2016年1月31日日曜日

やまと心とメディアの心

些か不謹慎ではあろうが、このところの世相を見るにブログのネタが多すぎて、何を取り上げるべきか考えあぐんで昨日は結局何も書けなかった。特に木曜以降は新聞・テレビ・ネットも見どころ読みどころ満載で、サンデー毎日の老人には暇潰しが出来て有難いことである。昨日ブログを書けなかった理由の一つは、大臣辞任を受けてのブログやメルマガを読み進むうちに、何処で方向を間違えたか、日本昔話のページに辿り着いてしまい、新たな興味が出て時間を過ごし過ぎてしまったこともある。

昨日朝観たテレビ番組(部分的なことなのでタイトルは不明)で日本に住む外国人に「日本に来て面白いと思ったこと、感心したこと」のインタビューがあった。30分くらい観たインタビューの中で印象に残っていることを少し上げる。テレビ番組にスーパー(文字)が多いとのこと。当たり前に思っているが、外国には当たり前でない国もあるらしい。考えてみれば、外国語に対して意訳を文字で表示してくれるのは兎も角、自国語を態々文字表示するのは年寄りにとっては有難いが、サービス過剰かもしれぬ。しかしこれが無いと、国会論戦なんか婆さんは困ると言っている。

当たり前と思っていることでもう一つ。南米から来た人だったと思うが、テレビ番組が時間通りに始まることを素晴らしいと言っている人がいた。正に世界は広いと思ったが、もっとびっくりしたのがイギリスの青年だったように記憶するが、日本で一番好きなものを聞かれて「古今和歌集の仮名序」との答え。台所にいた我が家の博学婆さんに聞いたが知らなかった。高校の国語の時間には「古文」があった筈なので、或いは教わったかもしれぬ。顔が赤らむ思いで昼過ぎてからネットで調べてみた。ネットに『巻頭の紀貫之による序文「仮名序」』とあった。書き出しは以下である。

『やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。』古来、詩心を大切にしてきた日本人の精神を20歳前後の外国人の青年に教えてもらった次第だ。しかし最近のはやり歌は、その殆どが「私とあなた」ばかりで、紀貫之さんには実に相済まぬ気がしてならない。

このページから跳んだのだと思うが、「平家物語」と「方丈記」。ここにも老人には都合のいいことが書かれている。要するに諸行無常、齢と共に心身も物質的にも儚くなって行くのは当たり前、を改めて教えられた思いだった。紀貫之も「方丈記」作者の鴨長明も共に武士ではない。しかし、後の武士たちはここに著された精神性をとても大切に育ててきているように思う。

そうかと思うと、ネット上には甘利元大臣のことを「甘利大臣、武士道貫く。真摯な受け応え潔し」みたい書き込みが沢山あるらしい。このページを一々見ることは無いが、一方のテレビは大分観た。いろいろあるが、先週の事件発覚以来気になっていた田崎史郎氏(時事通信特別解説委員)は、昨日テレビ局を梯子して「(甘利氏は会見で)ほぼ説明しきれてるんじゃないですかね」「僕は人を信じやすくてね、へへ(笑)」なんて言っている。立場を明確にしていると言う意味で、分かり易いと言えばそれまでのことだが、政権を喜ばせるために使われている放送局やスポンサーはどう考えるのだろうか?

2016年1月29日金曜日

大臣辞任と一宿一飯

1週間前に週刊誌報道された甘利大臣(何大臣かは忘れた)がやっと辞任を発表した。大方のマスコミは『続投一転、幕引き優先 甘利氏「足引っ張れない」』てな書き方をしているが、果たして記者諸氏はマジで大臣がTPP署名式のためニュージランドに行けると思っていたのだろうか?安倍総理の常識外れをさんざ見ているので、ありうると思っていた可能性は高い。流石の総理もそこまでは出来なかった。昨夕からのテレビ報道を観る限り、盟友へのせめての餞で政府専用機を使わせたと報じられた。

報道ではそこまで言えないだろうが、各別な配慮で1週間の時間も与え、辞任理由を少し綺麗に言えるような段取りを取る余裕も与えたのだろう。甘利氏としてはこの1週間精一杯の努力をして、盟友のお情けに答えたつもりだろうが、果たしてそれが今後どんな効果をもたらすかは分からない。街頭インタビューを聞いていると「悪いことをしたのだから仕方ない」との意見が多いように思う。この受け止めは当たり前だと思うが、当たり前でないのはテレビに出演している解説者。

言っては悪いが比較的上位にランクされる解説者になるほど歯切れが悪くなる。司法が犯罪性を認めていないうちは「悪い」と言う言葉を使えないのかもしれぬ。だからと言って、ご挨拶代わりに持参された菓子折りに入っていた現金を政治資金規正法に従って帳簿に記載していたことを、「適切に処理」されていたとの表現することが、それこそ適切なんだろうか。昨日聴いたこの程度の発言は可愛いほうで、先週の土曜日に観た田崎史郎氏なんぞは酷かった。一週間も前から、相手が悪いとか事件性が無いことを明言していた。昨日ゲスト出演していた元検察官も、大物になるほど事件性を否定。中には「実に見事な引き際」と持ち上げた人までいた。

元検察官で事件性を示唆したのはテレビ朝日「報道ステーション」がビデオで紹介した比較的若い人ただ一人。先ほどテレビ朝日に問い合わせたので分かった落合洋司氏。元東京地検検事とのこと、折角だから彼のブログを紹介しておこう。http://d.hatena.ne.jp/yjochi/
元検事の中には、この件が表ざたになった最初から、事件性を示唆している郷原信郎氏のような人もいるから、記者上がりのニュース解説者や元検事を纏めて悪く言ってはいけないだろう。

しかし諦めの境地で言えば、野党がどんなに騒ごうと、この件が司法の手に渡ることは無いような気がする。経験から思うに、世の中は理屈より情が優先することが多い。そうなると多勢に無勢だ。権力と資金をふんだんに持つ政権与党方から一宿一飯の恩義に与っている人間の数の差である。政権側は司法関係には特に手厚く手当をしていることだろう。彼等とて人の子、ヤクザでなくても一宿一飯の恩義を大事にするのが日本人、となれば仕方ないかもしれぬ。しかし庶民はその恩義に浴していないからどうなるか、次の選挙結果を見守るしかない。

2016年1月28日木曜日

陛下のお姿から思う

子供の頃(18歳くらいまでとしましょう)であれば毎日のように、今日は誰々ちゃんと何をして遊んだとか、誰々ちゃんの家に遊びに行った、或いは誰々ちゃんが遊びに来たと変化に富んだ日々が続き、その度に脳には新しい情報が蓄積され、それが楽しい刺激となっていたのだろうと思う。ところが、今や毎日会話を交わす人間は只一人婆さんだけで、後はテレビと新聞とネットの情報がインプットされるだけである。

この情報源の偏りがある意味でのストレスになっているかもしれない。このブログはそのストレス解消のために書いているようなところもありそうなので、滅多に無いがコメントがあると嬉しくなる。たまにあるコメントは大抵書き手が分かるので、やはり彼の共感が得られたか、など友人と会話したような気持にもなるのである。昨日のブログにもコメントが寄せられた。それだけで嬉しいが、昨日の投稿者は友人知人であるかどうかが見当つかない。

名前が匿名になっているが、友人でも匿名を希望している人がいるので見知らぬ人とは断言できない。内容はご確認願いたいが、小生の自民党嫌いに疑問を呈して頂いた。よく付き合う友人の中にも自民党のファンは多いが、多くはネットを利用しないと思うので、ひょっとすると存じ上げない方かもしれぬ。そうであれば、これからも是非私めへの批判でもなんでも投稿をお願いする次第です。

昨日は天皇陛下のフィリピン訪問が大きなニュースになっていた。陛下はご高齢にも拘らず、先の大戦で激戦地となった南方の国々(今は異国である)を訪問されて、国籍を問わずに戦没者と戦争被害者を慰霊・慰問されている。その姿をテレビ報道で観るにつけ本当に頭が下がる思いだ。特に今回のフィリピン訪問で感じたのは70年と言う歳月の重みと言うか、その長さである。一応戦前の生まれではあるが、戦争については何も知らないことを痛感させられた。

 大岡昇平の「俘虜記」や戦後フィリピンで処刑された山下奉文大将や本間雅晴中将の伝記等を読んで、フィリピンの陸上戦についても少しは知っているつもりもあったが、結局のところ何も分かっていないことがよく分かった。日本軍被害の約50万人も凄いが、市民が110万人も死んでいるとはただ驚くほかない。フィリピンでは日本軍が占領した開戦時と、アメリカ軍が逆襲してきた終戦前年からの戦闘で2回巻き添えを食った勘定だが、その戦闘期間は果たしてどのくらいだったのだろうか?勿論当時は既に空爆もあったろうが、それにしても被害の大きさは想像を絶している。

現在の若い政治家連中が、嘗ての日本の軍事行為をどこまで知って反省しているか分からぬが、陛下のお姿から何を学ぶのだろうか。小生は昨夜からの報道で、全く違うことを思ってしまった。過去も今も変わらぬ日本人とアメリカ人の精神性の違いである。日本人は敢闘精神を小さい頃から叩き込まれ、昔は「撃ちてし止まん」であり、今は「最後まで諦めるな」だ。ところが欧米ではこの考えが必ずしも日本ほどには強調される精神論ではないらしい。むしろ先を見通して勝ち目がないと見込んだら、深みに嵌る前に一旦退くことを薦めるらしい。

敢闘精神も大事かもしれぬが、マッカーサーが最後の勝利を収めたことを思うと後者の理屈も分からぬではない。しかし今ややり直しがきかぬ年齢でもあるから関係ないか。

2016年1月27日水曜日

卑怯者がのさばっては困る

「他人の不幸は蜜の味」の喩えは知っているが、テレビニュースで連日スキーバス事故で亡くなられた方の葬儀が報道されるのは如何なものだろう。この例に限らないが、なにか不幸な事故で亡くなった若い人については、テレビ局が葬儀まで執拗に追いかけ、参列者のコメントを取るのが常態化している。そしてそのコメントも「良い人でしたのに・・・」と相場がきまったようなものだ。安倍政権になってからのNHKのニュース番組が下らなくなっているのは言うまでもないが、民放までが真似をする必要はないと思うので、各局の報道担当はもっと勉強して、今何を報道すべきかを己の頭で考えてほしいものだ。

昨今イジメで自殺する子供が多いが、毎回似たような報道をするかさせられるか知らぬが、報道部員は何を考えているのだろう。いじめた子等が逮捕されて少年院に送られても何の解決にもならない。校長が謝罪会見をし、教育委員会が第3者委員会を起ち上げて原因を探って対策を考え、それを以て2度と不幸な事故を起こさないようにする。この台詞を何度聞いたことやらである。第3者委員会は最近流行であちこちで聞くが、これを設置する人間の責任逃れが見え見えで、任命された委員は顔が全く見えないから無責任であるのは自明である。

民放も社会の木鐸としての矜持があるならば、日本の文部行政の根本を問うような番組でも作ってみたらどうだろう。修身とか道徳が学校教育に無かった時代に育ったので現状は分からないが、朋友と仲良くすること助け合うことを学校ではどのように教育しているのだろうか?先日読んだ藤原正彦氏の本に書いてあったことだが、現代教育には「卑怯」を忌避する教育が不足しているのではないかとのこと。確かに現代社会は卑怯な奴らが横行しているようにも思う。学校でどのくらい教育されたか記憶には無いが、確かに幼少の頃から「卑怯」であることは恥ずべきだと教えられてきたように思う。

「乱暴はいけない」と教えることも大切かも知れぬが、乱暴者が出現しないようにするのは難しい。それよりも、生徒全員に「卑怯」であることを恥とする考えを共有させる方が易しい筈で効果も大きいのでは、と藤原氏は言う。読んで成程と思った。確かに最近は勝った者勝ち、勝ちさえすればいいのだとばかり、かなりの社会的地位の人間にも卑怯な振る舞いの大人が多いのが嘆かわしい。メディアも亡くなった若者が良い人でしたと発信するより、死に至らしめた側の卑怯さを強調して貰いたいものだ。個人に「強くなれ」と言っても難しいだろうが、社会全体が卑怯者を忌避する、或いは敬して遠ざける空気を醸成することが出来れば、日本も変わるだろうに。

2016年1月26日火曜日

文明の利器

今朝事務所に来て、いつものようにパソコンを立ち上げメールをチェックしようとすると、メールが受信できなくなっている。何だこりゃと思って調べると、そもそもパソコンがインターネットに繋がっていない。毎日朝から夕方まで同じように起ち上げ同じように終了しているだけで、昨日特に変わったことをした覚えが無い。嘗ては優秀なスタッフがいたので、電話一本で対処法を訊くことが出来たが彼は今幽明境を異にしている。

自分で対処しなければならないが、まともな知識の持ち合わせが無いので慌ててしまった。もう1台のパソコンを起ち上げてもインターネットに繋がらない。無線ランのルーターに支障があることは見当がついたので、無線ランのルーターを外してモデムから直接有線で繋ぎなおしてみた。ところが、これでも繋がらない。多分線を繋ぐだけでは駄目で、パソコンのどこかも触る必要があるのかもしれない。有線ランについても勉強し直す必要がありそうだ。

ますます慌てたが、小1時間ルーターを切ったり起動したりしているうちに、ルーターの動きが正常になった。一先ず問題は解決したのだが、この作業中に起ち上げたもう1台のパソコン、こいつはめったに使わないのでアンチウィルスソフトの更新が溜まっていることは分かるのだが、Dドライブの領域が不足しそうになっているとのメッセージだ。かれこれ7,8年前の代物かと思うが、購入時の設定のままでCドライブが95%で、Dドライブが5%ほどの仕切になっている。

夕方になってからDに何が入っているか分からないまま、兎に角領域の変更を試みた。これも小1時間あれこれやってみたが、結局うまくいかないので諦めてしまった。ところが、今度はパソコンからDドライブが消えてしまった。今まで何が入っていたか分からないが、バックアップを取らずに始めたので、もし貴重なデータが入っていたら全てパーである。一応バックアップ領域を外部メディアに設定したが、果たしてこれでいいのかどうか?

文明の利器の恩恵に浴するのは感謝しなければならぬだろうが、一旦トラブルとなかなか厄介であることを改めて思い知った。

2016年1月25日月曜日

ルーティン

サンデー毎日の身になので24時間自由時間とも言える。しかし所々にチェックポイントを設けて、出来るだけ規則正しい生活になるよう心掛けているつもり。これが今流行の「ルーティン」と言う奴で、心身ともに健康に悪い筈が無い。因みにチェックポイント1は就寝と起床時刻、22:30と6:30で、計算上の睡眠時間は8時間だが、夜間2回は用足しに起きたりするので実質7時間くらいだろう。2には朝食と夕食も大抵決まった時間7:00と20:00に摂ることになる。

昼食も12:00過ぎくらいに決めているが、朝夕と異なり外食なので食事内容は日によってかなり異なるのは仕方ない。3は、と言っても昨年8月頃からだったと思うが、1日に1万歩歩くことを目標にしている。昼食前後に散歩がてら稼ぐことが多いが、天気の悪い日や週末は、フィットネスクラブの機械の上で丁度1時間歩くと約8千歩で自宅との往復を足すと目標を少し上回ることになる。お陰で、今のところは風邪もひかず、腰痛も出ず何となく調子が良い。

睡眠と食事と運動これで約12時間、その縁に洗面とか入浴で2時間余裕を見ても、未だ10時間余る。このように考えると1日は結構長く、人生にも有効活用できる時間が相当あることが分かる。これをどうしたものかだが、最近あまり有効に使えているような気がしない。身体だけはそこそこ健康を保っていてもおつむの中身の劣化が激しいのはどうしたものだろう。劣化予防には人と会うのが一番だろうが、機会が殆ど無くなっている。次は読書かもしれぬが、最近は読書も全く縁遠い。

明日はネット碁(これがルーティン化しているのが悩ましい)をやめて、久し振りに図書館に行こう。

2016年1月24日日曜日

日曜日のテレビ

山陰から九州まで寒波が流れ込んで全国的に大荒れの天気のようだが、東京は冬晴れの良い天気なので、少しのんびりした気分だ。何よりも大相撲で琴奨菊の優勝と昨日今日の稀勢の里の働きが個人的には嬉しい。

しかし今年は正月から世界中でテロは多発するし、経済的にも唯一好調とされるアメリカでさえ、先行きが何やらおかしいらしい。そのアメリカは大統領選らしいが、今のところ日本にまで名前が聞こえてくる候補者はパッとしない感じだ。世界の平和に資することのできる指導者がいるのかもしれぬが、不幸にしてお名前を存じ上げない。

こんな年にG7なんて会議を開いてどんな効能があるのだろうか?形ばかりは世界の平和を乱すISとか金正恩をなんとかしようなんて言っても、前から言ってることの繰り返しでどうにもならんじゃないか。第一次世界大戦後に開かれたベルサイユ会議ではないが、多数の国が集まっても会議は踊るだけで碌な結論が出ないのははっきりしている。力で圧倒するにせよ金で話をつけるにせよ、親分同士の差しでない限り話はまとまらないだろう。

ここは一番G7のメンバー外にされてしまったロシアのプーチン閣下か中国の習近平閣下にでも直接お出まし願ってなんとかならぬものだろうか。「なるものなら、とっくにやっているよ。」の声が聞こえてきたような気がする。何れにせよ騒がしいと言うべきか、難しい世界情勢のようだ。この際我が国日本は黙っているに限ると思ったのかどうか、我が国の総理閣下は毎年出席していた世界経済フォーラム(通称ダボス会議)への出席を見送られることにした。何でものっぴきならぬ用事が立て込んだとのこと。

どんな用事が起きたか庶民は知る由も無い。代わりにと言って政府専用機まで使って送り出したのが、彼の甘利大臣。彼こそのっぴならぬ用事が立て込んでいそうなのに、部下か朋友か知らぬが情の無い話ではないか。日曜のテレビ番組には鮮度の高いニュースをネタにスタジオに知識人を並べて解説させる情報番組が並んでいる。小沢一郎氏がネタだった時は全局上げて大騒動だったが、今回は嘘のように静かだ。

TBSが時事放談とサンデーモーニングで取り上げたが、他局はバスの事故やら廃棄食品の横流し問題とか、フジに至っては電力自由化は消費者にとって得か損か、で1時間以上費やしていた。NHKの討論番組も司会の島田と言う小父さんが露骨に与党寄り、これは何も昨日今日ではないからどうでもいいが、酷いマスコミの現状だ。

2016年1月23日土曜日

一流国の心算でいたが

現役で働いていた30代半ばから約20年間、仕事の関係から霞が関の中央官庁に出入りして、いわゆる高級官僚と付き合う機会が多くあった。殆どが東大とか京大出身で、世間では優秀とされる彼等にはそれなりの自負もあった。勿論利口な彼等だから、自分のことについては他人より頭が良いとか利口だと言った馬鹿なそぶりは見せない。しかし口を揃えて言うことに次の台詞がある。「我が役所は日本最大のシンクタンクで、必要とする最新情報が常に手元にあるのだ。」故に判断を誤らないことを言外に誇る訳である。

当時は成程と思い、さもありなんと納得していたものだ。ところが最近になって疑問を感じ始めている。中央官庁とは国家の方針を左右する意思決定機関のようなものだ。だがこれは単体でなく、複数の機関に分かれて、安全保障問題は防衛省でとか社会福祉問題は厚労省でとなるのは衆知のことだ。1億人を超える人口で、これだけ複雑な社会になれば当然である。従って、中央官庁の官僚が言う<必要な情報>が、日本国にとって必要なのか、彼の属する官庁にとって必要なのかが曖昧になってくる。

彼等にすれば、我が省庁=日本だから疑問は沸かないのだろう。当時から省庁間の壁は厚く、国益を無視した省益争いについて聞いてはいた。現在それがどう変化しているかは定かでない。内閣機能が強化されたことで壁が低くなっていれば結構なことではある。しかし、省庁間の壁を低くして情報の共有がどの程度進んでいるかを思うと、甚だ心許ない。

マイナンバー制度から想像するに、機能の一つとして所轄を超えて国民の出納チェックをして1円のへそくりも許さぬシステムを構築しつつあるようにも報道されるが、果たしてどうだろうか。入りについては預貯金・株・保険、支払いは税金・医療費・社会福祉料金だけでも絡む省庁は複雑である。しかしこっちについてはコストと時間さえ掛ければ何とか解決できる筈だ。問題はそんなチマチマした話ではなくて、もっと大きな政策決定に関してである。

今度の国会審議を聞いて思うのだが、経済政策・農業政策・社会福祉政策等々どれをとっても1省庁の発想だけでは片付かない問題を包含している。制度的には毎週次官会議もあり、閣議もあって省庁間の連絡が密に諮られる建前にはなっているが、これが形骸化しているのも周知のこと。例えばイランの経済制裁解除で、我が国の経済界もイランへのアプローチを早速再開と報じられると、如何にも速い動きのように思うが、国際的には出遅れも甚だしいらしい。

経産省の意思決定が速いとか遅いではなく、国家としての意思決定が常に遅れると決まっている。これは安全保障でも同じことで、国家として情報を一元化できていないのだから的確な意思決定なんか出る筈もない。情報を一元化するために必要なことは、組織を出来るだけ簡素化することが第一だと思うが、現在行われているのはその真逆で、国家安全保障会議(NSC)なんて鷺か烏か分からぬものはその典型だろう。

こうして今や、官僚組織内に次々に高級官僚の天下りポストが出来つつあるらしい。経済的に大国の座を滑り落ちたのは仕方ないにしても、国の形そのものが二流三流となるとは情けない。

2016年1月22日金曜日

些細なことか?嘘つきは泥棒の始まりだ

年が改まったせいかどうか、先行き生活の厳しさを実感する人が増えているようだ。お仲間が増えたからと嬉しがってもいられないだろう。理由ははっきりしないが、一つには株がパッとしないことにもあるらしい。先行き不安な多くの方同様、縁遠い世界のことなのでその理由もイマイチ理解できないのだが、一つには原油の値下がりが続いていること、二つには中国の経済がおかしくなってきているからとのこと。灯油の値段や野菜の値段が下がるのは我が家にとって有難いことだし、婆さんに言わせると、灯油価格はもっと下がってほしいのに、大騒ぎの割に下がり方が少ないと思っているそうだ。

ところが原油の値下がりは日本の石油元売り企業にとっては迷惑とのことらしい。これも理屈が分からないので不思議に思う次第。中東産油国の国家財政が圧迫されて福祉が低下するとか、アラビアでガソリン価格が上がると言うことの方が余程理解できる。日本の経済事情が諸外国の事情に左右されることは分からぬでもないが、中国の経済事情、わけても株式事情に振り回されるように報じられているが、これもまた不思議である。先日発表されたばかりの昨年の経済成長率は悪いと言っても7%弱ではないか。日本では株価に一喜一憂しないでファンダメンタルズなるもの強調し、中国では株価に右顧左眄するのかね。

なんて、このように訳の分からないことだらけの経済音痴だから、経済については書くことが悉くピントが外れてしまう可能性大である。ここは一番折角通常国会が新年早々から開催されているのだから、諸先生方には真面目にやって頂き、多くの国民に安心をもたらして頂きたいものである。しかし国会の実態を垣間見るに、国民の安心からは程遠いやり取りの連続のようである。野党側から国民の不安を代弁する質問がなされても、対する答えが余りにも不誠実に過ぎる。

大臣諸氏が生活実感に於いて庶民とかけ離れているのは仕方ないとしよう。更に好意的に言えば、答弁に立つ先生方が意図的に口から出まかせばかり言っているとは思わない。政府答弁は質問の事前通告に基づき、殆ど官僚が用意するものだ。その官僚が一人ではないから当然と言えば当然だが、その場その場で自分にとって都合のいいデータだけを根拠にするので、結果的に答弁に立つ政府高官にウソを言わせてしまう。故に、質問を他の角度からたたみ掛けられると、それが簡単にばれて、政府答弁がウソの見本市のような状態になってしまう。これが現状だろう。

問題はここからである。先の答弁がウソ(数えきれないほどあるので列挙しない)であったことが明らかになっても、政府側は謝ったり訂正をしない。態度もふてぶてしく開き直る。メディアはそのこと(ウソであること)を徹底的に追求すべきだと思うが、一向にその気配は無い。結果的にウソが本当のように定着してしまいかねない。政治家のウソに対するマスコミの責任放棄、嘘を些細なこととして見逃して結果的にウソを許している。言えば全マスメディアが政府応援団に等しい。これが現在社会に潜む最大の病床だと思う次第である。

2016年1月21日木曜日

エリート不在の日本

昨日久しぶりに書店に行ったが読みたくなるような本が1冊も見つからなかった。仕方なしに帰ってから本棚に積んである背表紙を見て、1冊を取出し読み直してみた。「国家の品格」藤原正彦著である。10年以上前の1005年末の発行だから<現代社会を鑑みるに>と書かれているのは既に一昔前のことである。著者が嘆いている当時の社会現象は一向に改まる様子はなく、むしろ現代ではますます悪化と劣化の一途をたどっているようにさえ思える。

改めて共感するところ大だったので読後感を書こうかとも思ったが、たまたま重要閣僚の収賄疑惑事件が勃発したので世相絡みの随筆として書く。政治家が支援者から口利き依頼を受けるのは当たり前のことで、特に与党議員は役所に顔が利くから機会が増えるのは当たり前かもしれぬ。その際お礼が全く無いと言うこともありえないだろう。建前から言えば、それがお金だった場合は政治資金規正法での公開が義務付けられている。週刊文春が今日発売の号で取り上げて急に問題化したのは、甘利大臣がそれを怠っていたらしいからだ。

政治にはお金が掛かることはよく聞く話だ。それだけに、有力な政治家にはお金集め専門の秘書を置いている人も多いだろう。甘利氏もこの例に洩れないような気がする。甘利氏が何人の秘書を抱えているか知らないが、このレベルの政治家になると、集めるお金も出るお金も半端ではあるまい。政治家は税務署は関係ないかもしれぬが、代わりに政治資金法絡みの公開義務がある。

しかし事業家が何とか節税しようと複雑な資金操作をしたり、まかり間違えば裏帳簿などの違法行為に走るが如く、政治家も下手な企業顔負けの資金操作が行われ、表に出す金と裏で使う金を仕分けたりするのが有力議員には当たり前になっているのだろう。金銭の授受には必ず相手が存在するので、裏の出し入れについては相手方とも十分示し合せて行っていることは言うまでもない。天網恢恢や悪事千里の喩えでないが、甘利氏にとっては不幸なことに、それが今回表に出てしまった。

経緯を詮索する気も無いが、読書と絡んで思ったことがある。著者の藤原正彦氏が「自由、平等、民主主義を疑う」なる章で指摘している「日本にはエリートがいないこと」このことが重要に思う。アメリカの占領政策には不都合なことが沢山あるが、アメリカ軍は戦前日本社会に存在したエリート層の崩壊を試み、それがものの見事に成功しているとの指摘だ。著者は手法について学制改革による中学校と高等学校の廃止を大きな要因として挙げているが、共感できるような気がする。

現代は大学を卒業しても誰もエリートと実感しないだろうし、他人もそれを認めないだろう。しかし官邸にいる高級官僚は、己を取り巻く狭い環境の中で自他ともにエリートと勘違いしていることだろう。これが問題だと思う、戦前は小学校終了と同時くらいから、エリート層の存在を社会全体で共有し、育てていた訳だ。以下にエリートの条件を「国家の品格」から引用する。

『真のエリートには二つの条件があります。第一に文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷり身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。第二条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。真のエリートには俗世に拘泥しない精神性が求められるからです。この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。』

2016年1月20日水曜日

奨学金のローン化

昨日の夕食時に婆さんが先ず面白い情報を聞かせてくれた。週末にセンター試験を受けた孫のことである。娘から仕入れたらしいが1学年下の弟に向かって「おい、来年はライバル関係になるから頑張ろうぜ。」と言ったらしい。如何にも彼らしい表現で、現在の心境や覚悟の程が伺えて頼もしい。小さい頃から臆病だったので、人生の中で常に目標を常に低きに置いて過ごしてきている小生には、なかなか言える科白ではない。

父が食事のときなどに半分冗談を交えながらよく言っていた。「人生で大切なことは出来るだけ健全な精神を養い健康で長生きすること。勉強も大切だろうが、落第なんてことは長い人生から見たら一瞬のことだから余り気にしなくてもいい。」正確には知らぬが、父は中学受験に失敗して1年か2年高等小学校に通い、並みの人から見るとだいぶ遅れていたらしい。そのせいか、子供の頃から父に通信簿を見せた記憶はあまり無い。常日頃から成績より「健康な体に健全な精神が宿る」「心は高く身は低く」「武士は食わねど高楊枝」等々精神面を強調するような傾向があったように記憶している。

もし孫が精神的に強いとすれば、草葉の陰で曽祖父は喜ぶことだろう。小生はそれより彼の何気ない言葉に含まれるギャグが好きだ。孫のことに一喜一憂しても始まらないが、昨日ブログの最後で大学の授業料について書いたばかりだ。具体的に書かなかったので今日改めて確認すると、年間授業料は国公立で年間54万円、私立では80万円にもなるらしい。こりゃ本当に親はたまらんだろう。てな話をしていると、婆さんがまた1枚の書類を取り出して署名をしてくれとのこと。

労働者福祉中央協議会が発行したものだったと思うが「奨学金無利子化運動」の呼びかけである。趣意書をざっと読むと次のように書いてあった『 日本に公的奨学金制度が生まれて70年。 もともと奨学金は無利子のみであり、 一部返還免除の特別貸与制度や教職・研究職の返還免除制度など、 給付的性格がありました。 ところがその奨学金が行政改革の度に 「ローン化」 されます。 』もう一人の娘の旦那さんが、身につまされて家に持ち帰ってきたので協力をとのこと。何でも彼が奨学金の返済が終わったのが、娘と結婚して相当経ってからだったらしい。先週参議院の予算員会で聴いて、認識を改めたばかりだったので、勿論一も二も無く署名に応じた。

それにしても昨夜は、実生活が直前に書いたブログの内容と余りに密着しているのでびっくりだった。

2016年1月19日火曜日

認識の相違

国会の予算委員会を所々見ている。特に興味のあるテーマがある訳ではないが、先ずこの期に及んで27年度補正予算の審議との触れ込みが如何にもインチキ臭い。景気の腰折れを心配して、補正の必要があるならもっと早くに国会を召集すべきだろうに。数日前にも書いたが、要は国民経済なんか全く眼中には無く、自分たちの党利党略以外の何ものでもない。

こちらは生活が徐々に苦しくなっていることは実感しているし、極言すれば経済的にはお先真っ暗でもある。これはあながち政府の責任ばかりとは言い難いのだろう。全て経済感覚が乏しい自己責任であることは十分理解している。恐らく政策的に手を差し伸べられるべきは、小生なんかよりもっともっと苦しい環境にある社会的な弱者で、国会審議を聴いている限り、こういった層が近年急激に増えているみたいだ。

「格差」という言葉をよく耳にするようになったのはここ5,6年、確かに安倍政権以降これが拡大しているとの指摘はあながち的外れでもないようだ。自分は中流で普通の暮らしをしているから大丈夫なんて、極楽とんぼのような気持でいて、気が付いたら「下流老人」では洒落にもならない。政治で国全体の経済が良くなるかどうか、その理屈はよく分からない。GDPとか株価とか国家の経済状況を示す指標はいろいろあるようだが、無学者にとってはどれもイマイチぴんとこない。

景気が良くなろうと悪くなろうと関係ないと思っていたが、貧乏人が増え続けている現状があり、最近になって知らぬ間に自分がそちらに押し流されているような気分になりつつある。やはり経済政策と言うものは実在し、現政府の政策のどこかが間違っているようだ。本人達は全く気付いていないようで、政策が正しいと力説強調している。現役時代によく言われたが、問題点を見つけることが先ず1番大事なこと。問題点が見つからなければ解決のしようもない。

正にその通りで、実生活に於いて何の苦労もなく過ごしている連中に「問題点を認識しろ」と強いること自体が土台無理なのかもしれぬ。「日本経済のファンダメンタルズはしっかりしていていますので、間もなくデフレも脱却して国民の皆様が果実を手にすることになるでしょう。」とする政府答弁と「国民の生活実態を全く分かっていない。」と批判する野党。どっちの言い分が正しいか判断のしようもないが、今や国公立大学の学費でさえ初年度は100万円になるらしい。恐ろしい世の中になったものだ。

2016年1月18日月曜日

大学受験の年

暖冬とは言え、今朝の東京は珍しく気温が-1℃で雪が積もった。深夜から続いた降雪が8時頃から雨に変わったので、余計始末が悪い。踝くらいまでの積雪に水を撒いているような状態で、歩きにくいこと夥しい。今日は終日ゴム長靴を履いて歩いたが、長靴を持っていたことを忘れていたほど久し振りのことだ。道路も公共交通機関も大混乱、勤め人は遅刻者続出だったことだろう。月曜日とのこともあって迷惑した会社も多かったろうが、センター試験のあった週末でなかったことを、受験生の孫を持つ身としてせめての救いと思うことにする。

ところでテレビで視聴者インタビューを折節に観てると、最近の子供たちは小学生から中学生に至るまで、自分の将来像について驚くほどしっかりしているように見える。優秀な返事をした生徒を選んでいるのかもしれぬが、自分と比較したり子や孫のことを思ったりすると、どうすればこんなに明確に意思表示が出来るのかと感じることがしばしばである。これが高校生から大学生になるとどうなるかである。

自分の過去を考えると、大学卒業間際まで社会と言うものをまともに考えたことのが無かったと白状せざるを得ない。下宿時代に新聞など読んでいた記憶も無い。小生が昭和30年代半ばの学生としては異端であり、学生運動が盛り上がっていた時代だから、一般的に捉えれば現代以上に若い人の政治への関心は高かったのかもしれぬ。人間は自分の経験を意識の最大の拠り所にするので、己との比較に於いて、現代の学生の政治意識は相当高いと思うし、18歳での選挙権付与は大いに賛成する。

そこで思うのだが、今年の正月受験勉強で忙しいからと、会うことが叶わなかった我が孫も今年18歳になるそうだ。暫く会っていないので分からないが、彼が社会事情をどの程度認識しているのだろうか。現代は新聞なんか読まなくてもテレビもあるし、スマホでネットからも相当な情報を得ているだろう。少なくとも小生が若い頃と比較すれば、自分が直接目にした世界より遥かに多くの知識を意識に詰め込んでいることだろうが、それが果たしてどの程度の水準にあるかを直接聞いてみたいものだ。

彼がどのように考えているか知らぬが、内心では「二十歳前に自分の人生なんか考えても無意味では?どうせ夢みたいこと思ってもその通りになんか行きっこない」と思っているが、あまり褒められる考えではないようだ。

2016年1月17日日曜日

官邸ではさぞ苦々しく思っているだろう

TBS系列にある信越放送の地上波では放送されない番組に「時事放談」日曜朝6時からがある。BSで同じ時刻の放送になっているが、何で信越放送が地上波での放送をしないのか不思議に思っている。キー局と地方系列局との間には素人には分からない難しい駆け引きもあるだろうから、それは脇に置こう。
この番組はほゞ毎週観ているが結構面白いことが多い。特に今日は面白かった。ゲストが元民主党議員で大蔵大臣の経験もある藤井裕久氏と、元伊藤忠商事の会長で中国大使の経験もある丹羽 宇 一郎氏。

藤井氏は年齢的に大分先輩になるが、丹羽氏はほゞ同年。このコンビでの出演は過去にも多い。普通は先輩藤井氏の辛口が目立つが、何故か今日は違って丹羽氏の舌鋒が鋭かった。司会の御厨氏から丹羽氏に対して今後の経済見通しが質問されたと思うが、丹羽氏の答えが良かった。「経済の専門家でさえ、年初のこの状況を予測しえた人は誰一人いない。まして、株価が下がっている理由や先の見通しなんかとても言えるものではありません。行きつくところまで行けば何れは上がるのでしょう。一つ言えるのは、株なんてものは一種の博奕ですから、素人は手を出さないようにすることでしょうな。」

一寸聞き逃したので不正確かもしれぬが、今値段が下がっている原油や金属の商品の中には高値から9割も値を下げたものがあるらしい。何れは上がるだろうとの話はこっちだったかもしれない。面白かったのはその後段、例の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が株式運用比率を上げている問題についてだ。「私は世界を相手にそれこそ命を賭ける思いで商品の売買を40年以上やってきて、上手くいったこともありますが、上手くいかなかったことも勿論あります。同じようなことを、どんなに赤字を出そうと給料が減るでもなく、まして首になるなんてことは考えられない<ど素人>の役人が、国民から預かっているお金で博奕をしているようなものです。これはどう考えてもおかしいですね。」

藤井氏も頷きながら付け加えた。「安倍さんほど株、々と言った総理は嘗ていません。池田勇人総理時代株価が上がったのは結果論であって、実態経済を持ち上げる政策が功を奏したからなんです。現内閣に国家国民を念頭に置いた経済政策なんてものはありません、単に自分たちのご都合、選挙のための工作だけではありませんか。」両氏の意見は尤もだと思いながら聞いた。<ど素人>発言には婆さんが大拍手だった。

2016年1月16日土曜日

事業仕分け個人版

現在自宅の近くに仕事部屋を借りて、昼間はここに通う生活スタイルである。嘗てインターネット関連の仕事をしていた時代からの惰性、延長である。仕事が無くなり、経済的に限界なので3月一杯で仕舞うつもりでいた。ところが婆さんが、自宅での受け入れ準備が整わないので、もう少し頑張ってほしいとのこと。仕事部屋に置いてあるガラクタを受け入れるつもりの洋間を片づけなくてはならぬが、春休みに小学1年生の孫を預かる必要が出来てしまったので、片付けは暫く先にするとのこと。

一時は寝室に使っている座敷をリフォームして事務所風にしようかとも思ったりしたが、これもかなり無理で無駄なことと分かった。今は自宅へのご帰還を1年先延ばしにしようかとも考えている。そんなことから、今日は現在の環境を維持しながら少しでも節約することを考えてみた。普段からケチをモットーに無駄をしないようにしているつもりではあったが、幾つか新たな無駄を発見することが出来た。

家計簿風に言えば「通信費」である。自宅と仕事部屋にそれぞれパソコンを置いて、何れも同じようにインターネット接続している。この費用を改めてチェックしてみた。両方ともプララが接続業者で、NTTの光回線を利用している。費用はNTT分を含めてプララに支払っている。自宅が月に6696円、仕事部屋が月に8748円と両方とも決して安い金額ではない。2か所の料金が異なるのも不思議と言えば不思議ではないか。

その上、メールがずっと昔からニフティ―だった関係から、ここへの支払いが月に2160円発生していることも改めて認識した。今日は半日じっくりこれらの問題に取り組むことにして、先ずニフティ―に連絡。「接続をプララから切り替えようと思うが」と切り出すと、相当ややこしいのでお薦めではないようだ。コストだけの問題なら、とすぐに教えてくれたのが安くニフティ―を利用する方法。2160円が一気に270円に値下がりしてしまった。サポートのお姉さんには感謝だ。

次にプララ、ここでもサポート、今度はお兄さんだったが、彼も丁寧にコストダウンの相談に乗ってくれた。次はそのアドバイスに沿ってNTTに連絡、回線をプララに切りかえることに成功。1回線あたりは月額318円だが2回線利用しているし、毎月のことなれば1年では小1万円になる。勿論場所ごとに異なっていた料金は安い方に合わせることになった。半日以上かかったが、年間で約5万円強のコストダウンできたようだ。

今までの無駄を反省すべき大きな金額だ。更に久し振りにルーターにログインする必要があったりして大分慌てたが、やっと思い出すことも出来て頭の体操にもなった。実に有意義な週末となった。

2016年1月15日金曜日

生活実感

経済学の高等教育を受けている人にとっては常識だろうが、「マクロ経済」の意味を知っている人は少ないのではないか。自慢できぬが知らない部類に入る。予算委員会が始まっているので、この言葉が総理や日銀総裁の答弁に頻繁に使われる。悔しいのでネットの辞書を引いたら結論として「マクロ経済学では一般均衡分析を、ミクロ経済学では部分均衡分析をつかっています。」ときたもので、益々分からなくなってしまった。

これがすんなり分かる頭脳を持っていれば、文学部なんぞでなくて経済学部に入学できたと言うことだろう。大多数の国民がそうだと思うが、国家の経済は分からなくても、家計についてはよく分かる。即ち、老人二人の家庭だから、今後働く機会が訪れる可能性はゼロに近く、収入は年金だけなので、国会答弁を聞いている限り減ることはあっても増える可能性はこれまたゼロのようである。また安倍総理に依れば、国民の幸せを考えてご親切にも物価を上昇させて下さるそうだ。家計は将来に向かって縮小確実で、人生のサイクル上また昔に還るのだと思うしかない。

冒頭書いたように全くよく分からないのだが、国家的に見れば物価の上昇はとても素晴らしいことらしい。従って、物価の上昇については政策の1丁目1番地の如く、目標まで設定されている。何でも2020年までに、年率で実質2%、名目で3%なんだそうだ。実質とか名目と言う意味がよく分からないが、実質とは賃金の上昇分を差し引いてのことと推測している。何れにせよ経済と言うものは凡人には難しすぎるが、年金の額は今年も減らされている。これが来年以降増える要因は何処にあるのだろう?勿論あろう筈はない。

既に国家への貢献がゼロで、年金支給だけを当てにしているような我が家のような老夫婦は、確かに国家のごく潰しなんだろう。しかし国家的には残念であっても、ご同輩は多い上に今後増える傾向にあることを、政治家はどう思っているのだろう。麻生財務大臣が「1年間医者に掛からなかった老人に10万円の報奨金を出したらどうか」と言ったらしい。この文脈で考えると最近はやりの子殺しとは正反対になるが、親に一服盛って死を早めた子供に報奨金となりかねない。

偉いさんは「マクロ経済で国家百年の計を考えているのだ」と胸を張って訳の分からぬことを滔々と述べている。しかし言ってる本人が何を言っているのか、意味を理解しているようにも思えない。好意的に解釈すれば、自分の生活実感が国民の多数レベルとかけ離れていることを自覚できているのだろう。その照れ隠しに、自分でも意味が分からない役人の作文を読むしかないのかもしれぬ。

閣僚の殆どは大都市圏のお金持ちの育ち、住民票は地元と称する場所に置いているだろうが、生活の根拠は東京にある。その上安定した稼ぎがあるので夜な夜な贅沢三昧、内儀さんに飲み屋をさせたりしているくらいだから、庶民感覚など分かれと言っても無理だろうな。

2016年1月14日木曜日

読後感「失われた空―日本人の涙と心の名作8選―」
吉川英明/編 

今年の正月も例年通り暮れに買った埒も無いスパイ小説を読んで過ごしたので、読後感を書く気が起きなかった。これは今年初めて買った本の読後感。パッとしない世相の中で読むに相応しい珠玉の作品だった。初めて知った人ではあるが往年の小説家吉川英治氏の子息で、慶応義塾の2年先輩、元NHK記者をされた吉川英明氏が選んだ日本の短編小説8編が綴られている。書名に惹かれて読んだとも言える。

中には嘗て読んだ記憶が甦った作品もあったが、初めて読んだものもある。何れも世の中の動きや周囲の人間関係に翻弄されざるを得ない人間の生きざまを考えさせる内容のものばかりである。人間社会には実に多くの人が存在し、その動静が個人に対して時には順風となったり、逆風となることは多くの人が体験することに違いない。誰しも常に風上に立てる筈はなく、風上に立っていたつもりが、ある日突然風下も風下、奈落の底にも落ちかねない。

歴史上にはそんな潮目の大変化が常時起きている。日本で言えば明治維新や昭和20年の敗戦なんかが典型であろう。そのような時代を背景にドラマが生まれるのは必然で、多くの作家が激動の時代を小説の素材にしている。ここで取り上げられている作品もその例には洩れないが、少し趣を異にするのは何れも歴史上には表れてこない人(実在架空を問わない)を主人公にしていることにある。

大体人間性、人間の本性は逆境にあって発揮されるとしたものだ。編者の吉川英明氏が「あとがき」に次のように書いている。『昭和13年生まれの私は、終戦の年に入学した戦後世代の”はしり“である。 その私から見ても、戦後70年、日本人の心は大きく変わったと思う。単に心と言う捉えどころのない多様な概念だが、ここでは、信、義、忠、孝、誠、情、等々良心の領域である。それが軽く、薄くなってしまった。日本人の心が持つしっとりとした情感、余韻そのようなものも失われつつある。』

更に『久世光彦氏は、昭和20年8月の空がいかに澄んでいて青かったかということをいくつものエッセイに書き「私たち日本人は、あの青空のどこかに、何か大切なものを置き忘れてきてしまった」と嘆いている。その何か大切なものを色濃く描いた小説を、を私の知る範囲から選んだ。この一文は解説ではなく、作品に惚れ込んだ私の讃歌である。』一読者としても全く同様の感傷を禁じ得ない。

話しが跳ぶが、集録された宮尾登美子さんの作品「自害」の中に、故郷信濃は須坂の最後のお殿様堀直虎が出てくる。これを読んで本当に嬉しかった。直虎氏については故郷では多少知る人もいるだろうが、全国区としては全くの無名。幕末に、若くして幕府の要職外国奉行に就き、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いから江戸に逃げ帰った際、大政奉還を迫って聞き届けられずに、その場で切腹して果てている。誰か取り上げて詳しく調べてほしいと思っていた。ほんの数行ではあるが、宮尾さんは詳細に史実を調べたことを覗わせる記述になっている。

2016年1月13日水曜日

発想の転換

東京もやっと普通の冬並みの寒さになってきた。昨日は昼から友人のところに野暮用があって出掛けたが、誘われるまま暖かい老酒などご馳走になってしまい、つい帰りが遅くなってブログは休んでしまった。ブログを休むぐらい天下の形勢に何の不都合もないが、性格的に日常の決まりみたいものを勝手に作っているので、何となく気分が落ち着かない。余り几帳面な生活は老人性の痴呆になりやすいと婆さんが言うので、何とか発想を転換したいが、それもなかなか敵わず厄介なことである。

どうしてそんなことが出来ないのだろう?朝起きてから寝るまで、何も几帳面にスケジュール化せずに済むのがサンデー毎日の特権ではないか。もう少し精神に余裕を持って毎日を送りたいものだと内心思うのだが、簡単なようでこれが結構難しい。しかし先ほどネット碁を1局打ってふと思いついた。齢を取ると確かに難しいのかもしれないが、発想を転換しないと囲碁の上達は望めないのではないか。逆に言えば、発想の転換で囲碁の打ち方が変る可能性がありそうだ。結果がどう出るかは暫く経たないと分からないだろうが、取り敢えずは試してみたい。

昨夜の友人との会話を思い出しながらも同じようなことを思った。老人同士の会話はいつも似たような話になりがちである。おたが脳味噌が古くなって考えが固定化しているので、考えようだがあまり面白くない。彼も変わらないが、自分自身も変わっていないのだろう。果たしてそれが良いことかどうか、改めて考え直してみたら世の中が少し違って見えるかもしれぬ。善悪の問題でなく、余生に楽しみが増えるかもしれぬ。

2016年1月10日日曜日

馬鹿なことを!

今日はブログを書くのをやめようと思っていたが、たった今インターネットののニュースを見て気が変った。テレビ朝日で流れたらしい映像、中谷防衛相が習志野基地で陸上自衛隊のパラシュート部隊による新春恒例の「降下訓練始め」に参加し、自ら降下の訓練をしたらしい。自衛隊員の戦闘服姿で高さ10メートルの訓練塔からから飛び降りるのである。訓練の後「日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中、日本を守り抜く」と決意を述べたと報じられている。

これを見て隊員の士気が上がるとでも考えたのだろうか?小学校の学芸会でもあるまいに、本当にバッカじゃねえか。日本の今そこにある危機は外国からの侵略ではなく、国内における政治の劣化である。外交問題で言えば、正確な情報収集によって、激動する世界情勢を冷静な分析と判断をすることで、戦闘訓練に精を出すことではない筈だ。一昔前までは「末は博士か大臣か」で勉強して頭の良い人が政治家になった筈だが、近頃は知能指数が低いうえに日本語もまともに喋れない頭の悪い人間が政治家になっているので困ったことだ。

2016年1月9日土曜日

基本中の基本

野党の要求から2か月以上も経ってやっと国会が召集されて、今週から論戦が始まった。4日からと報道されてもセレモニーや休みが入り、実質は昨日の衆議院予算委員会からである。昨日の審議7時間強の全てをチェックできていないが、野党の質問を約2時間ほど生で聴いてみた。案の定、答弁が相変わらずで、特に総理の場合は、質問への答えをはぐらかし、関係ないことを延々と喋るスタイルである。

得意気に喋る内容がこれまた相変わらずの低次元。詭弁だけならまだしも、二言目には民主党政権時代はまるで日本が暗黒時代で、引き換え現在は明るい未来が開けてきたようなことを平気で言ってのける。関係ないことをペラペラ喋るのは質問時間の妨害と同じなので、野党の理事から委員長にクレームがついたりしていたが、委員長がしれーっとして「総理は真面目に答弁されていると認めます。」ときたものだ。その度胸が無ければ自民党内で予算委員長にはさせてもらえないと言うことだろう。

たまたま生で聴いていた時間に民主党の階猛氏質問に立って冒頭にこう言った。「今年からは18歳の高校生も選挙権が行使できるようになります。テレビをご覧になっている高校生の皆さんにも分かり易くお答え願いたい。」全く同感である。階氏が昨日最後の質問者だったが、それまでに聴いていた質疑応答は本当に教育上宜しくないなと思っていたところだった。続いて彼が総理への質問をぶつけた「総理、野党に予算の提出権はありますか?」

当然事前通知の無い質問である。総理はオタオタしながらも「野党からも提案あって然るべき」趣旨の答えをした。知らなかったが、憲法で予算案は内閣だけしか提案出来ぬと定めてあるらしい。階氏は午前中自民党平沢議員の質疑を聴いていて、そのやり取りの中で総理が「野党からも代替案の提案があるのが望ましい」と言ったことを取り上げたのである。先ほどその平沢氏の質問もチェックしてみた。

質問の趣旨は、野党から要求のあった臨時国会を直ぐに召集できなかった理由を尤もらしく総理に説明させるつもりだったに違いない。総理は役人の書いた原稿をぺらぺらと読み上げた挙句、調子に乗って「このように予算案を編成できたわけです。たまには野党からも対案を出して頂き」と明確に喋ってしまっている。音符を読めずに音楽家が勤まる筈もないが、我が国は憲法を知らずとも総理が勤まること証明してしまった。

現内閣が憲法違反を幾つも犯していることは、他の質問でも多く指摘されているが、総理の脳みその中に憲法がしみ込んでいないことだけは確かなようだ。ここが昨日最大の見せ場だったともうが、マスコミは何処もこのやり取りを報道しない。暇のある方は下記URLから階氏と平沢氏の質問をチェックされることをお薦めする。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=45442&media_type=fp

2016年1月8日金曜日

老後の不安

庶民は株価なんぞ関係ないと思うので、株価が5日連続で下がろうと知ったことは無い。むしろ、スーパーやコンビニの買い物客動向は、景気に対する庶民の気持ちと大いに関係るのではと思う。と言うのは、自宅と昼間居住する部屋との間にスーパー1軒とコンビニが2軒あるので、人の出入りがどうしても目に入ってしまう。まだ正月気分が抜けないせいもあるかもしれぬが、どう見ても今週は客の出入りが少ないように思う。暖冬で冬物衣料が売れないとか言われるが、どうもそれだけではなく、庶民の財布のひもが一層締まってきている可能性がある。

総理は国会答弁で「雇用が増えているとか賃金が上がってきている、最早デフレは状況から脱却しつつある。」と恥ずる様子もなく胸を張って答えている。野党が「そりゃおかしいでしょう?」と突っ込むと「あなたは本質が分かっていない。」と開き直っている。どちらが経済の本質を理解しているかについて判定は出来ないが、感覚的には無駄遣いは控えようとする人が増えていそうな気がする。「もっとお金を使え」と仰る政府や日銀の意に反する我が家の同類が増えることが、経済的に好ましいのかどうかは疑問だが、親類縁者に余り景気の良さそうな人が居ないのが現実である。

総理が年末年始に3回もゴルフに興じるのは、休暇中のことだから良しとしなければならぬだろうが、大多数を占める庶民は将来に不安を感じているに違いない。我々は残る人生が短くなっているからまだいい。可哀そうなのは働き盛りの若い人、特にアラフォーから50歳が近づいてきつつある世代の人たちだ。金融機関、少し前までは保険屋が主だったが現在では垣根が取り払われて、皆異口同音に老後の不安や、老後に迫る疾病の不安を、あらゆる宣伝媒体を通して煽り立てる。

日常そんなものばかり見せつけられれば、普通の神経であれば不安は増すに違いない。この世代は子持ちが多い。老後に漠たる不安があっても、そんなこと言っている場合ではないかもしれぬ。今まで暢気に過ごしてきた独身者でも、五十路の峠が近づけば、気にならないと言っては嘘になるだろう。正月にお婿さん二人と久し振りに会うことが出来た。二人とも丁度そんな年頃に差し掛かっているが、経済的不安などおくびにも出さず、元気に孫の成長を見守ってくれている。本当に偉いと思うし、感謝せねばならぬだろう。

先のことを心配すれば切りが無いが、半年先に何が起こるか分からない世の中でもある。広告屋のなれの果てとして言えば、金融機関の宣伝に踊らされてはいけないのだ。

2016年1月7日木曜日

北朝鮮での騒ぎ

昨日、北の将軍様がとんでもないことをやらかしてくれたようで、昨日の夕刊から今朝になっても、マスコミはこれ一色の感ありだ。何でも核爆弾の実験を中国に隣接するエリヤでやっつけたらしい。従来は、後見国家の中国に対して実験前に必ず事前通告をしていたようだが、今回はこれを省略したようで、中国もかなり怒っているようにも見える。邪推すると、通告をしたものの「今はやめておけ」ぐらい言われたのを無視したのだろう。

今日になって、アメリカも2週間程前から実験の動きを掴んでいたとの情報が出てきたので、そんな邪推になった。アメリカも中国から何らかの情報を得たのだろう。暮れになって「日韓がいがみ合うのもいい加減にしろ」と仲直りを強制してきたのも、そんな背景だとすれば極めて分かり易い。米中と日韓では国の格が異なるのだろう。何れにせよ、アメリカは同盟国の韓国にも、勿論我が日本にもそんな機微に亘る軍事情報などは漏らさない。

日韓両国はアメリカの核の傘で守ってもらっているのだから仕方ないかもしれぬが、今度は「北に対する制裁を強化しろ」と言ってきた。安倍さんも少し困ったような顔を見せれば可愛げがあるが、嬉々として応じている。とばっちりを被るのは拉致被害者の会の皆さんだ。日朝協議が前提にしていた1年以内に、日本政府がまともな対応ができなったことは悔やんでも悔やみきれないだろう。何をするにも中途半端で口先だけの安倍内閣だ。

今回の騒ぎでも、さも何かできることがありそうなことを言うが、日本が何もできないことは多くの人が分かってしまっている。中東はおろか周辺の東アジアにおいてさえ、自国を守る術(物理的手段)が無いなら無いなりに、平素から平和外交とは何かを考えるべきだが、そんな発想はかけらも見られない。アメリカ軍が実験の正体を確かめるべく、しゃかりきになって昨日の午前中から偵察機なんかを飛ばしているようだ。日本はその結果をお聞きすればいいだけだと思うが、何を勘違いしているのか自衛隊も昨日の午後から慌てたように偵察機を飛ばしている。

自衛隊機は燃料タンクが特別小さく作られているので、朝鮮半島に達することははおろか日本海の真ん中から無事帰還できるかどうか疑わしい。そんなことは兎も角として何をしに飛び立ったかと言えば、核爆発実験で飛散したであろう大気中の放射線量測定のためとのこと。これまた笑わせてくれる話ではないか。大気の放射能汚染が進んでいるのは日本国内だろう。よその国の汚染マップ(SPEEDI)を作ってどうするのだ。311の事故以来すっかり忘れているが、日本でこそ毎日発表すべきだろう。

2016年1月6日水曜日

人工頭脳?記憶装置

今日は寒の入りとのことだが3月のような暖かさだ。過去にもエルニーニョ現象による異常気象(暖冬異変)はあったように思うが、今年は確かに異常のように思う。暖冬は年寄りには有難いし、大雪で雪掻きをする必要が無くて喜ぶ人もいれば、スキー場では商売にならぬと悩む人もいるだろう。野菜が採れ過ぎて農家は値下がりに苦慮し、消費者は喜ぶ。世は様々だが総じて見れば、季節はそれなりに移行してくれた方が万民に公平である筈だからそうあって欲しいものだ。

閑話休題
今朝の新聞1面トップに「ネット接続の複合機など、データ丸見え 大学など26校」のタイトルが掲げられている。一般家庭の専業主婦などビジネス環境に無関係な人にはイメージしにくいかもしれぬが、仕事辞めて3年になる小生でもある程度のイメージは出来る。そこで疑問に思うのが「大学26校」が特定されていることだ。現在ではネット接続の複合機なるものは、数十人規模までいかなくても一寸気の利いたオフィスには普通に設置されている事務機の筈だ。

勿論霞が関や永田町界隈の公官庁から自衛隊まで広く普及しているのではなかろうか。嘗て仕事をしていた時代、貧乏会社だったので設置は出来なかったが、キャノン・エプソン・リコーなど数社から熱心な売り込みがあったからその数は相当なものである筈だ。昨年あたりからIoT(モノのインターネット)と称して、何でもかんでもインターネットにつながる傾向がある。家庭生活にはかなりの利便が生じるようだが、冒頭の季節の話同様、何事も表と裏があるのが当たり前。

家庭生活程度で利用している分には顕在化しなくても、便利さの反面に存在する不都合がたまたまどこぞの国立大学で発見されたに過ぎない。記事に依ると、「官公庁や一定規模の企業は通信遮断装置(ファイアウォール)やパスワード設定といった対策をとっている。」と付け加えられているが、現役時代の経験から、ネット環境のセキュリティー対策は非常に手間の掛かるもので、本格的に対策を講ずるためには毎日の手当てが必要で、、相当な技術力を持つ技術者を常駐させないと叶わぬことを知っている。

今回発見された国立大学はほんの一例で、何らかの拍子で専門家がチェックをしたのだろう。悪意のあるハッカーがその気になれば、何台普及しているか知れない複合機の殆どは簡単に侵入されてしまうの違いない。昨年読んだ小説に書かれていたことを思い出す。嘘か本当か分からないが、中国の軍隊はインターネットに繋がらないネットワーク形成しているそうだが、マイクロソフトのwindowsパソコンを利用しているのでセキュリティーが確保できずにアメリカとの情報戦に敗れる話であった。

ともあれ、電子媒体の記憶容量なるものが現在どの程度の水準になっているのか?フロッピーディスクを懐かしく思い出すが、人間の脳みそには遠く及ばないにしても、相当な水準に達していることは間違いない。人間社会にもたまにはずば抜けて頭の良い人は居てほしいが、みんなが皆頭が良くなったのでは面白くなさそうだ。電子機器の進歩はどこまで進むか、馬鹿な小生には想像も出来ぬので考えても面白くもない。

2016年1月5日火曜日

年寄りの僻みか

正月に相応しいテーマを思い起こしたいが、目出度いテーマが見つからない。昨日も年賀状のことで書いたが、昨日頂いた年賀状に友人の奥様からのものがあって、友人が一昨年の暮れ亡くなっていたのを初めて知った。後期高齢者の峠を越えると、いち早くあの世に旅立たれる人が増えるのは仕方ないことなんだろう。一昨年あたりから親しい友人がかなり旅立たれた。何れは跡を追うことになるのだろうが、出来るだけゆっくり旅立ちたいようにも思う。

と言っても不老長寿はまっぴらごめんだ。天下のグーグルが不老長寿の薬か何かを開発していて、100歳は既に当たり前で500歳を目指しているとのこと。仮に友人の何人かが同じような年齢まで生き残っていたとしても、あまり気持ちの好いものではないだろう。元海軍士官だった文士の阿川弘之氏のことをどこかで読んだことがある。

氏は94歳で亡くなっているが、80歳になった時に、特に身体に異常が無いにも拘らず、以降友人には極力会わないようにしたらしい。帝国海軍士官として何事にもスマートであることを教育されたようだが、この生き方は確かに美学を感じる。昨年暮れから来し方、幽明境を異にしている友人を思うことしきりである。近いうちにゆっくり書きたい。行く末については、阿川氏のような美学を以て生きることが出来れば格好いいだろうが、とてもそうはいくまい。

願わくば平均寿命の80歳あたり迄はボケずにいて、その辺から徐々にボケて誰かに迷惑を掛ける期間が短ければいいのだが、これも思うようにはいかぬだろう。上手くいったとすれば、東京オリンピックを正気で観る勘定になるが、こんなものはどうでもいい。むしろ気になるのは福島の原発の方だ。福島第1原発からの放射線が空中や地下水に止め処なく漏れ続けているのだから、日本の空気や海水の放射能汚染は全く止っていない。これがどんな結果をもたらすかについては5年やそこらで結論は出ないだろう。

若いアスリート諸氏には気の毒だが、外国の誰かがこの危険を声高に叫んで、オリンピックなんか中止なれば良いとさえ思ったりしている。何事も経済性の追求ばかりが激しく、利害得失、効率優先、自己中心に拍車が掛かる日本の先行きを思うと、正月早々縁起でもないブログとなってしまった。

2016年1月4日月曜日

思いつくことも少なくなりそう

本日は世に言うところの御用始だろうが、社会で活躍する場所の無い人間にとってはどうもピンと来ない。今年はこうありたいとか、こうなってほしいといった類の思いが浮かばないのも情けない。天皇陛下は昨年多かった自然災害を悼まれて、出来るだけ穏やかな日が続くことを祈られたそうだ。小生も陛下と同じ気候について言えば、このお正月のように暖かい冬が続けば幸いと思ったりするが、これはこれで迷惑する人も多いかもしれぬ。

今年がどんな年になろうと関係ない人間になってしまったが、世界は相変わらず戦争のきな臭さが漂うし、国内も先行きハッピーな人が増える可能性が低そうにも思える。大病や怪我をしないよう心掛けて日々を過ごすしかない。頂いた年賀状の中に友人の一人が「後期高齢者になりましたので。今年以て年賀状は最後にします」とのメッセージを寄せた。他に、毎年来ていた年賀状が喪中案内も無く頂けなかった人が居た。多分ご高齢での為だろうと思う。

出来れば友人の真似をしたいとも思うが、果たして年末に決断できるかどうか。小生の年賀状など味も素っ気もない全くお義理のような代物だが、いざとなると義理を欠くと言う言葉に弱い気もする。兎に角、平凡な毎日を願うばかりだが、昨年同様にそんな毎日の中で思いついたこと書き記すこのブログは脳のトレーニングの心算で続けるつもり。ご愛読の程どうぞよろしくお願いします。

2016年1月1日金曜日

年の初めに

右サイドに記されているアーカイブの年号によれば、このブログは2009年から書き始めているので今日から8年目に入ることになる。いつもと違うパソコンのせいか反応が悪くて確認できないが、恐らくこの間元日にブログを上げたことは無い筈だ。気分的に正月休みということもあるが、実質的にも過去7年以上前から、元日は伊勢神宮への初詣と決まっていて、帰りは夜遅くになるので、とてもそんな気分にならぬも事実である。

ところが、今日はこのようにブログのページを開いている。別にお伊勢参りをしなかった訳ではない。帰宅が4時前で明るいうちだったので、風呂に入ったり食事をしたりしてテレビでも見ようかと思ったが、観たくなるような番組が一つもない。NHK民放共によくもこんな下らない番組を揃えたものだ。恒例のお伊勢参りについても、記憶の薄れぬうちにてなわけで書留めようとの思いもあり、普段使いなれないノートパソコンを立ち上げた次第。

過去20回以上はお伊勢参りをしているが、いつも一人旅であった。今回は高校同期の友人が同行したいとの申し出があったので、二人旅になったのが初めてのこと。またここ数年は経済的理由もあって、団体のバスツアーに参加していたのだが、今年の秋に来た案内書の料金がまた値上げになっていたことと、少しバスツアーに疲れてきていたこともあって、新幹線と近鉄で往復して松坂で1泊する計画に変更していた。

友人から申し出を受けた時は既ににホテルの予約は済んでいたが、ホテルに問い合わせると、料金が少し異なることで良ければ予約を受けるとのことで、友人も納得して同行することになった。彼は修学旅行で1度伊勢神宮を見たことはあるらしいが、ほとんど忘却の彼方で初めてと思ってくれとのこと。彼が何を思ってお伊勢さん初詣を思いついたか聞きもしなかったが、当方に何も不都合はないので、その後の列車の手配なんぞは皆一緒に予約を入れた。

こっちも少しゆっくりした旅にしたかった訳でもあるが、彼も体の調子がそんなに良いわけではないので、ちょうど良い塩梅と言っては失礼かもしれぬが、少なくともこれまでになく参拝場所や立ち寄り先も大幅に減らし、タクシーもふんだんに利用したので東京駅に3時前に着いてしまった次第で、このブログを書く気になった。友人と往復一緒だったのでいろんな話をする中で、先ほどの「なんで思い立ったか?」を尋ねてみた。

彼曰く普段は奥さんと二人で温泉に行ったりしてゆっくりした正月を過ごすのが常らしいが、「今年は自分個人のこれまでの人生を振り返ってみたかった」とのこと。その気持ちは分からぬでもない。こちらの動機は極めて不純、「苦しい時の神頼み」だったが、彼の話と外宮に付随する「せんぐう館」(素晴らしい展示があるお伊勢さんの資料館とでも言おうか)で職員の伊勢神宮について説明を聞くうちに、過去を振り返ることの重要性にはたと思いが至った。

伊勢神宮では20年に一度、遷宮祭が執り行われることについて知らない人は少ないだろう。この祀り?は640年代持統天皇の御世から延々絶え間なく行われているそうだ。伊勢神宮は1500年を経た現代においても殆ど当初と変わらぬものらしい。解説者がうまい表現をしていた「伊勢神宮には日本人のデータベースが蓄積されています」穀倉を形作る神殿を尊び、20年ごとに神殿を新たにすることで技術の伝承を絶やさなかった。因みに材料はすべて国産で、玉のように見える光物も全て国産材料を加工して出来ている。

そんな説明を受けると、1500年も前から我が国の統治者は、国民の食料を確保することが国家安定の基礎であることを知り、国民と国家の平和を祈念し続けてきたのかもしれない。そのシンボルがこの伊勢にお宮だそうだ。これも皆知っているかもしれぬが、氏子は天皇家だけ。これもびっくりだったが、1回の遷宮に要する経費は約550億円(国立競技場を思うとなんと小額なことよ)で国家のお金は1銭たりと入っていないのだそうだ。これを聞いて、お守りを例年より2つも余計に買い込んでしまった。

小生のこんな下司な質問にも嫌な顔もせず答えてくれた職員(神職かな)には敬意を表したいし、この神域に改めて日本の原風景を見た思いがした。人間にとって改革も革新も大切かもしれぬが、守るべき原理とか原則を考えることになった年の初めである。