代表作に『「空気」の研究』(1977年)がある。先の大戦の敗戦責任を問う際に、特定の個人より当時日本を覆っていた空気の存在を考えるべきとした内容で、「へ~、そんなものかね」と読み過ごしていたものだ。ところが今週になって読んだ本や接している報道を併せ考えた時、改めて『「空気」の研究』を思い出さざるを得ない。

唐突ではあるが、1940年4月4日の生まれなので77歳の誕生日が目前に迫ってきた。今ではこのように書いても何の違和感も感じなくなった。しかし昭和天皇が亡くなられた頃までは、 どうしても昭和15年と書かないとしっくりこない感じがあった。このブログでは未だに西暦と年号を併記することが多いが、西暦だけで表記する時代が来ているように感じる。

1940年は1868年の明治元年から数えると72年目、誕生した時から現在までの77年を誕生前に当てはめると、明治を通り越して完全に江戸時代になってしまう。勿論ちょんまげ時代の日本の空気を肌身で感じることは出来ないし、誕生当時のことも同様だが、それから5年後の敗戦を挟んでの空気の違いも当時は感じていなかったと思う。しかし現在に至れば、当時どこかで身を包む空気が著しく変わったのは事実で、この違いは当時感じようと感じまいと肌身が記憶しているようだ。

1940年代の空気感と現代のそれとの違いは、年代表記を持ち出すまでもなく、あらゆる局面で明らかだろう。国会図書館で持て余した時間に何気なく目を通す1940年代の雑誌を見れば一目瞭然、少年少女から学生・教師・婦人に至るまで「愛国」二文字が冠せられないものを探すのが困難と言っても過言ではない。日本のファシズム(全体主義かな)が如何に凄まじかったかよく分かる。

その空気が一変して、今肌身にまとわりつく空気は「民主」一辺倒、そのことについて今日は触れない。そんなこと以上に、空気の変わり目についてある種の凄さを教えてくれたのが麻生財務相である。22日水曜日の参議院「財務金融委員会」でのことだ。民進党大塚耕平氏が、昨今政権に湧き出るスキャンダルについての感想を大臣に求めた。その時の答弁に麻生氏は「インターネットのお陰で、根拠の薄い変な話が拡散するので大変な時代になったものだ。」と答えた。

価値観の相違

昨夜安倍総理が訪欧から帰国したが、籠池劇場本番前夜のせいかどうかマスコミは相手にしていない感じで、一寸可哀そうなくらいだ。今朝の新聞でも訪欧の成果らしきものは殆ど報じられないに等しい。世界の中心で輝きたい総理としては極めて不本意だろう。しかし総理自身、本気で欧州の首脳、と言ってもメインはドイツのメルケル首相と次期サミット開催国イタリアのパオロ首相だろうが、とアメリカのトランプ大統領の間を取り持てると思って出かけたのだろうか。

昨日ちらりと見たネット情報によれば、アメリカのある精神科医師が「トランプ氏は精神分裂症の可能性がある」と言ったそうだ。その真偽は措くにしても、安倍総理は先月長時間にわたる2度目の会談で、トランプ大統領の基本政策については考えに大いに共感したことになっている。具体的に言えばTPP即時撤退にも何ら異を唱えず、国外ばかりか国内ですら批判の多い移民政策も国内問題を理由に一言も言及していない。

一方欧州の首脳陣は例外なく(あの英国のメイ首相でさえ)トランプ氏の貿易面での保護主義政策と移民政策には真っ向から反対を表明している。訪問先で取ってつけたように「自由貿易の旗を高く掲げ」なんて言ってみても、相手は子供じゃあるまいし安倍さんのお考えに敬意を表します、なんてことになる筈はない。ましてや同じドイツの バーデン=バーデンで同時期に開催された20か国財務相・中央銀行総裁会議はアメリカ代表に引っかき回されて、欧州勢は相当に不満だった筈だ。

その会議には副総理の麻生氏が出席しているのも自明のことで、ここで麻生氏や黒田日銀総裁がアメリカにかみついたとでも報道されればまだ話の辻褄は合うかもしれぬ。二人が逆立ちしてもそんな芸当できるはずもない。己の定見なくして他人価値観を受け止めることはできない話である。仕方がないので、その場その場で相手に合わせたつもりの出まかせばかり言う人間は、結局誰からもリスペクトされないのは明らかだ。

ましてや価値観の違う人間の仲立ちなんぞ出来る筈もない。ましてや現在は価値観多様化の時代、かつて倫理学の時間に学んだ真善美ですら普遍的価値観として通用するかどうか危ないくらいだ。こんな時代に己の力で価値観の相違を埋められると考えたとすれば、政治的センスもさることながら常識を疑わざるを得ない。

判断に迷うことばかり

世の中に秘め事は数え切れぬほど存在するだろうが、これをいちいち知ろうと思っても詮無いことだろう。しかし秘め事とも言えぬ事実を隠し立てする輩もいるが、これ程馬鹿馬鹿しいことは無い。天網恢恢の譬え通り、いずれバレるに決まっている。朴槿恵前韓国大統領の悪口を書くつもりではない。それにしても韓国の大統領職は退職後碌な結果にならないと決まっているように見える大変な職位だ。それでもなりたい人間が後を絶たないのが不思議で仕方ない。

隠されているわけでもないし、万人の眼前で展開されていても普通の人には理解しかねることが多いので困ってしまう。例えば囲碁の途中局面などがまさにそうであるように、ある人は白が有利と言い、また別の人は黒持ちだと解説する。経済問題も似たようなことではないだろうか。恣意的に言ってるのかどうか分からないが、政府や日銀は、緩やかな経済の回復基調にあって、デフレから脱却しつつあるとしている。一方外野には様々な意見があり、デフレが継続中だことの、いやミニバブルが発生中なんてことまで言われる。

凡俗としては「だからどうした。」と全く聞く耳を持たずにいればいいが、地価公示価格の発表なんて聞くと、我が住まいは?なんて馬鹿なことに関心が行って新聞を見てしまう。己が寝起きしている猫の額に等しい土地が、他人の評価で仮に億万円になろうと、只になろうと関係ないと思うが、凡人とは情けないものだ。

今朝感心したのが凡人ではない人たちのこと、目下世界を騒がせているアメリカ政府内部の話である。アメリカもご多分に漏れず経済問題が大切なようで、これ次第でとんでもない軍事政策やら移民政策に繋がることに相成るらしい。先に述べたように、そもそも経済なんて代物は、誰が正しい見通しに立っているかなんて解らないことでは洋の東西を問わないらしい。日本の場合は政府見解と外野の違いと述べたが、アメリカでは政府内部でさえ相当な意見の相違があるとのこと。

我が国では閣内の意見が不統一であれば内閣総辞職につながるとのことである。どこの国であれ、閣内に異論があることは不思議ではない。それを表に出すことを国民がどう思うかであるが、昨今の内閣のように見事に統制がとられるより多少外部に漏れ出る方が健全ではないだろうか。

ことの良し悪しは別にして今朝読んだネット記事によると、トランプ氏が強引に進めつつある税制改革にせよ、貿易政策…

焼津の里山ハイキング

今日は朝から雨模様で少し冬に戻ったような天気になってしまったが、昨日までの3連休は実に春らしい行楽日和であった。春風に誘われてハイキングでもと思いついたものの、いつもの悪い癖だ。行楽には交通、宿泊等それなりの条件が必要、当日になって思いついても、そう都合よく行きたい場所に行けるものではない。当初は西秩父の両神山と思っていたが、変更して、今月初め歯医者の待合室で読んだ読売新聞記事にあった焼津の里山コースに目標を変更した。

日曜日にいつも通りに朝食を済ませ、昼過ぎに焼津港に着いて市の観光案内所で今日と明日の予定を相談。客が少ないせいか非常に丁寧な対応をしてもらえた。町全体はかなり寂れてシャッター商店が軒を連ねた感じ。見るべき観光スポットは無いが、新鮮な海鮮丼を食することができた。港には天気が良ければ富士山の素晴らしいビュウポイントがあるようだが、行ってみても春霞で富士山は殆ど見えない。ただ何となく潮風を感じながらお散歩に徹し、3時過ぎにはホテルに連絡して迎えに来てもらい早々チェックイン。

翌朝はホテルの無料朝食が美味かった。何でも水産卸に販売をしている会社が経営しているとのことで、マグロの漬けがふんだんに用意されていた。8時過ぎにホテルの車でハイキングコースの入り口(花沢公園)まで送ってもらう。この一帯を花沢の里と言うらしいが、未だ菜の花とコブシくらいしか見るべき花も無い。歩き始めて暫く行くとコースの起点とも言うべきお寺(法華寺)がある。線香の香りが漂ってくるのはお彼岸の中日のせいだろう。ハイカーらしき人と早朝から墓参りの人が同数くらいの感じだったかな。

ハイキングのコースは先ず高草山(501m)に登り、少し戻って満観峰(470m)に登り返し、法華寺に戻るコース。新聞記事には満観峰から望む富士山が秀逸と書かれていたが、これも全く見えず仕舞い。しかし天気は快晴で春風は何とも言えず心地好いし、途中随所で聞こえた鶯の鳴き声も心和むものであった。満観峰山頂で早めの昼飯を食べて下山。お寺の下の農家が庭先でコーヒーを売っていてタクシーを呼んでくれる。恐らく自宅までの全行程を含めても10㎞も無かったろうと思うが、久しぶりのハイキングで今朝若干の筋肉痛が出ていたし、何といっても昨夜は5時間半一度も起きずに熟睡できた。

やはり適度な里山歩きは心身ともに健康促進剤である。
ヤマレコは下記…

季節の変わり目

昨日は、これまで政府の悪口ばかり言い募ってことに少し嫌気がさした。たまには自分を見つめなおして別のことを書きたいと思ったが、結局できなかった。この歳になって己を見つめなおしたところでどうにもなるものではないか。ブログとは果たしてなんだろうか?日記でもないし、随筆と言った文学的なものでもない。最近では毎日100人を超える方に読んで頂けていると承知しているので、自分の信ずるところに従って、多少は世のためなることを願って知ったかぶりを書き連ねている。

従って読まれた方のお役に立つことがあれば、それが一番うれしいことである。
先月の17日「政府の強弁とマスコミの対応」と題して「今回の森友学園問題も事件にはならずに終わる可能性無きにしもだ。」と書いた。あれから丁度1か月、森友学園問題は予想外の展開になり、結構な政治問題化して事件らしくなってきた。このブログも些かこの展開に貢献していると思いたい。問題がどう着地するか分からないが、現政権の驕慢さと官僚の無責任さに一石を投ずることにはなるだろう。

しかしこれからの日本を考えると、もっと大きな問題が残る。政治家・官僚・ジャーナリストだけの問題ではない。日本人全員の知的水準、適切な言葉が見つからないが教養とか知性とでも言うべきものの劣化だ。外国事情に疎いので比較できないのが辛いところだが、20年前くらいまでだったろうか、いい大人が通勤電車でマンガ本を広げているのが話題になった時期がある。今時は少なくなった代わりに、子供から相当な爺婆までがスマホに熱中している。世界中どこに行っても同じだとすれば、我が国の事情だけを嘆いてはいけないかもしれぬ。

どこに原因を求め、何を矯正すれば、他国から見直されるような国になるのだろうか?森友学園ではないが、問題の一端が教育にもあるのは間違いないだろう。でもどこをどうすりゃいいのか全く分からない。教育は大人の問題であることは確かだ。どの大人から着手すべきか?漢字を読めない大臣を辞めさせれば済む問題でもなさそうだ。パソコンとインターネットの普及にも大分問題はあるだろう。でもこういった技術の進歩を逆行させることは出来ない。

悩ましい問題と考えていたら、たまたまこれから図書館に返却しに行こうと思った本(講談社文芸文庫 三木清教養論集 大澤聡・編)の<あとがき>に大きなヒントが書いてあった。「政治的教養があらゆ…

管理責任

防衛大臣の口から発せられた台詞に違和感を覚えない人はどれほどいるだろうか。明らかに組織的な隠ぺいと思われる不祥事を受けて、『防衛監察本部に特別監察命令を発し<私の責任において>体質に問題あれば・・・体質の改善を図りたい。』との発言である。何でも陸上自衛隊最高幹部の幕僚長まで調査対象になっているのだから、大臣も組織ぐるみの可能性は十分あるとの認識の筈。監察本部なる機構が陸自とは別のものかもしれぬが、自衛隊内部の組織には少し荷が重いような気がする。

組織ぐるみと認識したら先ず己の責任を明確にして、辞職をしたうえで後任に問題点の洗い出しを委ねるのが普通だと思うが、最高責任者の意味が分かっていないようだ。文科省も同様で、事務次官が天下り問題の責任を取って辞職したが、大臣は平気な顔をしている。と思ったら杜撰な学校認可問題に火が付いた。しかしこれは大阪府や愛媛県の問題だから、大臣は余裕を見せているのだろう。では大阪府や愛媛県はどうなるのだろう?大阪府知事に言わせると「森友学園問題は財務省、国土交通省、文科省、大阪府などの各役所がそれぞれに、総理夫人に恥をかかすわけにいかぬだろう、慮った結果だと思う。」

管理責任を問われるポジションから外れて久しいので難しいテーマになってしまった。こんな夜になって考えることでもなさそうなので、今日はもう辞める。我が国で責任を取り方を常に念頭に置いている人はただ一人、天皇陛下だけだなんてことにならないことを祈ろう。

思わぬ展開

昨日6時チョイ過ぎに帰宅してすぐ婆さんに「今日の相撲の結果」を聞いた。普段それ程でもないが今場所は4横綱になったこともあるのだろう、上位陣の取り組みに何となく興味がある。ところが「知らない、見る暇がなかった。」結構昔から相撲ファンを公言していたようだが、面妖である。訳を聞くと「森友学園事件が面白くて、そっちに集中して相撲どころでなかった。」とのこと。

それでは夜10時頃からのニュースでも見てから就寝しようと思ったら、WBCの日本VSイスラエル戦の影響でニュースがなかなか始まらず、野球を40分近く観てしまい、結局寝たのは11時を回ってしまったようだ。そんなことはどうでもいいが、確かに森友学園事件は、フリージャーナリスト菅野完氏の出現で思わぬ展開になったとは言える。それにしても「お金の流れが皆さんの考えとは逆」には驚いた。まさに「事実は小説より奇なり」とはよく言ったものだ。

受託収賄を疑われた代議士の方からすれば、「冗談じゃない」と腹の中でせせら笑っていたとしても不思議はない。稲田防衛相への寄付金でさえ、記録が発見されたのは籠池氏夫妻から僅か1万2千円、いくら10年以上前のことであっても籠池氏から大金をせしめるのは難しかったことが窺われる。菅野完氏は、お金は無いだろうが、愛国教育に熱心な籠池氏を愛国者である保守系の政治家が応援してあげた。と言う図式を示唆したようだ。

この示唆が的を射てるかどうかは未だ不明だが、言われてみるとあっても不思議はない。瑞穂の国小学院だったか、正式名称は忘れたが、この学院建設のため籠池氏は寄付金を集める努力をしていたようだ。これに応じた人の名簿は未だ公開されていないが、この中に総理夫人がいるのは間違いないように思うし、日本会議所属の自民党議員が沢山出てくれば確かに面白いことになるだろう。日本会議内部も政権内部も大分慌てていることが窺える。

現在国会の質疑で矢面に立たされている理財局長が、問題が表面化した時、直接籠池氏の弁護士に電話をして「当分身を隠してくれ」と依頼したとの件、これが発表されるや間髪入れず、弁護士がこれを否定する声明を発表して、顧問弁護士を辞任したそうだ。これはどう考えても、弁護士事務所に相当な圧力が掛かっていると思わざるを得ない。籠池氏側が昨日の段階で、そのような依頼があったことを、嘘をついてまで言う必要は全くないだろう。

何…

李下の冠、瓜田の履

何を言いたいか、タイトルからは分かりにくいと思うが、知性教養が不足している人間ほど、小難しい言葉を使いたがる、と笑ってお見過ごし願いたい。ひょんなことから始まった政界の混乱が増々混迷の度を増している。政権の混乱ぶりを取り上げてみたいが、素人の悲しさで、騒ぎの真っ最中に展開や着地点の予想が全くできないので何も書けない。関連して思ったのが、先月末、ドタバタしだした森友学園事件報道のさ中に差し込まれるように報道された総理と内閣記者クラブのキャップとのオフレコ懇談会の件である。

身に覚えのことだからマスコミでは大きく報道されず、サラッと流れてしまったが、そのことを思い出して今日のタイトルに使わせてもらった。「瓜田に履を納れず李下に冠を正さず」はマスコミが好んで使う台詞だと思う。当日は赤坂の中華料理店で総理、官房長官は上機嫌だったそうだが、そりゃそうだろう。政権側からすればボヤのうちにと、懐柔か恫喝を兼ねているのだから。接待を受ける側のマスコミは、断れば日常の取材活動に円滑を欠くとか何とか、弁解はいくらあるにしても、それに応じてどうするのか。

1社では怖くてできないのなら、全社で談合してでも断るべきだろう。こんなことをしているから、政権側になめられきって、結局まともな報道ができなくなるのだ。しかし皮肉なことにその翌日から新しい事実が噴き出すように出始めて、今日に至っている。ここまで来ると、もうボヤではとても収まりそうにない。ひょっとすると防衛相一人の辞任で済まなくなるかもしれない。

それにしても安倍晋三氏、長期政権になったと言っても、これほど人を見る目が無い総理も珍しい。現在の内閣は第3次再改造内閣と訳の分からない冠で呼ばれるが、これは再三に亘る閣僚のスキャンダルでの辞任や選挙での落選を受けてのことである。任命責任が如何に軽いかよりも、一国の命運を担う内閣に集められた人材のご粗末には本当にがっかりする。改めて現在の20人の閣僚を確認すると、きっと見たことも聞いたこともない人が多いのに驚かれることだろう。

マスコミへの露出で総理大臣だけが突出しているからだろうが、芸能人じゃないのだからマスコミの側でもいい加減に考え直す必要がある。

脳の稼働領域

誰かが言ったそうだが「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とは全くよく言ったものだ。毎日は単調に流れ過ぎてゆくが、後期高齢者ともなれば、世の中が相当変わっているのは当たり前なんだろう。この期に及んで尚、流れに掉さすようなことばかり書き散らすのは顰蹙ものだが、高齢者の手慰みと大目に見てもらいたい。

昔で言えば隠居の身分で、終日ボーとして過ごしているのが相場だろう。そうして段々にボケて、幸せな年寄りらしくなっていくとしたものだ。ところが気が付かないうちに大変化を遂げた情報機器の変化で、年寄りの生活はが大きく変わってしまった。順番に挙げれば、先ずはテレビの発達が何といっても大きいだろう。視覚聴覚同時に刺激することによるインパクトはラジオとはかなりの違いだ。今は言われなくなったが「茶の間が映画館になった」実感はある。

子供の頃に映画館に行く楽しみは大きかったが、その中にニュース映画を観る楽しみがあった。その楽しみが現在に至っては、毎日途切れることなく続いているわけである。このことはボケ防止になると、効用を大きく取り上げる向きもあろう。脳に新しい刺激を与え続けることは医学的にも望ましいかもしれない。しかしこんなことも程度問題で、一定の年齢までは有効であっても、ある時点からは無用或いは有害と断定する医者が出てもいいと思ったりもする。

その上にかぶさって出てきたのがコンピュータとインターネットなる代物。どちらが先か分からないが、コンピュータなる言葉には情報処理機能と端末機器と、異なる意味がありそうだが、意味が分からないのでごちゃ混ぜに使っている。兎に角日々耄碌した頭に注ぎ込まれる情報量の凄さは、子供の頃見たお年寄りが今生きていらしたら、拷問に等しいのではなかろうか。今更ながら人間の脳みそが、キャパシティーの1割も使われていないとの説が分かる気がする。

可動域が仮に1割だから2倍にしてもまだ余裕はたっぷり、だからと言って開発をどこまで推し進めれば満足するのだろう?端末機器の主流はパソコンをさらに小型化したスマホなるものに移り変わりつつある。幸か不幸か、この流れに完全に乗り遅れたので、やっと歴史の流れの一つに区切りがついた。目まぐるしく変わる世界の情勢に関心を抱き続ける己の姿を不思議に感じざるを得ない。

保守主義者

政府は来年の秋11月3日を中心に明治150年行事を大々的に行い、あわよくば文化の日を昔の明治節のようなものに戻したいと考えているようだ。このことに象徴されているのが政府の復古主義であることは間違いない。個人の趣味においての復古主義を頭から非難するつもりはないが、趣味の延長で国を挙げて復古調を強調することになると、些か話が異なる。断固反対をしたい。

歴史は現在から過去を見るものであって、過去から現在を見てはいけないらしい。政府の態度はこの理念からすると、明らかに間違っている。「古き良き時代」と唱えることは気分的な或いは雰囲気的なもので、生産的意味がほとんどない。人に譬えて言うならば、都会における戦いの生活に敗れ、傷つき、疲れて絶望したような人間が自分の故郷に還っていくのと同じこと。歴史を学ぶことは大切だろうが、そこに逃げ込んでも現実から逃避することが出来ないばかりか、現在直面している問題の打破には全く繋がらない。

前段に記したことは、数日前にも紹介した三木清氏の著作からの受け売りだが、成程ねと思った次第である。我が父も「私は超保守主義者だ」と常々と言っていたし、自由と民主を掲げる保守主義政党があるので、保守主義に対しては敢えて異を唱えるつもりはない。己自身も子や孫から見れば相当保守的かもしれぬ。しかし保守主義を少し右に振ると右翼と言い換えられる。すると急に<やくざ>みたいイメージとなって普通でない人に思えてしまう。政治家には右翼はいないと信じたいが、好んで右翼を標榜したがる政治家もいる。

典型が日本会議所属議員だ。日本会議がどうして大きな政治団体になったか理由も道理も分からないが、自民党議員の半数以上がここに所属しているとは驚くべきことだ。現在騒ぎになっている森友学園の籠池氏も大阪での幹部だったらしい。彼の言動を見れば、復古主義が如何に下らぬものかは一目瞭然だ。どうしても古いものを有り難がり、現状を少しでも良くするために新しい発想をもって当たることが不得手に見えてくる。

与党には宗教団体を背景にした公明党もいるが、公明党が異を唱えないところを見ると日本会議は宗教団体ではないのだろう。維新なんて古めかしい言葉を冠した政党もあるが、我が国の保守政党が何れもが、胡散臭い復古調を有り難がるのは考え直した方がいいだろう。


「喉元過ぎれば」で許されるか

今月は10日の東京大空襲、11日は東北大震災と日本人全員にとって忌まわしい思い出がよみがえる。亡くなられた方々の冥福を祈るのは当然だろうが、この不幸な出来事思うとき、今生かされている我々が真剣に考えるべきことがあると思う。一つは言うまでもないが、戦争をしてはいけないこと。古来軍隊は敵をせん滅(即ち殺す)するのが仕事で、誰かを警護したり、土建会社のまねごとをするのは本来の任務ではありえない。

また戦争に巻き込まれて命を落とす市民は昔からいたかもしれぬが、その傾向は日を追って多くなるばかりだ。勿論これは国際的に決められているルール違反の筈だが、我が国では満洲事変以降の軍国主義国策で、国際法を全く無視して15年戦争に突入したことはよく知られている。また1945年以降、幸い日本は戦争に巻き込まれずに来たが、外国の戦争を見る限り、どこの国も非戦闘員を殺戮することが当たり前になり、国際法も随分頼りなくなっているのが実情だろう。せめて我が国は今後も戦争から遠くに位置することを望みたいが、昨今の状況は自ら好んで戦争に近づきたい風情であるのは残念なことだ。

二つ目はこれまた言うまでもないと思うが、原発の怖さだ。戦争の殺し合いの怖さとは少し異質かもしれない。原発は原子爆弾と違い、夢のようとも言われた平和利用の手段であった。我が国では長年にわたり総電力需要の3割強の供給を果たしてきた実績がある。その結果2011年3月までには、この狭い日本に50基もの原発が作られてしまった。その夢が311の事故で、一夜にして180度引っくり返ってしまった訳である。土地や人生を奪われた被災者は勿論であるが、事故の恐ろしさは日本人に限らず地球上の多くの国で共有されている。

しかし、我が認識が甘かったと言うべきか、少なくと我が国では原発の怖さが共有されているとは言い難いようだ。一時は原発が次々と運転停止となり、ドイツなんかに比べると随分対応が遅いが、日本もそう遠くない時期に脱原発になる筈と勝手に思い込んでいたものだ。しかし日本の指導者連中が考えていたことは全く違う道筋だったらしい。何年前からそんなことになったのか調べていないので分からないが、国内の既存原発をどんどん再稼働させていくと同時に、半世紀以上に亘って蓄積した原発技術を海外に輸出して経済活性化に資することを目論み、着々と実行に移していたようだ。

原子力…

森友学園、これ以上の問題はない

森友学園問題もここまで来ると、いくら安倍応援団のマスコミでもだんまりを決め込むわけに行かないようだ。昨夜はフジテレビでさえBSではあったが2時間近い番組で取り上げた。完全に視聴してはいないが、与党からは自民党馳浩氏、野党側から民進党福山哲郎氏と評論家岩井奉信氏(政府寄り)、伊藤惇夫氏(野党寄り)の4名。内容に関しては推して知るべしなので詳しく書かないが、テレビ局の狙いはこれかと承知していたが、少し気になった発言があった。

放送局としては不本意かもしれぬが、数ある疑惑について触れないわけにはいかない。従って放送中に馳氏の発言は殆ど無かったが、再三にわたり唯一強調したのは「会計検査院の調査を待つべきだ」である。ここがフジテレビとしては期待した発言だろうが、最後に口が滑って「予算委員会では他に審議すべき問題が山積している。なのに、安い推理小説まがいの問題に拘るのはいい加減にすべきだ。」としたり顔で言ってしまった。

野党福山氏もその意見に反対はできない。同意はしながらも「ここで、問題をうやむやのまま妥協すれば、我々が国民に説明がつかなくなる。だから早く参考人招致に同意して頂き、決着をつけましょうよ。」と応じていた。このやり取りをどう聞くかだが、「目下我が国にとってこれほどの大問題は他にない」が正直な気持ちである。ミーハーと思われても断固主張したい。幸い「共同謀議法案」は未だ閣議検定にはなっていないし、外に安全保障環境の変化があるかもしれぬが、外国の問題なんかアメリカ一辺倒の日本ではどうしようもないだろう。

比較して森友学園問題は、現代日本が第2次安倍政権発足以来、ファシズム化しつつあることをものの見事に浮かび上がらせている。この問題を徹底的に追及することが出来れば、日本会議なるものに毒されている政権の実態が自然に明らかになり、その流れに対しいくら鈍感な庶民でも疑問を感じ始める筈だ。何人であれ理性を以て少し冷静に考えれば、我が先祖先輩が踏み込んでしまった過ちに再び足を突っ込もうとは思わぬだろう。

誰かのセリフではないが、ここは野党に踏ん張ってもらい腰砕けに終わらぬように願いたい。どうやらトカゲの尻尾になりそうな籠池氏自身も「ただは死なない」決心をしたかに見える。ことが敗れる時、かつての同志が敵に回るとしたものだ。大いに仲間内で暴露合戦をして、官僚機構に延焼が及ぶようになるこ…

高級官僚不変の生きざま

終戦直後の一時期に、少し高学歴の青年の間で猛烈な勢いで流行ったとされる作家に三木清氏がいる。今で言えば村上春樹氏なようなものかな?この話はサラリーマン時代の先輩で、引退後に手作り同人誌「縦走」を発行されていて昨年亡くなったK氏から教えて頂いた。K氏は暦上一回り上で、終戦直後に豊島師範学校を卒業して教員を勤められたりした後に広告会社のクリエイターになられた。当時のインテリ青年の常で、共産党員であった時期もあったそうだ。

「縦走」を読むと三木清氏のことが度々出てくるので、興味が湧いて図書館で有名な著作「人生論ノート」を借り出して読んだ記憶もある。しかしブログの読後感に挙がっていないので、難しすぎたと言うことだろう。数日前豊島区立図書館に立ち寄った時、また三木清の名前が目について文庫本を1冊借りてきた。「三木清教養論集」である。目次をめくると、1.読書論2.教養論3.知性論となっていたので読み易いだろうと勘違いしてしまった。どうも大正から昭和の初めにかけては、大学生は全てインテリゲンチャ(知識階級)であり、故に言語力にも長け且つ哲学的思考をするのが当然とされていたようだ。

昭和34年に大学生の端くれになった身の実感からは程遠いので、またとても読後感なんぞ書くに至らぬこと必定である。第1章の読書論からして感覚が全くずれている。いろいろある中に「古典を読むべき」とする内容があるが、どうも三木氏が言う古典は本邦江戸時代以前の作品を指すのではなくて、ギリシャ・ローマ時代の作品を言っているらしい。正に「ご冗談でしょう」だ。それでも読み進むと、次章の教養論に興味深いことが書いてあったので、忘れる前にブログネタに貰うことにする。

<知識階級と政治>とサブタイトルが振られているが、我が国の知識階級の教養のうち最も欠けているのが「政治的教養」である。なるほど、と思うことが書き連ねてあるが、面白いのは官僚について言及しているところである。「ところで近来、官僚政治とか政治の官僚化が問題になっている。ところが官僚の大多数は政治的教養が全くなされていない。」

「東大法学部で高等文官試験合格者の大部分が官僚になるわけであるが、試験科目を見れば政治教養が無いまま卒業していくのは一目瞭然。官僚は技術者だから政治教育を施す必要なしでは済まぬだろう。」との趣旨が書いてある。ここで改めて、現代のことではない…

日本がヤバイ

隣国の韓国は大統領不在状態にあるらしいが、トップ不在でも一般市民に何の問題もないなら大統領なんて必要なの?てなことになりかねない。いったい誰が国をマネージしているのか分からないが、アメリカにしても似たようなものだ。閣僚が全員決まったかどうかでさえ分からないし、政府の体が整ったとはとても思えない。その両国が共同して行っている米韓軍事演習は前からスケジュールされていたのか、随分派手にしかも長々とやっている。

北朝鮮の若旦那の肩を持つ気は無いが、幾ら身から出た錆でも斬首作戦を前提にした演習と聞けば、恐怖にかられることは間違いなかろう。若旦那の周辺にまともな外交センスを持ち合わせた人間が存在することを祈りたいが、中国とのパイプを務めていた叔父を殺してしまったことから類推すれば、相当悲観的にならざるを得ない。先ほど中国の王毅外相が記者会見を開き、双方に自重を求めていた。1本のレールの上を双方から列車を走らせていると例えている。「赤信号だから、双方がブレーキを踏むべきだ。」

このメッセージはアメリカにはすぐ伝わるだろうが、問題は北朝鮮だ。中国はクアランプールでの金正男(とされる人物)の殺人事件に関して正式なコメントを出していないと記憶するが、実際のところどのような見解をもって各国と接しているのだろう?中国は平壌に大使館もあるだろうし、北朝鮮にも外務大臣はいるだろう。王毅氏のメッセージはどのような形で伝達されるのだろうか?

マスコミは国連でのやり取りに象徴される表立った動きしか報道しないが、本当の外交事情なんかは取材不可能と言うことだろう。せめて日本の外交筋がも少し気が利いていれば、3国間の際どいやり取りの片りんでも掴んで本省に上げてきていれば救われるところだ。1昨日から昨日にかけて政府の動きを見る限り、残念ながら本当に救いがない。若旦那のミサイル発射を受けて国家安全保障会議がすぐに招集されなかったのは、いつものように政府に緊張感がないから仕方がないとしよう。

問題だと思うのはその後である。昨日になって親友のトランプ君に電話をして「トランプ君が100%日本と共にある(日本を守る)と言ってくれた。」と大威張りで記者発表したことである。北朝鮮の脅威が新しい段階に入った、なんてことは今更言われなくても、北の若旦那が「日本に向けてミサイルをぶち込むテストが成功した。」と大喜びしているの…

「国を」か「国民を」か?

先月21日、満55歳をお迎えになられた皇太子殿下は宮中で記者会見を開かれ、様々な質問に答えられている。当時詳しくは報道されていなかったので、重要なことを知らずにいた。改めて読んでみたので触れておきたい。
参照:http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9 
遅ればせではあるが、教えてくれたのは高野孟氏のメルマガ(高野孟のTHE JOURNAL   Vol.280   2017.3.6)である。

象徴天皇のあり方への考えを問われた皇太子は、まず結論を次のように述べられている。「象徴天皇については陛下が繰り返し述べられていますように、また、私自身もこれまで何度かお話ししたように、過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。」

昨年8月の天皇陛下のお気持ち発言を受けて、政府は「陛下の公務軽減を図る」と尤もらしい言を弄しながら、先に引用した皇太子殿下の発言とは真逆な策を図る動きとなっている。昨今大分明らかになりつつある政府の日本会議的な動きは、戦前大きな過ちを招いた天皇陛下の政治利用である。天皇陛下は勿論その動きを心から心配されていることだろう。皇太子殿下も続いて次のように述べられている。

「国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましいあり方を求め続けるということが大切であると思います。<中略>ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが、そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております。」

普通の人は普段あまり考えないだろうが「国を思う」とはどんなことだろうか?少なくとも日章旗にやたらに頭を下げたり、君が代を斉唱する機会を増やせば良いということではあるまい。要するに庶民にとって考えてみれば、日々の糧を追うのに精一杯だから、国のことなんか思う機会が少ない方がハッピーではなかろうか。しかし国指導的立場にある人々には常に「国のこと」を思ってもらわねばならない。

「国のこと」とは国民のことであり、それも恵まれない立場にある人をできるだけ沢山見出さねばならな…

今更ながらであるが

総理は二言目には雇用が増えていることを自慢するが、アベノミクスは破綻しているとも聞く。どちらを信用すべきかは分からない。総理は兎も角経済運営について相当な自信があるようだ。昨日開催された自民党大会で、安倍総理は3選されることを前提にしたような勇ましい発言があったと報じられている。如何に自民党といえど大所帯のはず、も少しまともな神経の持ち主がいてもよさそうだが、北朝鮮ではあるまいに何が恐ろしいのか、3選反対の声は聞こえてこない。

経済のことが全く分からない者が、頭にアベノミクスを持ってきたついでに、先ほど知ったばかりのことを書いておこう。何でも日本政府金融資産574兆円、対外純資産366兆24年連続で世界一・資源大国・金余り大国、即ち世界一のお金持ち国家。対する世界最大の「純負債」が多い国がアメリカで対外純負債の額は、800兆円超。そう言われても全く実感がないのは何も我一人ではあるまい。

従って経済力とはおカネの話ではなさそうだ。国民の様々な需要を満たす「供給能力」「生産能力」を保有する国こそが、経済力がある国であり、先進国とのこと。アメリカの場合、確かに対外純負債は巨額でも、特に防衛、食料、エネルギーという分野において、十分な供給能力を保持し続けているので経済大国と言えるらしい。ならばよく理解できる。更に納得できたのが、アメリカは教育といった分野の供給能力が高いとのこと。

引き換え我が国はどうか、たまたま森友学園問題が劇場化しているので敢えて取り上げてみた。次のように言う人がいる。『教育にしても、「英語教育の強化」などとバカげた政策を推進している以上、教育サービスの品質は劣悪化していきます。やがては、「外国(アメリカ)に行かなければ、まともな教育を受けることができない」国に落ちぶれることになります。すなわち、発展途上国化です。』

孫たちもきっと英語が苦手だろうから、この人が言わんとするところ素直には理解できる。

読後感「日本の失敗」松本健一著

サブタイトルは<「第二の開国」と「大東亜戦争」>である。著者は松本健一氏、2014年の11月末68歳と言う若さで亡くなられてしまったが、戦後生まれにして最も優れた歴史家であり、思想家と尊敬している人物である。そんなに多くの著作を読んでいるわけではないが、何といっても故郷の偉人<佐久間象山>を高く評価して「評伝佐久間象山」(2000年)を書いてくれたことからファンとなった。本書は2006年発行だから少し古いが、思想家としての真骨頂かもしれぬ。

さて内容である。著者は日本の開国について第1回が江戸末期から数年にわたった明治維新の時、2回目を大東亜戦争の敗戦によってもたらされたと見て、その2回目の失敗について論じている。この失敗の本質は、日本が国際社会即ち世界文明に背を向けて、非常に内なる価値観に自ら潜り込んでいってしまったことにある結論付けている。日本が大いなる田舎で、そこで育まれた文化が世界に通用すると思ってしまったことがそもそもの失敗だった言うわけである。

本文を詳細に読んでいくと著者の考えの根拠がよく理解できてくる。日本人は明治維新によって目覚め、世界文明に追いつくべく相当な努力をして、事実欧米先進国からも一目置かれるまでになった。ところが勢い余ってとでも言うべきか、1915年(大正4年)大隈内閣が発した「対支21か条要求」に端を発し、1945年(昭和20年)8月の敗戦で一旦の幕引きとなるわけである。

国際文明とのずれに関し変化が最も端的に見られるのが、日清・日露戦争開戦時と大東亜戦争開戦時の「開戦の詔勅」である。前2回の詔勅には国民を勇ましく鼓舞する文言とともに「国際法の順守」高らかにうたっているが、3回目の詔勅には読み込まれていない。外国の横暴に耐えがたいので、と日本としての言い分だけが述べられている。大正の初期から昭和の初期にかけての日本は、国の指導者とジャーナリズムが精神的鎖国に陥り世界文明に背を向けていたに他ならない。

結果として昭和20年以降軍部独裁に終止符を打ち、民主主義体制がしかれて第2の開国になるが、第1回と異なり、「外の力」の助けを借りて初めて成就されたもの故に、著者は「ナショナルアイデンティティを喪失したかのような歪み、即ち、自己懐疑なき繁栄を生んだ。」と結論付けている。そして「平和憲法」に戦争の放棄をうたいこめば永遠に平和が訪れるーそんな…

道義道徳

教育勅語であれ五箇条のご誓文であれ、書かれている内容の全てが悪いわけではない。幼稚園児に丸暗記させて悪いのは何か、教える側にその自覚がないことが最悪だ。外国の例は知らぬが、我が国では昔から伝わる宗教(主に仏教)の関係もあるだろうが、どこの家庭でも教育機関でも幼児しつけから始まり、子供への道徳教育が盛んにおこなわれた。

他人に迷惑をかけたらすぐ謝る。迷惑をかけたかどうか確認しないで謝るのが習慣になっている人も多いだろう。「お前には未だ謝ってもらっていない。」とクレームが付きそうなので、我が身のことは措かせて頂く。外国事情通に言わせると、どちらが悪いかを決めるのは裁判になることも多いので簡単に謝ってはいけないとのこと。今読みかけの本に依れば、確かに日本の道徳観念には世界標準で見ると多分にローカルな観念のものもあると書いてある。しかし道徳を重んじることは誇るべきことでもあろう。

関連して思うのは今日マスコミも一斉に報じたこと。国会で問題になって世情を騒がせている大阪豊中の森友学園問題で、総理は夫婦揃ってまるで被害者のような印象操作をしているとの報道。見苦しく思うかどうかは別にしても、迷惑をかけている人がまるでいないがごとく平然としている神経について疑問を持たざるを得ない。日本流の考えれば、森友学園の不正には全く関与していないと確信していても、名誉校長辞任に際してごめんさいと言っても言わなくてもいいが「児童や父兄の皆様にご迷惑をかけてしまった。」くらいの発言があって然るべきだと思う。

これを口にすることが不正への関与には当たらないと思うのだが、そう簡単には済まぬのだろうか?道徳教育に熱心だった学園で起きた事件だけに違和感が大きい。それとも流石国際感覚があると見てあげるべきかだが、総理の外交センスからすると国際感覚にも大分疑問符がついてしまう。

これで安心とは言えないが

今日は5か月ぶりで日大板橋病院の定期検査。この間投薬が止まっていたので少し心配もあったが、検査結果は幸い良好で、腫瘍マーカー(PSA値)も安定しているとのこと。少しほっとした気分である。放射線治療が終了してから1年半以上になるが、次回も5か月後の検査とのこと。せめて半年後にならないか聞くと、半年になると新規患者になるので手続きが面倒になるとのこと。ならば致し方ないが、よくしたもので腎機能の数値が少し悪かったようだ。

「腎内科に紹介状を書こうか」とも言ってもらったが、それ程の事でもないと思い、次回8月の検査でさらに悪化するかどうか様子を見ることにする。塩分摂取に気を付けるようにと言われたが「味気の薄いまずいものを食って長生きするより死んだほうがまし。」が口癖だった岳父を思い出した。何れにせよ、約1か月後には満77歳、両親は長生きしたので未だとても及ばないが、よたよたしながらよくここまで来たものだ。今後もできるだけ健康的に過ごしたい。

病院の待合室には大きなテレビが据え付けられていて、参議院予算委員会質疑らしいものが映し出されていたが残念ながら音声が消されている。昨日最後の質問者だった共産党小池晃氏が今日はトップバッターらしい。どんな議論が交わされるにしても、これで内閣が倒れるようなことにはならないだろう。与党は数を頼んで驕慢の限りを尽くしている。ただこの事案を通して、安倍総理と与党が目指す国の在り方がイメージ的に具象化されて見えてきたことはよかった。

国民に与えたインパクトもあるが、外国のジャーナリストによる海外への発信力にも馬鹿にできないものがある筈だ。与党公明党がどう受け止めているか知らぬが、自民党内もまるきり日本会議一色と言うわけでもあるまい。大勢の中には常識人もいるだろう。そういった勢力が党内で如何なる動きにを画策するのか?次期総裁を目指している石破氏、岸田氏が今後安倍氏を担ぐなんてことはあるまい。大いに頑張ってもらいたい。ついでに野田聖子さんも好機到来と思ってるなら結構なことだ。

防衛力について少し

アメリカに追随して防衛費を増額すべきとの考えがあるようだ。そこで少し考えた。日本は軍事支出だけで見ると米中仏英露に次いで、世界第6位の軍事大国。金額的にはドイツ、イタリア、韓国、カナダ、オーストラリアより上にある。参考までに特に関心を抱いた4か国のデータを表示してみる。(2010年のデータで少し古いことはご了承願います)

米国 陸軍 64万人 海軍1075隻 空軍3497機 6871億ドル
日本 陸軍 14万人 海軍 143隻 空軍 420機  514億ドル
中国 陸軍160万人 海軍1088隻 空軍2074機 1143億ドル
韓国 陸軍 52万人 海軍 193隻 空軍 614機  243億ドル

もちろん1位のアメリカは金額的にもずば抜けて高く、この2010年データで見る限り日本の防衛予算の10倍以上600兆円台のようですから別格だ。昨日の報道では新大統領のトランプ氏が2018年度予算で、軍事支出を10%増額して、その分他を削ると宣言したとのことです。即ち来年度から日本の防衛予算1年分を丸々増額、その分環境保護や社会保障関連予算を切り詰めるというのですから国民はたまったものじゃなさそうだ。

そのアメリカと同盟関係にある我が国は、同盟関係をますます強化して世界平和のために協力し合って貢献するとのこと。具体的に何をするか、させられるかは政府の首脳は分かっているだろうが、凡俗の目には未だはっきり見えない。総理が仰るには日本にとっての選択肢はこれしかないと断言している。この硬直的思考が問題と思うが、取り敢えず措く。

たまたま昨日は図書館で自衛隊に関する比較的新刊の本に少し目を通した。本当は片山哲元総理、と言っても昭和22年のことで、ご存じない方のほうが多いかもしれない。当時は社会党書記長で、おたかさん(土井さん)や福島瑞穂さんの大先輩てなところです。もちろん東大法学部のご出身ですが、大変文学的にも優れた方と聞き、氏が推薦していたメーテルリンク作の「青い鳥(後編)」を読もうと思って行ったのですが、横道にそれて「新・自衛隊論」なんて本を借り出してしまった次第です。

この本は複数の方の共同執筆ですが、中に元陸上自衛隊幕僚長の冨澤暉氏が書かれた一文があり興味深く読みました。氏は「日本の政治家や自衛隊員で本当に軍事がわかっている人間が一人もいない」と嘆いています。(自衛隊の任務は殺…