先日読んだ高坂正堯氏の著書の中にこの本の事が出ていたので興味を持った。元来山本周五郎の小説は好きな方である。司馬遼太郎のように如何にも歴史に拘ったような書き方をせず、どこまでも小説、あるいは物語として、その時代にはこういう事があって当然と思わせる。しかも登場する人物の織りなす綾はいつも人間の情に深く訴えるものがある。高坂正堯氏に言わせると「山本周五郎程人間の醜い面を上手くえぐりだした作家はいない」となるが、確かにそうかもしれない。それだけに余計切なくなるのだ。
舞台は江戸中期、最近功績も大分見直されてきているようだが、当時は悪徳政治家の権化とされた田沼意次が小説の中心に居る。彼は老中でありながら実際は清貧に甘んじ、台頭しつつある商業資本に打ち負かされないよう武士階級を守り、徳川幕府の財政を立て直すために努力をする。しかし反対勢力、即ち権威にしがみつき言う事は格好良いが先見性に欠け台所がますます苦しい武士たち。でも数的には圧倒的に多いのだろう、その為に資本家どもにうまく乗せられてしまった保守勢力(松平定信に代表される)と戦って遂に敗れた人間として描かれている。
「白河の清きに流れに住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と言う狂歌は出てこないが、この狂歌が象徴しているような経済的に逼迫している(一人は逼迫はしていないが、侍のイメージとは程遠い)幕臣2名の友情と女性問題、家族問題が物語を織りなしていく。18世紀半ばには江戸の武士階級がどのように商業資本主義に負け始めていたかを想像するには実に参考になる。
古い権威を守りながら高楊枝をして威張ってみても、所詮人間は自分の本能や欲に沿って生きてしまうもので、一人高い志を果たそうとすることが如何に困難であり、人生は空しい事を言おうとしているのだろう。江戸の華やかな街を舞台にしているストーリーは飽く迄面白く、背景と人物の描写は丁寧で、最近のいい加減な映画や芝居と異なり本物の臨場感にあふれている。難しい事は抜きにして人情味溢れる世話もの芝居を見たような感じだ。
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