2009年9月30日水曜日

308議席の危険性

小沢一郎の盟友で平野貞夫と言う人が居て、彼とサンデープロジェクトのレギュラー出演者の高野孟と対談を聞いた。この中で平野が面白い事を言っている。一番面白かったのは敵は常に身内に有りと言う事で、細川政権を潰したのは武村正義だというのだ。彼は小沢が8党派を纏めた時に総理にしてもらえると思っていたらしい。それが細川に行ってしまったので野中広務なんかと組んで政治改革を止めてしまったのだそうだ。従って彼は今でも正義漢面をして、小沢二重権力構造をしきりに吹聴しているのだそうだ。

これを別にすると、民主党の大量獲得議席への危険性について警鐘を乱打している。理由の一つは権力の不正な行使である。今回の選挙について、自公政権に対する国民の不満は多々あったろうが、選挙直前で小沢の秘書を逮捕した事。もしこれが無くて小沢と戦っていれば、麻生氏もこれほど負ける事はなかった筈。又、小沢の秘書逮捕の後に出てきた自民党側の同じ問題に検察が同様の対応をしていたならば、これ又そう簡単には負けなかったろう。

更に、参議院で与野党の勢力逆転したにも拘らず、自公政権は衆議院での再可決を繰り返した。この事で国民は自公政権の権力行使の仕方に非常に危険なものを感じ取った筈だ。マスコミの分析には出てこないが、それが今度の大敗に直結している事を理解しなければいけない。民主党はこの事を良く良く弁えないととんでもない事になる。

二つ目の理由、民主党の議員は若くて優秀とされる人が多いが、政治家としての発想と感性に欠けるきらいがある。換言すると民主党は脱官僚依存政治をうたいながら、最も官僚的な政党であるとも言える。何とか塾とか、外資とか、官庁とかから出てきた優秀とされる人間が多いが、これが殆ど偏差値教育で培養されてきた人種なので、論理的ではあるが人間の機微に疎いのが心配である。

今朝も婆さんと岡田外相について話をした。以下の事をテレビで放送していたらしい「岡田さんは常に割り勘、誕生日とかにワインを貰っても送料を添えて送り返すそうだ。周辺が心配して、酒席で女性を両脇に侍らすよう段取りしても、これを全く無視して無粋な話に終始してしまった。第一お金持ちでありながら若い時から決してぜいたくはさせてもらえなかった。」との事だ。

今朝我が家では、家の爺さんや麻生氏と違って真面目なのは大いに結構じゃないかと言う話だったのだが、平野氏に言わせると<乳母日傘で育ち、命を賭けたような恋愛もした事が無い人間>これが怖いのだそうだ。面白い話だったので早速本屋に行って彼の「わが友・小沢一郎」を買ってきた。

2009年9月28日月曜日

新政権発足

民主党に政権が移行したお陰で実に様々な事が見え始めている。今までと言っては悪いかも知れないが、少なくともここ10数年、特に森内閣以降ぐらいの政権与党はいったい何をやって来たのだろう?極端に言えば官僚の言いなりになって、国民のためには何もしてこなかったようなものだろう。官僚は企業と同じようなもので組織の存続が自己目的化してしている事は言うまでも無い。

企業が存続を図るには市場の変化に柔軟に対応する必要があるが、役所は国民生活の実態を観察するより政治家の鼻息や顔色を窺っていさえすればいいのだ。民主党の最高顧問渡辺恒三がいみじくも「嘗て最初に厚生大臣を拝命したが、仕事は厚生省の国会対策委員長のようなものだった。」とテレビで語っていた。政治家は国民のためでなく役人のために存在していたのだろう。

更にこの上にどう仕様も無いマスメディアの存在がある。田原総一郎が番組の中で政治家亀井静香に対して「あんた達は権力をもっているが、私たちは何も無い。聞く権利だけが我々に付与されている唯一の権利だ。」と偉そうに言っていたが、なれ合いの猿芝居の中で何をほざくかと全く笑わせてくれる。国民を一定の方向に誘導すると言う意味で、今やテレビメディアに生きている人間は、田原なんかは特にそうだが自分は最大の権力者と内心思っている筈である。

確かにこれまで私のような愚民は新聞やテレビにかなりミスリードされてきた事は事実として否定できない。しかし、最近新政権の閣僚やそのスタッフがテレビカメラの前で、「私たちはまだそんな数字を発表していません、又は、私たちは現在こういった方向で作業中でこのように考えています。」と堂々としゃべり司会者を慌てさせる場面が多くなった。内閣の記者会見をオープンにすると言っていた事も外務省を筆頭に実現しそうな雰囲気でもある。

これまでメディアに出てくる人間は、自分だけがファーストハンドの情報を豊富に持っていて、その一端をここで披瀝すれば・・・・と言う事でもったいをつけて偉そうにしていた。数日前インターネットの情報で、田中良紹が「なぜ記者はバカになるのか」について面白い事を書いている。

>以下省略して引用
「記者って何であんなバカな質問ばかりするのですか」と聞かれた。
前に「頭が悪くないと新聞やテレビの記者にはなれない」とコラムに書いた私は、「だから新聞やテレビの報道を信ずる方がおかしいのです。新聞やテレビを見ないようにして、潰れる寸前まで行かせないと、彼らはまともにはなれないのです」と答える事にしている。
当たり前の話だが、高給の記者が真面目に仕事をするはずはない。嫌われても他人と競争をし、リス   クを犯して真相に迫るより、右を見て左を見て、みんなと同じ事をした方がずっと楽だ。世間が羨ましがる地位と収入を捨ててまで危険な事はしたくない。何よりも記者はサラリーマンなのである。

現在でも八場ダムの工事中止なんかについては偏重報道が相変わらず続いている。インターネットで新聞テレビが報道しない情報を見ていると以下の記事があった。

>以下省略して引用
これはかつて長妻昭=厚労省が07年に国交省から得た資料として公表して話題になった数字だが、今になって改めてこのように報じられると再度驚いて、「これじゃあ簡単には建設を止められないわけだよな」と妙に納得してしまった。
(財)国土技術センター、(財)ダム水源地環境整備センター、(財)ダム技術センターなど八ッ場ダムに関わる公益法人7団体に04年現在で25人、同ダムの建設工事を落札した土建会社やコンサルタント会社など企業37社に03〜05年の間に52人、さらに随意契約業者57社には99人、合計176人の国交省OBが天下っているという。これは、04年前後の数年間でそうだったという話だから、発端から57年も経っている長い歴史の中で一体何人の天下り官僚がこの愚劣極まりない計画でメシを食ってきたのだろうか。恐らく1000人は下るまい。

政権交代で政治家の動きは徐々に変わり始めている。メディアも反省をして変わってほしいものだ。

2009年9月24日木曜日

上高地から奥穂高岳に


今朝は天気も日本晴れで実に気持ちが良い。と言うのは昨日までの5連休をフルに使って北アルプスの奥穂岳まで行って無事帰ってきたからだ。山に行くとき一人で出かけるのは慣れているとは言っても、流石に穂高連峰の最高峰で、しかも初めてとなると余り気安く行けない。先日鹿島槍で世話になった青年に計画を示して教えを乞うた。彼が計画を年寄り向きに修正してくれたり他にもいろいろアドバイスをくれた。特に大事な事は、先週の甲斐駒の時のように道を間違えた時には必ず元に戻る事、路線変更をしない事である。これが実に役に立ったし、山小屋の会話でも同じ事が常に話題になっていた。

19日、予想通りに台風は日本を直撃することなく小笠原から北に進路を取ったので朝から快晴。列車や19日の上高地アルペンホテルと20日の山小屋の予約は先週の水曜日だったが運良く全て予約が取れた。但し20日の涸沢小屋は、120定員の所既に200人は予約が入っているのを承知で来てくれとの事。3泊目の穂高岳山荘は予約を受けないシステムのようなので、これは予約なし。帰りの列車も指定は取らずに自由席特急券にしておく。この日は昼過ぎに予定通り順調にホテルに到着、チェックインには時間が早すぎたので上高地を散策、明日から目指す穂高の山並みが美しいがどれが奥穂なのかは分からない。ただ頂きの高さには圧倒され、あんなところに登るのかと思うといささか不思議な感じもする。

20日早朝、昨日貰った弁当を暗いホールでそそくさと済ませ、明るくなってきた6時前に出発。横尾橋までは何度も歩いているので勝手が分かるが、そこから先は未知の世界。横尾橋で軽いトイレ休憩をしただけで兎に角黙々と歩き続ける。基本的に平坦であれば2時間、山道は50分で10分休憩が理想的なペースだが、調子が良いので少しペースが速かったかもしれない。横尾橋から小1時間で本格的登りになる本谷橋と言うポイントがあり、ここで一息とガイドブックにあったが余りに人が多いのでここもパス、10:30頃には涸沢の裾に着いてしまった。穂高連峰に少しは近づいている筈だが、標高差は益々大きく感じる。

更に1時間ちょっと、11:30には涸沢小屋に到着チェックインをする。今日初めての客のようである。今回の山行きでしみじみ思うのは、山小屋は出来るだけ早い時間にチェックインをするのが何かと都合が良い事だ。この日も結果的に相当な混雑になるのだが、早いチェックインのお陰で比較的良い場所が確保できて、先ずはテラスでのんびり昼前から生ビールを呷る。隣のテーブルに居た女性に記念写真のシャッタを切ってもらう。彼女は今朝6時夜行バスで上高地に着いて、明日北穂高に登るのだそうだ。暫くするとぞくぞくと登山者が登って来る。混み合う前に入口に近い場所の指定の布団でにゆっくり骨休めが出来た。 夜は布団1枚に二人と言う感じ。予約無しの人は布団1枚に3人以上だったようだ。

21日、朝から無風快晴。既に暗いうちからヘッドライトを頼りに出発する人が多い。兎に角冒険をしてはいけないので、6時少し前の明るくなるのを待って出発。寒さもそれほどではない、少なくともタイツやステテコもはかず、Tシャツも半袖のままで上に木綿のシャツと薄いヤッケを1枚羽織るだけで十分だった。7:30には穂高岳山荘に到着、すぐにチェックイン。番頭さんが宿泊料を1000円上積みすると、「特別な個室で布団1枚確保できるサービスがあります。」との事。勿論そうしてもらう。

これが実は大正解。当日は大変な混雑になるのだが、このサービスを受ける事が出来たのは僅かに13人、内4人は連泊の人だから実質9人しかいない。この日の宿泊人数はどうやら700人(定員の3倍以上?)を超えていたようである。経験者でないとこの混みようは想像が難しいだろう。夜になると廊下から食堂まで人間と荷物で足の踏み場が無くなるのだ。ともあれ、部屋の扉から他と違う誰もいない個室に入ってゆっくりと頂上アタックの準備、と言ってもサブザックに水と食料と雨合羽を詰め替えるだけ。

7:45分山頂アタックを開始する。アタックと言う言葉に相応しく最初から梯子などが出てきて、狭くてきつい登りから始まる。既にここは相当な混雑で、山荘の横で順番を待つ必要がある。順番待ちで前を見ると昨日涸沢小屋で写真を撮り合った女性が立っている。確か昨日は一人で「明日は北穂に行きます。」と言っていた人だ。お互い顔を合わせてびっくり、「思い切ってこちらに来てしまいました。」との事。この人、昨日の話ではかなり山に行っているようだし、コースを変更するところなんか誰かに似ている。追い越し禁止道路を行くようなものなので、喋りながら一緒に行くが歩き方が全然力強い。約1時間ほどで山頂、又昨日のように写真を撮り合う。


山頂から360度の景色はもう何とも言えない壮観だ。水分を補給したり甘いものを食べたりしながら北アルプス最高地点からの眺望を心行くまで楽しむ。この時の気分は何と表現していいか分からない。二人で話をしたりしていると、何かの拍子にもう一人青年が話に入って来た。彼も山に一人で来ている口だ。山はすぐに友達が出来る。彼ら二人は涸沢にザックを置いてきているので、今夜は彼の方は涸沢ヒュッテに彼女は涸沢小屋に戻る予定だそうだ。兎に角穂高岳山荘まで3人して一緒に降り、山荘のテラスでのんびり話している時のことだ。突然「ラクー!」と言う大声が響く。

声の方を見ると、一抱えほどの大岩石が音と共に登山者の列のすぐ脇を落ちてくる。どの辺から落ち始まったかは確認していない。見た時は最後の一瞬であるが、この岩が直登の列の一番下に居た人の方に寄って来た。正に目を覆いたくなったが、狙われたその人は一瞬体をひねったようで、倒れはしたが直撃は避けたように見えた。どんな大騒ぎなるかと思ったが、周りは意外にシーンとしている。思わず「事故が発生だぁ。」と小屋に向かって大声を上げてしまった。それでやっとと言う感じで番頭が出て来て、登山者の列に声をかけていたが、倒れた人は自力で起きたようで番頭はそこまで登ってい行かない。

3人してこの事件を見ていたのは時間にすれば10分程の事だったかも知れない。暫くすると倒れた人より少し上から女性が3人、腕から出血している人が二人に両脇を抱えられて降りてきた。倒れた男性が降りてこないうちに再び列が動き出す。眼鏡を必要としない若い二人も「あの人もどうやら登り始めたようだ。」との事。しかし私には凄いショックだった。夜になって分かるのだが、山荘のテラスで大勢見ていた人の中で。同室の一人、高知県から来たおじさんが山頂アタックを取りやめたとの事だった。もし私も同じ立場にいたらそうしただろう。個室の夜の懇談ではこのルートは槍ヶ岳や剣岳(実は行った事が無い)のように登り降りを別にすべきだ、と言う事で意見が一致。一人が早速小屋に掛け合いに出かけたが超満員の状況で相手にして貰えなかった。

昼近くになったので二人は涸沢に降る事になり、部屋に戻ると隣の布団に新たに二人の客が寝ていた。暫くして一人起きて来て互に挨拶、正に文字通りの四方山話を始める。この方は東京の開業医で同行しいるのは大学2年生の息子さんで、初めての親子登山との事。大学時代は毎年夏に徳沢にある大学の診療所に来ていたので、この辺は良くご存じのようだ。しかも先月も一人で奥穂に来て例のヘリコプター墜落現場のジャンダルム迄行って来たとの事。互にこの特等室に入る事が出来た事を喜び合う。山の事ばかりでなく、先生は医療行政に関する現場からの意見を述べて、小泉竹中路線のご粗末さなどについても二人の意見が一致して大いに盛り上がる。

夕方になると先に述べた高知県からの単独登山者に石川県からの単独登山者が加わる。更に夕方遅くに凄い大きな荷物を背負ったご夫婦が入室。プロの写真家で今日はジャンダルムに三脚を立てて笠が岳の写真を撮ってきたとの事。経験からジャンダルムへの危険性よく知っているお医者さんが感嘆の声を上げる。又この先生がアマチュアながら大の写真好き、プロの道具を手に取らせて貰い、同じニコン派と言いう事で、また意気投合してカメラ談議で盛り上がる。後から入って来たもう一人は岡山県の人だったが、これ又写真好きで、話がそっちで益々盛り上がった。この岡山の人は昼前の落石事故の折に現場に居あわせ、落石そのものではないが、はじかれた礫を受け顔面を負傷、絆創膏で応急手当をして、奥穂と更にジャンダルム迄足を伸ばしてきたとの事。早速お医者さんが抗生物質や化膿止めを投薬。

小屋全体は火事場のような騒ぎになっているが、この部屋だけは別世界で、余裕をもって全員が和気藹藹で楽しい語りが続く。更にその後、娘さん一人を連れたご夫婦が登場するが、早速に2段ベッドの上で固まって身繕いをして下には降りてこなかった。残り二人分が空いているのだが5時前になると夕食のアナウンス、これもこの部屋がトップに呼ばれる。部屋から出ると廊下も足の踏み場がない程で、昼サービスに使っている食堂から土間、懇談室に至るまで人が溢れて疲れたような顔をした人達がボーと座っている。まだチェックインが出来ない人もいるようだ。恐らく今夜の夕食は9時過ぎまで掛るだろうと言う声も聞こえる。その後食堂を片づけて、遅くチェックインした人の寝るスペースを作るのだそうだ。

夕食がすんで真っ暗になってから夫婦一組が入ってきた。岐阜県から来た連泊組で「昨日北穂からここまで来て1泊、今日は前穂まで往復してきました。」これで山好き11人が揃った事になる。皆それぞれベテランだから、話を聞いていると面白い。こちらは隣のお医者さん親子に明日一緒に降ってくれと頼んで、その上に筋肉を和らげる精神安定剤まで貰って早々に寝てしまった。小さいながらも布団一組が確保されているので、山小屋とは思えないほど十分な睡眠をとる事になった。

22日、雨が今にも降りそうな気配。降り始める前に比較的山荘に近いザイテングラード(支稜線・支尾根)なる難所を越してしまおうと衆議一決、3人で6時に出発。お医者さんが荷物を置いてある涸沢ヒュッテを目指す。丁度ヒュッテ直前で雨が本格的に降ってきたので、ヒュッテで雨合羽を完全装備、上高地に向かう。道を急いで12:30上高地の合羽橋に到着。お医者さん親子は今夜は帝国ホテルを予約しているが、チェックインには少し早いと言う事で弁当を広げる。こちらも残りものを食ったりしながらストックをしまったりして一休み。お医者さんは、「明日11時にタクシーを呼んでいますから松本まで一緒にいかがですか」と親切なお話。勿論喜んでお願いをする。

彼らと別れて、大勢の観光客の中をぶらぶらと上高地アルペンホテルに向かって歩いてくると、すれ違いの中から「おやっ、また!」と声を掛けられる。何と昨日奥穂で一緒になったお二人さんではないか。二人は涸沢を我々と同じような時刻に出発して早くにここに到着、風呂で汗を流してバス待ちの時間つぶしに同じくぶらぶらしていたらしい。偶然とは言えチェックインするホテルの直前で出会うとはご縁ですね、3分違っていたら永遠のすれ違いでした。互に時間がたっぷりあるので、昨日撮らなかった互いの写真を撮り合い。青年が名刺を呉れたのでこちらも名刺をお渡しする。女性は名刺が無いのでメールで写真を送ると言ってくれた。

兎に角天気に恵まれ、楽しい人達との出会いがあり素晴らしい登山であった。その夜ホテルで相部屋、食事が同じテーブルになった青年は博多の人で奥穂から西穂経由で降りてきたとの事。流石に日本アルプスと言うだけあって、ここは全国から山好きが集まってくる事が良く分かる。23日は11時にお医者さんが呼んだタクシーに同乗、松本には1時間ちょっとで到着、指定は勿論終日満席だが丁度12:57分発のスーパーあずさに楽勝で席を確保、4時には無事帰宅した。帰宅が早かったし、夕べホテルで十分休んで疲れも無く体の調子が良いので、いつも婆さんにしてもらっている靴洗いを、自分ですると言ったら婆さんがびっくりしていた。

65歳から山登りを始めて5年、今度の山行きで山登りが少し分かったと言うか、己の考え方が大分変ったような気がする。山荘でお医者さんの息子さんから「山登りは何で楽しいのですか?」と聞かれ改めて考えた。取りあえずは「山に来ると英気と言うか、いわゆる新鮮な気が貰えるからです。」と答え「なるほど癒しみたいものですね。」この場はこの程度の会話で終わった。

上手く説明は出来ないが、山歩きは心身の健康上一番と言えるほど年寄りにとっても楽しいレジャーであるのは間違いない、来年春70歳の坂を越しても折を見て続けたい。しかし・・・・・・・楽しさの裏に潜む危険も併せて考えなければいけない。
思えば一昨年も昨年も自分自身危険な目にあっているではないか、今年は自身では辛うじて難を逃れているが、7月針の木雪渓での同行者の事故と今回の事故目撃(気丈に降りてきたおばさんが、1時間後には小屋で青い顔をして横たわっていた姿が目に焼き付いている)が記憶に新しい。一人歩きは、いろんな人と友達になれて、車に同乗させてもらえるようなメリットもあるので止める心算も無いが、全て自己責任である事だけは肝に銘じ、今後は次の3カ条を順守したい。

1.これからは危険度の高い山、難しいとされる山や場所には近づかない事にする。
2.縦走など体力的にきつく無理な計画をしない。 年相応の計画を作る事。
3.必ず山頂を目指すと言う考えはしない。

今年はもうそんなに山に行く機会は多くないだろう、と今は思うが。5月に田舎の従弟が、刈り取りが済んだら蓼科山に誘うよ、と言ってくれたが約束は果たされるのだろうか?後は整体の担当者が来月奥多摩のどこか一緒に行きませんか?があったな。昨日婆さんが「10月の連休はどこに行くのですか?紅葉はこの辺ではどこが良いの?」と聞いていた。「碁会所の大会を2カ月連続でさぼっているしなぁ」と生返事をしたが、まだ今年は2か月近くシーズンが残っている。でも今日のように爽やかな秋日和はどのくらいあるのかな?

2009年9月16日水曜日

馬鹿は死ななきゃ直らない

今日は鳩山内閣が正式に発足した。日本の将来にとってハッピーな日である事を心から祈る。鳩山氏にある種の爽やかさを感じるのは小生だけだろうか?今朝も婆さんと話したのだが、雑誌文芸春秋10月号の記事によると、鳩山さんは政策立案能力に欠けるような事を言っている。しかしそんな事はどうでも良いではないか。民主党には政策通が可なり居るようにも見える。政党リーダーに必要な資質は政策立案能力ではなくて統率力だろう。剛腕と言われる小沢氏を取り込んでいるだけでも評価したい。尤も小沢氏に言わせれば、彼が鳩山氏を取り込んでいると言う事だろう。

この日にしたり顔で政権担当能力を云々するコメンテータがいたが、よく言うものだ。国民が選択した内閣ではないか、嘘でもいいから一国民として祝いがなぜ言えぬ?

もう一言言っておきたいのは麻生内閣の引き際の醜さ。およそ日本人の美学からは隔絶した立ち居振る舞いは何とも言いようがない。これまでの1年間、日本人としてはなにかマンガか冗談の世界で弄ばれたような気がして空しい限りだ。本当に馬鹿は死ななきゃ直らない。

2009年9月15日火曜日

甲斐駒ケ岳登山



65歳から高齢者登山を始めて早5年、単なる思い付きで始めた割には結構はまっている。とは言っても体力は日に日に衰える一方なので、高い山は出来るだけ早いうちに登りたいと言う気持ちが強い。今年は既に北アルプスに2回行く事が出来たが、南アルプスには未だ行けていなかった。南アルプスの峰々は北アに比べると姿が優雅で雄大なので、もっと行きたいも気持ちもあるのだが如何せんアプローチが長すぎて気軽に行けない憾みがある。しかし先週知り合いのブログで甲斐駒ケ岳だけであれば土日1泊でも行く事が出来ると言う事が分かった。


思い立ったが吉日で早速ベースとなる仙水小屋に連絡すると、12日の土曜日は満員だと断られてしまった。ところが良くしたもので、その翌日得意先の担当者が9月14,15日と夏休みを取るとの連絡が来た。こちらも夏休みは未だ1日しか取っていなかったので、これ幸いと14日を夏休みとして13(日)、14日(月)で甲斐駒登山にする事にした。例によってがってん太郎の悪い癖で少しばかりの失敗もあったが、最高の天気に恵まれ、南アルプスの息をのむような素晴らしい景観を十二分に楽しむことが出来た。


十三日の日曜日、目的地の仙水小屋はバス停から僅か一時間足らずの行程なので朝もゆっくりで8時のスーパーあずさで甲府へ、ここから路線バスを乗り継いで12時45分登山口の北沢峠に辿り着く。ここから仙水小屋までは僅か1時間足らずの筈だ。ここで悪い癖が出た。実はこの小屋へ行くにはここから少し降って別の登山口から登り始めなければいけない。それを目の前に甲斐駒ケ岳登山口と案内板が見えたので、これで間違いないと思いこんでしまった。


1時少し前から登り始めると、どんどん降ってくる人クロスする。3,40分すると降ってくる人が不審そうに「これからどちらまで?」と聞いてくるようになる。こっちは「今日は仙水小屋です」と答えると、最初のうちは「はあ、そうですか」で済んでいたが、1時間以上歩いても小屋の気配が感じられないのでこちらもだんだん不安になって来た。地図を取り出して見ると明らかに登山口を間違えている。明日下山で使うつもりでいたルートを逆に登っているのである。標高を確認すると既に2500m近い。


しかし来る時の車中、1時間足らずの歩きで2時前に小屋に着いたら今日はどうしよう、と思案していた事もある。天気も良いので駒津峰経由で仙水小屋に行く決心をする。少し頑張れば明るいうちには小屋につくだろう、と何時ものいい加減さ。2時半頃先ず双児山に到着、下山途中に休憩している人達から相当奇異と同情を持った目でで見られる。ここから駒津峰は少し降って登り返しになる。3時20分駒津峰に到着、当然の事ながら人っ子一人居ない。既に標高は2700mを越え眼前には甲斐駒ケ岳が迫り、遠方の山々の夕映えとあいまって何とも言えない美しさを一人占めである。


今日この素晴らしい天気でこれだけの景色を堪能できたのだから、明日は途中温泉にでも入ってゆっくり帰る事に予定を変更して降り始める。双児山であった登山者が「駒津峰からの降りはかなり急です。」と同情をもって話してくれた通りかなり急である。山小屋の夕食は5時と相場が決まっているので、何とかそれまでにと気持ちは焦るが、足場は相当悪くて危険である。途中1回水飲みをしただけで小屋に丁度5時に到着。しかしこの小屋、何と5時で夕食が終わってしまっていた。「予約の小林さんですね?今食事を用意しますから。」「取り敢えずビールを一口飲ませてくれ。」と頼んで後は一人だけで食事。


小屋のご主人が言うには「消灯は7時、明日の朝は3時半に点灯して4時から朝食です。」との事。「だから時間がたっぷりありますから、帰るなんて言わないで折角ですから山頂まで行って下さい。駒津峰は直登だから標高が稼げて登りは楽なんです。明日は天気がもっと良くなりますよ。」この言葉で又気が変わる。


14日月曜日3時半小屋のご主人が来て真っ暗なのに「今日は穏やかで最高の天気です。」との事。確かに星はあるが雲も風もない。朝食が済むと20人位の客がどんどん出て行く。ヘッドライトで歩くのは未経験自信が無いと言うと、ヘッドライトが無ければ誰かの後を付いていけばいい、森林地帯を抜ける頃には明るくなりますよ。と気楽な事を言ってくれる。仕方がないので意を決してザックの中からヘッドライトやフリースを引っ張り出す。5時、宿泊客最後になったが出発、成程小屋の主の言う通り急坂は登りの方が楽かも知れない。1時間半も歩くと夜が明けて、南アルプスの山々が暗闇の中から姿を現し、"Good Morning!"と、昨日とはまた一味違う姿を見せ始める。


7時前には駒津峰に到着。大分前に出発したお年寄りと途中からほぼ一緒に登ってきたが、昨日小生がここで考えたように、「山頂はもう何度も登っているので、これ以上はは無理をせずここでゆっくりして降ります。」との事。こちらも何れそうなるだろうし、第一3000m級の山なんか来年来るかどうかも分からない、なんて考える。しかし一休みして結局山頂を目指す。ここからまた少し降って登り返しになるが、途中で直登コースと巻き道に分岐する。昨夜の主の話「急坂は登りは楽」を思い出して迷わず直登コースを選択。しかしこれが又間違い、コースと言っても岩登りの連続で2本のストックが邪魔になるほどに四つん這いで這い上がって行く感じ。コース標識が極めて分かりにくい。時間的には巻き道の方が早かったようだ。


ともあれ8時50分には山頂で記念撮影、雲も風も全く無く、360度のスカイラインの美しさは何とも言えない。本当に来てよかったと言う感じ、心の中で仙水小屋の親父に感謝を捧げる。


帰りは北沢峠発15時30分の最終バスを予定し、それに合わせて電車も甲府発18時5分の指定を取っていたが、北沢峠発12時55分発に間に合い、帰宅8時の予定が6時には家に帰ってきてしまった。


いろいろな偶然が重なり合ったのだが素晴らしい今年の夏休みだった。

2009年9月11日金曜日

歴史 上 岩波文庫 ヘロドトス著

歴史書と言えるかどうか分からないが「日本書紀」とか「古事記」が書かれたのが7世紀か8世紀とされている。この書は紀元前5世紀に書かれたとの事。作者はハリカルナッソス(ギリシャの1都市国家)のヘロドトスと特定されている。何でも世界最古の歴史書と言う事に興味を引かれて読んでみた。原作は全9巻まであるが、その3分の1の第3巻までである。

叙述される地域がエーゲ海を中心に北アフリカからユーラシア大陸の西から東はインドまでに及び、その中に点在する多数の都市国家と、そこに君臨したとされるこれ又夥しい人名が出てくるので正直訳が分からなくなる。更に自分の実証と伝聞を併せ歴史を語っているのだ。よくもまあ2500年もの昔に、嘘にしても聞き語りにしてもこれだけの著作を成し遂げたものだ。

感心するのは当時の人間が地中海を股にかけて、交易したり又は戦争をして行き来していた事が事実らしい事だ。当然キリスト教もイスラム教もまだ存在しない頃の話ではあるが、当時から歴史はペルシャ人とギリシャ人の対立、即ち戦いが基軸になっている。又、戦いのきっかけは怨恨とかいろいろあるが、他国の王族の女性を攫う事から始まっているのが多いのもも興味深い。

当時は全ての国家が独裁国家だったのだろうが、権力者にも民主的なタイプ、仁を備えたタイプ、気ちがいじみたタイプ、様々なタイプが居るのは現代と少しも変わりがない。常に戦いに備えなければ国家が成り立たない時代でもあったのだろう。いとも簡単に敵ばかりでなく身内も含め人を殺したり人肉を食う話が頻繁に出てくる。しかし人間の数が最大の資源であった筈なので、権力者は如何に人間を蓄えるかに相当意を用いていた様子が伺える。女性をやたらには殺さないし、浚ったりするのもその辺に事情がありそうだ。

日本では完全に神話の時代だが、人類の話でもあるし、スケールが大きくて結構面白い。

2009年9月10日木曜日

CHANGE

今日は抜けるような青空に風が爽やかで、珍しいくらいの秋晴れの1日だった。こんな日こそハイキングにでも出かけたいのだが、残念ながら未だ仕事に縛られて叶わない。この仕事なるものも、会社があり大勢の仲間が居てわいわいやっていれば社会の動きや変化を皮膚感覚として感じる事も出来るのだろうが、ワンマンオフィスだとそこがピンとこない。麻生氏が解散を宣言してから早2か月近い、選挙も終わって結果が出てから1週間以上も経つが、世の中がどんな風に変わっていくかが分からない。

総じてマスメディアは相変わらず「民主党は不安」のスローガンに沿って民主党マニフェストの問題点とか、連立の問題点とか、人事の予想みたい事ばかりを垂れ流している。これが正に政治空白と言う状態なんだろう。確かにこの間失業者が増えたりはしているようだが、大したニュースにもなっていない。むしろ新型インフルエンザが蔓延しつつある事や芸能人の麻薬ネタを繰り返し流している。もっと分からないのは裁判員裁判絡みの報道の多さである。この制度自体意味が良く分からないが、取りかえ引き替えこんなものを報道する事に何の意味があるのだろう?どうせこれから先、日常茶飯事となる事ではないか。
兎に角暢気なものだ。

民意或いは国民の審判が下った訳だから、出来るとかできないと言う問題も少しはあるだろうが、チェンジは間違いなくあると期待もしている。自分には伺うすべは無いが、恐らく社会では来るべき変化を予測しながらいろんな動きが出ている筈だ。中央の官僚なんかは昭和20年8月15日以降の小中学校の先生みたいものだろう。庶民は環境の変化には敏感な筈。権力の二重構造とか訳の分からない用語が多用されるが、個人的な事はそれほど大きな問題ではないように思う。自民党ばかりでなくマスメディアが大きく変わらなくてはと思うのだが、それを言うメディアにはお目に掛らない。

俯瞰的に見た時、新政権によって何が変化し何が変わらないのか、そこを的確に抉り出して示唆するメディアが見当たらない。いわゆる感度が鈍いように思えてならない。ジャーナリストの勉強不足と質の劣化で報道はステレオタイプばかり。政治家の日々の瑣末な動きにいちいち偉そうなコメントをしてふんぞり返っているアナウサーやコメンテータを見ているとうんざりする。

2009年9月9日水曜日

メタボ対策

元々どちらかと言えば肥満体質である。年齢を考えれば毎日そこそこ運動もしているつもりだし、ここ10年近く週に1回か2回はプールに行ったりしているのだが体重は殆ど減ってこなかった。常に63キロと64キロの間で上に行く事はしょっちゅうあるが、63キロを割った記憶は全く無い。メタボリックなんて事は気にしたくないのだが、3か月ほど前から新たに痩せる努力を試みている。

きっかけは先月の老人健診で、昨年同様に胴回り程度の事で因縁をつけられるのも癪だったからである。古希を前にして今更シェイプアップでもないかもしれないが、山を歩く時に、荷物を軽くするより己の体重を少し減らした方が望ましい、と言う事を読んで尤もだと思った事もある。新たな努力を始めて1ヶ月半の老人健診では昨年比大した効果は出なかった。しかし3ヶ月経った今日少し効果が出てきたようだ。

先日プールで体重を測ったところ土曜日には62キロ強、日曜日にはなんと61キロ台を示す結果になった。ちょっと嬉しいような気がしなくもない。原因は明らかだ、毎夕食後に必ず食べる事にしていたデザートをやめたのが効いてきた。元来甘党で羊羹に饅頭、ケーキなんでもござれと言うか、食事の後に甘いものを食わないと食事が終わらなかったのを、3か月ほど前に婆さんに宣言をして菓子を買うのを止めてもらい、夕食後はただのお茶だけにしている。勿論フルーツ類も夕食後は口にしない。

晩酌はもう1年以上前から止めているが、これで体重が減ると言う事は全くなかった。にも拘らず甘味断ちがこんなに効果を表すとはびっくりである。いつまで続くか分からないが、歳を取ったら余計なものは欲しがらないようにした方が身体のためにも家計にも良い事だろうから、出来るだけ続けてみようかと思っている。昔から「しない努力は努力のうちに入らない」と言うのだそうだ。その通りで「無理をせず、簡単にできる事だけやれば良い。」が我が家訓みたいものだ。

2009年9月7日月曜日

武士の娘 杉本鉞子著

福沢諭吉の「学問のすすめ」(1872年刊行)や新渡戸稲造の「武士道」(1900年刊行)に比べると、比較的新しい1925年刊行ではあるが、前2書と同様に原文は英語で書かれアメリカで発刊された本である。著者は越後長岡藩の元家老の娘で1973年(明治6年)の生れ。幼少の時から賊軍の家老の娘としてかなり苦労するが、一方武士の娘として厳しく躾けられる。躾の中には漢籍を中心とする教養はもちろん、主婦として必要な家事万端から嫁して後、夫にどのようにつき従うかと言った事まで若い時からびしっと叩きこまれたようだ。

そして15か16歳の時には嫁入り先が決まる。これが兄の友人でアメリカ在住の今で言う貿易商で、年齢は定かではないが恐らく10代で単身渡米、結婚、アメリカで二女を出産するが、夫が比較的若くして亡くなり、一度帰国するもののアメリカを永住の地と決めて再び渡米。生活の足しにするためもあってこの原稿を方々に投書したようだ。結局書物として刊行されたのは彼女が50歳を少し超えてからだと思うので、自分の半生を綴った懐旧談風になっている。

この本を読んで思うのは、現代における女性と異なり、昔の日本女性は自分の意見を言わない人形見たいものと思われている節があるがそれは全く違うのではないだろうか。むしろ江戸時代における武家の教育においては女子も男子同様に幼いころから厳しく教育されているので、自己の確立は現代女性よりはるかに高く、社会における自己の役割や責任を強く認識しているように思われる。ただその時代に於いてはマスメディアが発達していないので自己発現の機会が少なかったにすぎないのではないだろう。私にも明治20年に生まれた武士の娘の祖母が居たので、この著者を想像しながら共通点があるように思えてならない。

それともう一つ感心するのは、江戸時代末期の高級官僚は殆ど英語くらいは自家薬籠中の物としていたと言う話を聞いた事がある。5歳6歳の頃から四書五経といった難しい漢籍を繰り返し読んで理解する訓練を受けてた人に取っては、日常会話の英語をモノにするぐらいの事は朝飯前だったのだろうか?福沢、新渡戸の他に内村鑑三とか、似たような例はたくさんありそうだが、この著者も英語のレッスンについては実にさらりと述べているにすぎない。江戸末期から明治生まれの人は英語で意見を述べる事について些かの躊躇も見られない。実の驚嘆するばかりだ。

2009年9月3日木曜日

政権交代と鳩山論文

本格的な政権交代を見る事が出来そうなので、正直なところ非常にうれしい。特に今度の政権は従来の自公政権に比較すると、年代的に若返っている事が何よりと思う。新聞テレビやネット上のコメントを見ていると、素直に喜んでいるのか国民の選択を馬鹿にしているのかよく分からないものが多い。大体解説者なんて人種は殆ど爺くさい人間で、世の中の事を知りつくしたように顔をして能書きを言う。かく言う自分も全く同じ穴のむじなだが、聞いていて厭になってしまう。

若い人がこれからの時代を引き受けると言っているなら、黙って一度やらせてみる度量が何故無いのだろう。ニューヨークタイムズが一部を取り上げた鳩山代表の論文を彼のホームページに行って読んでみた。ネット上では多くの人が指摘するように極めてまともな事が書いてある。又彼の地ワシントンに於いて日本の政権交代について大がかりなシンポジュームが開催されたと言うのも大変結構な事ではないか。
そこで多数の日本通から、新政権が対米関係について旧政権と異なる舵取りをする事について懸念が出ている。ここで懸念が表明されないようでは、日本人全体がなめられている事で決して喜ぶべき事ではあるまい。

それを日本の報道機関の大多数が、あたかも憂慮すべき事のように報道するのは如何なる神経をしているのだろうか。彼らが自分の浅はかな考えを正当化又は誘導すべく、市民の声とか識者の意見を適当につまんで繋ぎ合せて報道しているように見える。しかし一方ではメディアが多様化しているせいもあろうが、国民全体で捉えると、必ずしも大メディアが考える方向に国民を引っ張り切れていないようにも思う。むしろ大メディアのご粗末さや不勉強に嫌気がさして新聞テレビ離れはますます激しくなっていくのだろう。政権交代とともに新聞テレビに登場するコメンテーターの交代も期待してやまない。

2009年9月1日火曜日

肩の荷降ろし

今日新しいプロジェクトがやっと稼働し始めた。計画から完成まで4か月近く掛ったが、大勢のスタッフの協力を得てやっと完成した。メルマガの配信システムだが読者がどの程度集まるかがこれからの課題。
配信対象は商業ベースではなく、ずっと制作管理をしてきたホームページ読者としているので急に大きな数字は望むべくもないが、やはり多いに越した事は無い。

自分で実際に購読している有料のメルマガもあるが、時々定時に送られてこない事があったり、不具合があってお詫びが来たりすることが良くある。今回送り手となってみて初めて、構築するシステムの難しさが大分分かった。ホームページのコンテンツを更新するのと異なり、先ず読者からメールアドレスという個人情報を受取り、それを管理しながら適時適切にその読者に情報を配信するのは対象が何人であれ
システム的にはかなり精緻なものが必要になる。おそらく仕事としては最後にして最大?なものになるかもしれない。

我が駄文をご愛読いただいている同期の諸兄にはピンと来ないかもしれませんが、具体的なテスト例を一つ書きます。インターネットの世界はご案内のように様々な障害があるので、メールについては出来るだけ厳重なセキュリティー対策が講ぜられています。すると多数の人に一斉にメールを送信する場合、今回構築したサーバとは別(KDDI)のウィルスチェックサーバを経由させますので送信先が100人程度なら5秒で全読者が受信完了しますが、1000人になると全てに到達まで5分、1万人が対象になると1時間10分も掛ってやっと全てに到達という試験結果です。

商業ベースのメルマガサーバが如何に高性能サーバを必要とするかを初めて知ったような次第です。
まあ、こんな自慢話をタラタラ書いても仕方がありませんのでこの辺にしておきますが、相当ホッとしています。