2009年8月4日火曜日

昭和も遠くなりにけり

先日大正時代の山岳紀行を読んで、昔の風俗を知ることが大変楽しかった。そこで同様に自分が記憶している昭和の風俗の一端を書き遺してみたいと思う。大体歳をとると、昨日の事や今朝食った朝飯さえ忘れがちで昔のことしか記憶に浮かんでこないものらしい。

先ず先日読んだ本との関連から始めると、昔は殆どの家にあって今は見かけなくなった物の一つに「飯盒」がある。元々は山岳用品というより軍人への官給品だったのだろう。その関係からか戦時中は一般の家庭にも可なり普及していたと思う。孫たちもキャンプに連れて行ってもらうような年齢になった。飯盒炊飯をやったかどうか聞いてみたいものだ。大きなリュックサックもあったな、山に行くためでなく母が田舎に買い出し(物々交換?)に行く時背負っていたのを思い出す。

宇宙飛行士若田さんの無事生還を祝って乗り物の話である。

爺は5歳にして母親と別れ、熊本から長野まで祖母とたった二人で汽車で関門トンネルを超えて旅をした事をかすかに記憶している。流石に家を出る時は泣いたような気もするが、良くおとなしく長野に来たものだ。これは密かな自慢。そして長野駅から祖母の家まで、赤い毛布に包まれて人力車に乗せてもらった事も記憶にある。その後母親や兄弟が長野に帰って来るまで何日あったのだろう?きっと毎日祖母が絵本を読んでくれたり昔話を聞かせてくれたりしたのだろう。他日、幌のついた輪タク、昔東南アジアのニュースによく出てきた自転車の脇に人を乗せるサイドカーが付いているやつだ。あれにも乗った気がする。

それから数年後、木炭タクシーが出現したがこれにも乗せられた記憶がある。同じ頃だが我が家は祖母の実家である松代に引っ越しをする事になった。この時はもう幼稚園に通う年齢になっていたが、砂埃を上げて走るトラックの荷台に初めて乗せてもらい大変愉快だった。小学校に上がるまでは物資の乏しい時代だったので、子供用の三輪車とか自転車のある家は無かった。ところが小学校に上がる年に父が復員してきて、また長野市内に戻り長野の小学校に入学する。するとすぐ近くの同級生の家に、錆びついてタイヤも無い子供用自転車があった。

この子とはすぐ仲良しになって、一緒に自転車の乗り方を覚えた。それから暫くして、家にあった大人用 の自転車を引っ張り出して三角乗りの練習をした。この事については詳細に書かないと意味が通じないだろう、昔の一般自転車はハンドル、サドル、ペダルを結ぶフレームが太い鉄パイプの逆△で構成されている。現在はママチャリと言われるように、ご婦人が股を上げてサドルに乗る必要を解消するために水平のフレームはほとんど見かけない。当然小学校1年生ではサドルからペダルに足が届かないので、片足をこの逆△の中に突っ込んでペダルを漕ぐのである。体重の殆どが自転車の片側にあるのだから
、自転車の発進や止まる時にはバランスが微妙になる。今考えれば危険でもあるが、当時の子供はみなこれをマスターしたものだ。

そうこうして小学校の5,6年生の頃になると、皆大人用に自転車にまたがって乗りこなすようになるし、お金持ちの家では子供に専用自転車を買うような家まで出現してくる。爺はまさか自分用の自転車が欲しいとまでは思わなかったが、我が家の自転車も戦前からある重い自転車でなくて、新しい格好の良い自転車があればいいなと思わないでもなかった。少し時代が先話になるが、中学の工作の時間で自転車の分解掃除をしたが、こんな事は小学校時代から自宅でしていたのでお手のものだったような気がする。

このあと、中学生になるとやはり友人の家でオートバイを買った家が出現した。彼の家は家業が金物屋さんで、重い荷物を運ぶのにやはり必要だったのだろう。彼が時々これに乗ってグラウンドに来た。もちろん当時でも免許証がなければ公道は走れないはずだったし、こちらも知らなかった訳でもないと思うのだが、グラウンドでこれを運転させてもらった時はさすがに嬉しかった。この彼と今週の金曜日数年ぶりで会う事になっている。今からわくわくしている。

今はなるべく乗り物を使わず歩く事をもっぱらにしているが、いつになっても乗り物は子供の夢なんだろうな。

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