国語力

ここ数年の国会審議を通して、その審議内容に何とも言えぬ違和感を感じていた人は多いのではなかろうか。言葉の応酬がかみ合わない、主に政府側答弁であるが、言っている意味が理解できない。似たような現象は記者会見等にも表れることがある。ひょっとすると、こちらの国語力に問題がある可能性も大いにあろう。言語は、発する人や受け止める側の知識や知性によって、だいぶ変わるものらしい。

人間はその齟齬を避けるために、幼少時代から教育を受けるわけだ。家族の中では意味が通じ合っても社会では通用しなければ困るので、学校教育や社会教育の必要性が生じること理解できる。そこで冒頭の本論に戻るが、広く社会一般に公開される日本語の応酬が理解できぬのは困る。我一人ならともかく、国会議員、官僚、ジャーナリスト諸氏に至るまで、似たような状態がしばしば起こっているとすれば問題だ。

自分のことを棚に上げて彼らのことを馬鹿にしくさってきたことを少し反省せねばならない。問題は言葉がかみ合わないことにあるのだから、今さら彼等の国語力と我が国語力の優劣を論じても始まらない。実は近くに読後感を書こうと思っている本を読んで分かったことがある。我が国では明治の初めまで、中国の言語をもって「国語」(少し意味が違うが、取り敢えずは「漢文」と理解してもらう)としていたらしい。

従って、社会に出て活躍するためには、家庭内なり何処かで一般社会教養としての国語(漢文)教育を受けざるを得なかった。これも初めて知ったが、四角い字ばかり並び句読点も無い中国語なる代物、これが文章化されると意外に安定していて、数百年の単位を超えて、歴史の記述もされ、法令や判決文も書け、政治や軍事を論じ、学問もでき、書簡や紀行文も書かれ標準化されてきた。従って我が国もこれに倣い、19世紀末までの「国語」は今風に言えば中国語で、現代風日本語は公式には使用しなかった。国粋主義者は気に入らぬだろうが、現実はそうなっている。

これはつい150年か140年前までのことだから「らしい」話ではなくて確定的な事実だ。以下は勝手な想像。現在はそこから英語(昔は蟹文と言ったらしい)への移行時期に当たっているので、間もなく小生の頭を悩ませている曖昧な日本語は無くなるのかもしれない。

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