2011年7月29日金曜日

菅直人と古賀茂明

この二人、どちらも碌な仕事もないのに法律を盾にとって職を辞することを拒否している。かたや国民の70%以上が早く辞めろと言っているし、もう一方は組織のトップから辞めてくれと言われている。たまたま今朝のニュースで、昨日古賀氏が海江田経産大臣と面談したが「辞めろと言われた訳ではない。君の今後を考えると辞めた方がいいのでは、と訳の分からない事を言われただけなので辞める理由がない。」と開き直ったようである。

二人とも日本は法治国家で法律上の瑕疵がなければ、他人が何を言おうが己の好き勝手をして文句があるか、との態度は全く同じだ。自分の立ち居振る舞いが、ひと様にどんな迷惑をかけているかについては想像力が働かない。「空気が読めない人間」はどんな集団にあっても、何らかの方法で最終的には敬して遠ざけられるものとしたものだ。その点、全てが法律で規制される国会とか官僚の世界は、周辺の態度による暗示や言葉による説得は全て意味をなさず、開き直られたら手の打ちようがない。つくづく浮世離れした特殊な世界だと実感せざるを得ない。

何れも公立の最高学府まで出ているが、受けた教育に「世の為、ひとの為」は一切なく、やや古典的に言えば「全ては己の栄耀栄華を極めん為」利用できるものは何でも使うを旨としているようだ。婆さんが言うには「菅さんは娘がいないのがいけない。娘がいれば『父さん恥ずかしい真似はいかげんにしてよ』と諌める筈。なでしこジャパンの佐々木監督は娘がいたから、あのチームを優勝に導けたのよ。本当に男の子は頼りにならないわ。」といつもの我田引水で、自分はちゃんと意識して産み分けたと仰る。

我が家は娘二人で結構だが、孫三人は何れも男ばかり。娘の家はどうなるのだろう?
我が家はどうでもいいが、菅氏と古賀氏食い扶持は何れも税金である。特に総理は官邸の機密費があって、領収書の要らない金を使い放題らしい。何もせずに大金を手にして一時タイやヒラメのご馳走を食べまくっても、別に羨ましくもない。自分で何等かの虚しさてなものは感じないものだろうか。ついでに言えば森元総理の息子さんが亡くなったらしい。森元総理は報道陣に息子に先立たれた虚しさを吐露したようだ。

これも婆さん曰く「大体自分が総理を辞めてまで議席にしがみつくから、息子を県会議員なんかに仕立てる事になる。いろんなスキャンダルもあったが、息子にはそれなりのプレッシャーもあった事だろう。小泉純一郎を見なさい。彼は利口だからさっさと自分が辞めて息子に代を譲ってしまった。お陰で海だか山だか、箸だか棒だかも分からない小倅がちゃんと国会議員になれている。」言われてみればご尤もの感、無きにしも非ずだ。

2011年7月28日木曜日

鬱陶しい毎日だ

7月も末だからもっとからりと晴れてもよさそうだが、最近の空模様はずっと梅雨空だ。今月半ばの3連休前に早々と梅雨明け宣言が出されたが、梅雨の中休みだったような気がする。人工衛星が利用されたりして、科学の進歩で天気予報も良く当たるようになってはいるが、中長期の天気予想はどうもイマイチ頼りないところがあるのは仕方がないか。

未来が余り確定的に見通せると面白くないかもしれないが、本人が辞めると言っていたのに、未だに辞める時期がはっきりしない総理にも困ったものだ。もっともこれは総理の責任もあるが、与野党を超えて国会議員全員が責任を負っているようでもある。本気で福島第一を含む東日本の大災害を何とかしなければと思っている議員の姿が全く見当たらない。誰もが僅か2兆円弱の第2次補正をやっと上げて、如何にも被災者の為にやった、みたいな事をしたり顔で言っている。

しかし裏では、「これも含めて予算の執行はそう簡単にさせないぞ」「そんなこと言わないで、マニフェストが間違っていた事を宣言しますから公債が発行できる法案を宜しく願います」なんて駆け引きをしているのは、党利党略以外の何者でも無いだろう。明らかに日本の政治は何処か狂っている。列車事故の真相を隠蔽してしまう中国政府の事を笑っていられるのだろうか。

小生なんかも褒められた話ではないが、311の大災害も75日の倍近く遠のくと精神的インパクトがだんだん薄れてきている。しかし被災者の皆さんにとっては、毎日が厳しい現実の連続で、将来の見通しが立たないまま不安な毎日を送っている人が10万人単位でいる筈だ。せめて政治ぐらいは復旧と復興の見通しを被災地に向け早く提供すべきだろう。

今年はやっと半分を過ぎたが、地球規模で嫌なニュースが続いている。個人的にも仕事が殆ど手を離れたと言うのに、余りぱっとした話が無い。孫が二人中学生になってしまい、夏休みになっても爺さんと遊んでいる暇も無いらしい。スポーツ面で女子のサッカーがワールドカップで優勝したのが唯一の明るい話題では、余りに寂しすぎる。何とかしてほしいものだ。

2011年7月27日水曜日

個人個人で対策をと言うが

放射能は厄介なものだ、稲藁や腐葉土になった木の葉の上だけに降り積もる事はあり得ない。識者は訳知り顔で個人個人が対策を考えるべきと言ってくれる。個人的に考えれば、東日本の農産物は一切買わないと言う事になりかねない。秋になって東日本のお米が全部アウトになれば、飽食の日本もさすがに食料危機になってしまうだろう。

実際に我が家では、豚肉にせよ鶏卵にせよ福島産のものは買わないように気をつけているらしい。でも魚には産地表示がないだろうし、あってもあまり意味が無さそうだ。放射能の被害は年寄りには無関係という説もあるが、これも結構無責任な話しかもしれない。なんて言っても最近は年間100ミリシーベルトまで大丈夫なんて事が当たり前になってきている。少し前までは放射線管理者でさえ年間許容量が20ミリシーベルトで、実際に5ミリを超える人間は少ないと言われていたように思うのだが。

この変わりようは何だろう。日本国全体が放射能の人体実験場になっているような気分だ。家庭用の放射線測定器が1万数千円で売りに出されたらしい。消費者個人がそんな物を買っても仕方ないような気がする。昔は結核で死亡する人が多く、それが脳卒中になり、最近は癌が死亡率のトップかと思うが、最近癌で死ぬ人も少なくなったなぁ。と話をしたばかりだ。自分の最後はどんなになるかは分からない。

何が原因であろうと、最後は何かの病で死ぬわけだが、その中に被曝の影響で癌になる人間が益々増えて、こちらもその一人にならないとは誰も保証してはくれない。

2011年7月26日火曜日

読後感「ローマとギリシャの英雄たち」阿刀田 高 著

著者の本は時々読むが、どれをとっても一言で言えば「大変面白い」。これもその例に洩れないもので、我々には難解なヨーロッパの古典「プルターク英雄伝」を分かりやすく読み解いてくれている。<黎明編>と<栄華編>の2巻になっているが、下巻の<栄華編>を山に行く途中の長野で書店で買った。何故なら下巻の方は第13話から始まるのだが、トップがアレクサンドロス(アレキサンダー大王)が2話で以下カエサル(シーザー)が2話続いていたからだ。知っているようで知らない事が如何に多いか、この歳になって思い知らされた。

この二人は何となく知っている名前だが時代的には大分違っている。前者は紀元前4世紀、後者は紀元前1世紀の人だ。ヨーロッパに行ったことが無いのでピントは来ないが、ローマ帝国が始まったのは1世紀初めの頃で、カエサルとクレオパトラがイチャイチャしていたのはその大分前の事らしい。しかし、クレオパトラの話はしっかり出てくるのだが、この辺も実に面白い。

こちらは絵本や映画で、カエサルが暗殺された後、彼女が後を追いかけて蛇に腕をかませて自殺したような思い込みがあった。これが全くの見当違いで、クレオパトラは強かな女性で、カエサルの死後15年も生き延び、カエサル以降のローマの支配者をある意味で手玉に取ったようでもある。勿論美形ではあっただろうが、何と言っても頭が良くて語学がエジプト語、ローマ語(ラテン語?)、ギリシャ語からペルシャ語やアラビア語まで使いこなしたらしい。

取り上げている人間の殆どが波瀾万丈の人生で、国内外に昨日の敵は今日の友のような権謀術数が渦巻く中で、国を治める事の難しさが偲ばれる。兎に角一歩間違えれば殆ど命を落とす事になるのだから、何をするにもそれなりの覚悟だけはいつも持っていたと想像できる。従って多くの英雄が非業の最期を遂げるお話が殆どだ。政治の本質は昔も今も「殺すか、殺されるか」かもしれない。

一見民主的な共和制を敷いていたローマでも、結局はカエサルが法を破り、ルビンコン川を超えて自分の軍隊をローマに入れて覇権を握ってしまう。紹介される英雄の中にキケロなんて有名な哲学者も出てきて、ローマの執政官として知恵と爽やかな弁舌ローマ市民の尊敬も集めるが、最顎は一時組んでいたアントニウスと対立して、首と手首を切断されて惨殺されてしまう。所詮政治は最後のところ軍事力、数の勝負で今も変わらないとすれば情けない話だ。


2011年7月25日月曜日

8月2日に何が起きるの?

インターネットの世界はマスメディアと異なる視点の情報が豊富で面白い。
天木直人氏のメルマガに面白い記事があった。以下はそこからの孫引きである。

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高城剛氏(世の中を騒がせた女優で歌手の沢尻エリカの夫〈別居中〉)が情報雑誌サイゾー8月号に注目すべき記事を書いていた。

くだらない娯楽番組は不幸な国の国民をして現実から目をそらす効用がある。
日本のテレビがなぜかくも馬鹿げた番組ばかりになってしまったのかという論考だ。
幸福度が世界でもっとも高い国の一つであるデンマークとブータンには、つまらない娯楽番組は皆無だそうだ。つまり娯楽番組は不幸な国の国民が刹那的に時間つぶしをする番組であるというわけだ。
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成程と思われる方が多いと思います。関連して思い出したのが次の件です。

アメリカではオバマ大統領と議会共和党は財政再建問題で「全面対決」モードになっているようです。まかり間違えると来月2日には連邦政府のキャッシュが底をつき、建国以来初の「米国債の支払い不履行(デフォルト)」という事態に発展する可能性があるとの事です。新聞では時々報道されていますが、テレビのワイドショーには殆ど取り上げられません。

前代未聞の事態と思いますが、日本人は意外と平静のように思います。小生が株などに疎いせいかもしれません。ネット上で経済の専門家の意見を見ても、日本が国として、又は個人が投資家としてどのように対処すべきか、明確に断言出来ている人は少ないようです。それ以前に、8月2日迄は若干の日数がありますので、デフォルトは回避されると予想している人が多いようです。

何事も同じですが、人間は最悪の事態は起きないだろうと予想したくなりますね。
でも、日本でさえ、お城のように頑丈に造られた原子力発電所が一瞬のうちに吹き飛んだりしました。まして外国の事になると何が起きるか分かりません。新幹線が衝突事故を起こして、起こした列車が24時間以内に粉々に砕かれて、土の中に埋められてしまう国もあります。

日本政府はアメリカ国債をどのくらい保有しているか知りませんが、この利払いが停止されると日本政府にどんな影響が出るのでしょう?も少し親切に教えてくれる人がいてもいいと思うこの頃です。

2011年7月23日土曜日

身体の不思議

いつも思うのだが人間の身体は不思議なくらい実によく出来ている。今日は土曜日、いつもだったら午前中は必ずプールに行く事にしているのだが取止めた。と言うのは昨日から喉が痛くて変な咳が止まらない。どう見ても風邪の症状である。先週の土曜日から信州に行って、日・月・火は北アルプスの山中で天然クーラー、下山して長野(水)を経由して帰京すると、木・金と江戸の土用とは思えない涼しさ。体感的には最高の1週間だった。

しかも3日も山を歩いた割には、足の筋肉痛が全く無いのも快適で不思議に思っていた。しかし昨日から喉が痛いので、声がとてもおかしい。「そんな体でプールになんか行くと、傍の人が迷惑するから止めて、お医者さんに診てもらいなさい。」婆さんが言うので、近くのお医者さんに行って喉の痛みどめやら何やら、薬を4日分処方してもらった。

それで思ったのが身体の不思議だ。前の週の五龍岳もそうだが、普段は1泊で山に行き2日間歩いて帰宅すると、大抵翌日と翌々日は足が筋肉痛で悩まされるとしたものである。ところが今回は2泊の行程で3日間合計すると時間にして20時間、距離にしても延べ20キロ近くは歩いている筈である。その割には足の疲労感は殆ど皆無で、帰京してから昨日、一昨日、今日と3日連続で1万歩ずつ位歩いている。自分でも疲労感が少なくて結構だと思っていたのだが、身体全体でみるとちゃんと辻褄が合っていそうだ。

足の筋肉は何等かの事情(自分では前週の五竜岳での足馴らしが効いていると思っているが)で負荷に耐えたとしても、身体全体にはかなりの疲労が蓄積されている事は確か。依って、身体の中で比較的弱い喉周辺に機能不全が生じてしまった、と勝手に理解した。身体はいろんな事のバランスが上手く取れていて、疲労が溜まればちゃんと休養を取るように調節してくれるものらしい。夏風邪を引くのは始めたが、幸い熱も無いし消化器系は全く異常がない。明日も水泳は止めて読書でもしながら大人しくしているつもりだ。

2011年7月22日金曜日

素人が思うに

国会がだらだらと続いている。春休みの宿題を夏休みが来ても出せない劣等生の集合体のようなものだ。政党政治なるものがこれほどまでご粗末とは思わなかった。被災された方から見れば、その思いは数倍になるだろう。全て馬鹿な総理大臣のせいにするのもいいが、被災地からすれば「総理なんか関係無い、要は早く救援の手を差し延べてくれ」だろう。

被災者救済と復興支援で政府が手当てすべき事、その為に必要な金額なんか、誰が考えても数週間もあれば見当がつかなくてはおかしい。被災した人数、消失した土地や家屋、機能不全になっている農水産工業等の産業の件数、行政が責任を持つべき道路や水道等インフラの損害。先ずは総被害額をざっと積み上げて、政府が支援していく手順を考えるのが普通だと思う。上記の被害総額はざっとのな話しだから、基本的な計算上の問題で与党も野党もそんなに大きな違いは生じない筈だ。

仮に全額政府が負担して100%復旧するには、政府の年間予算とほぼ同じ100兆円(全く根拠はありません)としよう。次はどこまで政府が支援するかの問題だ。100%はあり得ないだろうから、最終的に完全支給は30%とか40%で、後は貸付とか利子補給で10%とか20%も見ればいいと言う事になるのではないだろうか。これを省庁別に積み上げさせて、財務省が口を突っ込み、与野党の政治家が己の思惑を絡めて介入する。これでは3ヵ月経とうが100日経とうが、被害の総額と救済のめどの全体像は誰にも見えてくる筈もない。

揚げ句の果てにチマチマした補正予算を巡って下らぬ議論を繰り返し、今週も決まらなかったようだが、決まったら決まったで、予算を実際の支援配分に回すのに又膨大なお役所の手続きが必要となる。野党は「政府のする事は遅すぎる」と決まり文句を言うが、イチャモンを楽しんでいるだけの話だ。自分等がやっても結局何も変わりはしない。

御大層な復興会議なんてものもあって予算の出どころまで心配していたが、意味が全く分からない。掛かる費用は誰が考えても一緒の筈。費用の総額について見通しをつけた上で、出所を心配するのが当たり前。仮に孫子の代につけが回っても仕方がないとしたものではないだろうか。

厄介なのは原発事故だが、こっちももっと大雑把に将来の事を見通せないものか。最悪を考えれば、相当の人数の人に故郷を捨てる覚悟を決めてもらう必要があるのだろう。それを何故早く言わないのか。原発に頼る頼らないなんて、その人達からすれば関係無いだろう。「故郷を捨てて、どうしろと言うのだ」何を聞いても部分的な話ばかりで、蛇かミミズかはっきりしない。現役サラリーマン時代によく言われた事は「俯瞰的に物事を見て判断しろ」だ。

今回の大惨事について、俯瞰的に見ている人間が一人もいないように思えてならない。

2011年7月21日木曜日

諦めが肝心


今日の東京は秋口みたいに涼しくて爽やか。台風一過のせいらしい。日記を書くのも久し振りだ。土曜日から昨日まで信州に行ってきた。土曜日は昼前までゆっくりして夕方から大町温泉の旅館で一泊。翌日曜日から山登り。

先ず早朝に大町温泉の先にある扇沢の登山口に向かう。ここは北アルプスの幾つかの嶺の登山口であると共に、有名な関西電力が昭和30年代7年にわたる歳月をかけて建設した黒四ダムを経由して、富山県の立山方面の登山基地となっている室堂までトロリーバスとケーブルを乗り継いで1時間半ほどで運んでくれる基地にもなっている。

7月3連休の中日で、しかも天気が快晴ときているので、朝一番のトロリーノ発車時刻6時半には既に登山客や家族連れの観光客を含め300人以上集まっていた。小生も何とか6時半のトロリーには間に合ったが、次のケーブルは始発とはいかなかった。それでも8時15分には室堂ターミナルに到着。15日の日記に書いたように2004年9月以来憧れていた立山を目指して登山を開始。ここには山小屋と言うかホテルが完備しているので、この時間雄山を目指す登山客は引きも切らない長蛇の列だ。7年前に来た時は秋だったので雪が無かったのだが、今回はターミナル付近でも雪が沢山残っている。

登り始めるとすぐに雪渓を幾つも横切るのだが、誰もアイゼンは履いていない。小生もそれに倣って前の人の足跡を丁寧に踏んでいく。ターミナルから標高で約250m50分程で雄山の鞍部(一の越)に到着。ここまでは前回来た事を覚えている。問題はここからで、本格的な岩陵登山路になる。前回は見るだに怖いと思ったが、ここ数年の間にアルプスの山も幾つか登ったし、特に先週は予行演習で五竜岳に行ってきた。お陰で怖さはあまり感じない。唯、人が多くて踵を接して登っているので落石には余程注意が必要だ。10時半頃には雄山の山頂に、山頂のひと際高い峰に神社が祀られていて、500円出すと神主さんがお祓いをしてお神酒を授けてくれるとの事で早速500円を奉納。

お宮の前は凄く狭いので、30人ずつ位に区切ってお祓いを受ける。ここは標高が3003mもあり、360度見渡す殆どの山が頭を下げてこちらを取り囲んでいる。おのずと気分は良くなる。神主さんに言わせると夏にしては珍しく良い景色だそうだ。山の景色は台風の前後に限るとしたものらしい。来た道を戻る予定でいたが、登る人が多すぎるのと、少し先まで行って降りるのも距離的には大差が無さそうなので、昼ごろまでもう少し先の嶺を目指す事にした。

結局、富士の折立と言う嶺迄歩き、そこから雷鳥沢ヒュッテに降った。室堂から雄山山頂まで約2時間なので降りは大したことあるまいと考えたのが間違いだった。雷鳥沢は室堂平より約200m標高が低い。しかも雄山までの登山道とは比較にならない位歩きにくい道で、最後は雪渓をアイゼンを付けて降る事になる。なんだかんだでヒュッテに着いたのは既に14時半、6時間ほど歩き続けたので結構な疲労だが、このヒュッテ温泉付きの豪華版。風呂上がりのビールが最高だった。


翌日はなでしこジャパン応援の歓声を尻目に6時半ヒュッテを出発。又立山連峰の一角に登り返し、剣岳の登山基地剣山荘を目指す。この日の天気もまあまあで、昼ごろ着けばと考えていた剣山荘に9時半には到着。取敢えずチェックインするが、明日の天気が心配。小屋の親父さんも明日は台風の影響を受けるでしょうとの事。今日は天気が良いので、これから剣岳に行くとしたらと相談すると、「大丈夫十分行けますよ」との事。普通の人ならここから往復6時間の行程らしい。

「それでは行く事にしましょうかね」と受けたが、こちらは普通でない事を十分自覚しているので、内心どこか適当なところまで行って時間をつぶすつもり。ザックの中身を仕分けし、軽装となって10時を期して出発。前を行く人は一人いない。すれ違う人は殆ど口揃えて「どちらまでですか?無理をしないでください。特に前剣の登りと降りで下山者とすれ違いますので大変危険です。」と親切にご指導くださる。そして殆ど全員がヘルメット姿だ。「どうもありがとうございます。」と答えながらヘッペへっぺと前剣山頂まで来ると既に12時近い。


眼前に剣岳が正にそそり立ってこちらを睥睨している。「お前なんかが来るところではない。」と言っているようだ。何と言ってもこちらは暢気な父さんで気楽なものだ。頑張ることが大嫌いで直ぐに楽な道を選んでしまう。後で聞けばなでしこジャパンの「諦めない」がはやり言葉になったが、小生諦めの良いのが身上。大した山を目近に拝んだだけで大満足と言う事にして、ここでゆっくり昼飯を食いながら、周囲の風景を心行くまで楽しんだ。2時半に剣山荘に帰ると「早かったですね、どうしたのですか?」「そうですか、でも又来ればいいじゃないですか、シャワーの用意がありますからゆっくりしてください。」山奥なのにここにも立派なシャワーあったのはびっくりだった。

翌日は案の定朝から雨、小生にとっては有難いような話で剣岳を断念する理由がはっきりしたので6時半から下山開始。室堂ターミナルには10時半に到着。但し、この後の乗り物の連絡が悪く、バスで長野に着いたのは夕方4:45.先週泊まった東横インに再びチェックイン。会員登録までする。

翌日の昨日は長野在住で少し身体を壊している兄を見舞い、後は弟やら従妹と昼飯を食ったりお茶したりして夕方帰宅。婆さんが、いつも静岡から送ってもらっているうなぎを料理してスタミナを補充してくれた。

2011年7月15日金曜日

山登り

小生が山登りに目覚めたのは2004年9月末の事だ。前年5月サラリーマンを辞めて、個人営業の小さな会社を設立してから1年半ほど経ち、どうやらもう少しの間何とかなりそうと思ったのだろう。長野育ちのくせに、アルプスと名が付く山をまだ一度も目近に見たことが無く、母や兄弟からも「せめて黒四ダムの紅葉見物ぐらいしてみたら」と言われていたのを思い出したのだ。

子供の頃、夏の遊びと言えば、近くの裾花川で泳いだり魚を獲るか、長野市近郊の山を歩くかがメインだったし、高校から大学時代は夏冬とも志賀高原に入り浸りだったので、山歩きそのものは前から好きだった。特に高校に入学当初、先輩から誘われて山岳部の部室に出入りするようになった。入部すると先輩と直ぐに友達になれるので、最下級生にとっては何かと便利な事もあった。

ところが最初の夏休みを迎えるにあたり、夏の合宿計画と共に個人装備の準備を申し渡された。ナーゲル(革製の登山靴)・シュラフ(寝袋)・キスリング(帆布製の大きなリュック)の三点セットで、これだけは親に頼んで買ってもらえとの事。勿論何処に行けば幾らぐらいで買えるかも丁寧に教えたもらった。確か合計すると1万円の上になったのではないだろうか。早速母に相談すると、「父に直接相談したら」との事で夕方直接掛け合ってみた。

父親曰く「山に遊びに行くのは浩然の気を養う意味で大いに結構。だが、親に金を無心してまで高い山に行く必要はあるかな。山なんて何時までもあるのだから、高い山は自分でお金を稼いで、好きな時に行けばいいではないか。」父も松高の出身だったので、若い時山歩きは結構したらしい。母も祖父に同行して北アルプスの山も随分登ったとの事。何れも口を揃えて、山は良いけど子供がお金を使ってまで行く事はない。近くに沢山あるじゃないか。言われてみればその通りかもしれない、説得を小生はいとも簡単に受け入れて、翌日、僅か3ヵ月足らずで退部してしまった。余談になるが、同じ運動部でも退部に際してしごきを喰らった部もあったようだが、山岳部はそんな事は一切無く、その後も先輩にはかわいがってもらった。

そんな事なので、アルプスも旭山も飯縄山も山に変わりは無いだろうと、もっぱら近くの山を楽しんで学生時代を過ごしてしまった。そして65歳になろうと言う時にやっと父の言葉を思い出した。「そうだ、自分のお金でアルプスを目近に見ようじゃないか」で紅葉狩りをしに大町温泉に、更に関電黒4ダムから室堂に出て、浄土山迄登って北アルプスを眺め、その迫力に圧倒されてしまった。先ずは「こりゃ、16歳にして両親に上手く言いくるめられてしまったものだ。数百メートルの山と三千メートルの山脈とは大分違うぞ。」そして「出来ればもう一度山に登る準備をしてここに来たいものだ。」と思った。

しかし体力的な自信が全く無い。東京に帰って翌月、これもサラリーマン時代同僚から聞いていた近郊の御嶽山に一人でハイキングに出かけてみた。成程同じような年寄りが沢山いる。「ポンコツ程度は恐らく自分も同じようなものだろう、少しずつやれば又アルプスは行けるかもしれない。」との思いで翌2005年の5月にトレッキングシューズやザックを買い込み、近郊の山歩きをぼつぼつ始めた。その翌2006年9月生まれて初めて、北アルプスの聖地(?)上高地に足を踏み入れ、周りに山を眺めて「よし、この中の幾つかは近い将来登ってやろうじゃないか。」の思いを強く抱いた。

あれから5年、思えば望外の山歩きを楽しむことが出来た。やはり両親は正しかったのだ。体力のある時は仕事をし、年月が経つと体力が無くなっても時間や経済のゆとりは出来る。そこでゆっくり趣味を楽しむ、誰にもご迷惑をかけない。素晴らしい事ではないか。

明日からは、2004年9月に覚醒したあの立山に、山登りの支度をして再び向かう。台風に邪魔されない事を祈るが、邪魔されたら早く帰るか、1日遅れるかもしれない。婆さんに言うと「会長(快調)な身分で良かったですね。台風は大丈夫よ。」と言ってくれた。

2011年7月14日木曜日

読後感「昭和天皇とワシントンを結んだ男」青木冨貴子著

副題は<「パケナム日記が語る日本占領」>である。今、政治評論を生業にする人の間で最も読まれている本らしい。パケナムとは終戦直後アメリカの雑誌ニューズウィーク特派員として日本に来たジャーナリストである。彼の経歴はユニークで1893年日本生まれの英国人で、1913年まで日本で育ち、後に英国陸軍将校として第1次世界大戦に従軍、激戦を生き残り、後に米国に渡って大学教授を経てジャーナリストになっている。彼は生涯3人の妻を娶とり、最後は日本人と結婚して1957年に日本で亡くなっている。

しかしその経歴は多くの謎に包まれている。司馬遼太郎が「坂の上の雲」の中で言及している日本海大戦の英国観戦武官として戦艦「朝日」に乗り込んだパケナム大佐の一族である事は間違いない。この一族は現在でもアイルランドに古い城を持つ貴族で、ジャーナリストになったパケナム氏にはその血統に対する誇りと、幼い時に見た明治時代日本へのノスタルジーが刷り込まれていたようだ。彼が戦後の日本を最初の訪れたのは1946年の初夏。当時の外国人特派員は未だ40名程度の時代で、碌に日本語が話せない記者仲間の中で彼の日本語と日本に対する知識は群を抜いていたとされている。

彼を日本に送り込んだのは当時の本社外信部長ハリーカーン氏、著者も30年以上前この人物が戦後の日本政治を裏で操作していたとを知り、彼の事を調べたいと思ったらしい。その後著者も1980年代半ばニューズウィーク本社で働くようになり、手掛かりを探すが当時は何も得られなかった。ところがその後更に20年を経て、2007年にハリーカーン氏の息子に巡り合う。しかも彼がパケナム氏の日記を保存していて、資料として提供することを快諾してもらう。

日記は1948年末から1953年迄の約5年分と言うから膨大なものだ。ここに書かれている内容が、本書の縦糸となって話が進む。先ずパケナム氏は当初マッカーサーのGHQから好ましく思われていなかったらしい。と言うのは、彼はマッカーサーの占領政策を必ずしも好ましいと思っていなかったらしい。特に貴族的雰囲気を好む彼からすると、エリート層を公職追放で一掃したやり方に不満があったようだ。冷戦構造の中で日米関係を確立するために、現在追放されている知識人を活用しないといけないと言う危機意識もあったのだろう。

彼の観察は上司のハリーカーンに届けられる。ハリーカーンは本国の情報機関としての役割も果たしていたようで、大統領府との意思疎通が可能だったらしい。そう言うベースがあるので、本書はスパイ小説よりも面白い。日本側も戦後の混乱期を乗り切るために、あらゆる機関がいろんな工作を展開していた事だろう。このマッカーサーに嫌われている一ジャーナリストが本国に追い返され、16か月後にトランジットビザで再入国した際(1947年8月)、宮内府式部官長松平康昌がアプローチしてくる。

正に天皇の密使である。パケナムは彼と仲良しになり、彼の日本における政治工作に大いに利用するが、日本側もマッカーサーをバイパスして国務省にダイレクトに意思疎通が可能になるメリットもある。アメリカ側が日本をどのようにコントロールしようとしているか、日本がどのように独立を果たすのか。終戦直後から昭和32年の岸内閣成立に至るまで、その狭間に立ち、しかも両国のトップとダイレクトにコンタクトしながら情報を操作した人間の日記を読み解くのである。

何れもキツネとタヌキ、パケナム自身も経歴等詐称しているところは随分ある。そこを丹念に丹念に世界を股にかけて訪ね歩き、解き明かそうとする筆者の努力は敬服に値する。それにつけても、政治家の化けの皮を剥がすことの困難さは昔も今も変わらぬようだ。




2011年7月13日水曜日

暑さ対策

今年は梅雨明けが早かったので、今から夏場の水不足が懸念されている。押し寄せる津波も困るが、水が無くなるのも難儀だ。「停電」とか「断水」は死語のようなもので、コードを繋いでスィッチを捻ると電気は来るし、蛇口を捻れば水は必ず出るとしたものだ。春先の計画停電騒ぎは幸い免れたが、それでも懐中電灯や電池式ラジオを買い込んだりした。これから先、暑いさなかに本当に停電・断水になったら暑さ対策は大変だろう。

子供の頃は夏場になると、家の戸障子の殆どは網戸に代わり、その網戸でさえ夜も空け放って蚊帳を吊って寝たものだ。懐かしさえ覚えるが、今や庭もろくにない東京で、そんな風流が出来る筈もない。狭い家の中で裸同然のあられもない恰好をして、蚊やり線香を焚きながら団扇を使うぐらいが精一杯か。あられもない恰好さえも、家と家が隣接している東京ではなかなか難しいだろう。

断水対策には、狭い庭に井戸を残しているのを奇貨として、飲用に不適とされている井戸水を使用せざるを得ない。飲用に不適とされても、一度沸かせば飲めぬ事もあるまい。しかし、この井戸も随分前に手漕ぎのポンプを取り外して、完全に蓋を閉めて電動のポンプに替えている。停電になれば使用不能になるので、通電している間に汲み置きをする必要がある。これでも未だましな方で、近所で井戸を残している家庭は少ないようだ。

大騒ぎにはなっているが、実際に「停電」とか「断水」は発生しないと思うし、そう願う。停電・断水はないのに最近は熱中症事故が盛んに報道される。熱中症なる言葉が頻繁に報道されるようになったのは、平成に入ってからの事だろうか。昭和の後半から文化生活を謳歌してきた人間の方がヤワになっているのかもしれない。自分自身を考えても、停電・断水が当たり前の時代を経験しているわりには暑さ寒さにめっきり弱い。代わりに反マスコミ(宣伝)の図太さだけは身につけた。以下は皆の衆に聞いてほしい話。

我が家ではエコも節電節水も関係無く、必要性を感じるままに電気も水道も使っている。一般消費者を対象に節電を呼び掛けるのは電力会社のご都合主義による宣伝にすぎない。お年寄りは無理な節電をせず、熱中症予防に気を付けてください。なんておためごかしを言っているが、ふざけた話だ。特に夜なんか電力は余っているから、「一般家庭では、暑さ対策に電気をどんどん消費してください」が本音の筈。問題は14時から17時頃までのピーク時に、生産ラインを稼働している企業に如何に安定供給をするかが問題なので、我々庶民は関係無いのだ。

生産者側も「電力の安定供給が確保されないなら、生産拠点の海外移設を検討せざるを得ない。」と気取った事を言うが、何処に行けば日本のように電気が安定供給されると思っているのか。無い事を承知で、互いに宣伝合戦をしているだけだ。一種馴れ合いの三文芝居を見る気がする。

何処まで行っても個人消費者を馬鹿にする、公社公営企業の体質が抜けない電力企業だ。但し、渇水は電力不足とは異なる話、天気次第でどうなるか分からないが、今年は首都圏でも発生する可能性があるらしい。この対策は別途真剣に考えてみたい。

2011年7月12日火曜日

梅雨が明けた 「五竜岳」に


先週土曜日の8日、プールから帰って馴染みの整体に行ってマッサージを受ける。このお兄さんと来週剣岳に一緒する予定だったのだが、お兄さんどうしても標高700mの馬場島から2200mを一気に駆け上り、その日のうちに剣山荘迄行きたいとの事で、一緒に行くのは諦める。この話が週の初めにあったので、ならば仕方がないと、やはり一人で室堂経由のゆっくりした計画を組み直した。既に宿の手配から列車の手配も終わり、昨夜計画書を婆さんに渡した時、この話をしたら「そんな元気な人と一緒じゃそちらさんにも迷惑だろうからその方が良いよ。」と賛意を示してくれたのでこちらもほっとした。

山で老人の一人歩きは危険と言われるが、考えてみると足の揃わないパーティーで、リーダーシップの無いパーティーに巻き込まれた老人の方が余程危険だ。一昨年のトムラウシ、2006年10月の白馬の事故なんかが典型だが、何れもベテランのリーダーが同行していながら年寄りが命を落としている。エキスパートと称される片山右京氏が同行していながら富士山で命を落とした青年。何れも不幸な話だし、自分にその気がないとは言わないが、自分より能力的に低い人の事を慮れない人間はリーダーになってはいけないし、パーティーを組む際は互いに自己責任を確認する必要があるだろう。

そう言った意味で、この歳になると、「一緒に山に行こう」と言ってくれる人間は少なくなって当たり前だ。てな事で結局剣も単独行とあいなってしまった訳だが、婆さんも言うようにその方が幾分安心かもしれない。そんな事を思いながら9日の14時頃ネットで確認すると「関東甲信越地方梅雨明け」のニュースが流れている。見ているうちに明日の日曜日10日がプールの定休日である事思い出した。そして来週に備えて少しトレーニングを、と思って急に山に行く事を思いついた。目的地は昨年途中で断念した北アルプス五竜岳である。前からいろいろ研究していたので、白馬五竜のスキー場からの登山ならこれからでも間に合う筈だ。

思いついてすぐ白馬五竜山麓の宿泊を手配すると、明日この近くで高校生のサッカー大会があるらしく、全然宿が手配出来ない。已む無く長野泊まりにする事に決めて家に電話を入れる。「梅雨が明けたらしいので明日山に行くよ」と言うと、婆さんが「来週本格的登山だから、トレーニングには丁度いいかもね、何を準備すればいいの?」と極めて明るい返事。「いや~、長野方面に一寸行くだけだから、何も要らないよ」と言う事で慌てて家に帰り、何処に行くとも言わずに家を出てしまう。山に行く時こんなに曖昧な形で出発するのは珍しい。「行く先なんかは出先から電話をするけど、ひょっとすると帰りは月曜日になるかもしれない。」とだけは言っておく。

曖昧な形で家を出た天罰で、東京駅で16:44発の電車に間に合うが、これが何と1時間15分も遅れ、長野に着いたらもう7時過ぎ。観光案内所は既にクローズで、しかも雨が降りしきっている。駅の脇にメトロポリタンホテルがあるのは分かっているが高いので敬遠、目の前の安そうなホテルは2軒とも休業状態。どうしようかとメトロポリタンホテルの庇の下を歩くと、少し先に東横インの看板があった。入ってみると5480円の部屋が空いていたのでチェックイン。

10日の朝起きると幸い晴れている。ホテルのサラダに味噌汁、桜えびと錦糸卵と人参だけのちらしずしで朝飯を済ませ、長野駅で昼飯用の助六寿司350円とゼリーなどを買い込んで8:20のバスで白馬五竜に。神城の駅から自宅に電話をするが繋がらない。仕方がないので、そのまま遠見尾根スキー場から登山を始める。天気は梅雨の様相で余りよくはない。但し日曜なので途中まで家族連れは沢山いるが、2000mを過ぎると登山客は一人も見当たらない。しかも雨が盛んに降ってくる。しかし雨のお陰で熱中症にならずゆっくり登山が出来る。

5時間近く掛かって五竜山荘の到着、3時なってから家に電話をして(山はドコモに限るようだ)「山に来てしまったので、帰りは明日。」と伝えると「分かりました。お気をつけて。」との事。山荘の宿泊客はたった2名。ビールのサービスまであり、山小屋とは思えないくらい贅沢な夜を過ごす事になった。明けると昨日は雨の予想が出てはいたが晴れ。降られはしなかったが早朝の山頂は全く眺望がきかず残念ではあった。むしろ復路の熱射病対策の方が重大問題と思った。しかし、予て念願にしていた山に行けた事、剣岳登山の良いトレーニングになったのは間違いない。帰宅して食事の後、恒例の映写会で「結局どこに行ってきたの?」と問われて説明をする。

「写真で見る限りはそんなに天気で苦労したようには思えないけど、五竜の五の字を外して写真を撮るなんて、爺さん少しぼけてきたようよ。」とのご託宣。

登山の詳細は下記をご参照願います。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-121312.html
senkawaが私のハンドルネームです。

2011年7月8日金曜日

読後感「戦前日本のグローバリズム」井上寿一著

副題に「1930年代の教訓」とある。小生1940年の生まれで、先の大戦について学校で日本史として体系的に学ぶことはなかった。しかし大戦については個人的にも若干現実の記憶もあり、長ずるに及び家族の話や些かの読書などを通じて、大戦へ突入していく経緯などを知ろうとそれなりの努力はした。

小生の理解を簡単に述べれば、大正デモクラシ―の時代が終わって昭和に入ると、軍部の力が強まってくる。特に1920年代末の世界大不況の影響で、日本も経済がおかしくなってくるとその傾向は一層強まり、日本全体に軍国主義が大きな勢力になってきた。その結果として、関東軍が満州に於いて事件(1931年の柳条湖事件)をでっち上げ、対中国との戦いに入ってしまう。結果的にはこれが底なしの泥沼で、解決が付かず欧米を相手にする大戦にずるずると引き込まれてしまった。

従って1930年代の日本は、1936年の226事件に象徴されるように国を挙げて一瀉千里軍国主義に突き進んだ実に馬鹿な時代だった。と簡単に割り切っていたものだ。しかし、1956年生まれの著者が著した本書を読んで、馬鹿なのは小生である事に始めて気が付いた。

確かに満州事変やら、満州国の建国、226事件等幾つかの現象のみを並べて、大戦に直結した支那事変(1937年)迄を薄っぺらに見ると、日本が軍部(特に陸軍)に引っ張られ、マスコミに煽られて、結果的に国を挙げて大戦に突っ込んで言ったように見える。しかしその見方は必ずしも正確で当たっているとは言い難いようだ。冒頭に著者が言うのは「1930年代は日本にとって世界が最も広がった時代」である事の認識だ。

結果的には国際連盟を脱退し、ドイツ・イタリアと3国同盟を結び大戦に嵌って行ったのは事実。しかし、この間の約10年、日本の外務官僚や陸海軍の上層部が闇雲にその方向に走った訳ではない。軍部が経済に弱い疎いのは事実であろう。しかし、英米を敵に回す間違いを犯す事を心配して、これの回避に努力した人は沢山いる。がちがちの右翼でファッシストの礼賛者と思った松岡洋右でさえ、国連を脱退した方が英米との2国間交渉が上手く行くと思っていたようだ。

最大の戦争協力者とばかり思っていた大川周明なんて人は世界に目を向けた大変な学者で、英米を相手に戦う事は絶対反対だったらしい。考えて見れば、東京裁判で東条英機の頭を叩いた事を知っているぐらいで、1冊の著書も読んでいない。ことほど左様に生噛りで半端な知識は恐ろしいと改めて思う。ある意味歴史観の変更を迫られたとも言える。

著者が言わんとするところは、1930年代の日本は通商自由の原則を掲げて世界を相手に経済外交を展開しようとしていた事である。後に喧伝される大東亜共栄圏についても、経済のブロック化の象徴であったように理解していたが、この事も考え直す必要がありそうだ。

2011年7月7日木曜日

先人の教え

政治の世界でリーダー不在論が長く続いている。誰が見ても現総理が指導力を発揮しているとは思えないだろう。でもひょっとすると、菅総理は内閣に対して指導力を発揮していると勘違いしている節が伺える。国家国民にとっては不幸な事だ。総理は若い頃、市民運動家である市川房枝女史のもとで修業されたらしい。残念ながら市川さんの人となりについては何も知らないので、当時菅さんがどんな事を学んだか想像できないのが残念である。

市川さんの経歴をざっと参照すると、明治26年生まれとあるから小生を最も可愛がってくれた祖母(明治20年生)と年齢的には大差ない。我が祖母は市川さんと異なり女学校だけしか出ていなかったが、武士の娘らしい見識と立ち居振る舞いの尊敬すべき女性で、幼少に刷り込まれた祖母の教えは、今でも小生の脳裏に深く刻まれている筈だ。

深く刻まれていると言っても、直ぐ思い出すのは「仏壇にお参りをしなさい」とか「呼ばれたら返事だけは直ぐしなさい」「嘘は泥棒の始まり」「他人をだまして得しようなんて考えてはいけません」と平凡な事ばかりだ。何れも小生がずるをしたり、いたずらをしたり、言い訳をしたりした時に、厳しく刷り込まれたものだろう。過ぎたるは何とかとか、長幼自ずから序ありなんて俚諺も殆ど祖母に教わったものだろう。

こういった幼い頃の教えが、その後人生でどんなに役立ったかと言う事ではなく、性格を形作る大きな要素にはなっているだろう。今でも何か困難な現象にぶつかると不思議に祖母を思いだす。それだけでも幼い頃教わった事は有難い。

菅さんが市川さんの周辺で過ごしたのは大学も終わろうとう頃合いだろうから、そんな人間としての基本を諭される事は無かったろう。しかし昭和生まれの菅さんから見れば明治生まれの市川さんには学ぶ事が沢山あって当然だ。しかし最近の総理の言動からは、善き先人の教えを受けた雰囲気が全く感じられないのは誠に残念な事だ。

政治家の場合は特にだが、誰しも若かりし日に謦咳に触れた指導者の影響を強く受けるのが普通だ。田中角栄氏に育てられた政治家は皆共通点があるし、対する池田、前尾、大平、宮沢氏の宏池会系で登りつめた人達、福田さんの清和会系(小泉氏だけは別)総理にも共通項が必ずある。そして宰相になろうと言う人は必ずと言っていいくらい、宰相級の人物のもとで修行している。民主主義国家のトップリーダーにはどんな人が望ましいか、小生には分からない。

省みれば1993年、もう20年近くも昔の事になってしまう。小沢一郎が自民党を飛び出して細川政権を作って以来、それまでのように現役宰相のもとで総理の勉強をせずに総理になってしまったと思われる人物が何代も総理の座についている。当然これからは益々だ、総理としての作法もあったものではない。一人菅さんだけの問題ではなく、今後は総理なるつもりもなかった人が弾みで総理なる可能性は大いにある。勿論、自民党だって同じだ。小泉純ちゃんが派閥をぶっ壊したので、総理なるために研鑚を積む集団は既に無い。

急に自民党の派閥政治と権力闘争がが懐かしくなった。

2011年7月6日水曜日

いつまでもあると思うな親と金

もう親はいないし、金は元々無いに等しい。しかし先日従姉の葬儀から帰った婆さんと話しているうちに、自分達の事に話しが及び、半ば冗談ぽいが互いに死んだ時の事になった。要は、納骨は親が建ててくれた故郷の墓にしても、葬式は豊島区で簡単に済ます。そして故郷の寺から坊さんを呼ぶのは止そうとの事で意見が一致した。後は戒名を安そうな寺を見つけて生前にに貰っておこうとか、思いついた事を若干話し合った。

何故そんな話になったかと言えば葬儀屋から「今年の夏は暑さが厳しい上に節電の宣伝が効きはじめているので、冬場と同じくらい高齢者の死亡が多い」と聞いてきたからである。我々だって十分高齢者ではないか。親とか金以前に自分の事を少し真剣に考えなくてはいけないと気が付いた。今日は来月の登山用に列車の切符を買いに行きながら、また考えた。「自分には未だ行きたい山が沢山ある。しかし後幾つ登ったら満足するのだろう?」「自分は未だ中途半端に仕事をしている。いつまで続けるつもりなんだろう?」

何れへの答えも「未だそこそこ健康で、そこそこ体力もある。1年や2年はいけるだろう。」そこで思い出したのが本日のタイトルだ。「親と金」を「健康と体力」と置き換えてみる。昨年も同じような気持ちでいたような気がする。と言う事は今年幸いにも何事も無く過ごす事が出来、来年同じ自問をしたら同じ答えが出てきてしまうだろう。果たしてそれで何処まで続くのか?最近周辺で起きる事象を見ていると、人間「ピンピン、ころり」なんて事は真に自分勝手な夢で、生老病死の実際はそんな甘いものではない事を実感させられることが多い。

随分辛気臭い話になってしまった。歩いたり水泳をしたり健康維持の努力も結構だが、あれもやりたいこれもやりたいの欲が元にある。何時までも欲ばかり追いかけず、今日から身仕舞ではないが少し別の事を考えようかと思い始めた。これも例によって急な思いつきだが、思いつかなければ何処までも真直ぐ行ってしまう。50歳過ぎた頃から5年毎位のペースでライフスタイルのギアを入れ替えて来た。そう言う意味では少し中途半端な年齢だが、今年はこれ迄とスタイルを変えた事も結構ある。歩く泳ぐだけペースが落ちていない。思い立ったが吉日だ、ペースダウンを考え始めよう。

2011年7月5日火曜日

武道を必修?

今朝の朝刊で来年度から中学校で柔道などの武道(柔道・剣道・相撲)が必修となる事を知った。論説とは異なる寄稿だったが、解説者が心配していたのは指導者が不足している事と、それに伴う事故の発生だった。文科省なんて役所が果たして日本に必要なのか否かの議論も必要だが、学習指導要領の改定までして中学生の必修科目に武道を導入する必要性は何処にあるのだろう?一応ネットで検索してみると<伝統や文化に関する教育の充実>が引っ掛かり、○武道を必修化(保体/中1・2)と続く。

小生が中学校に入学した昭和28年当時、保健体育の授業の殆どは陸上の種目と屋内ではマット運動・跳び箱や鉄棒等の体操が主体で武道なんかは勿論なかった。因みに課外のクラブ活動とでも言おうか、運動部の記録を見て見た。上がっているのは野球部・庭球部・籠球部・排球部・水上部・卓球部の6部、部員が一番多いのが卓球部の60余人で、台が3台しかないので大変だったらしい。保健体育は勿論専門の先生が居て、その中のお一人で年配の体育教官は鉄棒があまり得意でなかった記憶がある。

この先生は蹴上がりがあまり上手でなくて、内心「俺の方が上手い」と思ったりしていた。しかしそんな事はどうでもよくて、中学生の鉄棒は逆上がりが出来ればよしとしたもので、蹴上がりなんか出来なくても良かった。問題は鉄棒をしている時に事故を起こさない事である。授業の前の砂場や体育館の手入れや道具の取り扱い、準備運動、運動中の補助の仕方等について真剣に教えて頂いたと思う。保健体育とは身体を鍛えるのが目的で、伝統や文化とは関係無いと思う。文科省の考える方向性が間違っていると思う。

日本古来の武道を教える事は決して悪い事ではない。むしろ若い人には大いに学んでほしい。我が孫も小学生時代に合気道を習っていたのに、中学校に進んだらバスケ部に引っ張られて、合気道を止めたしまったと聞き嘆いているくらいだ。武道こそはきちんとした指導者が教えるべきもので、大学の教職課程がどのようになっているか知らぬが、借り物の道着や道具で数日やった事があると言った程度の人間が他人に教えるべきものではない。

それこそ生兵法は大怪我の基だ。各武道の指導法が分かっている中学校の先生なんて少ないのは自明の事。生徒の怪我も心配だが、先生の方にだって事故が発生しかねない。昨日も「長幼の序」について触れたが、「伝統や文化に関する教育」とは何を教育したいのかさっぱり分からない。文部科学とは国の基礎をなす最も重要な事項だと思うが、これを司る役人や政治家が余りにもご粗末に過ぎはしないか。
家族に中学校の先生は一杯いるし、文科省OBの友人も読んでいると思うが、ごめんなさい。

2011年7月4日月曜日

長幼の序

今朝のニュースを見てびっくり仰天した。松本復興担当大臣様の口から懐かしい言葉が飛び出した。「長幼の序」だそうだ。おん年60歳らしいから、宮城県知事よりは若干年齢は上なんだろう。この言葉だけではなく、口のきき方のあらっぽさは酷過ぎる。カメラが入っているのを承知で喋っているのだから、自分では非常識だとは思っていないようだ。もともと環境大臣で、目立たない存在だったし、どんな人かも何をしているのかも全く分からない人だった。事実大した仕事はしていなかったのだろう。

顔を見る限りそんなに悪党には見えないが、1年程大臣の椅子に座っていただけで、誰もがこんなに夜郎自大と言うか不遜になってしまうのだろうか。それともこの人が特殊な性格で、常識外れなのだろうか。この人のニュースを起きぬけから見せられ考えてしまった。夕刊紙の見出しに「更迭必死」の大きな活字が躍っていたのでが、16時過ぎに事務所に戻ってネットを確認したが、その気配は無い。何を考えていたのかは知らぬが、本当の事を言っただけなのかもしれぬ。

友人の一人が「すべて計算ずくで、総理の任命責任に話が飛ぶように計算ずくではないか。」と言い、別の友人が「菅がそんな程度の事で責任なんか取る訳ないだろう。そこまで出来悪とは知りませんでした。早速更迭しましょう。でチョンだよ。」との事。こちらの方が幾分説得力があるようにも思うが、とても「長幼の序」どころの話ではない。民主党の表看板「地域主権」も絵空事、お上意識丸出しだ。現内閣に被災地を本当に救済しようと言う気持ちがあるかどうかも益々疑わしくなってくる。要するに前政権と現政権に違いなんぞ何も無いと言う事だろう。

続いてこんな話も「タイの選挙で野党のタクシン派の勝利が報ぜられているが、併せて国内の混乱は収まりそうにないそうだ。政党政治のありようが日本も同様だとすれば、どこかで自衛隊がクーデターでも起こすのかもしれない。」それに対して。「しかし、自衛隊も少し能力や根性のあるリーダーは、組織を率いて事を起こす筈がない。田母神閣下のように適当なところで組織を飛び出して好き勝手をしていれば、結構な稼ぎになるので誰もそんな面倒な事には着手しない。」これも尤もか。

出先から帰る地下鉄に小学生の団体が乗り込んできた。最初空いていたので何人かの生徒が座席に着いた。次の席でお爺さんが乗り込んできて、その生徒の前で吊皮を持って立った。生徒は席を譲らない、横に立っていた先生もなにも言わない。懐かしい言葉なのでもっとましな事を書きたかったが、これが現実。如何に混迷の世とは言え、松本大臣が孔子様の教えを持ちだしても、孔子様が戸惑うばかりだろう。しかし何処に行っても明るい話題にならない世の中は困ったものだ。

2011年7月2日土曜日

映画「JFK」を見て

昨夜たまたま留守番だったので、今週水曜日にNHKのBSで放送された際に録画した映画「JFK」をゆっくり見た。3時間を超える長編で20年前に公開されたものである。公開当時に映画館で見た記憶はあるのだが、内容は殆ど忘れていて今回見て全く新鮮であった。内容はニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンがケネディー暗殺の犯人とされたオズワルドという人物に記憶がありショックを受ける。ニューオーリンズの法曹関係者の間ではオズワルドという人物は、地元のキューバ人団体と頻繁にトラブルを起こし有名であった。彼はすぐにこの人物の調査を始める。

調査の範囲は、テキサスからワシントンまでニューオーリンズ地方検事局には些か荷が重いが、拡がって行く。そして調べれば調べるほど、オズワルドは組織的陰謀を隠すための生贄との思いが強くなる。しかし地方検事が出来る捜査は限界があり、何故かFBIとかCIAといった国家組織の協力を得られず時は瞬く過ぎて、国家的調査ウォーレン報告書も発表されオズワルドの単独犯説が確定的になる。それでも彼の執念は消えないが、証拠証人が次々と無くなったり消されたりしていく。そんな苦労を克服して、黒幕の一人と目されるニューオーリンズ財界の大物(オズワルドと共にCIAのエージェントである事を確信している)クレイ・ショーを逮捕して裁判に持ち込む。

この裁判における検事調述が最後の山場になり、如何にこの国が不正な組織に乗っ取られつつあるかを延々と述べる。要するに革新派であったケネディー大統領は冷戦やベトナム、或いは対キューバ等の戦争紛争によって巨大な利益を上げている産軍複合体にとって好ましい人物ではなかった。そこで、ここに属するトップが巧妙な仕掛けを講じた。それは実に巧妙に仕組まれ、そこには国の多くの組織が関与している事を力説強調する訳だ。しかし最終的に陪審員の判定で被告は無罪とされてしまう。従ってジム・ギャリソンの追及は結実することなく、多くの疑問を残しながらJFK暗殺事件は幕を閉じ、関係書類は半世紀後(だったと思う)迄封印されてしまうと言うところで終わっている。

娯楽性の高い映画の事だ。何処まで事実で何処から虚構かは分からいが、ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判があったのは事実。映画の中で頻繁に登場する8ミリ記録映画(ザプルーダー・フィルムと呼ばれ486コマで構成)も実在する。大統領が狙撃されたのが12:30で死亡の公表が13:38、その時刻には犯行現場は教科書ビル6階でオズワルドが犯人として特定され、13:56にはオズワルドが逮捕されてしまう。そのうえ、14:15には検視を済ませた遺体が軍用機に乗せられ、ジョンソン副大統領と共にワシントンに向かってしまう。そしてこの飛行中にジョンソン氏が大統領に就任してしまう事になる。検視書類なんかも全て封印され現在は確認できないのも事実。
もしジョンソン一派のクーデターだったと仮定すれば、物凄く手際が良い処理である。

日本にも「国家の罠」なんて本があり、国家権力に逆らった人間が権力に絡め取られて、市民権や人格を抹殺されるなんて事がひょっとしたらあるのかな、と思ったりしないでもない。日本で怖いのはお上と言っても、闇で実際に差配しているのは「官僚」と言う組織だろう。逆らったり盾突くと個人的、社会的に抹殺される事があるかもしれぬが、日本の官僚にクーデターを起こすパワーは無いだろう。

アメリカの闇の権力者は少しスケールが異なりそうだ。この映画に描かれた産軍複合体とは如何なる組織か。実態をイメージすることが難しいが、彼の国の警察刑事組織と情報機関が極めて複雑で、それぞれが独立して存在し、一見協力しあっているようにも見えるが、飽くまで別組織だ。これを誰かがうまく使い分ければ、映画が示唆するように大統領暗殺までが可能になるかもしれない。

哲学的には一方に資本主義、片方に民主主義が存在する。ここから邪悪なものが生まれる筈がないと思うのは、少し単純に過ぎるかもしれない。今でも民主主義の優等生みたいに言われるが、実態はかなり資本の原理に傾斜した不平等な国と言う説もある。そして次から次へと世界中で戦争を絶え間なくしているのも事実。日本にとっては最も頼りになる同盟国と言うが、小生には不気味で恐ろしい国家である。

2011年7月1日金曜日

読後感「空白の五マイル」角幡唯介著

子供の頃は誰しも冒険とか探検に胸が躍るものだ。読み物にしても幼い頃の「トムソーヤの冒険」とか「ロビンソンクルーソー漂流記」から始まり、「西遊記」なんかは最高の冒険で、大いに胸を躍らせたように思う。大きくなっても陸地であれ海洋であれ探検記に類するものを随分読んだ気がする。今回はごく近年の探検記で、従妹が2度繰り返して読んだ程面白いと言うので早速読んでみた。言われた通り面白い。

早稲田大学探検部出身の青年が、ヒマラヤの裾に源を発してチベットからミャンマーを流れてインド洋に注ぐヤルツァンポ川(本書では単にツァンポと表記)最奥部の人跡未踏の渓谷を一人で探検した話である。本の章建ては別として探検は2002年と2009年は2回行っており、その記録がメインとなっている。一回目は過去に何人かの探検家が挑戦するも踏み込めなかった、正に空白の5マイルを踏破した記録。2回目も人跡未踏最奥部の川筋を24日に亘って一人で下った記録。ところどころに欧米人の過去の探検記録や日本人探検家の遭難記録等が織り込まれている。

チベットにおけるヤルツァンポは平均の標高が3500mで最高部は6000mを超えるとされている。しかも水量の関係で乾期でないと危険なので、この流域に入るのは年末から新年にかけてがベストらしい。著者は北海道の出身で早稲田の探検部に6年も在籍し、その間冬山に関しては雪崩に巻き込まれたりして、何度も死覚悟するほどの経験を持つエキスパートであるが、ここを一人で歩く事は余程の覚悟が要った事だろう。特にチベットは中国の一部とはいえ特殊な場所で、この地域は外国人に対して非公開地域となっている。

従って入山には特別な許可が必要になるのだが、2回目の時、彼はそれを承知の上で許可無しでもぐりこんでしまったようだ。この時の記録を読んでいくと、川筋を歩く事の困難さに加え、中国公安部の目から如何に逃れるかが大問題であったので、案内人を雇う事も叶わず非常に厳しい行程になった事が伺える。行程の後半は予定日数を大幅に超え、1日千キロカロリーの補給で五千キロカロリーの消耗をしながら、やっと人里に辿り着く。勿論ここで公安部に逮捕されるのだが、嘗て堀江青年がビザ無しでサンフランシスコ湾に辿り着いたのと似たような感じで、無事帰国が叶う事になる。

探検記て奴は読んでいる分には血沸き肉踊って楽しいものだ。しかし当事者の本当の苦労は文字で表せないだろう。自分の肉体を鍛え上げ、十分な事前調査や偵察も行って成算を持って取りかかるのであろうか、出発に当たってはそんなに高揚しないらしい。実動すれば想像しなかった危険に必ずのように遭遇して、慌てない様子が随所に描かれるのだが、パニックにならない精神力はどうすれば涵養出来るのだろう。そしてそれを乗り越えた時に何を考えるのだろう?

植村直己氏なんかも同じと思うが、著名な登山家や探検家たちには、一つ目標を克服すると更なる目標とレベルを上げて行って、満足を知らない共通の性があるみたいだ。間違いなく後世に迄名は残るのだが、家族は心配だろうな。