2011年11月30日水曜日

天皇陛下の定年 やっとか、ついにか?

昨日秋篠宮文仁親王殿下ご夫妻が、殿下の46歳の誕生日前日の記者会見が行われたと報道されている。こんな会見毎年あったかなぁとの気がしないでもない。この会見で記者が「天皇陛下の定年制」について尋ねたようだ。世が世なら打ち首ものかもしれないが、勿論入念な事前打ち合わせの上の事だろう。それだけ時代が変わってきている証拠でもある。殿下も言葉を選びながら、検討する事を否定していない。

我が国の天皇制についての法律など詳しくは知らないが、天皇の存在は否定したくない。折に触れて拝見する天皇ご夫妻のお姿、特に昨日の殉職消防士の慰霊祭や、災害被災地を見舞われた時などから受ける印象は、心から胸を打つ温かいものを感じる。この方がいなくて、選挙で選ばれた国民の代表が、代わりを務める様相を想像するだけでぞっとしてしまう。

小生の知る人でも、先の大戦で不幸な思いをした先輩の中には、敗戦時に天皇制を廃止して共和制を引くべきであったと主張してやまない人もいる。それも一つの考えではあるだろう。しかし小生は天皇制が残されたことが、国民を勇気づけたと思っている。皇統の継承についても、最近また議論する機運が高まっているようだ。これも昨日の秋篠宮殿下の発言と無縁ではあるまい。いずれも大いに議論すべしだと思う。

確かに千数百年も万世一系、しかも男系男子だけで繋がっている家系だなんて誰も思っていないだろう。天皇家の過去をたどれば室町時代に行くまでもなく血生臭い事も多々あったのだろう。小生もありていに言えば、僅か百数十年前の明治維新前に、明治天皇の兄宮孝明天皇は伊藤博文でないにしても長州藩の手で暗殺されたと信じている。

人類の叡智は歴史を学ぶことから生まれるかもしれないが、因習に拘るのはよくない。これからの天皇制や天皇家の在り方を、出来うる限り政治色を排除して、象徴として担いでいる国民的見地から見直す事は非常に大事なように思う。宗教心薄い小生ではあるが、苦しい時の神頼みで、よくお宮にお参りをする。カトリック教徒が教会に行くようなものだろう。例えは双方に失礼かもしれぬが、皇居は日本のバチカンと思ってもいる。

何れも平和のシンボルであってほしいし、我が子や孫達も末長く天皇制や天皇家を大切にしてほしい。

2011年11月29日火曜日

読書スタイル

今日は単なる暇つぶしで、国会図書館まで行って推理小説を読んだ。国会図書館まで行くには、池袋まで歩いても、後は地下鉄に乗らねばならない。行きに160円、帰りは千川まで地下鉄になるので190円コストが掛かる。区の図書館だと行きは歩いて行けるし、帰りに地下鉄に乗っても160円で済む。しかし本棚を巡って、本を見つけるのが面倒くさいし、読みたい本が見つからないことも屡である。そんな時は多少古い雑誌等をめくって我慢する事になる。

国会図書館の方は多少コストが掛かってもいろんな意味で便利である。先ず余程の近刊でない限り置いてない本は無いだろう。出かける前に自分のパソコンから検索システムhttp://opac.ndl.go.jp/Processにアクセスして在庫は確認できる。目的の本を借り出すのに、混んでいても大凡20分もあれば目的の本が手元に入る。閲覧室の環境は区の図書館とは比べ物にならぬほど立派で落ち着いている。現在改装中で第1閲覧室がやや狭いが、前後左右の人が気になることは全くない。

アメリカの大学に留学した人の話では、彼の地の大学付属図書館は大体24時間オープンで、パソコン付のブースに入るのが閲覧スタイルらしいが、まだそこまでは行っていない。パソコンは持ち込み可能だが、読書机で占有スペースは読書と同じサイズのオープンであるので、利用したことはない。パソコンを持ち込んでまでと思うが、それでもその一角は一般利用者よりは多少混んでいるかもしれない。

国会図書館へは午前中から行くことが多いが、図書館内には食堂の施設が幾つもあり、特別うまいものが有る訳ではないが、カレーライス350円やナポリタン550円がお気に入りでもある。読書を始めると居眠りをする癖があるが、老いも若きも結構同じ現象の人が多いので安心して居眠りさえできる。
温度や湿度がいつも一定に保たれているのであろう、極めて心地よい。

読書を中座する時用に栞は貸してくれるが、栞を挟んだ状態での返却は出来ない。厚い本を読むときはページ数を覚えるなりメモして返すことが必要である。筆記用具やノート、参考書などの書籍の持ち込みも可能で、入館するときに持ち込み専用のビニール袋が用意されている。もう暫くすると受験準備中と思われる若い人が増えるが、今日は未だ老人の方が多かった。


読後感「死角 オーバールック」M・コナリー/著 古沢嘉通/訳を書こうと思ったが、書くほどのものでもないので図書館の紹介にした。とは言ってもさわりを少々。

この本は昨年で読者の選ぶ推理小説のトップにランクされている。ロスの殺人課の刑事がギャングの処刑かと思う殺人事件捜査に関わり、僅か1日半で解決に導くスピードあるお話だが、医療用セシュームカプセルの盗難とテロがテーマとなっている。この2点に加え、国や地方の司法当局の縄張り争い等、日本では極めて今日的テーマなので興味深い点が多かった。 

2011年11月28日月曜日

大阪の選挙結果

東京在住の小生とは縁遠い話だが、昨日の大阪府知事・大阪市長のダブル選は、既存政党とマスメディアの包囲網をものともせず、市長選で大阪維新の会代表の橋下氏、知事選で同幹事長の松井氏が圧勝した。橋下氏については知名度の高さから、或いは当選するかもと思っていたが、府知事候補の松井氏はまず無理だろうと思っていたので、ちょっと驚いた。橋下氏のついても、市長選に立候補を表明した頃に読んだ雑誌記事ではかなり叩かれていたので、大阪維新の会も沈没するだろうと思っていたくらいだ。

現地の人はそうでないかもしれないが、遠方の小生にとっては全くあに図らんやだ。橋下氏が機を見るに敏である事は間違いないだろう。確か最初の選挙は自民党のバックアップで当選を果たし、その後政権交代の影響であったかどうかは知らないが、自民党から距離を取り始めたようだ。自治体の首長であれば政権与党とは密接に関係しなければならぬだろうが、野党に義理立てしても始まらないのは自然すぎる。

全国知事会で当初は石原都知事と喧嘩腰であったようにも思うが、今回の選挙戦最終日に石原氏が応援に入っている。どっちがどうかは分からないが、政治家の世界は理解し難いものがある。大阪都なる呼称はともあれ、大阪の2重行政による無駄は相当なボリュームだろうから、無駄の削減は大いにやるべしだ。当然既得権者からの抵抗は激しいものになるだろう。今は手を握ったように見える都知事との関係だが、財政の心配が皆無の東京と大阪ではベクトルが正反対だ。

都知事は職員給料をカットしたなんて威張っているが、おかしな銀行を作ったり、マラソン大会をしてみたり、築地市場の移転にしてもオリンピック招致にしても、やらずもがなの事ばかりだ。大阪はマジで財政が危機状態にあるらしいので、東京の真似をせず、蛮勇を奮って財政再建を果たしてもらいたい。正直なところ、東京に住んでいるせいか財政に対する危機意識が希薄だ。その点、大阪府民や市民は真剣なのかもしれぬ。

橋下氏についてはお父さんの事から始まり、単なる壊し屋、独裁者、果ては性格異常者まで様々なレッテルが張られた。政治不信が高まると、1930年代のヒトラーの出現に見られるように、市民は独裁者の出現が望むものらしい。今回の現象も、それに類似するのではと心配する向きもある。そんなことは心配には及ぶまい。マスメディアは首相のリーダーシップの無さをいつも追及しているではないか。自治体の首長が戦争をおっぱじめる可能性は先ずないだろう。橋下氏自身2期8年で辞めたいとも言っている。大阪の皆さんが「こりゃまずい」と思ったら4年で交代させることも可能だろう。

もし大阪でこの閉塞感に少しでも風穴を開ける事になれば、大阪市民に拍手を贈りたい。それにしても国政における政党のだらしなさ、みんなの党だけはへらへら笑っているようだが、彼等にしても大同小異。ひたすら自己保身だけの離合集散を繰り返すだけで、国民に訴える行動と言葉が皆無に近い。大阪の選挙結果が国政にどんな影響を与えてくれるか、独裁的なリーダーの出現を期して待ちたくもなる。

2011年11月26日土曜日

読後感「ファイナル クラッシュ」石角完爾 著 朝日新聞出版

経済問題は難しくて、書かれたものを読んでも理解不能なので、あまり読まない事にしている。まして景気の先行きや経済動向に関する警告めいたタイトルを見ると、長期天気予報を聞く思いで手に取るのも嫌な事だ。しかしある書評でこの本が2007年に書かれたものであるにもかかわらず、その後に起きたリーマンショックから始まって、今日の欧米の金融危機を見事に言い当てていいる、と持ち上げられていたのでつい買ってしまった。著者の名前も知らなかったのも幸いした事だろう。

著者の略歴が面白い。京都大学から通産省に入省して途中下車、国際弁護士資格を取って現在スウェーデンに在住、ここまでは余り驚かないが、2007年にユダヤ教に改宗してユダヤ人となっているのには少し驚いた。国籍がどこであるかは未確認、少なくともイスラエル人にはなっていないようだ。先に<この本が2007年に書かれたもの>と書いたが、実は種本がある。そのタイトルが「The Final Crash」で著者は英国人のファンドマネージャーH.B.氏であり、石角さんが原著者の了解のもとで、冒頭に内容を紹介している。

07年時点でリーマンショックから始まる現在の金融危機を言い当てたのは、種本の著者である。彼が言わんとしているのは極めて単純、欧米や日本の財政悪化と中国のインフレがどこかで行き詰まり、世界経済がメルトダウンを始める。日本においても国内金融機関が買い続けている日本国債も暴落するのは明らか。この日はそんなに遠くはない。要約すればこんなことになる。因果関係も順序だって書かれているが、小難しいのでよく分からない。

著者はその警告を踏まえ、日本だけでないだろうが、消費礼賛文化の見直しを提起している。日本を例にとれば、一例として貯蓄が1970年代には20%超だったのに、現代2%=収入の50分の1になっている。一方これがGDPを押し上げてきた意味もあるのだろうが、果たして日本人がどれだけ幸せになったと言えるだろうか。初版は8月に出ているが、ブータンの国民総幸福度などにも触れている。

他にはユダヤ人らしいと言えばイスラムの金融システムにも触れている。これは初めて知ったので書いておく。「イスラムの金融では金利を取らない。銀行は金利を取ってお金を貸さず、投資家として借り手の投資に参加する立場をとる。一般的な投資では、借り手の投資が失敗した場合でも貸し手の債権は生きており、破産した借り手の担保を取り上げるなど容赦ない取り立てが行われる。イスラム金融では銀行もまた投資の仲間として、借り手と同様のリスクと損害を受ける。」

何でもリーマンショックの際、イスラムの金融機関は殆ど被害が無かったらしい。こちらは金融機関を選ばなくてはならぬほどの資産が無いので、クラッシュに備えての資産管理については興味が無い。ただ他にも、ワーク・ライフのバランス地域コミュニティーの在り方など、これからのライフスタイルを考えるときには参考となりそうなことが沢山書かれている。結論的には、資産の無い人のクラッシュ対策は一言で言えば「手に職を」だ。経済関係の本としてではなく、一読の価値はあるかも。

2011年11月25日金曜日

一つの老後

暮が近づくと何気に飲む機会が増えてしまう。昨日は真昼間から吉祥寺のすし屋で昼飯をご馳走になって、熱燗をやってしまった。平日と言うのに12時半頃からたっぷり2時間半、他に客がいなくなっても頑張ったが、さすが3時に切り上げた。帰りの中央線では居眠りをして、危うく新宿を乗り越してしまうところだった。

接待をしてくれたのは広告会社に勤務していた時に世話になり、友達付き合いをさせてもらった人。10数年ぶりにこちらから誘ったので、本来はこちらが持つべきところすっかりご馳走になったうえに土産までもらってしまった。
相手の方は小生から見ればすこし先輩であるが、矍鑠としてとても先輩に見えない。ビールで乾杯の後は、互いに暗黙の了解の如く自然に日本酒を注文してしまった。

杯での注しつ注されつは流石に勘弁してもらい、互いに湯呑でいくことにした。元々好きでもあったし、現役時代には量もいける方であったが、最近飲むことを控えているので些か分が悪い。彼はリタイアしてかなりの年月になるのに、ゴルフに麻雀そして酒のペースは殆ど現役時代と変わらない様子だ。自らハッピーな人生を楽しんでいるとの事。昔のよもやま話で盛り上がり、お陰で20年近く若返った気分で調子に乗ってしまったようだ。

小生と彼の勤務していた会社との縁は20年以上前に切れているので、彼が社内で最終的にどの辺まで登って行ったかは知らない。付き合いは互いに課長とか精々部長時代の事だ。今でもそうだと思うが、サラリーマンもこの辺が働き盛り、即ち遊び盛りで一番おもしろい筈だ。こちらも遂に偉くなれなかったが、彼もひょっとしたらそんなに偉くはなれなかったかもしれない。沢山面白い話があったので、最終的にどこまで行ったか聞きそびれてしまった。

言えるのは、今でも遊ぶ友達が沢山いるのは、現役時代社内で高いポストに就いたせいではなさそうだ。それでも聞くと、現在の遊び友達は会社の同僚や先輩後輩より、現役時代付き合った社外の人、それもかなり上まで行った人が多いようだ。やはり彼の人格ゆえの事だろう。老後の過ごし方は様々だが、素晴らしいサンプルかもしれない。

2011年11月24日木曜日

晩秋の奥多摩ハイキング


22日火曜日から昨日にかけて晩秋の奥多摩に出かけ、奥多摩の主峰とも言える雲取山(海抜2017m)に登り、三峰神社へ降るハイキングを楽しんだ。両日とも文句なしの快晴、晩秋の澄んだ青空の下は遥か遠くまで見通せる。又、気温が低いので、歩いている分にはある種の心地良さがある。むしろ休憩時には体が冷えてくるので、あまり悠長にしていられない。

歩き出しが既に650m程の標高なので、紅葉も終わり木々は殆ど枝ばかりの丸裸になっている。これがため見通し風通しがが良くなるのも晩秋から初冬にかけての山歩きの良いところである。更にウィークデイからのハイキングとあって人出もまるで少ない。雲取山荘で1泊したが、個室にはたった二人だけ。相客は今年退職した私立高校の先生でワンゲル部の顧問をしていらした方。

日本の山については行かざるところ無しの大ベテラン。山荘到着の3時から夕食の6時まで時間がたっぷりあったので、いろいろ教えて頂くことが出来た。この方はマイカーを登山口に於いての登山だったので、翌朝は別れて
一人で秩父の三峰神社に降った。6時15分に山荘を出発して約4時間15分の山歩きだったが、最後の方で秩父から登ってくる登山者5人と遭遇した以外は、途中白岩山の山頂付近で鹿に遭遇したのみ。さすがこれにはドキッとしてしまった。

熊鈴をつけるのが嫌いで、朝の光と静けさを楽しんでいたところに、すぐそばの藪で急にガサゴソと大きな物音がした。こりゃやばい!とうろたえてしまったが、よく見ると角がある。ホッとしたら鹿さんも悠然と去って行った。
そんなことも過ぎてしまえば楽しい思い出だし、三峰神社でもゆっくりしたので、日本人の宗教観の可笑しさを書こうと思っていたのだが、22日サボったおかげで今日は忙しかった。またいつか書きます。

山の写真などは下記をご覧ください。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-151616.html

2011年11月21日月曜日

孫のバスケを観戦

最近、上の娘の孫とは頻繁に会ったが、下の娘の孫二人とはとんとご無沙汰だった。二人とも中学生になってしまい、その上二人揃ってバスケ部に入ってしまったせいだ。兄の方は小学生の時からバスケをしていたので仕方がないが、弟は昨年までバスケとは全く縁が無く、合気道と習字の稽古に通っていた筈だった。中学校と雖もバスケ部の練習はかなりハードと聞き及んでいるので、兄の方も早くやめないと馬鹿になる一方と心配していたにも拘らず、弟まで巻き込まれてしまった。

弟は小学校までの習い事は両方ともやめて、兄と同じくバスケの練習に明け暮れているらしい。禄に休日も無いようで、当然お勉強の方はお留守になるだろうし、爺様に付き合っている時間なんぞ生まれる筈もない。昨冬はそれでも小学生だった弟がスキーに付き合ったが、今年からはもう駄目のようだ。
何がそんなに面白いか、子供の気持ちは分からない。兄もそもそもは、小学生時代に少し駆けっこが速いのと背が少し高かったので、先生の言われるままに始めただけの話。

弟に至っては背丈はクラス一番のちびすけ、駆けっこもそんなに速くはない。
にも拘らず、中学校のバスケ部の先生が、兄に「弟を連れてこい」と命じたらしい。兄はそれでも選手になれる可能性があるから未だ良しとしても、なんで弟が?娘も不思議に思っているが、本人が喜んでいるので仕方がないようだ。兎に角二人とは1年近く顔を合わせていないので、一度会いたいと思っていた。折よく東京都中学校のバスケの大会が昨日から始まった。

これまでに一度見たいと思っていたので、昨日品川区の会場まで見学に行ってきた。この大会は「東京都中学校バスケットボール新人大会」で各校共2年生と1年生だけの参加である。(3年生は受験準備で秋を以てシーズンが終わるらしい)都内の中学校数は国公立合わせると817校、全部にバスケ部が有る訳ではないだろうが、地区予選を勝ち抜いてこの大会に参加資格を得ているのは男女各64チームだけである。昨日の日曜から23日の休日も使って休日5日間行われる。

トーナメント方式なので、初日に敗退すると後の4日は見に行っても仕方がない。家では、バスケなんて日本人に最も不向きだし、下らない、早く辞めさせた方が良いのではと悪たれを言っているのだが、やはり孫の姿を目の当たりにすると応援に力が入ってしまった。娘や婿さんも一生懸命で、息子プレーの細かなところが気になるらしい。弟の方はベンチでスコアラーを務めている様子だ。タイムの度に監督の前に直立不動でスコアを提示している。

試合結果は、孫の学校が対戦相手の中野区の代表に大差で勝つことが出来た。世田谷から4校出場していたのだが、昨日勝ち残れたのは孫の学校だけのようだ。娘家族は今度の休日も一家を挙げて気が気ではないだろう。小生は久しぶりに孫の嬉しそうな顔を見て十分堪能した。子供は健康で毎日を楽しく過ごすのが一番だ。お勉強の方は、製造責任の一端を担う己を顧みれば、お留守になっても仕方があるまい。

娘が「23日は試合会場が立川だけれど、また来る?」と聞いてきたので、「いや、もう大満足した。これ以上ハラハラドキドキは心臓によくない。今度の休日は気を安んじて立川の先の山に行ってくるよ。」と会場を後にした。

2011年11月18日金曜日

下手の横好き

好きこそものの上手なれ、と古来言われているが、どうしてもその言葉に馴染まない事がある。小生には囲碁の事で、完全にタイトルに示した通りと言える。40歳頃に覚えて以来だから既に30年を越した。この夏頃までは、週末土日の午後は碁会所通いと決めていたようなものだ。ところが秋口からネット碁にはまってしまった。碁会所は1回行くと入場料が900円、2日で1800円の支出となる。

ネット碁はこの2日分の料金で1か月分24時間打ち放題。碁会所の客は池袋周辺であるが殆ど固定されていて、相手をしてもらえるのは10人もいないだろう。ネットの場合は常に400人前後の客がいて、手合い(棋力)が同じレベルの客だけ見ても50人や60人はいるみたいだ。大部分は日本人だが、外国人も時々入ってくる。

ネット碁はの善いところは相手の顔が見えない事。盤面にのみに集中できる筈ではあるが、非力の悲しさで簡単には勝たせてもらえない。更に独特のルールがあり、余りの長考は許されない。25手を10分以内に打たないと、時間切れで負けになってしまう。碁会所では大体1局の勝負に1時間から1時間半ぐらいが普通だが、ネットの場合は1局40分ぐらいが相場だろう。碁会所に半日いても、4局が5局が限界で、5局も打てば帰宅が相当遅くなる。

ネットは兎に角手軽なので、最近はウィークデイの真昼間から碁を打ってしまう。これが最近の読書を相当に妨げているのは間違いない。少し反省を込めて書いている次第である。しかしネットの事なので、過去のゲームのデータが全て保存されていて、見ても仕方がないが、ゲームを振り返ることも可能だし、自分の棋力が登録会員中どこに位置しているかまで確認できる。

登録会員は約20万人と聞いているが、小生のポジションは大凡日本で9000番、全世界では11000番くらいのところをうろちょろしている。因みに段位で言うと5級の下である。情けない話だが、実力の然らしむところだから致し方ない。当初囲碁は算数に強い人向きのゲームと思っていたが、そうではないようだ。人によっては芸術的センスが大事だと言う人もいる。強くなるには相当なセンスを磨く必要があると思うが、それは何と特定できないほど総合的なものなのだろう。

最近思うのは、物覚えと言うべきか記憶力の弱い小生のような人間には実に不向きかもしれない。それでもめげずに挑戦するのだから、囲碁の面白さを分かって頂けるだろうか?

2011年11月17日木曜日

国会版事業仕分けを歓迎

昨日から衆議院で決算行政監視小委員会が始まった。国会版の事業仕分けと言うことで話題になっている。今日も引き続き行われているので明日にでもゆっくり見たいと思っている。昨日のトップに行われたスパコン「京」の開発と整備費に関するくだりだけ今朝チェックしたが実に興味深い。

これについては一昨年の民主党政府の事業仕分けで、蓮舫氏が「2位じゃ駄目なんですか」と発言して、理化学研究所に連なる学者先生から猛反発を食ったのが記憶に新しい。そこに持ってきて今回はその「京」の計算速度が何でも世界一とどこかで認定されたとのニュースが流れたばかりだ。さぞかし理研側も鼻高々で臨んでいるのだろうと予想していた。

ところがさに非ずだ。独立行政法人理科学研究所 略して理研と称するが、これが文科省傘下のとんでもない利権組織だと言う事が焙り出されてきた。小生もそうだが一般人で、こんな組織に関心を持つ人間は皆無に近いだろう。しかし年間予算ほぼ1000億円を使う組織だから、隠れた大組織であるには違いない。スパコンだけでなく、宇宙探査船「はやぶさ」なんかもここかと思ったが違うようだ。

どうやら生命科学系統の基礎研究所らしい。余程の物好きでない限りまず目が向かないだろう。それをいい事に関係者はやりたい放題の事をしているのは明らか、目に余る野放図だ。昨日の小委員会で突っ込まれているが、正に素人さんには分からないだろうと言うことで、部落を形作って仲間内の既存権益を死守する構造は原子力部落とよく似ているとの事。

蓮舫氏事業仕分けで昨年度110億円かの予算が削られることになった筈。計算速度世界一のニュースが出た時、我が家では「予算が削られても結果が同じなら、あの事業仕分けは正しかったとの証明だ。」と笑って済まそうとしていた。しかしとてもそんなことで済ませる問題ではない。詳しくは衆議院のホームペジで現在開催されている決算行政監視小委員会を映像で確認してほしい。http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php

兎に角、蓮舫氏を小馬鹿にして、文科省と理研は焼け太りが酷いらしい。「肉を切らせて肉を盛った」と揶揄されている。残念なことに、この委員会は、事業の適否を判断するのみで拘束力はないが、同委の決議や政府への勧告を行う、となっている。同じ国会でも予算委員会なんかとは全く異なり、茶番の感じがしない。与野党議員共に行政の無駄を切り込むとの目的で、全く一致している。参考人の意見もふざけた感じやわざとらしさが無いし、全員座ったままでの討論もすっきりする。

政府側は三役も出席はしているが、主役は官僚で、彼らの無責任ぶりお上意識は露骨にはっきりしている。同じ国会内の委員会でありながら、予算委員会だけは何故あんなにご粗末なんだろうか?

日本がギリシャのようになるのはかなり先かと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。ある人に言わせると、2年とか3年の単位で我が国の財政問題に火が付き、国債の金利が上がり始めるだろうとのことだ。自分だけは大丈夫と思って、政府のいう事には何でも反対と言ってばかりで済む筈もない。与野党協調すべきことはきちんとしてくれ。少なくともこの委員会はそれが出来ている。

2011年11月16日水曜日

志が低すぎないか?

「自分の頭の蝿も追えずして、他人の頭の蝿の事を言うべからず」てな事は今時は何方も仰らないようだ。特に最近の政治家の言動を見ているとそう思う。

たまたま今日の日経ビジネスオンラインに「なぜ“首相育成システム”は崩壊したのか」が掲載されていた。御厨貴と池上彰の対談で御厨貴が語っている。結論的には、自民党の小渕政権時代までは派閥が首相育成システムとしての機能を発揮してきたが、その自民党も小泉総理時代に、首相自身がそのシステムを破壊したので、首相育成システムは喪失、民主党は当然ながら最初から全く機能が無いとの事だ。

当然の帰結として、首相の存在が軽くなって「誰でも首相になれる」「自分にもできる」と思わせてしまう。それが国会での罵詈雑言、又は汚いヤジになっているとしている。更に『その罵詈雑言を口にする政治家たち自身には実は「いつかは自分も首相に」という気概がない。』悪循環だと書いてあるが、多くの政治家がそうだとすると、日本人にとってこんなな不幸はあるまい。

昨日のニュースを見ても、全くこの記事に同感せざるを得ない。参議院予算委員会での自民党山本一太議員の質問とそれを煽る西田昌司議員のヤジ。最近のマイクの指向性が向上して、ヤジの音声は殆ど拾わない筈なのにNHKのニュースでさえ拾ってしまっている。テーマはPTAだかTPPとかの事らしいが、何れにしても外交交渉に関わることだ。外交は政府の専管事項でもあり、まして交渉の緒に就いたばかりで、手の内を晒すことなどありえないのは素人にも分かる。

質問すること自体国益とやらを棄損しかねないと思うがさて置き、余りにも品位を欠く質問とヤジには恐れ入る。うん十万の票を獲得して選ばれし議員様には大変恐縮ながら申し上げたい。お二方ともいつもテレビに出演されたり、活字になったりして目立っているので、よく存じ上げている。特に山本氏は安倍総理誕生直前から応援団としてその傾向が著しい。可愛げがあって面白いと思っていたが、福田さんがなる時も麻生さんになる時も同様の振る舞いであったので疑問を感じ始めた。

議員をご商売として考えれば、目立つことが最大の目的になるのだろうから、文句を言われる筋合いはないだろうと言えばそれまでだ。ましてや他人の応援をする事のどこがいけないのか、と開き直られても困る。老婆心までに申し上げたいのは、ただ一つ。「自分が総理大臣になることをお考えになって頂きたい。」

2011年11月15日火曜日

アロハシャツ

北関東以北はやっと初雪の便りだが、東京はまだ相当暖かい。ラニャーニャ現象で今年の冬は寒いと言われるが、初雪もだいぶ遅れた。どうも天気の長期予報は当てにならない。寒い季節は寒く、どうせ降るなら雪もたくさん降ってもらいたい。差し障りのある人もいるだろうが、正直な気持でもある。

閑話休題
先日冬とは無縁のハワイのホノルルでAPEC首脳会議なるものが開催された。ハワイ気候風土を思えば日本人にとって人気があるのはよく理解できる。小生ですら行った事のあるハワイに、野田総理が行くのは20数年ぶりで、高校時代にクイズ番組で優勝したご褒美だけと言うのも少し意外だった。総理は相当に真面目人間かも。

小生には国際会議の意味など難しすぎるので、いつも会議の内容は無視している。今回も同様だが、新聞テレビの報道で出席者の服装だけが気になった。確かこの会議は、どこで開催されても出席者全員ご当地のご衣裳で記念撮影をするのが恒例であったと記憶していた。今回は当然全員アロハを着せられて記念撮影と思っていたら、全員スーツ姿ではないか。

こりゃ何故だろう?アロハシャツはアメリカの一地方の民族衣装に過ぎないからだろう、と勝手に解釈して婆さんに同意を求めた。そんなくだらない事はどうでもいいでしょう、と言われたが少し気になっている。日本のクールビズもだらしがないので嫌いだが、やはり首脳級の国際会議なのだから、これからも今回のようにせめてスーツにネクタイは着用してほしいものだ。

もう一点気になったのは、野田総理の記者会見で参加国について「エコノミー」と言っていたことだ。これも知らないのがいけないようで、大分前に香港や台湾が参加したので「国」は使用していないらしい。勿論国旗や国歌も無しのようだ。それだったらアロハシャツは余計すんなり馴染みそうだが、
そうはなっていない。と言うことは、アメリカ人の中にも意外にまともな人間が居たと思いたい。

2011年11月14日月曜日

酒と煙草

同期の友人と会って食事をしても、皆一様に食べる量と飲む量はめっきり減っている。同窓会の幹事として会場を選定する際に”飲み放題”を前提にしているが、そろそろその必要が無くなるのではと思ったりしているところだ。煙草に至っては喫煙者が集まる人数の精々10%がいいところではないか。小生も煙草は第1子が誕生した時にやめてしまったので、辞める時の苦労は思い出せない。

30歳になりたての頃だから酒量が増えたような憶えがある。むしろ45歳前後の時、大阪で専売公社の宣伝に関わり、「イベントでクライアントと顔を合わす時は必ず「CABIN」を持っていて下さい。」と営業担当から言われて、クライアントとの懇談では赤い箱からCABINを取り出して吸った事が懐かしい。その時既に相当無理して吸っていたように思うので、初めからそんなに好きではなかったのだろう。

酒にしても煙草にしても、高校時代に始まるのが少なくとも我々の時代は普通だった。それが現在は少し年齢が下がって中学校の悪がきが始めるらしい。
我々の時代は酒を飲んだり煙草を吸ったりしたくらいでは悪がきとは言われなかった。先日同期の友人が10人ほど集った時、高校時代にこの二つを経験しなかった人間が一人だけいたので、他の連中がびっくりしたほどだ。

経験者のきっかけが様々で面白かった。出身校では秋に文化祭と称する学園祭があり、この準備やら何やらで、学校への泊まり込みが家庭にも学校にも大っぴらにできた。この時が最初のきっかけと言うのが相場のようだ。先生から酒の差し入れがあったなんて話もあったし、先生が喫茶店に連れて行ってくれて、そこでウィスキーを飲ませてくれたなんて話もあった。

傑作なのは小正月のどんど焼きの火を貰ってきて、家中を煙でいぶす厄払いの習慣がある田舎から来ていた友人、「その火で煙草を吸うとむし歯にならないと父が教えてくれたので。」昔の人は本当に大らかだ。市内に下宿している友人の部屋は勿論恰好の溜まり場だし、学校から少し外れれば山の中だから吸う場所には不自由はなかった。勿論持ち物検査なんて事も一度もなかった気がする。

こうして大人になった友人、そして小生自身、皆どこかに少年の面影をかすかに残しながら、時の流れと共に酒も煙草も量が減り、やがては禁酒から禁煙へと変化しながら姿も性格も変わっていくのかもしれない。

2011年11月11日金曜日

読書と貯金

父は冗談だろうがいつも言っていた。「ご趣味は?」と聞かれたら「読書と貯金です。」と答えられるようになりなさい。父の教えにはできるだけ素直になりたいのだが、なかなか上手くいかない。教えてくれた父も、倹約家だったから貯蓄については範たるものがあったように思うが、読書の方はどうだったのだろう。18歳になるまで一つ屋根の下で暮らしたが、父が本を読んでいる姿を見た記憶が殆ど無い。

ひょっとしたら、読書だけは父を凌ぐことが出来たのかもしれない。しかしその読書も、肝心の内容を読む傍から忘れていくのが残念である。悔しいので、日記を書き始めた時に、せめて読後感だけ書くことにした。日記をこのブログサイトに移して早2年半。今日挙げた読後感で82件目だ。最近は読書を始めるとすぐ眠くなるので、スピードが上がらない。読みたい本がなかなか思いつかないので、有難いと言えば有難い。

現役時代は出版社の人とも多くの付き合いがあったので、新刊本を随分貰って、読む本に不自由のなかった頃が懐かしい。当時、有名な編集者が教えてくれた。「読書と言っても人が一生に読める本は精々5千冊、だから良書を選ばなければいけません。」大学1年の時の担任の先生は、卒業後25年くらい経っての同窓会で「大人になったら下らない本を読んではいけません。図書館で福沢諭吉全集を読破するのが一番です。」と仰った。

どちらも含蓄あるお言葉だが、実行できないのが凡夫たる由縁だろう。尊敬する父も、読書より「NHKのど自慢」や「ドリフターズの全員集合」を見る事を好んだようだ。今朝21年前に撮影された両親と娘二人の写真を見せられて、大変懐かしい思いがあったのと、久しぶりに読後感を書いた事を併せて思い至った。

読後感「男の系譜」池波正太郎著

昭和50年代初頭に出版された著者の語り下ろしである。著者のデビューは昭和30年との事だから、デビューしてから20年目から23年目にかけて、著者の薀蓄を編集者が聞き取って纏めたものだろう。著者の作品を全て読んでいる訳ではないが、これを読むと著者が戦国時代から明治維新の頃までの日本の歴史をどのように把握しようとしていたか、理解が出来るような気がする。

章建は戦国編、江戸編、幕末維新編の3章からなり、織田信長から西郷隆盛まで18人の人物が取り上げられている(内、番外として戦国の女たちが挿入)。取り上げられている人物は、必ずしも武将には限らない。歴史や当時の社会を理解しやすくするためだろう、町民である幡随院長兵衛とか織田の家来のそのまた家来でありながらも、当時槍の菅兵衛として天下無双と言われながら流転の生涯に終わった渡辺勘兵衛を取り上げている。

私はこの槍の勘兵衛については本書で初めて知った。著者の博覧強記、生き方のダンディズムについては、前から敬意と好感を持っている。それがどこから来ているかもよく分かる。即ち歴史に残った日本の男の生き方からなのだろう。私も70年以上生きてきたが、この人生で目の当たりにした人物のうち、2百年3百年後まで語り継がれる人物がどのくらいいるだろうか。

戦国時代と言えば16世紀、今から500年も昔の事だ。家康はそれでも75歳くらいまで生きたらしいが、信長や秀吉は50歳前後で亡くなっている。その短い人生で彼らがどれほどの事をしでかしたのか、改めて感心するばかりだ。現代は平均寿命が延びたこともあり、同年輩でも現役政治家が掃いて捨てるほどいる。彼らに歴史を学べと言っても無理だろうから、せめて本書を読むことを薦めたい。

確かに戦国時代から幕末維新にかけて、政権交代に関しては常に血生臭い闘争があり、主人公たちもそれに深く関わっているのも否定しようがない。しかし一様に言えるのは、目的がどうであれ、己の信ずるところに向かって常に自分も命かけていた事であろう。その事だけは物心ついた時から1日1刻も忘れずに励んでいた事だけは間違いあるまい。

「今の若い人に総理がいくら言っても、少年がテレビで国会のチャンバラ劇や茶番劇を見ても、あの猿芝居を見れば、そりゃ信用しませんよ。」昭和50年池波さんの言葉である。


2011年11月10日木曜日

たまには楽しい話題を

上の娘夫婦が現在住んでいる世田谷区の祖師谷から、今月末に我が家の隣接区板橋の桜川引っ越すことになった。現在のアパートがなんでも安普請とかで、3歳を迎えた孫が元気が良すぎて階下の住人から苦情が出たらしい。板橋区と聞くと小生なんかは凄く田舎っぽく思うのだが、娘に言わせると祖師谷の方がもっと田舎だと言う。

何でも公園や庭先に蛇が出るのも気に入らないらしい。買い物にしても孫の遊び場や幼稚園や小学校、お医者さんなんかも比較すると遥かに板橋の方が環境的に優れているとの事。その上に家賃が15%近く安いらしい。それは結構なことだが、我が家と距離的に近すぎるので、婆さんは襲われる頻度がずっと上がりそうと戦々恐々である。こちらはかわいい孫の子を見る回数が増えると思うと楽しい限りだ。

先日、その孫が来春入園させてもらう幼稚園の説明会があって、その時の様子を娘から聞いた。我が孫は未だ自分の名前もうまく言えないのに大丈夫かと小生は心配しているのだが、娘はあっけらかんとして「あと5か月もあれば十分」と言っている。一人っ子なので、我が家に来ても大人3人に囲まれて若旦那然として好き勝手しているし、片言の日本語も母親の通訳が必要なので心配をするわけである。

ところが意外や意外、母親が園長先生の説明を受けている間約1時間、3歳児達は40人ほど一塊になって、他の場所に別の先生に引率されていったらしい。園長先生の説明が終わって、母親達がその場所に行くと、大声で泣いている子もいたりして結構な修羅場だったらしいが、我が孫は機嫌よく初めての友達と遊んでいたとの事。

ホッとした気分だが一番の話題は、帰りの電車の中で、若旦那が「あ~、たのしかった。」と声を上げたらしい。どこでこんな言葉を覚えたか母親自身が思い当らなかったので、娘も相当にびっくりしたようだ。小生も若旦那を捕まえて言わせてみた。成程間違いなく言っている。幼児の成長は見ているだけでも楽しい。

社会的にも鬱陶しいニュースの氾濫する中、昨日今日と明るい話題二つある。一つはホンダのロボットが4年ぶりに新バージョンをお披露目、能力が格段に向上している。聖徳太子ではないが、3人が同時に発声したドリンクの注文を聞き分けている。指先の動きが人間同様にデリケートになり、片手に紙コップを持ち右手で水を注いでこぼさない。何れも映像で実験が公開された。

もう一つはノーベル賞を受賞した田中耕三氏が又画期的な発見をしたらしい。
何でも10万種類以上のタンパク質から病気に関係するものだけを素早く見つけ出す方法のようだ。理屈は難しすぎてわからないが、田中先生の真面目さと朴訥さにはいつも感動すら覚える。

2011年11月9日水曜日

自論への固執

もう数日前の事になるが、海上保安庁が長崎の沖合で中国漁船をを漁業法違反とかで拿捕との報道があった。今回は漁船に体当たりを食らったのではなくて、日本の海保が漁船に体当たりして停船させたのも皮肉な話しだ。さぞかし大騒ぎになるだろうと思っていたが、まるきりならないのは何故なんだろう?

これまた素人で全く分からない。事件の本質が全く異なるのか、まさか内閣が違うからなんて事で、中国が事を荒立てないとしたら、菅さんや仙石さんが気の毒なような気がする。新聞やテレビもその辺を説明してくれないと、肩透かしを食ったような気分で落ち着かない。政治家の皆さんは頻繁に外国に行ったり外国人と交流しているし、ビジネスマンにしても同じだろう。仕事で現代社会を生きている人は世界を視野に入れていないと何事も意思決定できないようだ。

婆さんのいう事だけ聞いていれば安穏に暮らせる爺のような訳にはいく筈もない。それは当たり前だが、それにしても世界的視野てえ奴は余りにも難しすぎて、断片的な情報を半端に受け取ると、中国漁船拿捕と同様の消化不良やフラストレーションがたまる。TPP問題はその典型だ。これだけ世界中の情報が瞬時に入手可能に思う世でありながら、まるで鎖国状態にあった幕末の攘夷論者VS開国論者の論争を聞く思いがする。

当時と同じで、しがない庶民としては、なるようにしかならないのだから知らん顔をすべきであろうが、騒ぎが伝わってきてしまうのでつい取り上げたくなる。と言っても、野次馬だから個人的な考えは何もない。江戸末期と比べて、面白いと言っては失礼なので違うなと思うのは、幕府側にも攘夷論者が多い事だ。150年前を思えば、攘夷論者が大老暗殺に留まらず内戦を仕掛けた。結果、莫大な国内の資産人材を消耗して、幕府を転覆せしめた。

政権の座に就いた攘夷論者は、あっという間に宗旨替えをして開国路線を引き継いだのは知っての通りだ。勿論、幕末の攘夷論は討幕のため便法的に使っただけ、との説があるのも知っている。黒船来航とはきっと本質的な違いはあるのだろうが、偶々小生には重なって見えてしまう。今激烈に反対をぶち上げている人たちも、世界のすう勢が赴くところに竿をさしたところで、どうともならない事は百も承知の事だろう。

単に、数日後の日米首脳会談で参加の意思を表明してはいかんと言っているだけだ。総理も総理で、反対派の言っている事も十分分かりながら、属国のお代官としては宗主国大統領様のご要請を袖に出来ない。宗主国の大統領様も1年後の自分の首が掛かっているので、大した話ではないかもしれないが、少し強めに圧力をかけている。せめて国内或いは幕府の中だけでも、もう少し建設的な話し合いが出来ないものか。

今も昔も国政を論じる人種は、好んで政敵の対立概念を構える癖がある。150年の文明の進化は、政敵の暗殺と言う下らない習慣を取り除いただけ益しと言う事か。

2011年11月8日火曜日

調査結果から見えてくるネットの世界

何の因果かいつの間にかはまってしまったネットの世界、高速通信回線のインフラ整備が進み、昨年4月発表の総務省の調査でインターネットの利用者数は9408万人、人口普及率は78.0%に達し、ネット普及率はアメリカ中国に次いで世界第3位とされている。60歳代利用者が増加して50%超えをしている事も報告されている。ネット利用者の塊をどう捉えるべきだろうか?

確かにネットの世界は、年寄りにとっても暇つぶしの材料は豊富で便利だ。しかしこの数字からイメージするほどネットで世の中の動きをウォッチしたり、ブログを書いたりして暇をつぶす人はそんなに沢山はいない。殆どの友人の家にはパソコンはあるが、使っているのは子供たちであったり奥さんであったりして、自身の利用は株の売買かメールが精々のようだ。

若い人のパソコン利用法は想像にすぎないが、ビジネスがやはり第一で、暇つぶしに使う人は少ないだろう。小生のようにネットにどっぷり浸かっている人は、相当の暇人か、なりマニアックな人に限られるのかもしれない。学者や何等かの専門家の世界でも、ネットは利用してもネットに見解を披歴するに至る人は未だ少数派だろう。

急にこんなテーマを持ち出したのは訳がある。自分で嵌っているせいもあって、ネット利用者が拡大しているので、世の中の動きがネットを通して見えてくるのではと思い込んでいた。宅配される新聞も斜めに読み飛ばし、テレビのニュースなんか見なくてもいいだろうと思い込んでいたものだ。だがしかし、一寸待て!と思い始めたのは報道各社の世論調査とネット調査の差異が大きすぎる事だ。やはり調査理論に基づかない調査は無意味なのかもしれない。

極端な言い方をすれば、大体に於いて正反対な結果が生じる事の方が多い。
当然ながらネット調査はサンプリングに依らないので、調査の標本数はネットの方が圧倒的に多い。しかし考えてみるに、新聞「赤旗」の読者に<共産党を支持しますか>と問えば大多数の人は<はい>と答えるだろう。同様なことがネットの世界にもあるのではなかろうか?

属性を分析すれば老若男女広く分布するとはいえ、ネット世界の住人は未だ広く遍くとはなっていない事に気が付いた。小沢一郎氏なんかもネット世界を重視し始めているが、残念ながらその持つ影響力は微々たるもののでしかないだろう。彼が出演するネット番組を多くの人間が見たと言っても、恐らく10万人程度の事でしかないのでは?

これでは「赤旗」や「公明新聞」の影響力に及ぶまい。利用している囲碁サイトの登録会員が世界中で約20万人と聞くが、ここらあたりが現段階における限界なのかなぁ。

2011年11月7日月曜日

リーダーシップ考

毎週熱心に読んでいるメルマガの一つに『from 911/USAレポート』 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)がある。著者は1959年生まれで東大の文学部からコロンビア大学大学院を出た人で、文章も上手いし、日米社会の双方を比較しながら観察する目も確かで、事実を冷静に捉えて、過激な予測に走らないところが好きである。この人は自分で認めているが、大の野球ファンのようだ。

最新のメルマガで、ダルビッシュ有という不世出の才能がアメリカ球界にやってくる「その日」を期待する一文を書いている。普段プロ野球に全く関心を寄せない小生だが、野球を通してみる日米社会の大きな違いに思わず引き込まれて読んでしまった。ダルビッシュ選手がアメリカのメジャーに参戦するときの参考までにと言うことで、いろんなアドバイスを書いているのだが、「そういう事か、とか成程ね、」思うことが多々ある。

ストライクゾーンの違いへの対応、イラン人の血統を受け継いでいることなどをどのように考えるか、何れも面白いのだが省略する。野球だけの事でないので感心したのは次の件。即ちこれまでの日本人プレイヤーがなかなか出来なかった、「チーム内でのリーダーシップ」を発揮してほしいと言っている。更に、アメリカでは先輩後輩のカルチャーもないので、リーダーシップとは「上が下から敬意を受け取る」ものではなく、「上から下へサポートを与える」という方向の違うコミュニケーションがハッキリ必要とされます。と言っている事だ。

よく政治家のリーダーシップが云々されるが、リーダーシップとはそのようなコミュニケーション能力と見るべきなのかと感心した。多分日本では大多数の人が好感を抱くであろうイチロー選手は、自己流が強くてチームの中でリーダーシップを発揮する事はうまくいっていない嫌いもあるらしい。確かに日本人は、チームの中でリーダーシップを発揮できる人材は少ないかもしれない。勿論学校教育の場でも、リーダーシップについてきちんとした方針は無いだろう。小生も難しく考えすぎていた。冷泉氏の言うように、もっと簡単に考えるべきかもしれない。

2011年11月6日日曜日

「日本食」ってなんだ?

農水省が今年度末までにユネスコの世界無形遺産に「WASHOKU(和食)」を申請する事に決めたとの報道がある。理由が振るっている。「原発事故の影響により我が国の食・農林水産物の信認が揺らいでいる中、日本の食・農林水産物に対する信認・価値の回復・向上を図ることが重要となっています。」となっている。

霞が関の官僚たちは余程暇なのか、或いは要でもない仕事を作り出して税金を無駄遣いする名人揃いの証明だ。ギリシャの役人を笑っていられない。又311の大災害もこんなへんてこりんな事にまで利用されたのでは、被災している生産者にしても一般市民にしても怒りたくなるのではないか。決まり文句のようなってきたが、もっと他にすることがあるだろう。

なんでもフランス、スペイン、イタリア、ギリシャ、モロッコ、メキシコの食文化がすでに世界無形遺産として登録されていて、これらの国が食の価値を向上するための取組としてやっているので、我が国も真似をしたいと言うことらしい。ユネスコの世界無形遺産にどんなご利益がるか知らないが、仮に登録されたからなんだと言うのか。東北の農林水産物の信頼性や価値がこんなことで回復すなら誰も苦労はしない。ふざけるな!

TPPも大騒ぎになって米作農家の存亡の危機見たい事が言われているが、国内産の米に手厚い保護を与え続ける一方で、国民一人あたりの米の消費量は半世紀にわたって下がる一方であることを農水所の役人が知らない筈は無い。また、和食と言っておけば、多くの人が反射的に米が中心になる食事と錯覚してくれると思い込んでいるのも大きな間違いである。日本食=和食=米中心の食事なんて思っている日本人は殆どいないのではとさえ思う。

現代日本人が主に食べる食事は、善悪は別にして正に国籍不明のユニークな食事と言えるかもしれない。だから世界遺産に申請と言うなら分かる。隣国同士なのにフランスはフランスパンを食べ、イタリアはパスタ類を食べる。理由は、硬水の多い土壌のフランスではパン用の小麦がよくでき、火山灰土壌のイタリアでは麺類にしかむいてない薄力粉しかできないから。と言った事とは日本人は無関係なのだ。見境なく何でも輸入して好きなだけ食ってきた。

それが急に、米作農業を死守するなんて大声を張り上げ、こんな下らない事に税金を費やすのだから本当に情けない。


以下の論文は篠原孝衆議院議員のメルマガからの引用である。彼もTPP参加に強硬に反対している。その事に賛同する訳ではないが、以下は一読に値する。
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(フランスの食生活を教える学校給食とひたすらケチる日本)
 フランスの学校給食費は約2万円である。日本は5000円に満たない。これをフランス人に言うと、高級ブランドを買い漁る金持ちの日本人が、子供の健康のもとになる学校給食費をケチるのかと質された。いまだ子供たちに先割れスプーンという便利なものを使わせている。それに対し、フランスは子供用のスプーン、ナイフ、フォークをちゃんと揃え、前菜(オードブル)、主菜、デザートときちんとしたフランスの伝統的食生活を小学校の頃から叩き込んでいるのだ。自国の食料なり食生活を守っていくことについて、政府も国民も一丸となって取り組んでいる。
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2011年11月5日土曜日

なんでだろう

子供の頃から算数が苦手なので困るのだが、最近大騒ぎになっている世界経済に関する話、国内で言えば年金に関する話等、全て数字が出てきて、分子があって分母があって最終的には計算式見たいものに発展するので、殆ど理解できない。今日報道されている「イタリアがIMFの監視を受ける事になった」件もそうだ。イタリアの政府債務残高は国内総生産の120%でギリシャに次いで大きいとされているようだが、日本は確か200%近くで近々1000兆円になると言われている筈。なのに何故かギリシャとイタリアについては大騒ぎで、日本は他の国からとやかく言われないばかりか、円が高くなっていくのは何故なんだろう。

ギリシャ政府の債務が半分チャラにされる理由も分からないし。我が国に比べれば借金が少ないイタリアが、何故こんなにユーロ内の他国から財政についてイチャモンを付けられるのか。政府が債券を発行するのは子孫から借金をする事までは何となく分かる。国内で消化できないから外国の金融機関に売った結果での事も何となく分かる。であるならユーロ全体を1国と考えて、ユーロの中央銀行で参加国全ての国債を引き受けると仮定すれば外国に売ったことにはならないだろうに。ユーロ参加国を合計して政府債務は総生産の何%になるんだろう。日本みたい200%にはならないだろう。

もっと不思議なのは通貨の売買。どういう人種がこれに関わるのか知らないが、円が高くて困るなら、7兆や8兆と言わず50兆でも100兆でも売ればいいだろうと思ったりしてしまう。そもそも通貨だけを売買すると言う発想はどうして湧いてきたのだろう。逆転して考えれば、日本政府がドルもユーロも元も通貨として認めるとどういう事態になるのだろう。外国で、その国の通貨よりドルでの支払いを歓迎する国があったような記憶もある。

分かっても分からなくても関係は無いのだろうが、財政とか経済に関する話と言うやつ、どうも誰かが誰かを煙に巻いたりして、その実そいつはやりたい放題でニンマリしているように思えてならない。
下司の勘繰りかな。

2011年11月4日金曜日

ものづくり日本

我が家の家電製品は全部国産品である。残念ながら自家用車は無いが、婿二人の自家用車も国産車。当たり前の事だと思っていたら、先日友人から「家電量販店に行ってごらん、テレビなんか圧倒的に韓国製に押されていることがよく分かるよ。昔は外国製は安かろう悪かろうで、品質が国産品に比べて劣るとされていたが、今はそんなことが全くないようだ。第一韓国製の方が値引きをしないで頑張っている。」と聞いてびっくりしていたら、今日は下記の記事に目が留まった。

アメリカのテレビ市場で韓国メーカーの四半期別シェアが初めて50%となった。 9月期の米国の薄型テレビ市場シェア(金額ベース)はサムスン電子が37%でトップ、LG電子が13%、パナソニックが9%、ソニーが9%、東芝が7%と続いたとの事である。このところ国内家電メーカーテレビ事業の採算悪化のニュースが続き、日立なんぞは自社生産から撤退の報道まであった。広告業界にいた4半世紀前の事を考えると俄かには信じられない程だ。

小生も大阪にいたのだが、当時の日本最大の広告主と言えば文句なく松下電器産業(現パナソニック)、中でもテレビ事業部が広告出稿の筆頭であり、そのマスメディアを引っ掻き回す勢いに周囲は恐れおののいていた。一つの製品の寿命がそういつまでも続く筈もないから、テレビ事業が先細りになってきたのはやむを得ない。少し気になって調べてみると、多くの経済評論家が口を揃えて「日本の家電メーカーに未来があるかということですが、現状のままであれば未来はあまりないといえます。」と言っている事だ。

評論家の予測なんて当たった例がない、と笑って済ます事が出来ればいいのだが、そうでもなさそうである。天に唾した訳ではないだろうが、IT技術の進歩が世界的に拡大したことで新興国で生産可能となり、しかも生産地域間の品質格差が急速に縮小して、価格の格差だけの勝負になってきているらしい。それでは日本製品が新興国製品に敵いっこない。当たり前の話だ。更に、先ほど自動車にも触れたが、従来日本の経済を引っ張ってきた様々な製品にも同様の事が当てはまるだろう。

日本人は諸外国に比べれば比較的お金持ちだろうし、耐久消費財の購入に関してもスペックよりイメージを重視する傾向がある。少なくともうちの嫁さんはそうだろう。大手自動車メーカーに勤めていた友人が「韓国製の車が売れないのはそのせいだ。」と言っていたことも思い出した。しかしこんなこともわが世代までの話で、収入が増えない中で、消費行動では価格を重視する時代が日本にやってくるのも時間の問題だろう。

家電メーカーもソフト重視の時代だそうだが、ものづくりで日本でここまで来た路線を変更するためには先ずトップから意識を変える必要があると思うし、政治家もヨーロッパに行って他人の頭のハエを追ってる場合ではないかもしれない。我が婿の一人は大手電機のIT技術者で、ものづくり戦士の一人かも知れぬ。彼の会社の先行きも果たしてどうなることやら、心配と言えば心配だし、ものづくり日本に終焉の時が来ない事を祈りたい。


2011年11月2日水曜日

人物と名前

古希を過ぎて尚、少しばかり知識が増えたからと言いてどうなるものでもない。しかし高齢者に歴史を勉強する人が結構多い。小生も勉強と言うほどのものではないが、歴史小説など読んでみたくなる時がある。若い人ほど歴史を学べばいいと思うが皮肉な事だ。生まれた時期が軍国主義花盛りであったせいか、学齢はおろか幼稚園に通う前から、上杉謙信と武田信玄の名前を覚えたように思う。故郷の北信濃には縁の深い戦国武将である。兄貴がいたせいもあるのかもしれない。

昭和57年に書かれた池波正太郎の随筆を読んでいたら次の一文があった。
『加藤清正について書くとき、近所の高校生に聞いてみたんです。
「加藤清正、知っているかね?」
「それ、議員でしょう」
これだからねえ、外国の歌手やスターの名前は知っていても、自分の生まれて育った国の事は何も知らない。』
もう30年近く前の事だから、現在は推して知るべしである。

歴史は繰り返す、歴史に学べとも言われるが、本当だろうか?「学べ」の2字が嫌いなので引っ掛るが、子供の時に憶えた名前には戦国武将以外に多分実在しなかったであろう伝説の善玉悪玉がいた。酒呑童子とか安達が原の鬼婆とか八岐大蛇とか怖い奴もがたくさんいて、こいつらをやっつける英雄がいた。余談になるが、小学校に行くようになっても、酒呑童子は歴史上実在したのだと思い込んでいた。

少なくとも小生は社会の骨格について、虚実ないまぜの伝説から大分学んだ可能性はある。現代は昭和10年台20年代と比較してみると。我が家の孫への関わりを見ていても、婆さんは孫の食事(食い物)には熱心だが、話を聞かせるところは見たことが無い。母親がどうしているか知らないが、古臭い昔話を知っているとも思えない。思い起こすと、小生は祖母から昔話をたくさん聴かされた記憶がある。

東京あたりでは核家族化の生活形態が極当たり前になっている。そこへ持ってきてテレビの発達で、母も祖母も子や孫も物語は全てテレビにお任せになっているのではなかろうか。いや幼児教育全体が、かなりテレビ依存している可能性は高いだろう。そうでなければ、日本語に無いような読み方の名前がこんなに氾濫するはずもない。

似たようなテーマが続いてしまった。反省

2011年11月1日火曜日

乱れているのか、進歩グローバル化か

高校時代お前の家に遊びに行った時の事だ。お前が親父さんの事を「お父ちゃん」と呼ぶのを聞いて、おかしいやらびっくりするやら。今年の夏、大勢の同期の友人の前で笑い話をされてしまった。恥ずかしながら確かにその通りだ。面と向かってお父さん、お母さんとまともに呼ぶようになったのはいつの頃からだろう。かなり大人になってからであるのは間違いない。

娘二人に孫が3人いて、3番目の孫が日本語を少しずつ覚え始めた。「おたたん」「おかあたん」「おばあたん」は聞き分けるのが大変だが、「おじいちゃん」だけはかなり明瞭で嬉しい限りだ。自慢するほどの事ではないかもしれぬが、我が家は「パパ」や「ママ」が根付かなかった。日本語は外国人にとっては難しいとも、人によっては易しいとも言われる。しかし日本人にとっては一番使いやすく便利な言語であるのは言うまでもない。

外国語と外国事情に疎いので、やや我田引水の感は否めないが、日本語は言葉にしても文字に書いても、個性がよく出るし、外国語には容易に見られない美しさがある。昔のドイツ語辞書の文字や映画のタイトル文字などを見ていると、書体そのものは日本語にない工夫や美しさはあるのだろうが、水茎の跡麗しい書には人柄が偲ばれるし、文字の芸術性は日本独特ものと誇るべきだろう。
日常会話において語彙が豊富であるのも特徴の一つであろう。日本人は時と場所に応じて、簡単な言葉を使い分ける事が自然にできる。この辺の事は大きくなってから覚えるのは少し大変だろう。語彙が多いのは良しとして残念なのは、新しい意味不明(老夫婦にとってだけかも)の言葉とおかしな言葉づかいが次から次へとテレビから生み出されてくる事だ。

タレントを集めたクイズ番組なんかでは、こんなことまで知る必要があるの?と思う程に難解な漢字を読み書きするものがある。これを又結構知っているタレントがいるから不思議。一方で歴とした局アナが、「挙式をあげられました」みたい変にご丁寧な言葉遣いをしてくれたりする。歌謡曲が好きでよく番組を見るのだが、台所で聴いている婆さんは画面を見ないと何を言っているか分からないと嘆いている。確かに昔の歌謡曲や童謡は目をつぶって聞いても心にすんなり入ってくる。

シニア・ナビで毎日ブログを読ませてもらっている広島の方が昨日「はやり言葉」について書かれていたのを拝見して「言葉遣い」について書くことを思いついた。

関連して、これもどうかと思う。
昨日国会で自民党の小渕優子議員が総理に対して「報道では、あなたは父と似ていると言われる。状況、人柄は似ているかもしれない」としたうえで「している事は似て非なるもの、天地ほどの差がある」と切って捨てた。勿論党内で十分な打ち合わせ後の発言だろう。身内のことをへりくだる風習のある日本の国会で発言する彼女も彼女だが、それをさせる自民の幹部も狂っているとしか思えない。