2009年7月14日火曜日

旭日と残照

昨日の日記で自公政権の断末魔的醜態に触れた。引き続き生身の人間としての賞味期限も考えてみたい。己の事で考えると、人間が本当に仕事が出来て社会に貢献できるのは35歳から45歳の精々10年間ぐらいではないだろうか。今度の選挙で示されたように、20歳代30歳代前半で議員や首長になる人もいるぐらいだから、もっと若くして相当な能力を発揮する人も多いだろう。更に現在の仕事環境が正にそうだが、IT関連等科学技術的な職業なんかを見れば、賞味期限は更に10年ほど若くなるかもしれない。

技術屋さんの世界は良く分からないのでしばらく置くとして、己が歩んできた文系事務屋の世界では45歳過ぎて新たな知恵とか発想に恵まれた人には殆どお目に掛った事がない。まして50歳過ぎて企業にしろ官僚にしろ組織の中で第1線に立っている人でも、そのディシジョンメイク(意思決定)の大部分を40歳前後の人に委ねている筈である。トップに立って旗を振っているように見えるだけで、お茶を飲んだりゴルフをしたり酒を飲むためにだけ居るようなものである。ところが日本の政治の世界だけは、呆け老人が我が物顔でのし歩き間違いだらけのディシジョンメイクをしているのではないだろうか?

自分の事を言えば長生きもしたいし、誰にとっても長生きは決して悪いことではないが、老人は死に欲をかいてはいけない。働き盛りに身に付けた贅沢癖を直すのは難しい事かも知らぬが、これを克服して清貧とは言わぬがそこそこで我慢して生きる事が肝要の筈だ。特に官僚との付き合いが長かったので思う事がある。現在の官僚諸氏はリタイアした後に渡りを何度も繰り返すのが通例化してきているが、いつからこんな事になったのだろう。実際に役所で本当に仕事をしているのは、昔も今も40歳になるかならないかの課長補佐以下であって、そこから上の人は本当のところ居てもいなくても同じ筈だ。

かなりの退職金を貰い(嘗ての恩給)今の共済年金も受け取りながら、何故に臆面も無く無用の団体から税金を私するような渡りをするのか。忸怩たる思いは無いのだろうか。平均寿命が延びて、リタイアしても元気な気持ちでいるのは悪いことではない。まして50歳程度での離職後は退職金だけでは食っていけない、と言う事もあるだろう。夫婦2人なら兎も角、自分もそうであったが我が国では子供の親離れは大学卒業後と言う家も多いだろう。とすれば肩叩き退職の後1回だけ(最長でも10年位か)、年金受給年齢まで後輩が責任を持って何処かにはめこむ事にすればいい。但し給与ベースは年金並みとしたらどうだろうか。これでもかなりの無駄が省けるのではと思ったりしている。

自分が30歳代に会った官僚のOBは60歳ぐらいになると皆隠居然として悠々たるものだったような気がする。しかしこういった人は何か残照のような柔らかい光があり、教えられる事も大いにあった。当時の役人は45歳程度で頂点に上り詰めていたようであるから、本当に働き盛り賞味期限を過ぎたらリタイアで理に適ったライフサイクルだったのだろう。現在は55歳過ぎてから事務次官なんて事のようだから、老人が目詰まり現象を起こしているのも事実。

話を戻して、今にして思えば自分も35歳から45歳が太陽で言えば正午、現在は午後6時か7時くらい、既に残照をもって世の中に存在しているようなものだ。2年ほど前、婆さんが4年生だった孫に向かって「そんな事をしていると安倍総理みたいになってしまうよ。」と言って叱ったら「お祖母ちゃん、それだけは勘弁してよ。」と謝ったそうだ。安倍総理が「お祖父ちゃんのように」でなくてホッとしている。今婆さんに言わせると麻生総理では孫の前で引き合いに出す気にもならないそうだ。我が同年輩の老政治家諸氏に言いたい「身を処するに当たっては国民の範となるようにして貰いたい。」・・・言ったところで無駄だったかも。

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