2014年1月7日火曜日

初詣余話

少し正月気分を引きずって、友人の事務所に年賀に行った。互いに年なのでさしたる話は無いが、茶飲み話の中で一つ利口になったことがある。初詣のことだ。やや自慢げに伊勢神宮に毎年のように初詣をしていることを話すと、笑われてしまった。日本人と言うより個人的な問題かもしれぬが、宗教観のいい加減さを改めて感じることである。

何でも伊勢内宮の正宮では個人的な願い事をしてはいけないらしい。願い事をしても良いが、天下国家の事以外は受け付けてもらえぬことになっている。プライベートな願い事をしたければ、境内の別宮(荒祭宮・風日祈宮・滝祭神・子安神社と4つの宮がある)でするものと決められているとのこと。今年最初のブログにも書いた通り、たまたま今年はそれぞれの別宮にもちゃんとお参りしてきたが、25回ほど通っていて初めてである。

従来は正宮だけお賽銭を上げてお参りし、後はお札を買ってくればいいと思っていた。当然ながら、正宮での願い事は山ほどあるが、全て個人的なことばかり。しかも毎年願いをかなえて頂いているので、なかなか習慣を辞める訳にいかないくらいだ。友人の指摘は笑って聞き流したが、改めて初詣は日本人の面白い習慣だ。これは一体宗教行事なのだろうか?

初詣は日本の風俗ではあるが、ひょっとすると宗教ではないかもしれぬ。神道だけならば宗教行事として捉えてもいいだろうが、他アジア諸国の仏教徒が同じようなことをするだろうか、どうも疑わしい。仏教寺院を含めると初詣をする人は千万2千万人では収まるまい。参拝者の多さでは、今年もそうだが常に東京の明治神宮が筆頭に来る。未だ嘗て明治神宮に行った経験が無いので、これも不思議でならない。

そもそも明治神宮の祭神は多分明治天皇の筈。こんな生々しい方が無数の人の願い事を聞き届けられる筈が無かろう。これまでに霊験の実績があるのだろうか?天照大神ともなれば、キリストやマホメットと比べても遜色ない大昔から大和の民を見守っている実績がおありだ。だから霊験があるに違いない。
と、まぁ勝手な思い込みである。宗教のつもりで古いものを有難がる人種の典型で、明治天皇にしても天照大神にしてもいい迷惑かも知れない。

若い人も大勢初詣をしているが、皆さん誰に願いをしているのだろうか?○○の尊(命またはミコト)となれば如何にも別世界の人で、有難い神通力を期待できそうだ。千年かせめて五百年くらい経たないと、神様も仏様も有難味が湧かない。祀られて高々150年程度にしかならない明治維新後の神社の神様にお願いするのは、麻原彰晃や池田大作のような生き神様に願い事をするのと大差無いと思う。

いろんなことを考えてみると、我が宗教観は実に一方的、独善的で願い事ばかりだ。神からの啓示とか何らかの普遍性が無くて宗教と言えるのだろうか。その点「アラーアクバル」と叫びながら死ねるイスラム教徒とは大分違うみたいだ。特攻で死ぬとき、多くの人が「おかあさん」と叫んだと聞くが、実際に聞いた人はいないのではないか。だが、心情を察すると、日本人としてはそれが自然と言うことになるのだろう。

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