2014年1月31日金曜日

風邪かな

ごく最近のことだがマスメディアやネットでも「夫源病」なる言葉がやたらに目につくようになった。聞いたことが無い不思議な言葉なので婆さんに聞くと、大分前からある言葉だそうだ。ご亭主の現役時代は殆ど家に居なかったのに、定年になったら行く場所が無いので、一日中奥さんにまとわりつく濡れ落ち葉になると、奥さんは鬱陶しくて鬱状態になったりしてしまう病気らしい。聞けば、そんな奥さんが居ても不思議は無いのかと思ったりしている。

数日前のmixiでもこの現象を回避するために「卒婚」の奨めが掲載されていた。
読まれた方も多いかもしれぬが「夫婦の後半生は次のステップが必要。ある程度の節目を迎えたら、互いに好きなことをやるという人生にシフトして、自分の行きたいところに行って、その経験談を夫や妻に話す。そんな生活は素直に楽しいと思います。」と書かれている。執筆されているのは多分若いお兄さんかお姉さんだろうが、年寄りの夫婦生活に説教するのも小さな親切なんだろう。

成程と思いながら読んだ。しかし夫婦関係こそ人生いろいろで、友人の話なんかを聞いても婆さんの話を聞いても、皆さんそれぞれのライフスタイルに工夫を凝らしておられるようだ。しかし、どちらのご家庭でも亭主は亭主、奥方は奥方なりに若い頃とは異なる楽しみがある代わりに、異なる悩みが出てくるのは仕方あるまい。家事の分担問題や趣味への関わり方は家庭内のことだからよそからとやかく言えることではない。悩みの中で共通、最大の問題は、ご近所を観察して思うに男女を問わず健康問題だろう。

街中を歩けば買い物の行き帰りだろう、杖を頼りにとぼとぼ歩く老人の多いこと。中には道路際に腰を下ろして休む姿さえちらちら見られる。独居老人だろうか、スーパーのショッピング袋をぶら下げて歩いている男性老人もしょっちゅう目にする。病院に行くとこれまた老人で溢れている。一方で、ウォーキングをする老人も多い。朝昼夜と1日に3度街中を歩いているが、どの時間帯にも必ずウォーキングをする老人を見かける。

早朝や暗くなってからはご夫婦連れが多い。昼間に男性一人が多いのは、濡れ落ち葉になりたくないリタイアメントかな。我が老夫婦もかなり元気を装っているが、現実は二人ともあちこちに不具合が発生しつつある。加齢現象は抵抗のしようがない。ウォーキングはこちらの専売で、婆さんは家の中で密かに運動をしているらしい。互いに劣化しつつある部品を騙し騙し使い続ける方法は夫婦でも別物で、こればかりは相談しても始まらないだろう。

温度調節だけでも片や暑がり、こっちは寒がりで風邪をひきやすい。昨日、今日は変に暖かいので却ってよくなかったのか、風邪を引いたみたいだ。偕老同穴の契りを結んだ婆さんの温かい手料理でも食って早く寝ることにする。

2014年1月30日木曜日

魔鏡現象

昨夜から今朝にかけて「小保方晴子さん」の名前が一気に全国に広がったと思う。マスメディアのの持つ力は凄いものだ。一昨年のノーベル賞受賞で、山中伸弥教授の名前が一瞬にして日本人の記憶に刷り込まれたが、当の山中教授が、既に小保方チームの研究成果に関して賞賛のコメントを出しているくらいだ。万能細胞とか細胞の初期化と言われても意味が分からない。しかし科学的には大きな意味もあり、人類の幸福に大いなる貢献の基礎になることなんだろう。

日本人としては喜び、誇るべきニュースかもしれぬ。それはそれで結構だと思う。一方、科学や医学の進歩のお陰で長生きさせてもらいながら生意気なようであるが、ここまで神を恐れぬことをしていいのか、との思いがよぎるのも否定できない。何か書きたくても、これ以上は書けないようなので、次へ方向転換する。

昨日は似たような報道がもう一つあった。『三角縁神獣鏡に「魔鏡現象」 最新技術で判明』である。古墳から出土した古代の鏡、「三角縁神獣鏡」を復元して光を当てると、反射した光が裏に描かれたものと同じ文様を映し出す現象が起きらしい。

こちらは素直にびっくりだし、同じ最新技術でも素人にも少し理解できるし、いろいろと想像の楽しみがある。京都国立博物館の研究グループが発表したのだが、この発見に利用されたのが昨今話題の3Dプリンター。この装置は対象物件の外観をそっくりに模写すると思っていたのだが、どうもそうではないらしい。未だ詳しく理解できていないが、昨日のテレビで見る限りは対象物の内部構造までそっくりに作ることが出来るらしい。鏡の場合は内部に空洞が無いので、材質を現物に違わぬように準備すれば本物と寸分違わない複製となるとのことだ。

空洞なんかがあるものについては、プリント前の準備で断面の解析データをインプットしてやると(医療用のMRIなんかを思うと簡単かもしれない)、内部構造も複製できるらしい。実社会から遠いところに隠棲しているようなものだから未だ3Dプリンターの実物は見たことが無いが、一度見てみたくなった。一寸した外部からの刺激で、小生のような者でもこんな知識欲が湧くのだから、小保方晴子さんのような若い気鋭の科学者が自ら求めて、研究のより深いところや高みを目指すのは当たり前のことかもしれぬ。

魔境現象は初めて知った言葉だが、この現象自体はかなり昔から知られていたらしい。しかし千数百年昔の権力者がこの現象を利用していたと聞いても、俄かに信じられない。この現象実現のためには銅鏡の表面を数ミリ単位にまで磨き上げて、真平にしなければならないらしい。研磨の技術もさることながら、当時如何なる理由があって銅鏡を磨き上げ、魔鏡の発見になったのか。考え出すときりがないくらい不思議に思う。最初の発見が偶然だったにしても、その効果を利用したとすれば、そん時代の人間の知恵とすべきだ。

人間の知恵なんて意外と進歩が小さいのかもしれないし、昔も今も人並み外れた天才的人間が時々出現するのかもしれぬ。昔は天才的人間の知恵を権力者が独占し、現代はその知恵を多数の凡人が、利用し過ぎているのかもしれぬ。

2014年1月29日水曜日

評価の変換点?

昨年来のことだが年が明けてからも、政権にとって大問題になりそうなことが頻繁に報道されている。しかし、前政権であれば少なくても大臣の首を取られても仕方が無さそうな事が思いの外で、通り一遍の報道で終わり、肩すかしを食らう気がする。甘利大臣の電力会社から受けた政治パーティ券購入問題も政治資金不正疑惑かと思ったが一切追求は無し。閣僚ではないが、籾井NHK会長の暴言問題は、政権とは無関係の1個人の発言についてコメントの必要は無いで終わり、わずか一日であっさり封印されてしまった。

靖国参拝も、慰安婦問題も、教科書問題も、領土問題も、辺野古移転強行も、秘密保護法も、集団的自衛権容認も、原発再稼働も同様であるがおよそ安倍政権を揺るがしかねないと思えるあらゆる問題について安倍首相は強気の姿勢を崩さない。昨日新たに出てきたのが教育改革と来たものだ。自分が受けた教育を反面教師としているつもりか知らぬが、まともな学校教育を経験していない人間にだけはそんなことを言ってほしくないそうだ。

小学校から大学までエスカレータに乗っていたことを妬んでいるのか、総理が出た私立の学校を馬鹿にしているのかよく分からないが、家庭内ではそんな声も聞こえてくる。総理強気の背景が何があり、行き着く末のことは知る由もないが、野党とマスコミにはもっと追求すべきことが山積している筈だ。昨日の民主党海江田代表の質問には失望した。ただでかい声を出せばいいと言うものではない。なぜ冷静かつ論理的に、事実を積み重ねて総理を追い詰められないのか。むしろ総理の方が冷静に見えてしまう。

こんなこと言っている人もいる。経済ジャーナリストのビル エモット氏が書いた小論文を読んだ。題して『「世界が憂う「アベノミクス」の行方 靖国参拝で高まる日本への懸念と苛立ち』要約すれば次のように書いている。

「安倍首相は、ナショナリストで外交政策ではタカ派として知られていた。それでも、2013年上期までは、それが安倍首相に対する前向きな見方を妨げることはなかった。東シナ海における中国の自己主張に直面した際には、より強く明快な考えを持つ日本は、世界から、特に中国の圧力にさらされていた東南アジア諸国から歓迎された。しかし過去1カ月ほどで、2014年に安倍首相と彼のリーダーシップの下で日本が果たすであろう役割への楽観と称賛は、懸念と苛立ちに変わった。」

「安倍氏が首相になった時、多くの外国政府や海外投資家は彼の国粋主義的な態度を黙認した。自由民主党内の支持を固め、アベノミクスに必要となる自由化改革に役立つと考えたからだ。しかし、その黙認にも限界がある。」

「だからといってアベノミクスが必ず失敗するとは限らない。経済成長率を引き上げるために、デフレからインフレへと効果的に転換できれば、企業や家庭の行動が変わる可能性も理論上はある。それに生産性の向上が続けば、政治的に構造改革がもっと実現しやすい環境になるかもしれない。しかし、金融の矢だけに頼るのは賭けであり、それは日本の強さではなく弱さだ。今年、世界は主に、この日本の弱さに気をもむことになるだろう。」

外国のジャーナリストではあるが、分からない点はあるとしながらも、世界が日本をどのように見ているか、納得できた思いである。

2014年1月28日火曜日

緊張感の欠如

昨年の4月以来、これまでの仕事からきっぱり足を洗い、何もせずぼーとしているのは度々書いている通りである。但し体力を落とさないために、出来るだけ身体を動かすことだけは心掛けている。そのためには先ず歩くこと、出来るだけ1日1万歩の目標に近付ける努力はしている。なかなか思うようにはいかないが、1月に入って1万歩以上歩いた日が11日ある。正確にカウントしていないが、28日間で20万歩以上は歩いているだろう。

たまたま今日、久しぶりにタクシーに乗ってしまった。朝珍しく築地に用事があって出かけたが、池袋から乗った地下鉄で座ってしまったのが運の尽き、居眠りをして月島まで行ってしまった。約束の時刻に間に合わせるために、そこで下車してタクシーを利用してしまった。最近のタクシーは高い、僅か一駅の距離で890円も掛かる。タクシーの基本料金700円での走行距離は何メートルなのだろう?2㎞でないことだけはよく分かった。

2㎞80円とか100円の時代が懐かしい、なんて言ったら認知症がかなり進んでいると思われそうだ。日本の社会がデフレを脱却して、再び経済成長をとか日本を取り戻そうとの掛け声を聞くと、どうもピンとこない。経済成長の行き着く先、即ち目標とする社会とはどんなものなのか?全ての国民が同じように収入なんか増える筈もあるまいし。日本を取り戻すなら、タクシーの初乗り100円にしてくれよ、と言いたくなる。耄碌した爺のように、何もしないで暫くじっと世界の動きをじっと見ていたら、何か思いつくことがあるかもしれない。

先日議員定数削減はどうなった?と書いたが、次から次へと思い付きみたいことを言ったりしたりするから、後始末が大変になる。政治家は勿論、財界人も、マスコミ関係者も、少し腰を落ち着けて来し方を顧みて、何か大事なことを忘れてはいないか考えてみてもらいたい。例えて言えば、311の大震災から未だ3年ほどしか経っていない。今はその日を教訓として、国を挙げて震災対策だとか国土強靭化対策と尤もらしい声ばかりが聞こえてくる。

こういった議論は上塗りを重ねていくうちに、根っこに横たわる惨事の実態や復興を待つ被災者の思いからはどんどん遠ざかっているのではないだろうか。
広島や長崎の人たち、或いは日本人の殆どが、地球上から原爆の廃絶を願うのは自然なことだし、福島の人々が同じように原発の廃絶を願っても不思議は無い。ただ原爆も原発も必要だと思う人も少なからずいるかもしれない。経済のことは難しすぎてよく分からないが、昔のことが少し頭にある老人からすると、日本は少し休憩でもとって、大きな方向性について落ち着いた議論でもして見ろと言いたい。

少しの間が1年か2年、或いは10年か20年かは分からない。現政権が口では危機を強調する一方で、余りに緊張感に欠けた報道を見るにつけ、じたばたするなと言いたくなる。

2014年1月27日月曜日

70余年にして初体験

もう1年近く無聊を託っていたところ、この週末思いがけない体験をすることになった。ブログを通じて知り合った友人から仕事を貰ったのである。知り合ってからはもう数年経ち、何度も食事をしたりしている。年齢も近いし読書や映画の趣味も似ていることもあったが、何より世相を論じ、政治を論じて非常に近い心情を感じていた。こちらは政治的行動の経験は全くないが、彼はうちの婆さん以上に経験を積んでいる。間違えば政治家になってしまったかもしれない。

幸か不幸か、たまたま現在はOAオフィスの内装工事会社の経営者である。こちらが歓談の折に、「金も無いのに働く場所が無くて困る。」を連発するので、それではひとつ働かせてあげよう、となった次第である。ここ半世紀の間、仕事と言えば自分の布団の上げ下ろし以外したことが無い。自慢にはならぬだろうが、大阪で単身生活をした3年弱を除けば、家事も一切関知しない主義である。今年は未だ機会が来ないが、玄関先の雪掻きでさえ手伝わない。断っておきたいが、しないのは家事の手伝いを婆さんが喜ばないからである。

箒やはたきの掃除道具は勿論、道具箱の鋸も鉋もペンチも触ったことのない男が「何でもします」と言うのは些か詐欺に近い。友人も知ってか知らずか、屋内での作業だから何とかるだろうと雇ってくれたものだ。9時に作業が始まる。1日目は午前中は友人が私に付き添って作業の要領を教えてくれた。確かにそんな特殊な技能を有する作業ではない。基本は床の不具合をカーペットの上を歩くだけで発見する必要がある。何事も同じだと思うが、この基本動作が一番難しい。2日間でマスターとはとても行かない。


次の段階は、専用の工作道具4種類と材料袋と廃棄物袋を手に、オフィスのカーペットを剥がして、OAフロアー(スレート瓦のようなもの)を固定している特殊な金具をチェック、不良品を交換していく。こう書くと体力を全く要しない作業と思われそうだが、そんなに楽な作業ではない。昼食の大休憩の他、午前と午後に1回ずつ小休止があるので、作業の連続時間は長くても1時間半、
里山でのハイキングと大差無い。呼吸困難になったり心拍数が急激に上がることはないが、それでも1時間と経たずに汗がびっしょりになる。

一応9時から5時迄で、2日で600㎡のフロアを2件とのことだった。職人さんは私以外に4人。私は員数のうちにカウントできない存在だったろう。現場で急にオーダーされた他のフロアのサービス分を含め、両日とも1時間前には作業(後片付けを含め)を完了していた。友人にとっては請負工事だから、予定の作業が終わればそこで「お疲れさん」になる。自分も含まれる職人さんも、時給ではなくて日雇い契約だろうからハッピーなことだ。

山歩きや水泳とは全く違う筋肉を使っているのだろう。結構身体の節々が痛い。今まで横目にしか見たことが無かった職人の世界。裾のやけに拡がった作業ズボン、頭にタオルを巻いたり、野球帽を後ろ前に被ったりして、片耳にはピアスが定番であるのはご承知の通り。こんな世界で高齢者が働けたのだから有難いことである。「2月8日も予定して。」と有難い仰せだ。

2014年1月24日金曜日

議員定数はどうなったの?

なんでも国会の諸先生には長い正月休みが明けて、やっと今日から通常国会(第186回)を始められるとのこと。でも閣僚席に和服の女性が座っているのにはびっくりした。サンデー毎日で変化に乏しい日々なので、ブログのネタを見つけるのも一苦労である。ただ有難いのは同居人の婆さんが何故か博覧強記(家庭内で小生に比較してのことですので悪しからず)、特に政治関係については滅法詳しいので、朝夕の会話からヒントを貰うことが多い。本日も全くそれである。

婆さんの指摘は、新聞でもネットでも取り上げていないようなので、パクってネタにさせてもらう。ざっとメディアの報道を見る限り、今国会は概ね次のような予想になっている。「政府・与党は、4月の消費税率の引き上げに伴う景気の落ち込みを最小限に抑えるため、今年度の補正予算案と新年度・平成26年度の予算案の早期成立を図る方針。これに対し、民主党など野党は、特定秘密保護法や、安倍政権の外交姿勢などを巡り厳しくただしていく構え」

婆さんが怒るのは、何処にも議員定数削減に関する予想が出てこないところにある。安倍総理は「好循環実現国会だ」として、企業の収益を雇用の拡大や所得の上昇につなげる経済の好循環なくして、デフレからの脱却はないとしたうえで、景気回復の実感を全国に波及させることを目指す方針と、張り切っていると伝えられるが、成程、議員定数削減実現を期す意気込みは有るのか無いのか全く分からない。

一方の野党もステレオタイプの対決姿勢、悪く言えば揚げ足どりか反対のための反対に終始しそうな雰囲気である。政府の予定としては、消費税アップの影響を最小化するための25年度補正、26年度本予算の早期成立と、企業に設備投資を促す投資減税を盛り込んだ税制改正法案など、経済の成長戦略に関連する、およそ30本の法案を成立させ、デフレからの脱却を目指す方針となっている。5か月にも及ぶ時間を掛けてまた下らないやり取りがあり、落ち着く先は婆さんでなくても見え々々であろう。

今の国会議員については何かと批判的な婆さんだが、議員の質もさることながら、せめて人数くらいは減らせが持論である。アメリカの議員数の倍もいる必要がどこにあるの、と言われて本当かどうか調べてみた。日本の議員定数は衆議院480、参議院242、合計722人。アメリカは下院435、上院100、合計535人(他に議決権を有さない代表者6人とあるがよく分からない)となっている。722対535だから倍とは言えないが、人口が倍近いのでそう言っているのかな?それにしてもよく知っているものだ。

いい歳をして同居人を褒めるのも如何だが、婆さんの怒りも分かるような気がする。参議院については、定時制高校に似ているそうだ。確かに昼間の受験に失敗した生徒が取り敢えず納まっているような気がしないでもない。議員定数については一時大騒ぎしていたような記憶があるが、現在メディアはどのように考えているのだろう?

安倍総理の話はいつ聞いても景気の良い話ばかりだ。支持率が上がるのも無理はない。成長がどこまで続くと思っているのか知らんが、マスコミはもう少し冷静に、国の将来に関し問題の提起をしてもらいたい。

珍しく週末に野暮用が入った。明日と明後日ブログは休みます。

2014年1月23日木曜日

都知事選・オリンピック・大義名分

都知事選が始まった。近くの選挙ボードには昼までに細川氏、升添氏、宇都宮氏の3枚のポスターが貼られていた。どう考えても升添vs細川の戦いだろう。今のところはマスメディアでもネットでも升添圧勝となっている。細川に投票を考えている身としては些か不満ではあるが、現実であれば仕方あるまい。今回の選挙に関しては、珍しく家庭内で意見の一致が見られていない節もある。亭主の方は決まっているのだが、オピニオンリーダーの婆さんがどうしても年齢に引っ掛かっているらしい。

細川氏が4年1期だけでいいとの意向も聞こえてくるので、彼に投票してほしいが素直に同意は得られない。相変わらず「亭主の名前でも書こうか」なんて言っている。政治問題について圧倒的に詳しい婆さんが何を考えていることやらだ。今朝小耳にはさんだテレビの音で、発言者が誰か特定できないが良いことを聴いた。「都知事に限らず政治家の選挙では、目的を持って選挙に臨む人を選びたい。政治家として当選するために目標を並べる人は信任しかねる。」多分発言者は小生と同じ細川氏を応援しているのだろう。

マスコミの大部分が細川氏に対して少し引き気味の中に有って、随分勇気ある発言だ。テレビ局も朝の生番組だったので制止しようがなかったのだろう。ディレクターが、後で役員から小言を食らっている可能性が大だ。升添氏の「2020年東京オリンピックをどうしても成功させたい。」なんて、オリンピックが都民の暮らしとどうすれば結びつくのか、些か馬鹿にされたように思ってしまう方が異常なのかなぁ。

オリンピック繋がりで言えば、2020年まで生きてこの世にいる可能性は大分低いが、生きていたにしても見物に出かけることは先ず無いだろう。来月開催のソチ大会も観戦ツアーが大分売れ残って、旅行会社も苦労しているとのこと。フィギャーなんかの屋内競技であればいざ知らず、スピードが勝負のスキーだけはテレビ観戦の方が圧倒的に面白い。昔、志賀高原にいたのでスキー大会はよく観戦した。応援する選手が目前を通過するのはほんの一瞬、同じスキーヤーとして迫力は分かるが、レースの全体を通して追ってくれる映像には敵わない。

NHK受信料が高いと言っても、海外まで行く旅費に比べれば安いものだ。電波なんてものも公共のもの、経済学的に言うと社会共通資本と言うことになるらしい。生まれた時には既にラジオがあった時代なので、電波もあって当たり前、大昔から存在していたような錯覚がある。ところが、オリンピックの実況放送が最初に行われたのは昭和11年のベルリン大会だそうだ。個人的には生まれる僅か4年前のこと。有名な「前畑がんばれ!」がそれだが、これも極めて実験的な放送だったらしい。

その前のロス大会は昭和7年、この時太平洋を越えて写真が日本に届くまでに要した時間は13日半。新聞各社は飛行機を持っていたようだが、太平洋横断能力はない。その航続距離内に汽船が入ったら、写真を缶に入れて待ち構える小舟に落とす、小舟は高い竿を立て、その缶をつるす。それを飛行機が引っ掛けて持ち帰る。こんな軽業めいたことをしていたらしい。昭和16年の東京オリンピックが流れて、昭和39年にやっと東京でオリンピックが開催された。

この開催は日本にとっても、また世界中が平和の祭典として祝うことが出来たのだと思う。どんなものにせよ、祭りには大義名分が必要だ。

2014年1月22日水曜日

読者へのお礼

未明に雪が舞ったようだが昨夜は雨、地面が少し湿り、乾燥が和らいだうえに淡い陽の光で何となく暖かさを感じる。もうすぐ春ですね~!昨日は突然ブログのダッシュボードが壊れてしまった。原稿が出来ていたのにアップできず、夕方になって慌ててしまった。元のスタッフに電話してヘルプサポートを求めたが、電話のアドバイスだけではどうしても復旧しない。已む無く昨日は、予備のノートパソコンに必要なアプリケーションを取り込み、事務所を締める19時ぎりぎりにやっとアップ出来た。

パソコンとは厄介なもので、何方も経験されていると思うが、時々原因不明でこのような事態が発生する。今朝になってブラウザを初期化する方法を発見したので、今日から当分はブログのアップは出来そうだ。但し、ブラウザを初期化してしまったので、いろんなページへのログインパスワード等は、改めて設定し直さなければならない。少なくともブログのダッシュボードへのログインはい昨日までのパスワードではなくなってしまった。元に戻すのも可能だろうが、また似たような事故が起きると面倒くさいのでそのままにしておく。

昨日の事故が発生したブラウザはgoogle社のchrome、同じパソコンの中にMicrosoft社IEも当然入っていて、時々使ったりしている。IEでもダッシボードを開くことは可能だが、何故か書いたブログの公開が上手くいかない。理屈が分かっている人からすれば、どうと云うほどの問題でもないだろう。しかし当方にとっては大問題で、そのために費やした時間は相当なものであった。久し振りに嘗てのスタッフと連絡を取り合ったので、序でにネットで疑問に思っていたことを尋ねてみた。

自分のブログへの日々のアクセスが昨年の秋ごろから確認できなくなっていたので、復旧方法を聞いたのである。案の定復旧方法はあることはありそうだ。電話で教えてもらったが、これが又初心者には結構な難作業になりそうな話である。アクセス数なんてどうでもいい事だし、半分忘れかけていたことだが、何とかなりそうだと聞いてしまうと気になって仕方がない。

アメリカの政府は世界中のメールをウォッチしていたそうだが、日本の政府でも、国内のブログ程度は全部ウォッチしているだろうな。その程度のことすらしていないとなれば、怠慢のそしりを免れないだろう。面白いのはアクセスのトップがいつもノルウェーのサーバーで、日本より多いことになっている。ひょっとすると日本の監視サーバーがノルウェーに置いてあったりするのかもだ。

このブログは過去のデータからすると、1日平均40人前後の人が読んでくれていると思っている。勿論監視サーバを含めてのことだが。最近は毎日更新するようにしているので、少し増えていそうな気配もある。と言うのは、右にサイドについている「にほんブログ村」のボタンと関係している。このボタンを押してくれた回数がカウントされる仕組みなので、「にほんブログ村」内での人気度が分かることになる。

この村の登録者は現在約74万サイト、我がブログが2万5千番前後に位置しているのも皆さまのご協力の賜物、感謝しています。たまたま昨日初めてのことですが、男性のシニア101件登録中1位になっていました。改めてお礼申し上げます。

2014年1月21日火曜日

読後感「経済学は人びとを幸福にできるか」宇沢弘文著

経済問題、経済学どちらも難しくてよく分からない。あるところでこの本の読後感を読んで、タイトルが気に入った。勿論著者についても何も知らなかった。しかし読み進むにつれ、成程と納得出来る箇所が随所にあった。先ず、タイトルは編集者苦心の作と推察するが、本文中にこのタイトルに対する回答はまともに書かれていない。一口に経済学者と言っても、依って立つところの違いから、同じ現象に対する見方が大きく異なる。

そこで著者の略歴である。不明にして知らなかっただけで、戦後日本の経済学者として世界的に超有名人である。昭和3年の生まれで一中、一高から東大理学部に進み、戦争にこそ取られずに済んだが、戦争の問題点は身をもって体験している。理学部数学科を卒業したのが昭和26年、数学科の特別研究生となる。5年後の昭和31年にスタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、同年に研究助手として渡米、スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校で教育研究活動を行い、昭和39年シカゴ大学経済学部教授に就任した。

シカゴ大学は90人近いノーベル賞受賞者を出している名門校で、宇沢氏のワークショップに参加した学生から、後にノーベル賞受賞を含む超一流の経済学者が何人も出ている。一方この大学は原爆の開発計画や、ベトナム戦で使われた枯葉剤の開発にも深く関わっているのも周知の事実。そして当時のシカゴ大学は、ミルトンフリードマン率いる新自由主義者(市場原理主義者)の牙城としても有名。同時期に在籍した著者は、フリードマがはベトナム戦争での水爆使用計画に賛成するなど、その極端な思想に嫌悪感を強くしていく。

結局著者はアメリカのベトナム政策に深く傷ついて、昭和48年母校東大に戻る道を選択。昭和58年には文化功労賞、平成7年には文化賞を受賞しています。浅学の私が知らないだけで、恐らく知る人ぞ知る世界的な経済学者で、世界中の大学からお呼びが掛かり、世界計量経済学会々長なども歴任されています。日本の経済学者と言えば、竹中平蔵とか高橋洋一程度のかなりインチキ臭い人間を思い浮かべてしまうのですが、著者は全く異なる観点で世界を見ているようです。そもそも数学の志を経済学に切り換えたのは河上肇の「貧乏物語」を読み感動を覚えたからと自分で仰っています。

著者は、経済学によって人々を幸福に導くことを目標としていることがよく理解できます。何よりも著者が強調する理論「社会的共通資本は国民が共有すべき」を実現するために、行動に出ているのも凄いことだと思います。一例として、成田紛争で反対派と国との仲裁は、著者の手になるものだそうです。しかし現代は残念ながら、我が国のエコノミストの大半は、フリードマンの信奉者であり、大企業が儲かる政策を実現すれば、トリクル理論で貧しい人にも滴が落ちると信じているわけです。

この本の出版は昨年11月ですからそんなに古くはありません。全体が読み易いように5部21章で構成されていますが、中には昔のスピーチなども含まれています。難しい面も勿論ありますが、池上彰氏の「まえがき」と第1部「市場原理主義の末路」第2部「右傾化する日本への危惧」第3部「60年代のアメリカ-激動する社会と研究者仲間たち」だけでも、現代日本の潜在的脆弱性と格差を了とするアメリカ社会に潜む危険思想について、納得がいく思いです。

2014年1月20日月曜日

度胸

今日は大寒、寒いわけだ。この冬は雪が未だ殆ど降っていないが、体感的には結構寒い。今朝接骨院の先生に聞くと、全国的に積雪が少ないようですとのこと。降雪と寒さは別の問題かもしれぬ。寒さは着衣の品質が格段に向上しているので何とか凌げるが、降雪による交通障害は個人ではどうにもならない。成人式やセンター試験に降雪が無かったことは若い人にとって幸いだったはずだ。それで思い出したが、センター試験なるもの。

共通1次試験が無かった時代に、大学に滑り込むことが出来たことを今更ながら喜びたい。少し生まれるのが遅れて、この試験制度が確立されていたら人生は大幅に違っていたろう。試験内容は新聞に毎年公開されるが、見る気も起きない。国語や英語の試験で、あのような長文を読むだけでも大変だと思う。センター試験受験者は減っているそうだが、それでも60万人近くの生徒が受験しているとのこと。現代の高校生は我々世代に比べ、少なくとも(本当は多方面だろうが)学力面では優っていると言えるのではないか。

記憶の限りでは、高校までの試験は解答記入欄を含め、殆どわら半紙1枚、多くても2枚で終わっていた。大学入試も似たようなもので、印象に残っているのが数学。幾何を選択したが、確か全部で3問、質問はそれぞれ1行か2行だったので白紙に近い答案を出した。多分零点だっただろう。土曜日の夕刊を見てそんな会話をしたせいか、夜中に試験用紙にどうしても名前を書くことが出来ない悪い夢を見てしまった。試験から解放された毎日であるのにこんな夢を見るとは、試験が酷いコンプレックスの原因だったに違いない。改めて己の小心さには笑ってしまう他ない。

人生には好むと好まざるは関係なく、試験のようなものをくぐらなくてはならぬことは誰にもあるのだろう。根っからのものぐさに加えて、他人との競争に勝った験しがないので、極力これを避けてきた。自分は挑戦が苦手なのだが、最近スポーツ界で活躍する若い人を見て感心するのが、彼らの積極的姿勢であり、何事にも物怖じしない精神力(度胸の良さ)だ。むしろ「観客の皆さんから力を貰う」が当たり前で、見物人が多い方が実力以上の力を発揮できたりするみたいでもある。

これには驚くのだが、婆さんに言わせると、若い人たちのこの傾向はスポーツ界に留まらず、芸能界であれ、真面目な青年達でも共通のようである。才能のある人間が、自分の力を信じて常に堂々たる姿勢を示せるのは実に結構なことだ。しかし自己の才能を勘違いすると、こんな発言となる。「日本をずっと覆っていたあの厚く黒い雲を、私たちは間違いなく吹き飛ばすことができたんです。」昨日の党大会で安倍総理は身ぶり手ぶりで経済再生の成果を誇った。厚い雲が覆い始めているのは今ではないか。

同じ昨日、スキージャンプで前人未到17勝目を挙げた17歳の高梨沙羅選手のコメントを上げる。「難しいコンディションでの試合でした。でも寒い中、応援してくれた皆さんの中でいいジャンプを見せられて結果も出せて良かったと思います。(通算17勝の)記録については特に考えていません。もっともっとレベルアップできるように頑ります。」どちらが胸にすとんと落ちるかは言うまでもない。

2014年1月19日日曜日

東京都知事選挙

昨日沖縄名護市長選挙について所感を書いたので、少し気が早いが東京都知事選についても少し書く。公示日が23日と未だ先のことではあるが、候補者は既に出そろった感がある。我が家に取っては直接の影響を持つ知事の選挙だが、老夫婦の間で珍しく意見が割れている。婆さんは現在立候補声明を出している何れの候補者も気に入らないらしい。当初は升添氏しかいないかしら、みたいことを言っていた。

しかし彼に自民党が乗ったことや、女性問題が日本人的感覚に合わないようで、やっぱり駄目だと言うことになってしまった。ならば宇都宮氏ではと聞くと、年齢67歳も年寄り臭いし、やはり支持政党が社民と共産が気に入らないようだ。小生は細川氏に投票するつもりになっているが、婆さんは年齢がやはり気に入らないらしい。いっそ究極の後出しで東国原氏でも名乗り出ないかしら、なんて無責任なこと言っているが、何れも積極的には投票する気が起きないらしい。

誰を見ても信任する気にならない気持ちは分からぬでもない。正直なところ小生も当初は選挙自体への関心が薄く、漠然と宇都宮氏にでもしようかと思っていた程度である。しかし細川氏の名前が急に出てきて、俄然興味が湧きはじめた。しかも、手を挙げた理由が善い、「脱原発」の殆どシングルイッシュ-である。応援の声を上げたのが小泉純一郎氏とはこれまたびっくりの連続で、聞けば、むしろ小泉氏が細川氏をその気にさせたとのこと。

小泉氏は人間的に植木等を思い出させるような無責任男の印象が強いので、好みのタイプではない。しかし彼の選挙と喧嘩のしかたについては評価せざるを得ないだろう。原発無くして日本の発展はあり得ないとする人と、無くても発展できると思う人の闘いとは上手いことを言うものだ。単純なので、この一言に乗ってしまっている。現在のところは未だ升添氏の方が優位に立っているようだが、これは結構な勝負になるのではないだろうか。

世間は結構単純な人間も多そうだし、他に大事な問題をどうするのか、と牽制されても、それこそ誰がやっても同じことばかりだろう。原発問題はどの候補も一様に、大事な問題であり将来減らすのは当然と口を揃えるが、逆にこちらは誰がやっても同じとはいかない。明確な違いがあり、それを小泉氏は提示してしまった訳である。有権者がどう受け止め、どんな結果に繋がるか分からないが、政権与党はかなり焦っているだろう。

シングルイッシュ-しかもエネルギー問題は地方選挙に馴染まない、と言えば言うほど自民党はドツボに嵌る可能性も高そうだ。結果がどう出るかは別としても、我が国の原発政策を見直すきっかけになることだけは確かだろう。

2014年1月18日土曜日

沖縄名護市長選

1強多弱と言われる政治情勢の中で行われる二つの選挙が注目を浴びている。一つは沖縄名護市長選、都知事選については別に日に書く。沖縄に住まいする友人もいるが、彼は元々東京から行っているし、政治なんかに興味が無い可能性もあるので、情勢分析は聞いていない。むしろ、今週新年会をした親しいブログ友達に聞くと、相当な接戦で、どちらが勝つか予想しずらいとのこと。但し、沖縄は産業らしい産業が無いところに持ってきて、公共事業に依存する土建屋王国なので、あれだけ札びらで顔をひっぱたかれれば、そっちに流れる可能性が僅かに高いかも。だそうだ。

元々の話は、普天間の代替基地を辺野古の陸上に作る予定だったものを、態々海を埋め立て巨大な計画に変更させたのは、日本の建設業者の要望によるものとの解説だった。沖縄の事情は何も知らず、メディアの報道に頼るだけだが、沖縄県にはどうしても異質なものを感じてしまう。本当はこれではいけないのだろう。友人は住みやすい土地だと言って、奥さんも沖縄の人を貰い1年の半数以上を沖縄で暮らしている。

そんな話を聞いてその気にならないまでも、なんとなく素直に同意できない。何故か、多くのリタイアメントの移住先として沖縄移住の話をあまり聞かない。むしろ沖縄は、まともなサラリーマンが勤まらない若者の出稼ぎ先とのイメージが強い。沖縄に移住するならむしろ、東南アジア諸国に生活拠点を移す人が多いのではないだろうか。正直な気持ちを書いたが、就職してからも沖縄渡航にはパスポート必要だった。正に偏見そのものだが、どうしても半分外国視している自分がいる。

現在生きてこの世にいるのは、沖縄の人たち(市民)が文字通り盾になって死んでくれたお陰であることは知識としては知っているつもりでも、重大な問題を聞いても感情移入できない自分が情けなくもある。それでも敢えて選挙について思えば、背に腹は替えられぬ喩えで、土建屋王国も分かる。しかし、海を埋め立てて巨大な滑走路建設には約10年の歳月が掛かる、一方普天間基地の返還は5年以内と総理が約束している。

そこに生じたギャップの5年間、現在普天間を使用している海兵隊は何処に行くのか?それこそ海外であれ国内にせよ、どこか他の基地に移転するすることだけは間違いあるまい。その5年間海兵隊の抑止力が低下しないなら、普天間に新基地を作る必要性がどこにあるのだろう?脳味噌の乏しい頭で考えると、全く理解できない。感情論で言えば勿論きれいな海をぶち壊すことには大反対だ。建設費用が約1兆円とも言われるが、それだけあれば農業でも漁業でも観光でも、産業振興策は幾らでもあるだろうに。

どっちにしても明日の夜には結果が分かる。

2014年1月17日金曜日

古い人間関係

フィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉の小野田寛郎さんが享年91歳で亡くなられたとのこと。氏が発見されたのが1974年だから、もう40年も昔のことになる。同年3月12日の16:15からNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は視聴率45.4%を記録したとされている。当時は残置諜者という言葉が流行り、上からの命令を忠実に実行した氏は、旧日本軍で対米戦争を戦い続けた最後の兵士であったとして、日本中が認めて賞賛していたものだ。

当時を思って感慨深い人は、私より上の世代には大勢おられるだろう。実は個人的に相当に感慨深いものがある。氏の帰国が3月だったすれば4月10日発売の月刊「文藝春秋」だったと思う。発見者の鈴木紀夫青年(この方も若くして亡くなった)の手記を活版モノクロ100頁前後で大特集を組んだ。予想外の大増ページである、原価が膨らんでも雑誌の売価は変えることが出来ない。当然の帰結として想定外の広告スペースが組まれ、3日と置かずにこれを売り切らなくてはならない。正確に記憶していないが、総額500万円だった。責めを負うのが文春社内では広告局となる。

広告のサイズはいろいろだったかもしれぬが、何十本のスペースをばらして売っている暇がない。月刊誌広告を担当する部員の一人が、私の勤務する会社に跳んできた。これもうろ覚えだが、我が社は文藝春秋社のすぐ近くで、それまでも食ったり飲んだりの関係があったからだったか。何故か電通や博報堂の大手より先に情報を貰ったことになる。兎に角早い者勝ちだから、一発で決めるクライアント1日か2日で探してくれ。電通と博報堂にはこれから説明に行く。
とのこと。

思えば、当時はこちらも若かった。33歳の終り頃だから本当の働き盛りだ。広告会社の営業で、今で言えば課長ぐらいのものか。部下達も元気で勢いがあったし、ラッキーもあった。我が社で、このスペースを1社に売り切ることに成功した。勤務していた会社にとっては出来過ぎの金星だった。個人的にも、このやり取りのお陰で、情報をもたらしてくれた文藝春秋社の営業担当とは凄い仲良しになって、今に至るも友情が続いている。

現代の業界人から見れば、びっくりするほどの事ではないかもしれぬ。しかし40年前、弱小広告代理店の1営業マンであったので、強烈な印象として残っている。大体人間なんて仕事、仕事、と言ってもそう大したことが出来るものでない。50年以上広告営業をしてきたが、未だに記憶に残る仕事なんて、精々5指を少し超える程度のもので10指にはとても及ばないだろう。そして記憶に残るのは、仕事の内容より共に携わった人間のことばかりだ。

それも、後でどこに飲みに行ったとか、ゴルフに行ったとか遊んだことばかりだ。人間関係とは不思議なものだ。兎も角小野田氏の冥福を祈ろう。合掌

2014年1月16日木曜日

国家のお財布

政府がしきりに強調する安全保障も実感が伴わなくて分かり難いが、この問題は別の機会に譲る。もっと分かり難いのは「国家の経済」である。カラスの鳴かぬ日があっても、メディアに関連の記述が無い日が無いと言っても過言であるまい。読めば読むほど頭は混乱するばかりだ。税金で成り立つ日本国であり、特別職を含めて公務員はすべからく税金で生活が成り立っている。政治家を筆頭に公務員諸氏の念頭には、その基本が無いかの如く、言う事なす事が支離滅裂にしか思えない。

先ず思うのは、国家公務員即ち霞が関官僚達は日本国のお金は無尽蔵と考えているとしか思えない。唯一財務省の官僚ぐらいは、税金を徴収(これも嫌な言葉だ)する立場なので、お金に不自由をしていることの実感があって然るべきと思うが、これが全く無くて、予算編成の折に各省庁と馴合っているのを毎度見せられている。一方では財政の危機と称して、国家財政のインバランスGDPの2倍以上、やれ赤字1千兆円超なんてことがしきりに報道される。

時には資産価値から見れば、これも大した問題でないとかの音も聞こえてきたりしている。何れも出所は財務省だろう。財務省は国家の根本である納税者をおちょくってマッチポンプしているとしか思えない。家計は分かりすぎるくらいに単純で明快であるが、国家の経済となると何故かくも分かり難いのか。几帳面に税金を納めてきた立場から言うと、何方かにもう少しわかりやすく説明して頂きたい。

この問題を更に分かり難くしているのがこれまたお定まりの政治家の動き。大蔵、財務省や日銀出身の政治家が少しはいても、バッジを着けた途端に朱に交わればの喩え通り馬鹿になってしまうのか、馬鹿を装わないとやっていけぬのか、論理的に筋道の立つ話を聞いたことが無い。政府要員ともなると財務官僚に煽られ、民草から年貢を搾り取ることに熱心になる。そしてご褒美に貰ったのかどうか知らぬが、中東やアフリカにまで足を運んで金をばら撒いてくる。

同じばら撒きでも国内の東北被災地や農家ならまだしも、なんでアフリカなんだ。アジア経済研究所アフリカ担当上席主任研究員の平野さんが言っている。『私は、「アフリカの経済の将来はどうなるんでしょうか?」と聞かれたら、あえて「楽観的な見通しをするのは、気をつけたほうがいいですよ」と答えています。』又人道的立場から貧困を救うなんて気取ってもアフリカの貧困層だけで4億人いるそうだ。その中である場所を選んでも、なぜその数百人を対象に選んだのか。個人財産をばら撒くなら問題ないだろうが、国のお金になると問題だろうが、日本の政治家が論理的に答えられる筈はない。

庶民が、やはり我が国は豊かな国かと錯覚してしまいそうでもあり、そんなことが出来るなら私を見捨てないで、と切なく思う人は少なくないだろう。国家、国家と言う割には国のことを分かろうとしない政府高官を見て、実に情けない思いだ。

2014年1月15日水曜日

小正月

今日は小正月、予報では少し雪が舞うそうで、真冬らしいどんよりした空模様。季節感としては如何にも相応しいが、生活実感としては全くそんな気分が漂わない。本来今日までは松の内、今夜のどんど焼きで焼いた餅でも食べながら、そろそろ決意を新たに勉強でもしないと入試にしくじるのでは、と不安がよぎったりした日が懐かしい。経済優先の時代だから、日本人は正月も盆も一所懸命働かなくてはいけないのだろうか。

序でに言えば成人式もつい近年までは小正月の行事であった筈だ。成人式がいつ頃から自治体の行事として定着したかを知らない。少なくとも20歳になる年に案内があったかどうかさえ知らない。個人的な記憶を辿ると、18歳で高校を卒業する直前、大学の入学通知を受け取った日だったか翌日だったかはっきりしないが、夕食にすき焼きををして家族で祝ってくれた。その場で初めて父からお酒を呑むことを許された。この瞬間が正式な成人式であったと今でも思っている。

話が逸れたが、昨今は、善悪は別として季節感の無いことが夥しい。多分大方の人にとっても同じ思いだろう。我が町でも、12日の日曜に区立小学校の校庭で、真昼間にどんど焼きがあったようだ。朝から大人たちがしめ縄と松飾、古いお札なんぞを薪の上に積み上げているのを見た。翌日は小学校に隣接する区立体育館前で、餅つきの準備ために子供を含めて大勢の人が集まっていた。これ等の風景を目にして、自分の頭に刷り込まれている暦には合わないと目くじらを立てるつもりはない。

折角国を挙げて3連休を作っているのだから、ここに正月行事を集中させるのは現代家族には相応しく、微笑ましいとすべきであろう。成人式も同じことだ。毎年テレビではイレギュラーな場面のみ報道されるが、大多数の新成人にとっては日付は問題では無いだろう。昔から年寄りは口を開けば、最近の若い者は・・と非難しがちだが、小生は、若い人から希望や勇気を貰うことが多い。老夫婦の間では「最近の若い人はしっかりしている。」と頷きあうことが屡である。

考えてみても当たり前のことで、他国のことはいざ知らず、平和に恵まれ、心配することも少ない環境の中で、十分な教育を享受することが許され、好きな道を自由に選べる日本の子供たち。いつの頃からこんな環境になったか検証のしようもないが、優秀でしっかりした若い人の育たぬ筈は無い。少なくとも我々の20歳の頃に比べれば、平均的には現代の新成人の方が遥かに優秀だと思う。自分の孫を見ていても思うことだが、今の子供は物怖じすることが少ないような気がする。

こんなことを考えたりする。個人は常に誰か、或いは何かの集団に依存してないと生存が不可能と、幼い頃から刷り込まれて育った。しかし現代の子は環境が良すぎる(?)ので、誰に頼らなくても自分の意思決定、選択で生きる術を、幼くして刷り込まれるのではないだろうか。その結果で、自立とか独立心が旺盛になると、連帯とか協調が薄れる心配がある。これも古い観念で考えるが故で、若い人たちの方が、我々が嘗て依存した集団より一段高い次元で、自分が住む世間を眺めているとすると、よりグローバルに育つ可能性もある。

もとより心理学的に的を射ている筈も無いが、先の世について心配することは何も無いだろう。

2014年1月14日火曜日

読後感「近代日本の官僚」清水唯一朗著

昨年末に著者の講演を聞いて面白かったので読んでみたくなった。著者は高校の後輩で34歳年下だから、子供の世代の人だ。しかし背負った子に教えられるの喩えではないが、19世紀の後半から20世紀の初頭の我が国の歴史について随分と教えられるところが多かった。このブログでも度々書いているが、我々の世代以降、占領軍の戦略で自国の近代史を学ぶ機会を得ていない。建前的には昭和26年のサンフランシスコ講和条約によって、日本は占領から解放されて独立した筈である。

にも拘らず、日本史教育に関する文部省の方針はあまり変化が無かった。故に維新前後、僅か150年そこそこ前のことでありながら、日本と言う国家がどのように形成されてきたかを正確に知らない、のが偽らざるところであり、同じような大人が多いのではないかと常日頃から心配していたところである。私なんかも、司馬遼太郎氏に代表される小説とか、テレビドラマに取り上げられた人物像をもって、断片的に理解しているつもりになっているだけに過ぎない。

内戦であろうと外国との戦いであろうと、戦争にはヒーローがつきものであり、維新前夜から約100年、戦いに明け暮れた日本史の中には話のタネは尽きない。そのことを断片的に追ってしまうと、肝心の国家を見失ってしまう可能性が大である。我々庶民は歴史を知らないことより、講談本からでも歴史を少しでも知った方が良いだろう。それで触発されて靖国神社にお参りするのも大いに結構かもしれぬ。しかし歴史を、或いは歴史に学ぶと言うことであれば、それではいけない。

もっと大局観をもって系統的に知るべきである。兎に角、本当の意味での国家「日本」が誕生したのは、19世紀も末の1890年代のことである。それまでは日本で「国」と言えばほゞ300に分かれた小国であり、我が故郷長野なんかは、本書で得た知識からすれば最低でも12の国に分かれていた可能性大である。平たく言えば、現在の中東アラブ諸国かアフリカ大陸のようなものだろう。少し近代日本史を勉強していれば、こんなところに迂闊に接近出来る筈もあるまい。

1850年代後半から、日本で起きた実に様々なこと、これ等については無学故に知らぬことが多すぎるが、兎に角相当な混乱状態から僅か40年そこそこで「日本国」が出来上がった訳である。この統治を完成させたのは少なくとも個人でないことは容易に想像できる。強いて言えば「官僚」組織であったのだろう。官僚と言えば、直ぐ大久保利通のような個人名を思い浮かべるのが我々俗人の常、組織の形成過程には思いが及ばなかった。

本書はその誤りに気付かさせてくれた。今までは川の流れに浮かぶ木の葉の動きだけを見て、知ったような気になっていた近代史であった。これを「官僚」という歴史の本流とも言える流れを俯瞰的に示してくれている。従って歴史小説のような感情的表現は一切ないので、ボリューム的には大した量とは言えない新書版とは言え、かなり読みにくい面もある。3連休掛けてやっとと言った感じである。大体昔の人は、なんであんなに小難しい名前なのか。(笑)

たまたま統治に形態を根底から変えたいとする内閣が出現したことに対する反感を持っていることから手にした本書である。しかし本書を読んで冷静に考えれば、現在の統治の姿はこれで良いのかの感が強い。官僚の知見識見がご粗末になり過ぎているのではとの不安もある。憲法も見直す必要はあるのかもしれぬ。但し、9条だけはいじらない方が善いのではと思ったりしている。

少し長くなりすぎたが、改めて著者に敬意を表し今後の活躍を祈りたい。

2014年1月11日土曜日

柔軟性とバランス感覚

日本は平和な国家だからどうでも良いのか知れぬ。しかし国家の第一目標が経済成長だと聞くと、それが果たして目標と言えるのだろうかと疑問に思ってしまう。北朝鮮なんかは同じ目標を掲げても何となく理解できるが、日本の経済成長てなんだろう?今月末から始まる国会を、収入増大国会と位置付けてくださっているが、政治によって収入が増える人のイメージがどうしても描けない。政治が民の収入を増やす唯一の道は、昔で言えば年貢を軽くすることの筈。

今年度減税の恩恵を受ける人もいるのだろうが、大多数の国民は増税の影響をもろに受けるのではないだろうか。恩恵を受ける人が大企業で、低所得の人ほど恩恵を受けにくい仕掛けになりそうだとはよく聞く話だ。大企業が潤わなければ下々の民草も救われない、が経済学の原則のように言う人は信用できない。経営者は組織存続のために環境がどのように変化しようと、利益を最大化すると決まっている。円が高かろうと安かろうと関係無いし、だから為替に政府が介入するのは基本的には善くないとされている筈だ。

現政府も経済成長の為に為替介入をしているとは口が裂けても言わないだろう。しかし国家第一目標からすると、相当気になっているようで、時々口が滑ることがある。また、現政権の第一目標が経済成長とは言葉の綾のようなもので、本当の目標は戦争の出来る国に戻り、国家の威信を世界にアッピールしたいのが本音と大方の人は気がついている。ならば最初からはっきり言ってもらいたい、が小生の思いであるし、多くの人も同じと信じたい。

威信を世に広めるとか、世界から尊敬されるのは大いに奨励すべきもので、そのこと自体に異論は挟まない。問題は、他国の侵略を許さないとか、領土紛争では絶対負けないためには、最終的に武力衝突も已む無しとする強気の考えである。バックにアメリカと言う世界一の軍事大国がついているからだろうが、悪く言えば少し思い上がりが強すぎる気がしてならない。土日に少し体を動かしたり、趣味で囲碁をしていても思うのだが、何事をするにせよ気を付けるべきはバランス感覚と柔軟性と最近やっと気がついた。

身体のことについては事細かに言わなくても、どなたにも思い当たる節がおありのことだろう。栄養や睡眠のバランスもさることながら、身体が力むと柔軟性が失われ、バランスが崩れて何をしても上手くいかない。囲碁なんかも全く同じで、相手の応手を平静に受け止める柔軟性とバランス感覚が整わないと、先ず上達できない。国家威信の発揚は大切だが、独り相撲で力んでいるだけでは他国に尊敬されることにはならない筈。

対話のゲームとされる囲碁は全くそうであるが、盤面を一方的(己の立場)からしか見れないうちは、先ず有段者にはなれない。偉そうな事を書いてしまったが、自戒を込めているだけで小生も級位者である。自民党の偉い先生方はしきりに中国脅威論を仰るが、アメリカに脅威を感じることはないのだろうか。中国人もアメリカ人同じ人間ではないか。囲碁では勝負(対話)に入る前から、相手のことを妙に意識するのも良くない(勝てない)とされている。安倍さんの対中韓の姿勢に同様のこと感じてしまう。

安倍さんはゴルフが趣味のようだが、腕前はどれほどだろうか?

2014年1月10日金曜日

東電の優雅さ

シベリアからこの冬一番の寒気が列島に流れ込んできているそうで、東京も寒い。日本海側は福岡まで雪が降っているそうだ。長野出身のくせに寒さに弱い。
隣の飯屋の親爺は秩父の出身で、仕事中は厨房の火の側に居るので半袖で頑張っていても、やはり寒さは苦手だそうだ。何よりこの寒さのせいで、客が減るのがもっとつらいとのこと。同業者は口を揃えて、今年は不景気だと言っているらしい。アベノミクス効果は、大きくて強いところに偏っている力説している。

今日も昼飯はこの店、他に客がいないので互いに昔話をしながら、5百円の日替わり定食に舌鼓を打った。因みにメインはプレーンオムレツだが、トマトケチャップがたっぷりかかり、その上にはほうれん草のバター炒めと焼き豚の切り身がたっぷり載せてある。その他にはコロッケが1個と正月料理によくあるごぼうの煮物がサイドに添えてある。プラスわかめと豆腐の味噌汁と中くらいのボウルいっぱいのグリーンサラダ、これも今朝家で食べたのとよく似ていて刻みリンゴがたっぷり入っている。

食事が終わると熱いお茶までサービスしてくれた。池袋から僅か2キロほどしか離れていないが、住宅街になると客の数が少ないので、料金を上げることが出来ないらしい。言われてみると、確かに家の近くには安くて美味い飯屋が多い。特に個人商店的な営業をしている店は、メニューにバラエティーがあるのが嬉しい。難を言えば、親爺一人が切り盛りしている店なので、料理が出てくるまでの時間が少し長いとか、営業時間が短いとか、いろいろあるかもしれぬが、隣人としては頼りになる店である。

少し立ち入って話を聞くと、人を雇ってはとてもやっていけないらしい。12年か3年前に、自前で店を買うことが出来たのでやっているそうだが、1日の売り上げが1万円未満のことあるとのこと。電気料金だけでも冬場で5万円、夏になると8万円を下ることが無いそうだ。天井に着いている大型エアコンは、使わなくて月に8千円ほどの料金になる、何故か知らぬがブレーカーを落としていてもその半分くらいの料金になるらしい。

このエアコンは料金が別仕立てになっているようで、現在使っていないので支払を溜めたら、年末押し迫って東電から電話が来たそうだ。正月5日までに支払って頂かないと電気を止めます、とのこと。使用していないから止めてくれ、と返事をしたら、全ての送電を止めるのですが宜しいですか、と脅されてしまったと嘆いていた。たまたまその5日行ったので、今日これからコンビニに振り込み手続きをしに行かなきゃならないので、少し早仕舞いだ。とは聞いていた。

年末に自分の事務所の電気料金について書いたばかりだが、ユーザー個人はお隣さんを含めて、大組織には抵抗のしようが無い。昨日の朝日新聞で、東電の発注工事が異常に高いことがすっぱ抜かれていた。昔から霞が関官庁以上の官僚体質を言われているが、天下り先と本社の関係なんかは容易に想像できる。経営幹部は合理化に大鉈を振るっていると言うが、果たして実態はどうだろうか?50歳前後の知人も何人かいるが、年賀状では、どちらさまも関連企業に転籍して、家族で海外旅行など優雅な生活を送ってらっしゃる由である。

2014年1月9日木曜日

読後感「第3の銃弾」スティーヴン・ハンター著 公手 成幸 訳

昨年の秋、文藝春秋社から「ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 」が発売になった。上下巻で3200円もする分厚い書物だったので読んではいない。しかし同時に月刊文藝春秋に掲載された抄訳は読んだので大凡の内容は覚えている。結論的には、公式にオズワルドの単独犯行と結論付けられた事件であるが、この説は相当にあやしい。CIAの秘密文書には彼が事件の直前にメキシコのソ連大使館を訪問した時の記録があり、それがウォーレン委員会に提供されていなかったとか、CIAとFBIの連携が無かったとか、いくら読んでもストレスが解消しなかったことだけが記憶に残っている。

昨年暮れに発売になった本書は、著者が既に何冊も書いている海兵隊退役軍人で狙撃の名人ボブ・リー・スワガーの活劇小説。主人公のスーパーマンと銃が主役と言う筋立てに変わりはない。但し、これまでのシリーズは全て著者の想像の産物で、実在の人物が準主人公的に登場したケースはないが、今回は舞台背景をケネディー暗殺事件にとっている点が面白い。この事件は冒頭に書いたように、実に多くのストーリーが語られ、映画化もされているが、現在でも真相が藪の中である。

著者も相当念入りに調査をしたであろうが、彼が採用したのはやはりCIA陰謀説のようだ。ボブ・スワガーシリーズを殆ど読んで来たが、お話の構成がテンポやサスペンス盛り上がをが実にうまく配置し飽きさせない。特に今回は、事前に内容を少し知っても面白さを損ねることが無い筈だ。

そこで少し内容に触れることにする。例によって、スワガー小父さんが半世紀近く前の大統領暗殺事件に否応なく関心を持つことになる理由は、彼が狙撃手として高名であった故である。首を突っ込んで調べ始めると、様々な疑問が生じてくる。何よりも、これは事実らしいが、3発発射されたとされている銃弾が、1発しか回収されていないこと。物語の起点はここにあると思えば間違いない。単独犯とされたオズワルドの狙撃も、専門家から見ると不自然過ぎたようだ。

著者も同じだろうが、狙撃と銃器、銃弾の観点から見ていくと、どうしても単独犯とは考えられない。世間に出回っている仮説には共犯が存在するとしている説も多数あるが、著者が設定した説は未だ嘗て無いらしい。その共犯者は当時のCIA幹部で、真に優秀な狙撃手を中心にしたチームであったとしている。
チームメンバーの殆どは故人になっているのだが、親玉が生きていて、スワガー小父さんが真相に接近してくるのを察知し、最終的には直接対決で成敗される。要約するとこんな筋書きになっているが、このことを知って読んでも興味深く読めることは請け合える。

全くのフィクションであろうが、犯人側はCIA、主人公側にはFBIが応援するとの構造も何やら暗示的でもある。些かコミック的読み物ではあるが、こんなものに仕立てられる程に、アメリカには半世紀以上前から暗くて深い闇が潜んでいることに思いが至ってしまう。日本にも似たような組織の構築を願う人間がいるが、怖いことだ。

2014年1月8日水曜日

2月9日 ソチと東京

ほぼ1か月後の2月9日ははソチオリンピックが開催され、東京都知事選の投票日となる。オリンピックの方は新たな競技種目となった女子ジャンプでの高梨沙羅選手や、フィギャーの羽生結弦選手など若手の活躍を期待したい。勿論オリンピック7回目の出場となるジャンプの葛西紀明選手も応援するし、いつの間にか出場選手の中では大年増になってしまった浅田真央選手の活躍も期して待つべきだろう。

2020年に夏のオリンピック開催を決めてもらったにも拘らず、何故か我が国の総理閣下は開会式に行かないらしい。当初はアメリカやイギリスの首脳が欠席を表明した後でも行くようなそぶりだったにも拘らず、やはり意志が弱いのか脅しがきつかったのか、同盟国に歩調を合わせたようだ。マンデラ氏の国葬同様に、代わりに皇族の何方かにお願いするなんて不敬なことを考えていなければいいが。プーチンさんも自身の威信に関わるからテロ対策には万全を期すだろうが、微かな不安がよぎってしまう。

話題が逸れたが、書きたかったのは人材の問題。スポーツの祭典は4年に1度、都知事選や国会議員も原則は4年又は3年に一度のことである。似たようなインターバルであるが、スポーツの方は次から次へと若い選手が育ってくるのが嬉しい。高梨選手や羽生選手なんかはまだ17歳とか18歳だ。自分の孫を見ていると、5歳や6歳では未だ人間として認める訳にいかないことが多々あるように思う。百歩譲って、その頃から親共々志を立てたにしても、高々10年一寸で世界の頂点を目指している。

個人的な経験でも、少し本気になって10年一つことに集中すれば、恐らく何事もそこそこ域には達するものと思う。思うとしたのは、残念ながら集中について個人的実証が不可能なので、乞うご容赦である。集中は無理として少し半端であっても10年一つことを続けると、そこそこの者になることは幾つか実感もしている。そこで思うのが、政治家の人材不足だ。政治家の必要条件てそんなに難しいものだろうか?

人格的問題を別にすれば、歴史観や社会情勢の分析力については人並み以上の見識を持つ必要はあるだろうが、技術的基本は現代的に言うと経営学、即ち組織の使い方を学んでいれば十分のようにも思える。言い換えれば、役人をどのように使うかだけのことではないか。都知事候補として最初に手を挙げた宇都宮健治氏と、その支持を打ち出した政党は、それなりの自信もあるのだろう。

以外の候補見込みとされる方と、候補者が見つからず右往左往する政党を見ていると正直不思議でならない。勝てそうだから応援しよう、なんて聞くと、一体政党とは何なんだと言いたくなる。候補予定者もそれを見越して、政党に高く売り込もうと言うのであれば、これまた有権者を馬鹿にした話だ。

明治維新を成し遂げたメンバーの大多数は20歳代の青年であったと聞く。世界の頂点を目指すアスリートが10年そこそこで生み出せるなら、流石と思えるような政治家を10年くらいで生み出す知恵は無いものだろうか?そもそも若手と言えば、小泉進次郎氏位しか思い浮かばないのも困った話だ。

2014年1月7日火曜日

初詣余話

少し正月気分を引きずって、友人の事務所に年賀に行った。互いに年なのでさしたる話は無いが、茶飲み話の中で一つ利口になったことがある。初詣のことだ。やや自慢げに伊勢神宮に毎年のように初詣をしていることを話すと、笑われてしまった。日本人と言うより個人的な問題かもしれぬが、宗教観のいい加減さを改めて感じることである。

何でも伊勢内宮の正宮では個人的な願い事をしてはいけないらしい。願い事をしても良いが、天下国家の事以外は受け付けてもらえぬことになっている。プライベートな願い事をしたければ、境内の別宮(荒祭宮・風日祈宮・滝祭神・子安神社と4つの宮がある)でするものと決められているとのこと。今年最初のブログにも書いた通り、たまたま今年はそれぞれの別宮にもちゃんとお参りしてきたが、25回ほど通っていて初めてである。

従来は正宮だけお賽銭を上げてお参りし、後はお札を買ってくればいいと思っていた。当然ながら、正宮での願い事は山ほどあるが、全て個人的なことばかり。しかも毎年願いをかなえて頂いているので、なかなか習慣を辞める訳にいかないくらいだ。友人の指摘は笑って聞き流したが、改めて初詣は日本人の面白い習慣だ。これは一体宗教行事なのだろうか?

初詣は日本の風俗ではあるが、ひょっとすると宗教ではないかもしれぬ。神道だけならば宗教行事として捉えてもいいだろうが、他アジア諸国の仏教徒が同じようなことをするだろうか、どうも疑わしい。仏教寺院を含めると初詣をする人は千万2千万人では収まるまい。参拝者の多さでは、今年もそうだが常に東京の明治神宮が筆頭に来る。未だ嘗て明治神宮に行った経験が無いので、これも不思議でならない。

そもそも明治神宮の祭神は多分明治天皇の筈。こんな生々しい方が無数の人の願い事を聞き届けられる筈が無かろう。これまでに霊験の実績があるのだろうか?天照大神ともなれば、キリストやマホメットと比べても遜色ない大昔から大和の民を見守っている実績がおありだ。だから霊験があるに違いない。
と、まぁ勝手な思い込みである。宗教のつもりで古いものを有難がる人種の典型で、明治天皇にしても天照大神にしてもいい迷惑かも知れない。

若い人も大勢初詣をしているが、皆さん誰に願いをしているのだろうか?○○の尊(命またはミコト)となれば如何にも別世界の人で、有難い神通力を期待できそうだ。千年かせめて五百年くらい経たないと、神様も仏様も有難味が湧かない。祀られて高々150年程度にしかならない明治維新後の神社の神様にお願いするのは、麻原彰晃や池田大作のような生き神様に願い事をするのと大差無いと思う。

いろんなことを考えてみると、我が宗教観は実に一方的、独善的で願い事ばかりだ。神からの啓示とか何らかの普遍性が無くて宗教と言えるのだろうか。その点「アラーアクバル」と叫びながら死ねるイスラム教徒とは大分違うみたいだ。特攻で死ぬとき、多くの人が「おかあさん」と叫んだと聞くが、実際に聞いた人はいないのではないか。だが、心情を察すると、日本人としてはそれが自然と言うことになるのだろう。

2014年1月6日月曜日

中曽根康弘元首相

今朝聞いたのだが、家内が見た日本テレビ4日の早朝の番組で、中曽根元総理と読売新聞のナベツネさんの対談が面白かったそうだ。なんでかと言うと、右翼政治家の代表のような中曽根元総理でさえ、安倍外交の拙劣さと手詰まりを批判したようだ。現総理の憲法解釈等に関する右寄り姿勢について、如何にも生煮えであり勉強不足でありながら、ことを急いてばかりいることを指摘したみたいだ。へぇ、そんなこともあるのかと感心して聞いていたのだが、昼間になって成程と思わせる記事に目が留まったので紹介したい。

高野孟氏のメルマガからの引用であるが、2005年の6月小泉元総理の靖国参拝が問題になった時に高野氏が書いたものである。

「中曽根康弘元首相は、思想体質的には右翼だが、イデオロギーに凝り固まっている訳ではなく、世界を眺め渡して日本の国益にとって何がプラスかを現実的に判断しようとするだけのステーツマンシップをそれなりに備えた人物だった。85年に公式参拝を敢行した後、中国、韓国のみならずアジア諸国、ソ連、英米までもが批判や懸念を表明する事態に直面してすぐに事の重大さに気づいて、翌年は公式参拝中止を宣言すると共に、藤波孝夫官房長官を中心に“分祀”実現の準備に入った」

一方の小泉氏については「小泉は日中関係深化のための具体策は何も採っておらず、しかも摩擦や問題の早期発見、機敏対処を放棄している。」として両者の違いを詳しく述べている。

中曽根氏が総理大臣として靖国神社を総理として公式参拝したのは1985年の8月15日、しかしその翌年の86年8月15日には参拝を取りやめ、心情を綴った長文の書簡を胡耀邦=中国共産党総書記宛に送っている。中で実弟が海軍士官として戦死、靖国に祀られていることも述べて、だがしかし、「侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました。」と述べている。

高野氏は更に、中曽根内閣は「日中友好21世紀委員会」「3000人日中青年交流」「北京の日中交流センター建設」など日中の戦略的なパートナーシップを促進する施策を次々に打ち出しているが、小泉は日中関係深化のための具体策は何も採っておらず、しかも摩擦や問題の早期発見、機敏対処を放棄している。と小泉氏の姿勢を厳しく非難し、頭が悪いと断じている。

高野氏がこの古い記事を引っ張り出してきたのは、小泉元総理の考えを安倍総理が引き継いでいるからに他ならない。即ち、「自国の国民感情とともに世界諸国民の国民感情に対しても深い考慮を行うことが、平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定の国家関係を築き上げていくための政治家の賢明なる行動の基本原則と確信する。」とした中曽根氏と、主観性の極致に埋没している小泉元総理・安倍総理との違いを知ってほしかったのだろう。

やはり小泉、安倍の両氏は中曽根氏より少し頭が悪いと言わざる得ないかも。

中曽根書簡全文はこちらを参照願います。
http://tamutamu2011.kuronowish.com/nakasoneyokann.htm

2014年1月5日日曜日

由良の門を

初泳ぎをしてきたが、2日と昨日と2回に分けてのお正月料理とお酒のせいか、体重が1キロも増えてしまった。量を控えめにしているつもりでも、1日中だらだらと飲食をするのは身体に善い筈はない。この1週間は例年のことではあるが夫婦別居状態、家内は宿下がりしっぱなしで、自宅は亭主一人で寝起きして2日と4日にはこちらが家内の実家にお伺いする仕掛けになっている。31日から今日まで6日間は朝食を自炊して、洗濯も自分でせざるを得ない。毎年年初に非常時の訓練をしているようなものである。

昨年暮に、原因は不明なのだが家内の足に痛みが生じたとて、嘗て手術で世話になった病院で診てもらった。結果、古傷とは無関係ではあるが、ふくらはぎの中に腫瘍があり、手術で摘出した方が良いとのこと。特に悪性の腫瘍ではなく年寄りにはありがちなことらしい。来月半ばから又2週間ほど入院することになっている。年を取ると、何もしなくてもあちこち不具合が生ずるのは誰も一緒のことだ。初詣に家内の無事も祈願してきた。

家内からは、どうせすることが無いならスキーにでも行ったら、とのお薦めでもあるので、それも1案かとも思うが、スキーを10日以上連荘でする元気は無さそうだ。家内の入院も3回目なので大分慣れてきたと思うし、隣の飯屋の親爺とは仲良くなったし、正月のサバイバル訓練を生かして、基本的には自宅での単身生活をする予定である。何れにしても今日で正月休みは終了。今夜の晩飯から、自宅で家内の手料理が食えると思うとホッとする。

現役の人は「また明日から仕事かぁ」と少し気が重いかもしれぬが、そのプレッシャーのあるうちが花です。「頑張ってください」としか言いようがない。でも明日は明日の風が吹くなんて暢気な事は言っていられないだろう。恋の道であれば、多少行方が分からなくても、心中期すべきところもありそうだが、経済をリードする舟人の舵が絶えると困ったことにもなりかねない。そりゃ、行方も知らずでは、昨年太平洋上に彷徨い出た読売テレビの辛坊治郎氏の心地になってしまう。やはり舟人とは政府なのかもしれない。

正月婿殿に聞く限りでは、彼の会社も円安のおかげでやっと一息ついて、一昨年ゼロだった暮れのボーナスが出たらしい。目出度い限りだとは思うが、余り明るい気分でもないらしい。1部上場大手半導体メーカー勤務の中間管理職にあるようだが、正にグローバル経済の競争真只中で悪戦苦闘を強いられているようだ。婿殿は技術屋であるから経営方針に関与するところが薄いのかもしれぬ。日本を代表するような大企業3社が合体してできているような企業体故に、企業文化の違いもあるだろう。

何よりも、会社の方針を「ものづくり」の現場を知らない人間が決めている。それで事が計画通り運ぶはずがないと嘆いていた。

因みに日本が今、由良の門に差し掛かっているかどうかは分からない。歌の解説はこうなっている。
:由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。
「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口 で川と海が 出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。

2014年1月3日金曜日

読後感「老楽国家論-反アベノミクス的生き方のススメ」浜矩子著

Amazonのレビューを見る限り、実に悪評サクサク、ケチョンケチョンである。書評も、これでも経済学者かと疑問を呈する人、ここ10数年彼女の予測が当たった例がないとする人、学習が全く無いことに懲りずにまだ書くのかと疑問を呈する人など様々だが、この本を読んでいなくては書けない筈で、むしろそのことについて敬意を払いたくなる。確かに著者は嘗て円の対ドルレートが50円になるかもしれない、なって当然のように言っていたのを聞いた記憶がある。

流石に本書では対ドルレート問題には触れず、また日本経済についての予測は皆無に近い。それでもアベノミクス経済戦略に対する批判の舌鋒の鋭さは相変わらずで、読んでいて心地よさがある。著者が経済学者として、如何程に評価されるべきかを論ずる資格はもとより無い。しかし著者の言わんとするところに共感を覚えることが多いのは事実だ。まさか素人を騙したり載せたりして有名になろうと思っている訳でもなかろう。

店頭で、正月休みに気楽に読めそうな本だと思って購入したのが正解だった。経済関係の本だと思わなければ面白い随筆だ。元々著者は少しか大層かは別にして、変わり者の類だろう。大量飲酒を自認し、英国生活が長いと聞くが、子供の英語教育に反対したりしているところから、我が家では家内が大ファンである。日本語や歴史をきちんと身に付けないと、何を学んでも肝心の時に判断を間違いかねない。私もこの考えが大好きである。

今回書きたかったこともこれに尽きるのだろう。現政権の取っている経済政策の根本にある歴史認識を問うているようだ。即ち、経済成長戦略は否定できないにしても、目指すところが何かである。経済成長だけが日本を救う道とすると、手段が目的化してしまいかねない。近代史を振り返れば、日本が高々100年も経たない間にどれほど成長してきたか、国民もどんなに豊かになってきたか。

少し冷静に考えると、現代表面化しつつある社会問題の根本が格差問題になりつつあることを指摘している。これが果たして現政権の目指す経済材成長戦略によって解消可能か否かであるが、そうはいかないだろうと述べている。かと言って野党側主張の分配理論だけで片付くわけでもない。現在豊かさの中に生じている貧困と、嘗てあった貧困の中の豊かさとは大違いの筈だから、経済政策だけでなく、労働政策、教育政策、環境政策から外交に至るまで、大変難しい合わせ技が必要。少し外国の経済政策も勉強してみろと言わんばかりで、現政権の考えは余りにも単純と非難している。

当たり前と言えば当たり前だが、経済成長に賭けている若い人には受けにくいだろうとは容易に想像できる。歴史観を共有できる年代でもあり、個人的には生活を少し多面的に捉えるようになっているので、共感できるところが多かった。

昨日は早起きしてブログを書きましたが、その後下の娘一家と新年を祝ったが、明日は又もう一人の娘家族との新年会なので初泳ぎも出来ず、ブログも書けそうにありません。

2014年1月2日木曜日

明けましておめでとうございます

毎年のことですが昨日の元日は伊勢神宮にお参りに行きましたので、1日遅れのご挨拶です。新しい年が皆さまに良い年となりますことを心からお祈りします。

私は大晦日の夜7時に新宿を出発するバスツアーで伊勢神宮に向かい、途中伊勢内宮の裏山にあたる朝熊山(あさまやまと読みます)で日の出を拝んでから内宮を参拝しました。例年はこの前か後で外宮も参拝するのですが、今年からツアー会社に対する国交省の新しい規制で、夜行バスには途中4時間の仮眠が義務付けられため、行くことが出来ませんでした。

予め知らされていませんでしたので残念です。それにしてもお役所の考える規制は不思議と言うより笑ってしまいます。先ずドライバーが2人体制になったのは有りがたいと思いますが、客を含めて4時間の仮眠と来たものです。何のための2人体制かです。少なくとも私はその仮眠時間に殆ど眠ることが出来ませんでした。昨年までであれば、真夜中の2時か3時頃内宮に到着すると宇治橋を渡った直ぐの神苑で暗闇に赤々と燃え盛る巨大な焚き火が初詣の気分を盛り上げてくれます。

今年は宇治橋を渡った時点で既に7時半を廻っていましたので、もう灰になっていました。そうは言ってもこの時間帯は深夜に比べれば、参拝者が若干空く時間帯だった様で、内宮の境内には正宮以外に宮とか神社が4か所ありますが、隈なくお参りが出来ました。その上昨日はお天気が良く、厚着をしていましたので汗ばむほどでした。伊勢神宮近くの猿田彦神社やおはらい町やおかげ横丁を散歩して、結局新年早々から1万7千ぽ近く歩くことが出来ましたし、朝熊山での見事な初日の出と帰りの車窓からは綺麗な富士山と素晴らしい夕焼けを眺め、気分良く帰宅しました。

自宅からカウントしますと26時間か27時間、殆どバスに揺られていた勘定ですが、お陰で本を2冊も読むことが出来ました。1冊は浜矩子さんの「老楽国家論」もう1冊はスティーブン・ハンター「第3の銃弾」(上)です。どちらも面白いので後者の(下)を読み終わったら読後感を書こうと思っています。

私にとりましては今日が元日のようなもので、これからお屠蘇を呑んでゆっくり雑煮を食べます。