2009年8月31日月曜日

夏の終わり、秩父一人旅 金峰山


土日の天気が辛うじて持ちそうだったので夏山最後の登山に行って来た。秩父の「金峰山」である。
無理をしない登山を心がけようと思っていたので、いろいろ検討の結果一番楽そうなコース信濃川上からタクシーで廻り目平登山口へ行き、そこから登る事にした。土曜日の朝、幸い晴天。山に出かけるには少し遅い新宿発8:00の特急あずさで小渕沢経由小海線の信濃川上に向かう。信濃川上で降りた登山者らしき者は一人。タクシーの相乗りを期待したが誰もいない。ドライバーも大抵の人は1時間前の電車で来ますね、笑っていた。

登山口の金峰山荘で届けを出したり、飲料を補給したりして11:30頃から歩き始める。最初は千曲川の支流に沿って林道小1時間ほど歩く。ここで一休みをして持参の昼飯を川岸近くの開けたところで食っていると、次から次へと登山者が降ってくる。のんびりした奴が居るものだと言う顔で、挨拶やら簡単な会話を交わす。皆日帰りののようだ、こちらは金峰小屋泊だと言うと納得してくれる。登山は早朝に歩き始めるのが本当だろうが、今回はスロー登山と決めたのだから仕方がない。

12時40分昼飯が済んでいよいよ山登りが始まる。前回日焼けで苦労したので、婆さんが持たせてくれた日焼け止めクリームを腕にたっぷり擦り込む。未だ陽射しは強いが予報は午後から崩れるようなこと言っていたので、何とか持ってくれることを祈りながら坂道を1歩1歩踏みしめる。小1時間で「後半分です」という標識に到達。どうやら降られずに済みそうだ一安心。



ところがどっこい、4,50分歩いた時に陽が陰ったなと思う間もなくポツンと雨が降ってきた。山道なので気持は焦るが駆け出す訳にもいかず、あと少しだから何とかなるだろうと決め込んで歩き続ける。ところがところが、あっという間に雨脚が強くなる。仕方がないからザックカバーだけ取り出してザックに被せる。少し行くと二人連れの登山者が合羽を着始めている。とても付き合っていられないと思って止まらずに進むと、降り始めから5分も経っていないと思うのだがバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになった。どうせTシャツ1枚とズボンだけだ、「ずぶ濡れ結構」と根性を決めて2時40分少し前に金峰小屋に転がり込む。雨がひどいので小屋全体を写せず、取りあえず看板だけ。




薄暗くて誰もいないかと思ったが、土間の奥にある炬燵におじさんが1人新聞を読んでいる。濡れたものは土間の天井に張り巡らせて紐にかけてくれとの事。チェックインは後回しにしてザックを開いて着ているもの全てを着替えてしまう。その後チェックインを済ませ、やっと落ち着いてお茶をご馳走になっていると途中で合羽を取りだしていた二人が入って来た。と同時に2階からお客が二人降りてきた。2階に居た客は奈良から来て昨晩登山口の金峰山荘に泊り、昼前に山頂に行って素晴らしい景観たっぷり堪能してきたとの事。ずぶ濡れで来た客は今朝横浜から瑞牆山荘経由で来たとの事。

未だ3時過ぎ、5人それぞれにビールやウィスキー等を飲みながら暇にまかせての山談義。自分も飲もうかとも思ったが容器を持ち帰りと聞いてやめて、持参のドリンクだけにした。更に1時間以上経ってからまた二人連れの客がずぶ濡れで入って来た。かなり若いお兄さんで瑞牆山荘で先のおじさん二人連れと一緒だったらしい。聞くとこの悪天候下で山頂まで行ってきたとの事。山頂から目の前の5丈岩さえ見えなかったとの事。 この二人を含め7人の客のうち自分を含め5人は明朝の登頂を期する事にする。

予約の客7人が揃い5時半に夕食になる。写真を見て下さい。ごはんの上にローストチキンに焼きなすが被さっています、一皿料理ですがなかなかしゃれています。小食のため山小屋の食事を残さず食べる事の方が少ないのですが、綺麗に平らげる事が出来ました。グラスに入っているのは飲み放題の白ワインです。お椀の中も洋風スープで結構な味でした。明朝登頂の5人機嫌が良くなって明日はきっと晴れるなんて言っています。しかし小屋を叩きつけるような雨風は益々強くなってきました。


8時頃寝付いて12時頃一度起きるが外はまるで台風のようだ。3時半頃再び起きると外は静まり返っている。しめた、と早速支度を始めると部屋のはるか向こうで(60人分の寝床に7人しかいないので)やはり支度を始めた人が居る。昨日私の次に入って来たおじさん二人組、4時、まだ霧がかなり濃いが3人で行けば怖くないと山頂を目指す。30分足らずで山頂、まだ真っ暗ではあるがしかし風は全く止んでいる。そんなには寒くない。5時が近くなると東の空から徐々に赤味がさしてくる。ご来光を拝めると期待するが、拝む前に明るくなってしまった。しかし山頂で徐々に明けていく遥かな峰々、眼下に広がる雲海を静かに見ていると自然の神々しさに打たれるのか、何とも言えない清々しさを感じる。正に登山の醍醐味と言えよう。



山頂で30分以上過ごしたが朝飯が5時半なので5丈岩を経由して小屋に戻る。



殆ど乾いてはいるが大きな岩が続くので慎重に降りる。小屋に戻って朝食、今度は茶碗とお椀だけ配られて海苔、漬物、佃煮など簡単な総菜8種類がボウルに入れられ卓の真ん中に置いてある。この小屋は天水しか無いので水が貴重、節水が最大の課題のようだ。



予定より30分遅くなったが6:30に瑞牆山荘を目指して出発、おじさん二人組は瑞牆山に登らなければと10分ほど先に出発。若い二人は食事の後山頂に行ってから下山との事なので、一人でのんびり、スローなハイキングだ。天気は快晴、周囲の山々が何と言っても素晴らしい、と言っても知っているのは富士山、山頂でも見えたが段々はっきりしてくる。その他には八ヶ岳や昨年登った瑞牆山、これは降るにつれ間近に迫ってくる。途中何度も立ち止まって風景を写真に収める。今日の降りは尾根歩きでは比較的歩きやすいと勝手に決め込んでいたが、前半3分の2は大きな岩続きで歩きにくいし危険でもある。兎に角スリップだけはしないように慎重に慎重に降る。



大日岩の下で先行の二人組に追いつく。テント場があり、これから山頂に出発する人が数に居た。こちらはここで残しておいた果物やドライフルーツなどで休憩、富士見平を経由して瑞牆山荘には予定通り9:30前には到着。10:15のバスで益富の湯に向かい昼風呂でゆっくり汗を流して、これ又予定通り5時過ぎに帰宅。夏の終わりに一人ゆっくり歩いた楽しいハイキングだったと言える。

2009年8月28日金曜日

孫がもう満12歳

今週は毎日のように日記を書いてきた。よほど暇だったに違いない。年寄りの常で病気の話か孫の話しか無いのも困るが、月並みに又孫の自慢話をしよう。今日は上の孫の満12歳の誕生日。私自身12歳の時には父方、母方とも祖父は亡くなっていたので、祖父として12歳の孫の顔を見る事が出来るのは感無量と言うか幸せな気分である。昨日婆がお祝いに送ったTシャツが届いたので礼の電話が来たそうだ。その開口一番が面白い、いきなり「もしもし〇〇(苗字)です。」と言ってきたらしい。一見可愛げ無い振りをする、これが彼のキャラである。

この子は世田谷の区立小学校6年生、身体頑健とは言えないまでも、まあ丈夫な方だろう。どっちかと言えば悪ガキの方と自分で言っている。運動会で駆けっこをすると校内随一の速さだそうだ。クラブ活動はバスケットで、殆ど毎日のように遅くまで練習があるらしい。お勉強はまあそこそこなのではないだろうか。正月には5年生の2学期までの通信簿を見せてもらったが、平均値的でごく普通の評価だったと記憶している。夏休みに入って先日アニメ映画に連れて行った時に、何故か通信簿を持って来るのを忘れてしまったとの事だった。製造責任者に思いを致せば、お勉強に過大な期待をするのはとても無理、と爺も婆も最初から思っているし、もう通信簿を見せてもらう年齢ではないかもしれない。他には婆の強い希望で幼稚園の頃からピアノを習っている。

1学年下の弟が居て、この子もほぼ同じ年頃からピアノを始めさせたのだが、3年生の頃だったか先生に「予習、復習も出来ないならやめてしまいなさい。」と叱られたら「じゃあ、やめます。」と言ってさっさと辞めてしまったようだ。バスケとピアノではとても相性が悪いと思うのだが、どういう訳か上の子は未だに週1回習いに行っているらしい。これも私にはとても不思議だ。性格的にはとても面白いところがある。先ず好奇心が旺盛な事、それと茶の間などで大人と一緒に居る時、自分の好きな事に打ち込んでいるような振りをしながらその場の空気をよく読んでいる。その空気を暫く胸に畳んで、ある時ひょっとユーモアに富んだ発言をして大人を喜ばせるのだ。

最高傑作はこれ。
一家で父の実家に出かけ、帰宅してから暫くして
孫「おかあ(母への呼びかけ)、このあいだ古河(婿殿の実家)では嫁っぷりが良かったね!」
娘が婆さんに報告して来たそうだ。「てっちゃん(孫の愛称)に褒められてしまったよ。」

おまけに。
食事の最中に
孫「おかあ、胸のボタンが頑張っていますね!」
娘「あんた達がさんざん吸ったり揉んだりした所為でこんなになってしまったんだよ。」
孫「へえ、そうなんだ?」わざと「食べ過ぎ、飲み過ぎでないの!」とは言わない。

2009年8月27日木曜日

ポケットの中の宇宙  アニリール セルカン

書店で何げなく手にしたこの本を読んで、世の中にはこんな人がいるのかとびっくりした。

著者は若干36歳の青年で、しかもドイツ生まれのトルコ人(国籍という意味で)。しかし著者にとって国籍は余り意味をもっていないのではないだろうか。既に日本に10年間住んで、飛行機が成田に着陸すると「帰って来た」と感じるらしい。

工学博士で東大の助教(講師で行っている大学は国内外に多数)専門は建築と言うのもおかしなくらい様々な肩書を持っている。特に自分が本を買う動機になったのだが、長野オリンピックの時トルコナショナルスキーチームのコーチで来日している。本の表題にもなっているように宇宙開発とも密接に関係していて、NASAの宇宙飛行士にも挑戦している。

俄かには信じ難い才能を持っているのだろうが、書いている事は極めてシンプルで分かりやすく、同感するところ多。こういう若者がどんどん出てくれば地球ももっと住みやすくなるだろうな思わずにはいられない。すごい発明をしたとか大発見をしたと言う事ではなく、今のところは特に為し遂げた偉業も無いようだ。しかし発想が柔軟でとても素直に感じるのが魅力的で将来が楽しみ。

日本の良さについても感じ方が良い。好きな漢字を外国には無い概念の「無」としている。表題からすれば「空」にすればもっと良かったのではとも思った。

2009年8月26日水曜日

風の吹くままに

今度の日曜日はいよいよ総選挙、政権交代の風が吹いているそうだが、実際に起きるのだろうか?

もしそうなったら日本のどこがどう変わるのか非常に興味深い。大多数の有権者は自公政権に飽きて反対党に投票しているのだけで、国がどう変わるかなんて事については真剣に考えていない事だろう。私自身は検察制度(特に特捜制度)に変化が起きるか起きないかが最大の関心事である。当然民主党の政治家達も、マニフェストについては党としてオーソライズしては見たものの、これを政府として実行していく仕組みについては良く分かっていないのだろう。

一方政府の官僚たちは長い夏休みを楽しんだ後で、来月から始まる2学期をどんな思いで迎えるのだろう?

強かに、どんな政治家が乗り込んで来ようが、これまでに蓄積してきた情報の出し方さえ間違えなければ大した事にはならない、と高をくくっているに違いない。民主党マニフェストに関係する案件が関係する役所は、既に予算をはじめ殆どのシミュレーションを終えている筈だ。勿論人事についても整理はついていて、政府が組閣に1か月近く掛けると言っているから十分対応可能とと思っているに違いない。
組織体組織の戦いであれば官僚と民主党では横綱と褌担ぎにもならないのではと心配になる。

何と言っても60数年前に外国人の占領軍が乗り込んで来た時でさえ、慌てず騒がず「ハイ、ハイ」と言いながら自己保全を全うした組織細胞の末裔である。ましてや自民党や公明党に義理立てする必要ははなから何もない訳である。自分たちの組織が生き残れば良いだけだろう。従ってなるべく民主党マニフェストに沿った政策の実現に向けて協力する事になるだろう。しかし問題は公務員人件費の2割削減と天下り禁止条項だ。これを如何にいなすかがお役人サイドの腕の見せ所だし、民主党の力が問われる真のせめぎ合いになるだろう。

正直、個人的立場から言えば、我が家は婿も私も、民主党が本当に力を発揮したら些か生活に影響が生じかねない。小学6年生の孫でさえ「おとうの会社(本当は会社ではない)のためには鳩山さんより麻生さんが良い。」と泣かせる事を言うくらいだ。しかし肝心のおとう(婿殿)や私もそう心配はしていない。婿殿は誰に投票するか聞いていないが、少なくても私は風の吹くままである。結果現在の仕事が無くなってもいいと思っている。別に愛国心でも何でもない、昔から言う所の「世の流れには沿うて見よ。」だけの事だ。

2009年8月25日火曜日

秋風

孫の夏休みも終わらないのに今日は終日エアコンのお世話にならなかった。さわやかな秋風だ。天気予報は残暑が厳しくなるような事を言っているが、どこ迄に当てにして良いのやら。本当に今年はの気候は変だ。幸い米は何とかなりそうと言っても野菜農家の人たちはお気の毒だ。野菜が高くなるのは主婦にとって大変な事に違いない。食料品だけではなく衣料品、家電なんかも売れないのだろう、デパート、スーパー、コンビニの売り上げも皆昨年を下回っているようだ。パチンコも駄目、飲み屋も駄目、これを皆リーマンショックと結びつける事が出来るのだろうか?大型デジタルテレビが売れても、あと1年ちょっとアナログ放送が終了したらパタッと売れなくなる事は目に見えている。

自動車もハイブリット車が売れに売れているように喧伝されているが、トヨタ1社の景気が良くなっても日本の景気が良くなる筈もない。シャープや京セラはソーラーパネルの宣伝に力を入れている。電力会社から電気を買えない山小屋なら有効だろうが、目の前に電柱が立っている家に住んで、あんな物を屋根に乗っけようと言う人の気がしれない。政府が時代を開く新産業として位置付けているとしたら噴飯ものである。風力発電も同じで日本の風土に馴染まない事は経産省でも分かっている筈である。所詮日本のエネルギー源は原子力と火力に頼らざるを得ないのだ。火力も石油だけでなく石炭をもう一度見直す必要があるようだが。要はまやかしの新エネルギーではなく全く新しいエネルギー論理を発見又は創造する事だろう。

原子力も火力も共に有限の資源である。そこで新エネルギーと共に省エネという言葉が近年の流行になっている。これもかなりまやかしっぽい、従来の産業構造のまま省エネをいくら叫んでも余り意味がないように思えてならない。そもそもエネルギーの供給を必要とする「経済の成長」なる概念がそろそろ危なくなってきているのではないだろうか。今まで日本経済の牽引車であった鉄屋、車屋、土建屋、そしてこれに付随する様々な産業をどういった形で落ち着かせて、ソフトランディングさせるかについて当事者も政府も真剣に考えた方が良い。どこまで行っても前年に比べて売り上げも上がります、利益も増えます、給料は勿論増えます、が当たり前と考えてきたが、これって少し違うのではないか。

では若い人たちはどのようにして食っていけばいいのだ、「今までさんざ良い思いをして、先に死んで行くからと言って無責任な事を言うな。」と叱られることは承知の上だが、若い人たちが自由に考えれば、きっと爺共には思いもつかぬ事を発見するのではないだろうか。爽やか秋風で少し気の利いた事を書きたかったのだが、とんでもない所に行ってしまった。経済は秋風どころではないのだろうが、選挙報道で老人と若い人の対比を見ていると、やはり若くなくては思ってしまう。

2009年8月24日月曜日

「占領下日本」半藤一利・竹内修司・保坂正康・松本健一

この本がテーマとしている1945年8月から、1951年9月の講和条約調印を経て、翌年4月のその発効までの7年弱の「占領」期間。私にとっては物心がついた頃から小学生時代にかけてであるので、断片的とは言え様々記憶が残っている。勿論日本が米英を敵として戦っていた事も知っていたし、そのために父が外地に出征している事も分かっていた。特に1945年8月15日の事はかなりはっきりと記憶している。

そんな事もあり、著者(数回にわたる4人の座談をまとめているので編者か)の4人が何れも近代史について分かりやすい著書を出している人達でもあったので、期待を持って早速に読んでみた。著者の半藤氏は私の10年、竹内氏は4年、保坂氏は1年先輩、松本氏は6年後輩。何れも戦争には行っていないほぼ同世代の人達だけに、18章に亘って書かれている社会現象?に対する関心、あるいは自身が受けたインパクトについては非常に近親感がある。ただ長ずるに及んで尚、「あの時の事は一体何だったのか?」と改めて歴史を読みとくのは、さすが何れも一流の学者又は歴史研究家たる所以でもあろう。

この時期(占領下)に現代の我々の生活、社会のありようや方向性がが規定された事は、良いとか悪いとかは別に事実であろう。しかし何故そうなったかについては、たかだか半世紀前の事であるのに、この4人の学識者をもってしてももう分からなくなっている事が随分多い事に驚いてしまう。しかし今日の社会状況を考えると、日本人は歴史の検証を抜きにして、どこかには日本社会を維持存続させるための物凄い力秘めている事が分かるような気がする。

私にとっても最大の関心はなにか。敗戦、そして占領という状況下でありながら、天皇制と官僚制は殆ど無傷で温存したのは占領した側の意向なのか、はたまた被占領側のトリックだったのだろうか?誰のどんな働きで、この事が可能になったのか?今後も永遠に解き明かされる事は無いのだろう、の思いは残るが非常に面白く読める。

2009年8月21日金曜日

バランス―実利と厚み

毎週日曜日の夜の楽しみはその日の昼にNHK教育で放送された囲碁の番組を録画で見る事だ。
今週の日曜は登山の疲れで早く休んでしまったので見る事が出来ず、昨晩やっと前半の囲碁講座だけ見た。講師は石倉9段、この方は9段としては比較的若いプロ棋士で、東大の囲碁部出身、メジャーな棋戦での活躍はあまり聞かないが、9段と言うのはプロの最高段位である。特に初級者の指導についてはプロ棋士の世界でも定評があるとされている人だ。私もファンの一人でこの番組を毎回熱心に視聴している。今回は囲碁の指導に入る前に話した事が非常に印象的だったので日記に記したい。

曰く。「囲碁はいろいろな意味でバランスがとても大切、陣地の取り合いのゲームだが何でも一人占めしようとしてはいけません。」
ここまでは囲碁を少しでもする人なら誰でも知っている。「取ろう取ろうは取られのもと」だ。引き続き具体的例を挙げた。

「囲碁には実利と厚みのバランスがあります。実利とは地(最終的にその大きさで勝敗をつける陣地を言う)の事です。厚みとは地ではないのですが勝負が進むにつれて、非常に有効性が発揮される骨格(と言ったか、壁と言ったか記憶にない)のようなものです。勝負の序盤、地取りにばかり走っても、厚みが無いとじわじわと地が減って行って結局負けると言う事が良くあります。一方厚みだけでは地が足りませんから結局負けます。従ってこのバランスをどのように形成していくかという事が、プロにとってもとても大事な事となっているのです。勿論、地が好きなプロ、厚みを重視するプロいろいろ居ます。」

ここからが印象的なのだ。更に司会のお姉さんがこんな質問をした。
「実利と厚みのバランスが大切な事が分かりました。囲碁以外でも通用する事がありますか?」

「実生活でも同じ事が言えるのではないでしょうか。<実利>とは例えばお金であったり、テストの点であったりと考えていいかも知れません。すると<厚み>は友達であったり、家族であったり、趣味であったり、仕事や学校と直接関係ない所で培われている人間性や感性だったりするのではないでしょうか。やはりこのバランスがとれて、初めて豊かな人生が生まれると理解したらどうでしょう。」

半分寝ながら見ていただけで別にメモを取った訳でもないので正確ではない。しかしプロ棋士ではあるが東大で講座を持つだけあってうまい事を仰る。人生を組み立て直すにはいささか時期を逸しているが、我が意を得たりと思った。

2009年8月20日木曜日

やっと夏らしくなった

今週はやっと夏らしい日が続いている。昨日得意先を訪問したら未だ夏休みを取っている職員が多いようで、何となく静かな感じだった。日中の街も同様で、じりじりと照りつけられるのを嫌ってか人通りが少ない。時々黒っぽいスーツを着たOL やサラリーマンとすれ違うと、自分も若い時は真夏でも背広を着ていたなあと懐かしく思うと同時に、彼らは今どんな会社に勤めているのかな?とかわいそうになってくる。
余程フォーマルでない限り日本の夏にスーツは似つかわしくない。

逆に考えると電車の中やビルの中の気温を下げ過ぎているから、中途半端にビジネススーツの着用が残っているのだろう。半そでシャツ1枚で電車に乗っていると寒くてくしゃみが出てしまう。インフルエンザの話が又賑やかになってきたので、周囲の人から睨まれてしまった。暑さに強い訳ではないが、寒さには敏感な体質のようだ。唯一の家族である婆さんがこの反対で、暑さにめっぽう弱く室温設定をいつも25度ぐらいにしている。曰く「寒さは厚着をすれば凌げるけれど、暑さは着るもので凌ぎようがない。寒いと思ったら何か着て下さい。」

因みに今居る仕事部屋も設定温度は27度で、しょっちゅうエヤコンを止めている。自宅に戻っても自分の部屋と茶の間の設定温度は2度は確実に違うし、自分の部屋ではエアコンをつけっぱなして居続ける事は出来ない。婆さんはエアコンをつけっぱなしで寝ても平気なようだ。二人いた娘も気温の感じ方が一人は婆さんに似て、も一人は爺に似ているのだそうだ。人間と言うものは同じ環境に居ても同じように育たないものらしい。二人が同じ部屋で生活していた時はどうしていたのだろう?先日田舎の従妹の家に寄せてもらった時、久しぶりに網戸を通して風が吹き込んで来る座敷で夕食をご馳走になり、何とも言えない懐かしい気分になった。これが本来の日本家屋のありようだろうが、今の東京では望むべくもない。

地球にやさしい生活とかエコライフと言うが、どうもインチキくさい言葉で好きになれない。こと生活空間の温度管理に関してそんな事を真面目に考えている人間は居るのだろうか?少なくても我が家にはそんな高尚な事を考えている奴はいない。経済の許す限り快適な環境を追求するのが当たり前ではないか。電気を作って売っている会社が、政府の指導かどうか?節電を宣伝する事の不思議さ。世界どこでも一緒かな、それとも日本の不思議かな。どうでもいいが、やっぱり夏はかっと熱い日が無ければいけない。

2009年8月17日月曜日

爺が爺が岳に「富より健康」


14日の金曜日お盆にことよせて仕事をさぼり又山に行って来た。先月悪天候で途中で断念した北アルプスに再挑戦である。昼少し前に長野からバスで扇沢に到着。先月は沢の上が登山口なったが、今回は第一目標を爺が岳にしたので登山口は沢の一番下。バスから降りて大分歩かなくてはいけない。久し振りに夏らしいお天気になったせいか駐車場の混雑はタダものではない。しかし山登りには少し時間が遅いので登山客は少ない。登山口で準備をしていると若い男1女2の3人組と出会う。東京から車で来て明日鹿島槍登山の予定との事。同じ予定なので宜しくと挨拶。


3人とも野営との事で見るからに重装備である。ともあれお天気は良すぎるくらいで汗まみれになりながら登りはじめる。どこかで昼飯をと思っているとザックの中で携帯が鳴った。登山口までのバスやらで世話になった長野の従妹からだ。今回は快適な登山になりそうなことを伝えて安心してもらう。小1時間登って昼飯の握りを食う。 前方には真っ青な空にアルプスの稜線がくっきりと浮かび、遥か彼方に今日の目的地の小屋の赤い屋根がポツンと見えた。写真が下手ではっきり見えないが稜線右端にゴミみたいに見えている。ロマンチックな光景ではあるがこれから登る高低差が思いやられる。登山口で一緒だった3人組も一緒になって休憩している。

ここまで来れば全行程の3分の1は来た筈と思い、腹ごしらえは出来たしと歩き始めると、照りつける直射日光で汗が噴き出るばかりで足の方は遅遅と進まない。結局コースタイム3時間45分とあるところ喘ぎ喘ぎ4時間半もかかって、4時にやっとの思いで小屋に到着。小屋は意外と空いている様子、部屋への案内を待ってもらって、取りあえず外で一人でビールで乾杯。今朝の東京の暑さが嘘のようだし、明日登る爺が岳が眼前に聳え、眼の下には雲海、普段飲まないビールが事の他うまい。涼風を楽しみながらビール一缶を一気に飲み干し、部屋に荷物を置くともう夕飯である。

飯がすんでも外は十分明るい。再び外に出てアルプスの眺望を楽しんでいると先ほどの3人組と又顔を合わせる。野営の準備が終わり、彼らもいよいよビールで乾杯という段取りになったようである。爺も又ビールを買って乾杯に加えてもらう。ここから話はずみ自己紹介などするうちに、彼ら青年諸氏がSNSmixiでの知り合いという事が分かる。爺も実は同類と明かすと会話が益々盛り上がる。男性Sさんはmixiで山のコミュニティーを主宰するベテランで女性はそこのメンバーとの事。明日も又目的地が同じだから一緒しましょうと言う事になる。相当厚着をしてその上焼酎のお湯割りをご馳走になっていたが、寒くなってきたので7時に明日を約束して就寝。6人相部屋だが布団一組に一人なのでゆっくり寝につく事が出来た。



15日朝快晴、朝食5時、大町方面はまだ雲の下だが山々の稜線がくっきりと見ええいる。5時半頃Sさんと再開、彼らは天幕を移動しなければならないので先に出発して下さい、との事。どうせこちらはナメクジみたいなスピードだからその方が良いのだ。予定通り6時に出発、フロントには爺が岳を経由して鹿島槍までは4時間と書いてあったので一応4時間半は掛る事だろうと思っていた。爺が岳山頂目指してもう沢山の人が登り始めている。6時45分爺が岳南峰に到着、360度の展望は言うに言えない美しさだ。特に立山連峰から剣岳、剣沢雪渓は見るほどに若いアルピニストを惹きつける所以が分かるような気がする。

7時5分中峰到着、8時5分冷池山荘到着、ここで一休み。ここから本格的な山登りが始まる。いつもそうだが、標高2000mを超えると急に足が重くなってスピードが極端に落ちる。行程表で言えばここが中間地点だからあと歩行2時間(10時半到着)で鹿島槍に行きつく筈で、ここまではほぼ計画通りなのだが、中間点から先がいつも問題、計画通り行った試しがない。結局布引岳山頂には9時30分 到着。




ここからは宣伝文句が書く所の鹿島槍につづく天空の遊歩道だが、とても遊歩なんて気分では歩けない。

息も絶え絶えだが立ち止まっては吹いてくる冷たい風に助けられつつ10時43分憧れの鹿島槍山頂に到着。予定時間からは大分はみ出ているが、自分の足でこの山頂を踏みしめられた事は何よりも嬉しい。石川遼君ばりに全ての人に感謝をしたくなる。そして逆光でも何でも先ずは記念写真を撮ってもらう。このカメラもうすでに倒産した会社のカメラでどこに行っても交換電池さえ入手不可能だが、時刻が正確に記録されているので後で登山日記を書く時極めて都合が良い。少し早いのだが種池の小屋で用意してもらった弁当を広げる。よくある事だが、疲れてしまうと飯がまずくなって喉を通らない。良くない事だとは思うが、大半食い残して自宅ら持ってきた携行食で済ませる事にする。オレンジは美味かったがバナナは全く食えないほどに腐っていた、残念。


暫くするうちに若い3人組が相変わらず元気に登場、早速合流してお昼近くまで4人の山頂パーティーで盛り上がる。3000m近くの標高でありながらこんなに恵まれた環境でゆっくり出来たのは初めてかも知れない。


夕暮までここに居たい気持ちに後ろ髪を引かれながらお昼過ぎになったので下山を開始。今度は若い人達と一緒。張りきりボーイと張り切りガールズなのでかったるかったろうが、リーダーのSさんが爺を先頭に立たせてゆっくり歩かせてくれる。中間点の冷池山荘で休憩の後、再び登りに掛り爺がバテテ顎を出したら、Sさんがこれを飲んでください、と薬を呉れた。アミノバイタルとか言ったように思うが普通薬局で簡単に購入出来るらしい。嘘みたいに元気が出たので次回山行には是非購入するとしよう。何れにせよ4人で賑やかに下山、昨日と同じ4時頃に小屋に帰還。ここから夕方の宴会と就寝までは前の晩と同じ。寒さも同じ



16日朝食はやはり5時、しかし連泊の客は爺一人だったので食事の内容が大分他と違う。オムレツに良く焼けたベーコンなどが添えてあり、一般客は身欠きにしん一切れに対し我が盆には岩魚の甘露煮にがまるまる添えてある。初めて残さずきれいに平らげる事が出来た。おまけに昨晩は6人部屋に4人、ゆっくり休む事も出来た。食事の後若い人達の天幕撤収を見学、女性も含めあっという間に手際よく二張りを撤収。でも帰宅してからの手入れは大変そう、とても真似はできない。登山する人たちが出かけてからモーニングコーヒー等ゆっくりと飲んでから7時に下山開始。今朝も絶好の日和、3人組と仲良しにしてもらったので、登山口に到着後大町の温泉、さらに長野駅まで車に乗せてもらえる事になる。7月にも入浴した大町温泉薬師の湯で朝風呂を満喫、さっぱりしたところで長野に向かう。


途中酒の博物館に立ち寄り梅酒を購入、帰宅して婆さんに笑われる。更に途中の昼飯を張り切りガールKさんの発案で小川村の「おやき村」に立ち寄る事に決定。話には聞いていたが横浜っこのKさんに案内してもらう。車中で「おやきは味噌なすと野沢菜が好きだ」と話していたら、今焼いているのが偶然にもその2種類だったのにびっくり。アツいおやきを囲炉裏の火の傍で食べる、無料の味噌汁と冷たいそば茶が何とも言えない。
若い人はさらに座敷でそばを註文、こちらはお茶だけだが、湯呑に書かれた「富より健康」という言葉に感激。その後駅まで送ってもらい、始発新幹線に乗って居眠りをしながら帰京、軽井沢からは通路も満席だった。富よりも何物にも代え難いような素晴らしいお盆の休日だった。


帰宅すると婆さんがびっくりしていたが日焼けが凄い、幸い水曜日までクライアントに顔を出す必要は無さそうだ。今朝起きると両腕は肘上から手先まで真っ赤にむくんで晴れ上がり、指を曲げるのも困難である。顔もほっぺがむくんで瞼が重い。婆さん曰く「孫違って色白だから大変ですね、次回からお気を付け下さい。」と大笑い。しかし今日は思いの外足の筋肉痛が少ない。年齢的にも毎週のハイキングは無理だが本格的な秋が来る前にもう一度山に行きたい。


2009年8月13日木曜日

変身、変化、主義主張のブレ

マニフェスト選挙に関連して思う事がある。

そもそもこの選挙公約なるもの、小泉純ちゃんに言わせれば大した問題ではなかった。しかし今日のこれはマスメディアでは非常に重く受け止められているし、民主党のマニフェストは発表後数日にしてインターネットのアクセスが500万件余、ダウンロードが百数十万と聞いたような気がする。この事は決して悪い事ではない。作る方もそれなりに真剣に取り組んでいるのだろう。他党も事情は同じで、余りいい加減な事は書けないと思っているのではなかろうか。選挙する側はしっかり読んで、投票の参考にすればいいだろう。

マスメディアだけではなく、21世紀臨調なる訳の分からぬ団体がしゃしゃり出て、子分か親戚か知らぬがいろいろな団体に採点させたり、地方自治体の首長も寄り集まって同じような事をしている。こういった行事が選挙民にどれほどのインパクトを与えるかは分からない。当方は残念ながら難しい読み物を読む能力に欠けているのと、これを読むまでもなく投票先を決めているので、どの党についても読んでいない。

このマニフェストについて民主党が本番で文言の修正をすると発表した途端、政権与党側は鬼の首を取ったようにブレを批判し始めた。また、今月発売された文芸春秋に寄稿している拓大教授の遠藤浩一氏という方に言わせると「麻生首相のブレが自分を見失って生ずるとするなら、鳩山代表は環境や状況によってどのようにもぶれる事ができ、その事に痛痒を感じない政治家である。」とかなり手厳しくやっつけている。どちらかと言えば麻生氏は表現がぶれるが、鳩山氏は本質的なものと指摘している様に受け止める事が出来るので、より厳しいのかも知れない。

マニフェストを修正していく事についてだが、世の評論家諸氏にとっては許し難いことのようだ。しかし私のように最初から何も読まない者にとっては、各地で説明会を開き、様々な意見を吸収して修正していく事は大いに結構と感じてしまう。問題は主義主張と己の信念をどのように貫くかという問題である。
この暇人の爺みたいにふわふわと生きている人間は信念そのものがないし、主義主張はご都合主義でその場でころころ変わる。しかし、政治家たる者は選挙人の負託をを受けるのだからそれでは困る。信念心情を明確にして変節しないで頂きたい。

その為には必然ながら、常日頃から基本や原則を大にして語り、余計な事を言わない事が大事ではなかろうか。これを実践しているように見えるのが小沢一郎だが人気は無さそうだ。前述の評論家達に言わせると彼も相当な変節漢という事になる。テレポリテックスのこの時代、う~とかあ~とばかり言ってもいられなし、政治家という稼業も大変難しいものだ。自分が相当の変節をしてきているので、変節も結構と思うのだが????

2009年8月11日火曜日

明日の世界と日本

昔同じタイトルのテレビ番組制作にかかわった事がある。今からおよそ20年ほど前の事だ。日米貿易摩擦が大問題で、日米構造協議が持たれ様々な要求が我が国に突きつけられた頃の話だ。どんな内容の番組を制作したか殆ど記憶にないが、確か昭和の末期か平成の初めにかけて数十回の企画に携わっていた。内容は兎も角、毎回海外取材があって、その映像をベースに堺屋太一さんがコメントを加えていた。国内はバブルに浮かれている所もあったが、未だそれでも世界に学び、明日に向かって国づくりにまい進したいと言う姿勢があった。

今にして思うと教科書的番組で余り面白くも無いものだったが、視聴者の目を未来に向けさせたいという意図は明確だったようにも思うし、民放のテレビ番組にも視聴率もさる事ながら志も又必要とした空気が残っていたのだろう。当時は我が国も経済的に大国になりつつあり、米国からある意味で重要視されていたし、少なくても米国と2国間で経済を政治問題として丁々発止とやりあっていた訳である。今やテレビは面白くなければテレビではなくなってしまった。当時からテレビ番組が啓発的な事を言ってどこまで実効があるか疑問ではあった。が現在のテレビを見ると、下らない番組が視聴者を馬鹿にしていくという意味ではかなり効果を認めざるを得ない。

一方日本は相変わらず経済的には大国だと思っている人はどのくらいいるのだろう?何をもって経済大国と称するかは知らないが、少なくとも私にはとても大国には思えない。GDPも中国に抜かれるとか言われたりするからではなく、何となく不景気な話ばかり多いからでもない。仮にGDPが世界2位であるにせよ、大国とは外国からそれなりに認められる必要がある。日本と外国の関係を素人目に見た時、どの国からも我が日本はまともに相手にしてもらえていないように見えるのだ。特にオバマ大統領と麻生首相との会談、サミットに於ける麻生氏の映像を見ると本人はいい気なものだが、どう贔屓目に見ても誰からもまともに相手にされているようには見えない。

テレビニュースの映像だけで言ってはいけないかもしれないが、我が家は婆も爺も彼が嫌いだから過激になってしまう。だが面白い事に孫は麻生さんの方が良いと言っていた。何故かと聞くと「麻生さんの方がお父さんの会社に良いから」と泣ける事を言ってくれる。大臣が選挙に走りまわっている状況で役人共が外国とまともな話なんかできないのは当然の事である。中国との問題、ロシアとの問題、北朝鮮との問題、何れも基本的なところで何かがずれている。国連決議に基づいてインド洋に或いはソマリア沖に海上自衛隊を送って世界平和に貢献、なんてまやかしみたい事でお茶を濁しても誰からも感謝もされないし、世界平和に貢献なんて人の頭のハエを追う前に自分の頭を良く見ろだ。

折しも選挙戦、各党とも無い袖を振りあって国民のご機嫌取りに必死である。自民党だけは財源に責任を持ちますみたい事を言っているが、己がこれまでにばらまいてきた銭と無駄遣いを棚に上げて何を言うかだ。民主党が政権を取れば日本が美濃部都政のようになって財政破綻だと言う意見もある。確かにそうかも知れない。しかし一度やらせてみない事には始まらないだろう。小泉内閣以降だけで300兆円の借金をこさえて来ているのだから、民主党が4年間でどれほどの借金を積み上げるか見ものではないか。同じだったら4年後に政権をまた交代させれば良いのではとおもう。

自民党は外交を得意とする総理総裁が声を大にして国を守ると言っている。民主党については社民党等と共闘する必要から安全保障に関しては苦しい言い訳を言わされている。ここを又ぶれたとして自公に格好の攻め口を与えている。民主党としては苦しい処だろう。しかし余り右顧左眄しない方が良いかも知れない。インド洋の問題、非核3原則の問題にせよどっちに転んでも50歩100歩、今の日本は諸外国からまともに相手にされていない事は明らかである事の方が大問題。矜持をもって自分主張世界に発信すれば、世界はどのように反応するか分からないが、それはそれ迄の事で納まる筈だ。所詮は国内の問題じゃないか。

//以下は爺の寝言//
「経済的にも政治的にも世界に冠たる大国である必要はない、小国であっても他国にご迷惑をかけず、他国のお世話にもならないようにして、と言ってもそれは無理だから。他国とは出来るだけ対等のお付き合いをする。多くの国と平等にお付き合いをして特定の国を敵視しない。軍事的に仮想敵国を想定するのは結構だ。地政学的にどこが仮想敵国になるか分からないが、差し当たりは米国にしておけば間違いないだろう。外国との付き合いでは義理堅い国だとか、正義の国だと喜んで頂ける事を少しする。そんな国づくりを目指してほしい。」 //国家も個人も一緒の事か?//

2009年8月10日月曜日

今年の夏は安上がり

昨年の夏は娘夫婦と孫二人を引きつれて志賀高原にハイキングに出かけた。今年もどこかに連れて行かねばと考えてたら、先に先方からリクエストが来た。今年の夏休みは孫にもそれぞれの予定があって、二人一緒にそちらの祖父さんと動けるのは8月の9日と10日だけ。旅行は無理だと思うから映画「ナルト疾風伝 火の意思を継ぐ者」に連れて行って下さい。との事。内心ほっとした感じで昨日はプールも碁会所もお休みして、孫とアニメ映画を鑑賞。二人に感想を聞かなかったが、何か仲間の友情を強調するような内容だったようだ。小学校も高学年になってこんな映画のどこが面白いのかなと思いつつこちらは半分昼寝をしていた。

しかも映画館内で買い食いは一切なし、映画終了と同時に家まで一目さん。しかも二人とも「パスモ」(地下鉄やJRで利用できるICカード)まで持っている。お陰で出費は3000円ぽっきり。いつもは地下鉄の駅を出たところのスーパーで一袋150円のカードを3組ずつ買わされるのだが、昨日はそのおねだりも無し。有り難いと言えば有り難いが、半ば寂しい気がしないでもない。夏休みに来る時はいつも通信簿を持ってきていたが、今年は何故か忘れたそうだ。考えれば当たり前の話で、自分なんか親にもなるべく見せないようにしていた筈だ。ここら辺はやはり少しずつ大人になりつつあるのだろう。

こんなに天気が悪いと言うのに二人ともまっ黒、下の子が風呂から上がってくると背中は皮が剥け始めている。二人とも少なくとも「良く遊べ」の方はしっかりこちらの言いつけを守っているらしい。こちらの爺は何故かお盆もまともに休めそうにないので、どこかに連れて行って、という具合にならなかった事は良かったし、経済的にも安上がりに済んだのも良いが、老人が山にも行けずに仕事をするというのは余り頂けた話ではない。今週末から来週にかけてどこかで休みをとる事が必要だ。それにしても問題はこの天気だ。雨も嫌いではないなんて気取った事を言っていたが、こう毎日雨が続くと行く先を考える気も起きない。

2009年8月6日木曜日

明日は立秋

気象庁が何と言おうと、明日は立秋というのに江戸は未だ梅雨明けとは言えない天気が続いている。昨夜の天気予報は「明日からはからりとした晴天に恵まれそうです。」と言ったにも拘らず、1日中どんよりして時折小雨が舞っていた。一方沖縄には台風7号だか8号が来ている。こちらの方はが立秋にふさわしいかも知れない。学生の夏休みはとっくに始まって、遊びに行くにもこんな天気ではいまいち盛り上がりに欠けるだろう。夏の初めには空からおたまじゃくしが降ってきたりして、今年は何か異常だ。

人間どもが作ったカレンダーに則り、時期になったからやれ花火を上げます、祭りですというニュースが毎日のように流れてくる。我が町でも先日廃校になった小学校の校庭にやぐらが組まれ、雪洞が灯されて盆踊りのような催しがあった。太鼓の音に幼い日の田舎の盆踊りをふと思い出したが、肝心の天気がこんなでは郷愁も深まらない。あまり当てにはならないが、こんな年は冬は暖冬になるのだそうだ。季節の移り変わりは日本に多くの恵みを与えてくれているし、日本人の情緒育成に大きな影響を持っていると思う。それがこんなおかしな気候になると農作物に影響が出るのは当然として、日本人全体の精神構造に悪い影響が出るのではと心配になる。

何が原因でこうなるかは分からないが、暑い時には暑く寒い時には寒くないと落ち着かないのは自分だけだろうか?

2009年8月4日火曜日

昭和も遠くなりにけり

先日大正時代の山岳紀行を読んで、昔の風俗を知ることが大変楽しかった。そこで同様に自分が記憶している昭和の風俗の一端を書き遺してみたいと思う。大体歳をとると、昨日の事や今朝食った朝飯さえ忘れがちで昔のことしか記憶に浮かんでこないものらしい。

先ず先日読んだ本との関連から始めると、昔は殆どの家にあって今は見かけなくなった物の一つに「飯盒」がある。元々は山岳用品というより軍人への官給品だったのだろう。その関係からか戦時中は一般の家庭にも可なり普及していたと思う。孫たちもキャンプに連れて行ってもらうような年齢になった。飯盒炊飯をやったかどうか聞いてみたいものだ。大きなリュックサックもあったな、山に行くためでなく母が田舎に買い出し(物々交換?)に行く時背負っていたのを思い出す。

宇宙飛行士若田さんの無事生還を祝って乗り物の話である。

爺は5歳にして母親と別れ、熊本から長野まで祖母とたった二人で汽車で関門トンネルを超えて旅をした事をかすかに記憶している。流石に家を出る時は泣いたような気もするが、良くおとなしく長野に来たものだ。これは密かな自慢。そして長野駅から祖母の家まで、赤い毛布に包まれて人力車に乗せてもらった事も記憶にある。その後母親や兄弟が長野に帰って来るまで何日あったのだろう?きっと毎日祖母が絵本を読んでくれたり昔話を聞かせてくれたりしたのだろう。他日、幌のついた輪タク、昔東南アジアのニュースによく出てきた自転車の脇に人を乗せるサイドカーが付いているやつだ。あれにも乗った気がする。

それから数年後、木炭タクシーが出現したがこれにも乗せられた記憶がある。同じ頃だが我が家は祖母の実家である松代に引っ越しをする事になった。この時はもう幼稚園に通う年齢になっていたが、砂埃を上げて走るトラックの荷台に初めて乗せてもらい大変愉快だった。小学校に上がるまでは物資の乏しい時代だったので、子供用の三輪車とか自転車のある家は無かった。ところが小学校に上がる年に父が復員してきて、また長野市内に戻り長野の小学校に入学する。するとすぐ近くの同級生の家に、錆びついてタイヤも無い子供用自転車があった。

この子とはすぐ仲良しになって、一緒に自転車の乗り方を覚えた。それから暫くして、家にあった大人用 の自転車を引っ張り出して三角乗りの練習をした。この事については詳細に書かないと意味が通じないだろう、昔の一般自転車はハンドル、サドル、ペダルを結ぶフレームが太い鉄パイプの逆△で構成されている。現在はママチャリと言われるように、ご婦人が股を上げてサドルに乗る必要を解消するために水平のフレームはほとんど見かけない。当然小学校1年生ではサドルからペダルに足が届かないので、片足をこの逆△の中に突っ込んでペダルを漕ぐのである。体重の殆どが自転車の片側にあるのだから
、自転車の発進や止まる時にはバランスが微妙になる。今考えれば危険でもあるが、当時の子供はみなこれをマスターしたものだ。

そうこうして小学校の5,6年生の頃になると、皆大人用に自転車にまたがって乗りこなすようになるし、お金持ちの家では子供に専用自転車を買うような家まで出現してくる。爺はまさか自分用の自転車が欲しいとまでは思わなかったが、我が家の自転車も戦前からある重い自転車でなくて、新しい格好の良い自転車があればいいなと思わないでもなかった。少し時代が先話になるが、中学の工作の時間で自転車の分解掃除をしたが、こんな事は小学校時代から自宅でしていたのでお手のものだったような気がする。

このあと、中学生になるとやはり友人の家でオートバイを買った家が出現した。彼の家は家業が金物屋さんで、重い荷物を運ぶのにやはり必要だったのだろう。彼が時々これに乗ってグラウンドに来た。もちろん当時でも免許証がなければ公道は走れないはずだったし、こちらも知らなかった訳でもないと思うのだが、グラウンドでこれを運転させてもらった時はさすがに嬉しかった。この彼と今週の金曜日数年ぶりで会う事になっている。今からわくわくしている。

今はなるべく乗り物を使わず歩く事をもっぱらにしているが、いつになっても乗り物は子供の夢なんだろうな。

2009年8月3日月曜日

山と渓谷 田部重治著

山岳紀行を時々読むが田部重治さんという方を知らなかった。明治末から大正にかけてスポーツ又はレジャーとしての山岳なんて事は本当に一部の人しか行わなかった時代の話だ。しかし100年近くの昔でも山に憧れる若い人は居た訳だ。その気持ち情熱が熱く伝わってくる。

幸い日本には山岳登山に適した山々が沢山あった。おそらく著者はあの深田久弥氏(深田氏より10歳近く先輩のようだ)と同様日本中の山々を登り歩いた事だろう。しかしこの本に収められている紀行の殆どは北アルプスと多摩奥秩父と自分にも馴染みの地域であるのが一層の興を誘った。

観たいと思いながら未だ果たさずにいる映画「剣岳」もきっとそうだろうが、まだ5万分の一の地図さえ未踏地が沢山ある時代、昔の人は兎に角偉い。足袋と脚絆に草鞋を履いて、雪渓は更にその上に輪かんじきを履く。持ち物は天幕と毛布、脂紙と着茣蓙が今でいる雨合羽。リュックサックには米やら味噌を背負い、腰には草鞋や飯盒をぶら下げた乞食みたいな恰好だったのだろう。

しかも一度山に入ると道を探しながら登ったり降ったりを繰り返し、軽く1週間ぐらいは歩き続ける。勿論殆どが野外での野宿同然である。燃料や水の補給を考える流木に恵まれる渓谷での泊まりが多いようだ。ある時は秩父で早春の沢登りをして、遂に今で言う低体温症の遭難で人事不省となったりしている。

同時に感嘆するのは当時の山案内人凄さである。勿論本業は猟師であったり、単なる樵かも知れない。現代にも「喜作新道」とか「長次郎坂」地名に名を残すような人の超人的な働きの一端をうかがう事も出来る。夢やロマンに満ちてはいるが、正に手に汗を握る大冒険物語である。