小生に自慢できるほどの知性は無いと思うが、昭和15年生まれの老人として、人並みの常識は持ち合わせていると思いたい。今朝読んだほぼ同年代の高野孟氏のメルマガに、インターネットの発達で情報の送り手と受け手があり様が大きく変わってしまった。即ち少し前までは新聞や雑誌など活字の情報発信が知性の涵養に大きな位置を占めていたが、それが全く破壊され知性の崩壊が始まっている。これは嘗て大宅壮一氏がテレビの普及に<一億総白痴化>と警鐘を鳴らしたことより強い警鐘だ。
活字を追いながら読むと言うことは読者に考える力を与える意味があったが、インターネット情報はテレビ以上にその勉強をする手間を省くことを可能にしている。指摘されてみると正にその通りだと思う。現代はスマホさえあれば、学生時代に苦労した外国語、小生の場合は英語だが今思えば馬鹿みたい話にになりつつあるようだ。知性のことを英語で何と言うか知らぬが、ひょっとすると元々暴力国家のアメリカ英語には無いかもしれぬ。日本語でも<知性とはなんだ?>と聞かれたら答えに窮する人も多かろう。
小生は<考える力>と答えたい。何ごとも立ち止まって考えろと言えない。スピードが尊重される現在、立ち止まってなんかいられるものかと思うう人も多いだろう。知識が多い人ほどそうかもしれぬ。情報量が増え続けているので考える時間は益々少なりつつある現在だ。知識は無限に増え続けるが、知識だけは知性は涵養できない。その辺を分かってもらいたい。