2009年7月29日水曜日

老人健診

先月初めに届いた通知をほったらかしておいた老人健診に行って来た。昨日婆さんに、「明日行こうかなと思っている。」と話したところ「私には通知が来ていない。」との事。「きっと65歳以上になると毎年で、以下は何年かに一度ではないか。」という事になったが本当の所は分からない。医者に行くと昨年と同じように先ず採尿と胸部のレントゲン撮影、それから身長と体重測定、血圧測定、聴診器による診断と血液採取だが、今年は制度が変わって心電図を測定しなくなったのだそうだ。結果は後で自宅に郵送されますのでそれを持ってまた来てください、説明をしますがここまでは無料です。と無料という言葉を力説していたのがおかしかった。

つい最近までこういった制度は全国一律で行われているものと勘違いしていた。ところが友人の話を聞いて初めて自治体によって差がある事を知った。友人が住んでいる信州の原村のように、65歳以上の医療費は一切無料という地域もあるようだが、反対には無料の老人健診すら実施できない自治体もあるのではないだろうか。我が豊島区の財政事情がどれほどのものか分からないが、検査項目が例え一つ減ったにせよ、毎年無料の検診を受診できるのは有り難い話だ。若い時には福祉政策なんかに関心を抱かなかったが、最近は福祉政策のお世話になる機会が増えているので関心を持たざるを得ない。今後は益々お世話になる事が増える一方だと思うので、今度の選挙でも少し真面目に各党の政策を検討してみようと思っている。

それにつけても体中にガタの来ている事夥しい。今週は歯が痛くなって歯医者にも行った。もともと自前の歯が少なく心配はしていたが、又結構な工事を必要とするらしい。遊び回る元気がなくなっているので無駄遣いは減っているが、医療費だけは確実に増えている。後期高齢者医療制度とか言って政府も苦労する訳だ。こちらの立場で言えば、確か年間10万円を超えると医療費控除の申請をしなくてはいけないと記憶している。ここ数年そんな事のお世話になっていないが、ひょっとすると今年はそんな事になってしまうかもしれない。まったく年は取りたくないものだ。

2009年7月28日火曜日

民主党の政権公約

昨日の民主党マニフェスト発表会は大変な盛況だったようだ。今日の新聞でも大々的に取り上げられている。野党の政権公約が全国紙の一面で取り上げられるのだから民主党も悪い気はしないだろう。そもそも選挙公約なんてものは誰も読まない事を前提に制作され、選挙が終われば誰もがその存在すら忘れる物だったように記憶している。しかも昨日は記者に突っ込まれて鳩山さんは、「実現できなかった時には政治家としての責任を取る。」とまで言わされていた。変われば変わったものだし、決して悪いことではない。

尤も彼はそれより前に、「仮に総理になって、総理を辞める時は議員も辞める。」と宣言しているから、一度頂点を極めたその後は議員辞職と決めているのだろう。総理になっても何日持つか分からないが、進処出来はその方が良い。一方自民党には森とか安倍、福田とか元総理のおじさんが沢山いる。麻生太郎さんが総理の座を失ったらどうするのだろう?選挙で例え当選しても、その場で辞職宣言をしたら面白いしまた少し人気が出るかな。日本の民主主義は未だ幼稚なものと言われるが、それなりに国民が政治に参加できるシステムに育ちつつあるのかもしれない。

仮に政権がひっくり返った場合、どんな事が起きるのか予想が全くつかないが、何となく政治が若返るかもしれない事を期待したい。小泉チルドレンが小沢チルドレンに代わるだけ、と政治家の質の低下を嘆く声が大きいが、何事も若返りは良い事だと思う。以前も少し書いたが、どうも老人の失敗は欲ボケから来ているようなのが多くて嫌だが、若い人が高みを目指して失敗、敗退するのは致し方がなかろう。自民党にも若い政治家が居るのだが、見ているとどうも言う事する事が爺くさい。これが党の古い体質というものなのか。

今日は閣僚が揃って口を極めて民主の政権公約をけなしたようだ。仰ることを聞いていると皆ご尤もな事ばかりではある。しかし自民党は自分たちが今までしてきた実績についての反省も無ければ、自身の政権公約すら発表できない状況にある。普通こういう状態は発言の資格がないとされたものだが、そんな事を言っている場合ではないのだろう。有権者はこんな状態をどのように受け止め判断するのか、マスコミの報道と有権者の最終判断が大いに見ものでもある。

2009年7月24日金曜日

既に平成は21年

梅雨は空けやらぬ気配だが7月もすぐ終わりだ。近年は温暖化と大騒ぎをする向きもあるが、これでは寒冷化傾向学説の方が正しいと証明されてしまうのではなかろうか。たまたま読んでいた雑誌に次のような事が載っていた。

貝原益軒先生が「養生訓」で曰く、「老後は若き時より、月日の早き事10倍なれば、1日を10日とし、喜楽して徒に日を送るべからず。」なるほど尤もな言葉である。喜楽して徒に日を送ったせいかも知らぬが、はっと気が付いたら既に平成21年。小生昭和15年生まれなので、昭和を38,9年過ごしている。
その昭和時代の半分以上の歳月を平成になって過ごしたとはとても信じられない。

平成になってから変わった事は、娘たちが嫁になって外に出て家族が減った事、外ではあるが孫が出来た事くらいか。改めて顧みれば、個人的には老化現象を含め相当な変化はあるのだろう。しかし、世の中の変化にこちらが疎くなっているのかもしれぬが、昭和に比べて平成は世の中変化とか進歩が極めて薄っぺらにしか感じられない。ただのんべんだらり日々が過ぎていくだけで、活力とか躍動感に乏しい事夥しい。ただ一昔前には考えられないような凶悪だったり破廉恥な犯罪が頻繁と起こっている。

年を取ると懐旧の念から昔が良く思えるのかも知らぬが、昭和―特に我々が小学校に入学した昭和22年から20年+20年と平成の20年、この3個の20年間を比較してみると、時代が持っていたエネルギーに実に大きな差異がある。これは己個人の思いだろうか。おそらく同世代のの方であれば殆ど同じ思いを待たれるのではないだろうか。敗戦国である事は誰もが承知をしていたが、日本人としての誇りというのだろうか、アイデンティティーは失われていなかったような気がする。

そして、我々が親元を離れた昭和35,6年、独立したとは言いながらアメリカの保護下で、国家として一人立ちしたとは言い難い状況ではあったが、国民一人一人が現在に比べれば旺盛な独立心を育んでいたように思う。事実若かった我々も今の若い人に比べれば、幼いところもあったか知れぬが、大人としての責任感を持っていたのだろう。

その独立心とか大人の責任感が真ん中の20年を経て平成の20年間でものすごく希薄になっている。子供の時から洋風の生活に馴染み、外国語を早くから使い、外国に行ってもものおじしない立派な国際人が多くなるのも結構だ。しかし、諸外国から緊張は強いられないが相手にもされない国に成り下がっている現実を若い人たちはどのように受け止めているのだろうか。訳も分からず「安保反対」を叫んだ自分達より現代は賢い若者が多いことを期待したい。

2009年7月23日木曜日

梅雨明けせず・・・何かはっきりしない

今日も1日降ったり曇ったりで、梅雨明け宣言が出されてからだいぶ経つがとても梅雨が明けたとは言えない。今週はずっと梅雨空が続いている。天気もはっきりしないが、衆議院が解散されて選挙モードに突入と言いながら選挙まで40日もあるのも良く分からない。政府は「政治空白は許されない」とさんざ言いながら、自民党内で意味不明の田舎芝居を演じてみせたりして不必要な政治空白を作りだしている。

閣僚の辞表を取りまとめて解散とあったが、昨日のテレビを見ていると防災担当大臣が防府市の被災現場を視察していた。辞表は出したがまだ辞めていないと言う事なのか?しかしこれも閉まらない話だ。衆議院議員の資格を失い、40日後には議員に戻れるかどうか分からない奴で、しかも選挙が忙しくて公務についていられないとなれば明らかに不在と一緒。担任の教師がいない教室のようなもので役人はやりたい放題だろう。国民不在の政治ではないか、これから調べてみよう。

2009年7月21日火曜日

針の木岳―様々な教訓(その2)


さて2日目、日曜日の朝雨風ともに強い。4時過ぎに全員目覚めるが今日は下山と衆議一決、朝寝をしてゆっくり起床。小屋の客としては一番遅く6時頃朝食。昨日の夕飯も同様であるが、ここの食事は質量とも充実。我が小さめの胃袋には残念ながら全量は収まらない。昨日はひょっとしたらヘリを頼もうかとも、心配したTさんも元気を取り戻し朝飯を普通に食べる事ができた。全員生乾きの装備を着けて外に出ると雨風が少し小康状態になったので、下山前に蓮華岳のコマクサだけでも見ようと言う事で、Tさんと何度も登っているYさんには小屋で少し待ってもらう事にして、自分とリーダーとNさんが空身で蓮華岳を目指す。しかし20分も登るとやはり天気が相当に悪化、山頂のコマクサは諦めて引き返す。下山途中に登る時気がつかなかったコマクサを発見、群生ではないが記念に写真撮影。

7時40分全員で小屋を出発。Yさんが先頭、Tさん、Nさん、私、リーダーの順番を崩すことなく固まって下山を開始。8時50分には雪渓に到着、途中でまた落石に遭遇したりしたが全員無事に1時間20分程で雪渓を降り切る事が出来た。この後は約2時間ほどで出発地点の扇沢登山口に戻り、大町温泉でゆっくり疲れを落として解散となった。
今回の山行きは計画からすると3分の1か4分の1の行程しか消化出来なかったし、北アルプスの雄大な景観も観賞できなかったが初めての経験を沢山できて実に有意義であった。昨日の日記でも少し触れたが改めて総括した事を記録しておきたい。 何と言っても結論的には「山登りは自己責任」だ。



1.雨を甘く考えてはいけない。元々雨の日の登山が多いので気にしていなかったが、吹かれなくても雨だけで十分体は冷える。グローブももっと冬用に近い方が良かった。

2.ズボンの替えは1着でも仕方がないが、タイツを持参する事。

3.下着は新素材で、1日分は余計に用意する事。

4.無計画登山、人任せ登山ばかりだったが、自分で行程の事前チェックが必須。特にインターネットやガイドブックの時間で行けるかどうか。何より自分の体力低下を十分にチェックする事。結果的には1泊登山になったが、己の体力を考えると、この3倍からのトレッキングが可能であったろうか?少なくとも帰宅後の疲労度、仕事への影響は今日の比ではあるまい。標高差100m20分、50分連続歩行、10分休憩登山は少し難しくなってきているかも。

5.今回250円の傷害保険を掛けたが、ヘリを呼ぶと別途50万円が必要だったとの事。1000円程高くなってもいざという時にヘリも呼べる保険に加入すべき。

6.グループ登山では、ペースの最も遅い人を先頭にして何があっても隊列を崩さない事は非常に重要。先に行って下さいと声を掛けられるとその気になっていたが、これはいけない。先に行ってくれとも言ってはいけない。 特に悪コンディションの時は絶対守らなくてはいけない。

7.下山途中で同行者の一人がストックを折ってしまった。もう殆ど降り切った場所だったので大事に至らなかった。しかし帰途雪渓の登り口近くですれ違った登山者が軽アイゼンにストック無しで登山しているのを見た。自分以上の馬鹿が居るからと言って同じような事をしてはいけない。特に装備品についてケチってはいけない。ハイキングシューズだけでも取りあえず新品を買おう。

余談になるが同様のミニ体験をして:
北海道トモラウシ岳の遭難事故について旅行社が非難の集中砲火を浴びているが、少し可哀そうなところもある。今回Tさんの話を聞くと、眠くなる時は実に気持ちが良いらしい。眠ってから布団の中で気が付くまで何も記憶には無いそうだ。トモラウシ岳の遺族も旅行社を責めるより、爺さん婆さんが安らかに逝った事をを以て瞑すべきであろう。自分もツアーに参加した人と同様、山歩きを出来るだけ長いこと楽しみたいし、畳の上で死にたい。今回の途中撤退もそうだが、これからも登頂に拘らないで体調体力と相談しながら山歩きを楽しむ事にしよう。

2009年7月20日月曜日

針の木岳―様々な教訓(その1)



三連休の最中の今日、そこそこのお天気にもなったし昼間からPC前に座っている筈ではなかった。本来であればこの時間、未だ北アルプスの山の中に居る筈であった。この連休は北アルプスに行って大町から山に入り、3日間で蓮華岳を振り出しに針の木岳、スバリ岳、赤沢岳、鳴沢岳を経て爺が岳までの縦走を楽しむ予定だった。アルプスと言えばやはり縦走をしてみたいという夢がある。しかし経験が浅いので、おいそれと一人で出かける訳に行かない。自ら思いついての初めてのアルプス登山が表銀座の縦走だったが、あの時に見た光景が病気の始まりであった。その後は八ヶ岳での縦走と白馬3山の縦走を経験したが、今年からは単独登山は止めたいと思っていた。

今年は昨年常念岳に連れて行ってもらった従妹から再び声が掛り、この大きな縦走に同行する幸運に恵まれたのだ。ところが出発間際になって従妹が膝の調子が悪くなってこの山行きを断念せざるを得ない事になったが、「仲間は以前苗場山や常念岳の時も一緒だった人いるし、リーダーもお兄さんの事はよく知っているので気兼ねなく行って下さい。前の晩もこちらでお泊まり下さい」との言葉に甘える事にした。木曜日の午後、仕事を早めに切り上げて、前泊する従妹の家に出発しようとしていると幼馴染から電話が掛って来た。「ニュースが北海道の大雪山系で遭難があって死者が相当出ていると言っている。寒さ対策も十分にして気を付けて行ってくれ。」この電話で装備を見直す事が出来た。

18日土曜日の朝3時頃から従妹が台所で準備をしている気配がある。自分は4時起床、従弟の心がこもった朝食を摂っていると4時半にはリーダーのトトロさんが迎えに来てくれる。少し待ってもらい5時少し前に出発。天気は完全な雨模様、雲もべったりである。途中同行のNさんをピックアップして他の二人と待ち合わせの大町の扇沢登山口に向かう。6時底し回ってしまったが5人が顔をそろえる。リーダーのトトロさん以外の4人はほぼ同年齢。自分以外は全て地元の人でもあり、登山については相当のの経験者ばかり。雨足は強くなる一方だが6時半に登山届を提出して、取りあえず今日の第1目的地針の木小屋を目指して出発。

出発は計画より30分遅くなったが、計画では今日の第1目的地着が12時で、少々遅れても昼飯が少し遅くなる事と、天気次第で第2目標の蓮華岳は明朝にしても全体計画に大した影響は出ないとの事で安心。それに登山案内所の人が「昨日は雷がすごかったようだが今日は雨だけだから大丈夫でしょう」
と言ってくれた。しかし雨の降り方も半端でない。最初の休憩地点大沢小屋には予定より少し遅れて8時15分頃到着、朝飯を食っていない人はここで簡単な朝食を摂る。こちらは4時頃ではあるがたっぷり食べて来ているので取りあえず一休み。既にゴアテック製シューズの足の先まで水がしみ込んできている。

小屋のお兄さんが「これから少し行くと雪渓になりますが、今日は既に30人ほど登っています。今日の雪は一番下の固い雪にになりつつありますので、スリップしないようにそれと出来るだけ前の人の踏み跡をたどって下さい。途中大石を過ぎれば脇道を辿れるようになる筈です。それと落石にはくれぐれも注意してください、音が全くしませんから。」と怖いことを仰る。雪渓を歩くのもこちらは初体験、事前にリーダーに4本爪の軽アイゼンしか持ち合わせがないがそれでも良いですか?と問い合わせたところ理想は6本だが、ま4本でも何とかなるでしょうとの事。

何事もイージーな考えに走るので横着して軽アイゼンを持参してきたが、後で後悔する事になる。大沢小屋で言われたように、上の方に行くと雪は殆どアイスバーン状態になり、登りはつま先に、降りはかかとに爪が無いと全然踏ん張りがきかない。第一広い雪渓で前の人の踏み跡なんか殆ど分からない。兎に角軽アイゼンを付けて9時半雪渓に取りつく。計画表には記載は無いのだが小屋までの所要時間は概ね3時間との事、途中の休憩はなるべく取らずにゆっくり歩き続けてくださいとの事。


雪の上をまっすぐ登るのだから楽チンだろうと思ったが、そんなに簡単なものではない。結構疲れる、自分の目の前は健脚のNさん。途中で休みましょうよと声をかけるが、「この石を見ろ、落石の危険があるので休まない方が良い」との事。ご尤もな仰せと感心していると前方で、「らく!!落石!!」大声が、思わず顔をおげると一抱えもある岩がものすごい勢いで落ちてくる。幸い50m以上離れたところを通りそうだったので固唾をのんでやり過ごす。小屋のお兄さんが言う通りだ。登山は登り降りともに足元にばかり注意しているので上からの声が掛らなければアウトだ。再び機会が巡ってくるかどうか分からないが、雪渓は絶対先頭切って登ってはいけない、最後尾になってもいけない。これが教訓の第1。

実は昨日降りでも落石に遭遇。今度は声が掛った時の岩の位置が土曜日より近かった上に岩の大きさも前日の倍で二抱えもありそうなものだった、我々右に逃げたのだが岩も何故か真っすぐ落ちずに、左背面から右斜面に斜滑降してきたではないか。岩も近くに来るとドスンドスンと雪を削る不気味な音をたてている。これには本当に冷や汗をかいた。
兎も角雪渓を登り始めて1時間10分、10時40分頃やっと大岩に辿り着く。流石にNさんも岩陰で一休みしてくれる。ここで後続を待ちましょうと言ったのだが、リュックを置いて5分もする雨と風で急速に体が冷えてくる。すぐ眼の下に学生時代はワンダーフォーゲルで鳴らしたYさんが見えている。Nさんと一足先に行きましょうと言う事になってリュックを担いで再び登る事にする。大沢小屋で聞いた話では、ここから暫く行けばアイゼンを外せると言う事だった。確かにそうはなったが、外して暫くするとまた装着する羽目になる。何れにしても登山にはあまり楽できる場所は無いと知るべきである。そして12時5分予定とほとんど違わずに針の木小屋に到着。

混んでいそうなので早くチェックインをすました方が良かろうと思い、3人後から来ますと言う事でチェックイン。幸い6畳ほどの個室を確保する事が出居た。山小屋でこんな好条件に恵まれたのは初めて。土間で後続を待とうかとも思ったのだが、兎に角体が冷え切っているので着ている物をすっかり脱いで乾燥室に持ち込む。まだそんなに混んでいるようにも思えないのだが、乾燥室は既に満杯、ハンガー1本をやっと確保して河童をつるしたり、靴の敷き皮を出してストーブの傍に置く。それから部屋に入ってアンダーウェアからパンツの果てまでそっくり着替えてやっと人心地を取り戻す。

25分ぐらい遅れてYさんも到着。後で聞いたのだがYさんもかなり冷え込んで指先が全く麻痺、装備を着たまま乾燥室に転がり込んでやっと感覚を取り戻したのだそうだ。3人は揃うが後二人が到着しないので昼飯はもう少し待とうと言う事にする。Yさんが二人は1時間くらい遅れかもしれないと言ったのだが、どうせ今日は体のコンディション自体とてもこれ以上登山なんか出来る状態でないので、雨に風まで吹き出した外を気楽な気持ちで見ていた。ところが1時45分頃やっとリーダーのトトロさんが現れ、「このすぐ下でTさんが動けなくなっているので、ここで荷物を置いたら取って返して彼の荷物を私が担いで連れてきます。」との事。

土間の受付カウンターの脇に居たので、小屋の人も「ゆっくり登ってきてください」と激励してくれる。本当だったらここで我々は押っ取り刀で靴に履き替え飛び出すべきだったと思う。しかし装備を全て乾燥室に入れてしまっているので億劫でもあり、10分くらいの所と言う事でもあったので何もしなかった。しかし、45分以上経った時に再びリーダーが彼のザックを背負って一人で帰ってきて小屋の人に「同行者がこの下で動けません、助けてください。」と正式に要請。チェックインカウンタの人が「分かりました。遭難対策協議会の人いますからすぐ行ってもらいましょう。」と言ってすぐ連絡を取ってくれた。

それから待つ事20分か30分くらいか、見ていると先ず次から次へと小屋の人が出て行く。結局3時30分過ぎくらいに我々の仲間Tさんがレスキューの人に担がれて到着。小屋が騒然となる。Tさんは上がり口に腰おろしたまま黙っている。我々仲間が駆け寄って合羽を脱がせたり靴を脱がそうとしてもじっとしたままでどこも動かない。Yさんはこのまま乾燥室に運び込もうと言うが、小屋の人が「部屋にストーブを持って行ってあげるから、早く布団をかぶせて温めなさい。」と言ってくれる。Yさんも仲間内ではエキスパートではあるが、救助してくれた人の好意を無視するわけにはいかない。

びしょ濡れの服を着たTさんを部屋に抱え上げて小屋の好意に甘えてそのまま布団に横たえる。体が低体温で死人ほどでないにしろ相当に冷たいが不思議な事に体に震えなんかは全く無い。とにかく一旦素っ裸にしてざっと拭いてから、荷物の中から新しい着衣を引っ張り出して着かえさせる。それからは男子3人が交代で手や足をマッサージを試みる。暫くするとTさんの鼾が聞こえてくる。Nさんはこれが何を意味するか心配と言っているが、仏が鼾をする事も無かろうと内心一安心する。

リーダーは遭難対策協議会の人によばれ説教を食らってくると出かけたが、リーダーとTさんの姓名住所などを聞かれただけで「明日になって問題がなければ個人情報は破棄します。」と言われたそうだ。
ずいぶん親切な人達と感心。しかし後でリーダーに聞くと、Tさんが座り込んだ地点で荷物を持たない小屋の人に遭遇していたのだそう。リーダーが「同行者が動けないので助けて頂けませんか?」と声かけをしたところ、「我々は安易にそういう事は出来ないのです。」比較的冷たくされたようだ。結局のところは助けてもらって文句を言ってはいけないが、この一件からいろいろな事を学んだような気がする。

続きはは明日また

2009年7月15日水曜日

誇りと復讐(上下〉 (新潮文庫):ジェフリー アーチャー

書店に行っても読みたくなるような本が無い。仕方なくと言った感じでこの文庫本を買った。理由は昔読んだ彼の処女作「百万ドルを取り返せ!」が非常に面白かったような記憶があったからである。しかしその後彼の本は1冊も読んでいない。でも彼が英国の政治家として栄光と挫折を繰り返し、刑務所に収監されたことは知っていた。

感想としては、自分の獄中体験とデュマの「岩窟王」のストーリーをパクッテ仕上げた小説で、冗長の割に盛り上がりに欠け面白くない。人生経験が豊富すぎると、あの要素もこの要素も盛り込むものが増えて、却ってシャープさが失われてしまうのかな。

2009年7月14日火曜日

旭日と残照

昨日の日記で自公政権の断末魔的醜態に触れた。引き続き生身の人間としての賞味期限も考えてみたい。己の事で考えると、人間が本当に仕事が出来て社会に貢献できるのは35歳から45歳の精々10年間ぐらいではないだろうか。今度の選挙で示されたように、20歳代30歳代前半で議員や首長になる人もいるぐらいだから、もっと若くして相当な能力を発揮する人も多いだろう。更に現在の仕事環境が正にそうだが、IT関連等科学技術的な職業なんかを見れば、賞味期限は更に10年ほど若くなるかもしれない。

技術屋さんの世界は良く分からないのでしばらく置くとして、己が歩んできた文系事務屋の世界では45歳過ぎて新たな知恵とか発想に恵まれた人には殆どお目に掛った事がない。まして50歳過ぎて企業にしろ官僚にしろ組織の中で第1線に立っている人でも、そのディシジョンメイク(意思決定)の大部分を40歳前後の人に委ねている筈である。トップに立って旗を振っているように見えるだけで、お茶を飲んだりゴルフをしたり酒を飲むためにだけ居るようなものである。ところが日本の政治の世界だけは、呆け老人が我が物顔でのし歩き間違いだらけのディシジョンメイクをしているのではないだろうか?

自分の事を言えば長生きもしたいし、誰にとっても長生きは決して悪いことではないが、老人は死に欲をかいてはいけない。働き盛りに身に付けた贅沢癖を直すのは難しい事かも知らぬが、これを克服して清貧とは言わぬがそこそこで我慢して生きる事が肝要の筈だ。特に官僚との付き合いが長かったので思う事がある。現在の官僚諸氏はリタイアした後に渡りを何度も繰り返すのが通例化してきているが、いつからこんな事になったのだろう。実際に役所で本当に仕事をしているのは、昔も今も40歳になるかならないかの課長補佐以下であって、そこから上の人は本当のところ居てもいなくても同じ筈だ。

かなりの退職金を貰い(嘗ての恩給)今の共済年金も受け取りながら、何故に臆面も無く無用の団体から税金を私するような渡りをするのか。忸怩たる思いは無いのだろうか。平均寿命が延びて、リタイアしても元気な気持ちでいるのは悪いことではない。まして50歳程度での離職後は退職金だけでは食っていけない、と言う事もあるだろう。夫婦2人なら兎も角、自分もそうであったが我が国では子供の親離れは大学卒業後と言う家も多いだろう。とすれば肩叩き退職の後1回だけ(最長でも10年位か)、年金受給年齢まで後輩が責任を持って何処かにはめこむ事にすればいい。但し給与ベースは年金並みとしたらどうだろうか。これでもかなりの無駄が省けるのではと思ったりしている。

自分が30歳代に会った官僚のOBは60歳ぐらいになると皆隠居然として悠々たるものだったような気がする。しかしこういった人は何か残照のような柔らかい光があり、教えられる事も大いにあった。当時の役人は45歳程度で頂点に上り詰めていたようであるから、本当に働き盛り賞味期限を過ぎたらリタイアで理に適ったライフサイクルだったのだろう。現在は55歳過ぎてから事務次官なんて事のようだから、老人が目詰まり現象を起こしているのも事実。

話を戻して、今にして思えば自分も35歳から45歳が太陽で言えば正午、現在は午後6時か7時くらい、既に残照をもって世の中に存在しているようなものだ。2年ほど前、婆さんが4年生だった孫に向かって「そんな事をしていると安倍総理みたいになってしまうよ。」と言って叱ったら「お祖母ちゃん、それだけは勘弁してよ。」と謝ったそうだ。安倍総理が「お祖父ちゃんのように」でなくてホッとしている。今婆さんに言わせると麻生総理では孫の前で引き合いに出す気にもならないそうだ。我が同年輩の老政治家諸氏に言いたい「身を処するに当たっては国民の範となるようにして貰いたい。」・・・言ったところで無駄だったかも。

2009年7月13日月曜日

この期に及んで

昨日の東京都会議員選挙は予想通り民主党の圧勝だった。出口調査の結果を見ると共産党も善戦しているように思えたのだが、公明党は全員当選して議席を伸ばしているのに共産党の議席が減ってしまったのは少し残念でもある。国政もそうであるが、自公のなれ合いはどうも頂けない。

公明は権力側に居る事のみ優先していると言われる中で、次回総選挙で自民が大敗したらどうするのだろう?民主が都議選同様に大勝したら、まさか「一緒にしてよ」とは言いにくいような気もするし、民主の方でも「よっしゃ、一緒にやろう」とは言わないと思うが。総選挙が終わると何が起こるのだろう?政界再編成なんて言葉が躍るように、政治家に節操を求める事は八百屋で魚を求める事なのだろうか。民主が政権を取ったら、少し愚直に約束を守る努力をして欲しい。

それにしても麻生太郎は偉い。この期に及んで自らの手で解散総選挙を仕切るというのだから。これで自民党内部でも言われるように、自民党員の集団自殺になればそれはそれで結構な事だと思う。昨日の都議選でも奈良市長選でもでもびっくりするような若い青年が当選してきている。何も出来はしない、無責任だとのそしりはあるがやらせてみなければ分からない。悠久不変の国家について、冥土に近い呆け老人が己の名誉や死に欲絡みで物事を決めるのは良くない。オバマではないが勇気ある青年に最終判断させた方が良いに決まっている。但しそばで賢く老練な人間が青年の要望に応じて、気持ちとしてはボランティアでサポートをしてやる事が必要になるのだ。最近は60歳を越しても老人という意識がない奴が多すぎるのも困ったものだ。

政権交代は景気の後退、だから困るでしょうが。と呆け老人の麻生は言うが、景気なんか今でも良くなっているとは思えないし、既に失業状態にある人からすれば「どうせ落ちるなら、どこまで悪くなるか見てやろうじゃないか」という気持ちになる人だっているのではないだろうか。同じ呆け老人の爺は景気の事は全く分からないし、目出度く年金も頂いているが、現政権が本当に国民の生活を心配しているとは思えないので、駄目もとでもいいから政権交代をさせたいと思っている。

今朝のテレビでサミットから帰国した総理が、昨日大勢の警備担当者を引き連れて不潔そのものいでたちでジョギングに出かける様が報道されていた。よくまあ恥ずかしくも無く、大事な選挙の当日にテレビカメラの前に馬鹿面をさらすものよ、とあきれ果てるばかりだ。普段びっくりするようなファッションで決めているのに何を考えているのだろう?余計なお世話ではあるが、四分五裂状態の自民党総裁としてそんな事をしている時ではないだろう。その点民主党の小沢一郎は全くテレビに出てこない。まさに目前に迫った総選挙に向けて必死に取り組んでいるのだろう。と勝手に思ってしまうのも彼の作戦かもしれないが、生き方としては何となく好感を覚えてしまう。

あれほど党内がまとまらないように見えた民主党もこのところ何となく一致団結しているように見える。これも小沢の引き際のタイミングの図り方が功を奏しているのではないだろうか。あと1か月か2か月、嘘でもいいから緊張感を持って纏まっていてほしい。兎に角一度は政権交代をしない事には何事も始まらない。総選挙で政権がひっくり返れば翌日からでも、民主党の中も論功行賞から始まって不平やら不満が噴き出し百鬼夜行状態になるかもしれないが、沈没する自民党から逃げ出そうとする人間の行動を観察できるのが楽しみの一つでもある。

2009年7月8日水曜日

木造築50年

先月久しぶりに我が家の外壁のペンキを塗り替えた。と言っても自分でやった訳ではなくて、婆さんの発案で専門の大工兼ペンキ屋さんに頼んでの事だ。序に家の中も少し修理をしてもらった。こういった事はまめな人なら自分でするのだろうが、不器用な上にずくなし(信州の方言で横着の意)なのでとてもやっていられない。不景気が続いていると言うのにご近所は次から次へと新築改築が進み、周囲の殆どが何やら分からないが新建材による3階建て住宅になってしまった。最古参で木造2階建ての我が家は却って目だつ存在となっている。

築後50年近くになるのだから相当しょぼくれた家だが、外側を塗り替えてみると結構立派に見える。婆さんも気に入っているようで、「これで建て替えは、我々が亡き後に考えてもらえばいい」との事だ。事務所の隣でも新築ラッシュで先月から又1軒工事に入っている。見ていると、先ず基礎をコンクリートと鉄筋ででがっちり固めて、飛び出している鉄筋に、大型トラックで運んできたコンクリート壁をこれ又大型のクレーンでつり上げて差し込んで、3日か4日で3階建ての箱が出来上がってしまった。大成パル住宅とか書いてあるが、事務所の周りはこの工法が圧倒的に多い。堅牢かも知らぬが、あんなところで生活するのは何となく息苦しそうだと内心思っている。

それと我が家のように修繕が利かないのでは、と他人事ながらも心配になる。我が家は築2~3年の木造住宅を父が45年くらい前に購入したものである。以来、結果的には私がずっと住み続けたきた。結婚して40年経つが、この間何回も手入れをしている。外壁の塗り替えだけでも今回で3回目ではないだろうか。順番は記憶していないが、結婚当初我が家の台所に水道の蛇口はあったが、水の供給源は庭先に掘られた井戸であった。又、水洗便所にはなっていたが、下水道は無く自家浄化槽であった。屋根がトタン屋根であったような気もするし、浴室が何故か離れと言うか勝手からいったん外に出て渡るようにもなっていた。しかも脱衣室が付いていなかったような気がする。燃料は既にガスになっていたような気もするが、もしかしたら薪を燃やす事を前提にしていたのかも知れない。(勝手の方に瞬間湯沸かし装置を付けたのはかなり後の話である。)

家の売り手の話によると、敷地が40坪しかないので風呂場を含めると当時の70%規制に引っ掛かるので別棟にしたと聞いたような気もする。トタン屋根もどこかの時点でテフロンの屋根板に変更したし、庭に植わっていた大きな木を切り倒して、コンクリートの塀をぶち壊し駐車スペースを作ったりした。ここ20年以上ここには他所の家の自家用車が鎮座している。このように思い出してみると結構面白い。考えてみると、いろんな不都合が生じてはその度に手入れをしてきた事になる。外観は大きく変わらなくても中身は相当に変わっている。

近代住宅では雨漏りなんかの心配は全く無いのだろうが、一定の年数が来ると全てを取りかえる事になるようだ。ご近所を見ていると30年足らずで新築している家が多々ある。経済性については分かりかねるが、ちまちました手入れの煩わしさも過ぎてしまえば結構楽しい思い出でもあり、今はやりのエコという観点では我が家の方がエコであろうと思っている。

2009年7月6日月曜日

遂に休養

ここ10年近くなるだろうか土日の午前中はいつもプールに行って体力劣化の予防とする事に決めたいたが、昨日は遂に草臥れてさぼってしまった。前日の午前中はいつものように1000m泳いでから30分ストレッチをして、その後仕上げにミストサウナでみっちり汗を出した。昼飯はよく行くパン屋でパンとジュースを軽く摂ってから、これも習慣化している碁会所に行った。いつもだと1時過ぎから遅くても6時半頃までだが、一昨日は「外で飯を食って来てくれ」と言われていたので、8時半頃まで冷房が効きすぎている碁会所に居たものだ。

帰宅して風呂で体を温め直したが鼻水が止まらなくて風邪薬を飲んで寝た。そもそも外気温度の変化への対応力が弱いので風邪もひきやすい。普段だと一晩寝れば前日の事は気にせず又同じパターンで行ける筈であったが、昨日はどうも気乗りがせず、午前中は家でゴロゴロテレビを見て過ごしてから碁会所だけ行った。土曜日は疲れのせいか成績があまり良くなかったが、昨日はゆっくりした気分で行った事が幸いしたか偶然か知らぬが良い碁が打てて成績は良かった。夜も運動した日と同じ時刻に就寝してぐっすり寝る事も出来た。

プールでは館内放送でしょっちゅう「体調が悪い時は勇気を持って休養を取るようにしましょう」とアナウンスしている。いつもは余計な事を言っていると思っていたが、今日は改めて本当にそうだなと思ったわけだ。学校でも会社でも休みを取る事が嫌いな日本人の典型見たいなものだが、これも寄る年波で遂に宗旨替えとなってしまった。お陰で今日は体調が又元に戻った気がする。

話が親父の事になるが、親父は幾つかパターン化した生活のリズムを持っていた。その一つが朝の冷水摩擦とラジオ体操である。自分が18歳で家を出るまでは、寒中であっても毎朝風呂場で冷水を頭からかぶっていたし、その後洋服を着て庭先で東の方に向かって手を合わせて何かを祈り、引き続いて体操(ラジオ体操であったか自己流であったかは分からない)を1日も欠かした事がなかった。だいぶ経って、こちらが構えた東京の所帯に来た時は流石に冷水を浴びる事はしなかったようだ。しかし必ず寝間着を脱ぐと必ず乾布摩擦はしていたし、庭がないので部屋の中で体操もしていたようだ。

一緒に生活していた兄に聞くと、自宅でも晩年は冷水はかぶらなくなっていったようだが、乾布摩擦や体操はずっとしていたようだ。何れにせよ92歳の長寿を全うしたのは、このような規則正しい生活リズムのお陰との観念がこちらにも刷り込まれているので、つまらん事かと思いつつ、そのつまらぬ事に何となく頑張る傾向がある。冷静に考えれば年齢に応じて劣化していく肉体を引きとめることは不可能に決まっている。それを少しでも遅らそうとするのは浅ましい考えかも知れない。劣化防止もいいが、過ぎたるは何とかにならないよう気をつける事にしよう。

2009年7月3日金曜日

あっという間の半年

7月に入ったのに妙に涼しい日が続いた1週間だった。年寄りには有り難いのだが暑い季節には暑くないと困る人たちも多いのではなかろうか。あの世とやらに近くなればなるほど月日の経つのは早くなると相場は決まっているが、それにしてもあっという間に半年が過ぎてしまった。今年の4月頃から来年3月の引退を考えて、ぼちぼち準備に取り掛かり始めたのでこの3カ月は特に早く過ぎてしまった。身辺整理が始められないほど新しい仕事が次から次へと起こってくる。

十年一日で変わり映えのない仕事をしてきたつもりだが今年は何かおかしい。官庁関係に繋がる仕事なので、役所でも政権の交代とかを考えると仕事の進め方についても若干目先を変える事を考えてはいるのだろう。自分とは直接の関係は無いが、アホな総理大臣のお陰で役所には莫大な予算がつぎ込まれ、役人は消化するのに大変なようだ。同時に政権交代も視野に入れなければいけないので、過去に遡って予算執行についてある程度辻褄が合うようにしなければならない筈だ。

幸い過去においても大層な仕事をしていないので、会社の金の出し入れだけは設立以来かなり神経質に1円単位で詳細に記録をしてきている。これも全てインターネットのお陰と自分が会計に関する知識が皆無であった事も幸いしているかもしれない。これがなまじ大きな組織になると大変なようだ。身内に政府関係大組織の会計に勤務している者がいるのだが、この2,3か月に猛烈に忙しいらしい。昔は役所の決算なんかは屁みたいもので、どこの役所も国会が終了して新しい人事が発令されるまでの4,5,6月は開店休業状態仕事なんぞは何もしていなかったのが嘘のようだそうだ。

政権交代が本当になったら日本の役所がどのように変わるか、変わらないか見ものではある。真剣に見直しをすれば不要不急の予算は民主党が指摘している程度では済む筈がないだろう。道路も新幹線もこの爺に言わせれば全く必要ない。インド洋やアフリカ沖まで行く軍艦も必要ない。国家公務員で地方何とか局に居る人員は全て不要。小学校はどんどん減っているのだから順次中高大学も減って行くだろう。第一旧文部省なんかも不要ではないか。代々不要な物を処分して家の中をさっぱりするのが趣味見たいDNAがこの爺にはあるのだ。と言って切り捨てていったら何が残るのだろう?

それよりも何より爺の仕事が不要の最たるものになるのかな。となると来年から仕事を引き継ごうとしている青年に申し訳ない事になりかねない。しかし、今のところ新しい仕事に追いまくられているので、受注先の機関が丸ごと潰されない限り我がささやかな仕事が打ち切られそな気配は感じられない。自分としては、うまく時代の変化に対応してきたつもりもするつもりも無いのだが、何となく息が続いているのが不思議でならない。