2011年5月31日火曜日

新宿今は昔

5人兄弟の三男であるが、直ぐ上の兄が亡くなったのは2007年4月だから、もう5年目になってしまう。本当に月日の経つのは早いものだ。兄の長男のリクエストに応えて兄との事を書こう。

長男と次男は一つ違い。次男の兄貴と三男の私は生年で3歳、学年では4年も離れていた。(私と四男の弟とは4歳違い、5男の弟とは7歳違い)がしかし、兄貴と私は生涯何故か大変仲が良かった。当時はどこの家でも子供が多く、子供の頃は互いに何かにつけ上の子が下の子の面倒を見るのは当たり前ではあった。だが、こちらが小学校から中学に進む頃になっても、高校生の兄貴と一緒に遊ぶ機会が多かった。この年頃での4年差は結構大きいと思うのだが、一緒に山や川に行ったりスキーに連れて行ってもらったりしたものだ。

この頃から兄貴の同期生に交じって遊んでいたので、50歳前後から彼のゴルフ仲間に入れてもらっても、自分では全く不自然さを感じなかった。確か彼は一時水泳部に属した事があったかもしれない。スキーや水泳で随分と下手を指摘された記憶がある。他にこちらが中学時代に指導されたのは写真かな。彼が高校時代写真部に属したのは間違いない。母の実家にあった古いベスト版のカメラを、フィルム1本12枚撮りを24枚撮りにしたり黄色フィルターを装着できるように改造。撮影した写真は全て押し入れの中で現像したり、印画紙に焼き付けて画像が浮き上がってくる感激の瞬間に立ちあわせてもらったりした。二人とも家がそんなに金持ちではない事を十分分かっていたので、互いに「家にも引き伸ばし機があればいいなぁ。」と慰め合って止まっていた。

映画も一緒に行ったものだ。ある年のお正月に行ったキャサリン ヘップバーン主演の「旅情」を今でもはっきり覚えている。私が彼と同じ高校に進学した時、兄貴は既に中央大学に進学して東京に出ていた。それでも夏休みや冬休みに帰省してくると、東京の生活についていろいろ語ってくれたもので、これが又当時としては非常に新鮮な情報で、酒とか着るもの、即ちおしゃれに関心が向くようになったのも兄貴の影響が大きい。私が高校3年生の夏兄貴は長野に帰省、代わりに私が兄貴の東京での寄宿先である学生寮に置かせてもらった事もある。この時は兄貴と同室の学生が帰省せず居残っていたので、この先輩からも主に新宿や銀座の安い飯屋や喫茶店をメインにいろいろな事を教わった。これも全て兄貴の口添えがあればこそだ。

翌年、こちらも目出度く大学に入学することが出来て上京となる。すると、やはり兄貴が全て親父と掛け合ってくれて、新宿で共同生活をする事になる。見つけてくれたのは柏木1丁目に新築のアパートで、新宿西口から歩いて5分のところ。6畳一間にトイレ(半畳の小さな和式で、2階から下に落ちる時間の長いのが特徴)と1畳分の台所が付いた畳の匂いの新しい部屋だった。家賃が月6千円だったと記憶している。これをそれぞれが3千円ずつ負担としていた。半間分の押し入れの上段は二人の洋服ダンス、下段は布団、家具は二月堂机1脚だけ、机の上にはラジオが一つ置かれていた。

今は新宿副都心で、高層ビル街に変身してしまっているので当時の面影を見いだすのは難しいだろう。青梅街道沿いにある淀橋警察のすぐ脇の路地を入ったところで、大家は質屋だった。学校は神奈川の日吉だったのでそんなに便利ではないが、新宿の繁華街には歩いて行けるので遊びには絶好のポジション。青梅街道沿いには商店や市場も沢山あって都会の活気にあふれていた。しかも新宿から荻窪に伸びる地下鉄丸ノ内線の工事が始まった時で、青梅街道が掘り返されて昼も夜も騒然として埃っぽい街ではあった。


両親がどう思ったか知らないが、こちらは親元を離れ兄貴と二人だけの自由な環境で、正にパラダイスに来たような思いだった。新学期に合わせて上京したのが昭和34年の4月10日、今上天皇陛下のご成婚当日で忘れもしない。待ち構えた兄貴に先ず家賃の3千円を渡し、残りの7千円から今夜の割勘分500円(父から貰った1か月分の生活費1万円)を出して握りしめ、早速夜の新宿に繰り出した。ここから先、我が友人と兄の友達が入り混じり、3年に亘る面白い人生模様が始まるのだが、語れば長い話になるので又の機会にしたい。

2011年5月30日月曜日

甥っ子たちよ

28日土曜日に甥っ子の婚礼が東京であった。兄弟が全員長野に住んでいるので、甥や姪の婚礼が東京であるのは珍しい。披露宴は恵比寿ガーデンプレイスのウェスティンホテルで、これも珍しいと思うが、夕飯でのご披露だった。弟の次男だから年齢的にも小生の半分だし、最近は珍しくもないのだろうが、仲人は無し、新郎の挨拶に始まり新郎の挨拶で締めくくられた。確かその前だったように記憶するが、新郎の父である弟が簡単に挨拶をしたのが唯一同年輩の挨拶で、後は全て若い人同志の和気藹藹とした実に爽やかな宴であった。

省みて思えば、我が家の娘二人も自分で見つけてきた人と一緒になっている。従って仲人は居る事は居たが、後付けでお願いしたに過ぎない。これからは、お仲人さんを形式的に立てる事は益々減って行くのだろう。また、我々の時代のように、会社の上司やら親の関係者である偉いさんに出席をお願いして、祝辞を頂いて喜ぶなんて事も見直されてくるだろう。結婚する当事者が大切に考える人間関係を優先するのが極めて自然な事ではないか。何れにせよ本人たちは幸せそうだったし、弟夫婦もほっとしただろう。可愛い孫が増える事を願ってやまない。

披露宴の後、長野から駆け付けた兄弟たちは全員ホテルに泊まる事になっていたので、女衆は別にして、久し振りに兄弟と甥っこ達とホテルのバーで2次会の飲み会をした。甥っ子たちと言っても新郎の兄と、先年亡くなった直ぐ上の兄の名代で出席した兄の長男二人である。後は弟2人の計五人の2次会だった。特に兄の長男は久しぶりだったので話が弾んだ。彼は高校時代にボストンに留学していて、冬休みに遊びに行き、ボストン・ニューヨークを案内してもらって以来だ。彼はこのブログを時々読んでくれているとの事。若い時から政治に関心を持っているらしい。

「しかし政治家になりたいとは全く思わない」と言うのだから不思議な男だ。ブログを読んだせいだろうが、「伯父さんの政治に対する不満はそれなりに分かります。恐らく平均的な市民感情でしょう。」と解説してくれた。彼はどうも自民党のシンパらしい。それも民主に一旦傾いて、政権を取ってからの体たらくに嫌気がさして自民に来たのではなく、自民党が与党時代からのシンパとの事。小生とは違うが、しっかりした意見を持っているらしい。彼のように若いシンパがいる事は、自民党にとっては有難い事だろう。何れにせよこれからこの甥っ子たちが日本を担うのだから、しっかりした考えを持って行動してほしい。

親族が増えるのは目出度いが、そろそろこちらの葬式も近づいてくる。若い皆さん、その時はよろしくお願いしますよ。それから土曜日の2次会で約束した事もはっきり覚えているよ。これからはボチボチと、君たちの親父即ち我が兄弟の事も、ブログに書くから待っていておくれ。

2011年5月27日金曜日

読後感「沈黙の宗教ー儒教」加地伸行 著

寺もお宮も教会も聞いた事が無い、坊さんも説教する人も存在しない「儒教」が宗教だとは知らなかった。考えてみると、今年の春信州松代の文武学校を見学した際、このような説明を受けた事を思い出した。「幕末に開校したこの学校は近代的な思想を取り入れ、当時どの藩校にも必ず設置されていた孔子廟を置かなかった。」従ってお宮についてはかなり最近まで存在していたと言う事になる。

孔子は単なる学者であったばかりでなく、どうも宗教家として位置づけられるべき人で、日本人の宗教心に大いなる影響を及ぼしていた。と考えたのか著者の見解である。成程指摘を受けてみると思い当たる節が無いでもない。孔子の誕生は紀元前6世紀らしいから、釈迦やキリストなんかより遥か前の人である。従って大陸から仏教が伝来する6世紀以前に儒教の教えが我が国に伝来した事は容易に想像できる。

「論語」はまともに読んだことが無いが、日本人であれば論語の言葉を全く知らない人間なんか一人もいないかもしれない。小学校2年生の甥っこが祖母に向かって「お祖母ちゃん、老いては子に従え、ですよ。」と語ったとい言う笑い話を聞いたことがあるくらいだ。

著者が指摘するのは、どんな宗教でも、その説くところは道徳論が8割に死生観が2割としたものらしい。「論語」の何処に死生観が書かれているか知らないが、書いてあるらしい。その特徴は何かと言えば次のようになる。人は死んでも魂は空にあり、地上に住む子孫のもとに時に帰ってくる。その時に帰る場所として元の身体が必要で、これが墓の中にある。即ち招魂再生思想である。生命は永遠に不滅で今の私は遥か昔の先祖からの生命を受け継いでいる固体で、個体が子や孫に代わっても生命そのものは生き続けている。(秋川雅史の歌を思い出すな)

日本人的にはすんなり受けいる事が出来る思想で、仏教思想かと思っていたが、そうではないらしい。インドで誕生した仏教の根本は「輪廻転生」で、人は死ぬと極楽とか地獄と言ったとんでもない遠方に行ってしまい、生まれ変わる時は人が畜生になったりするので、遺体なんかは捨てたり流して始末してしまうものらしい。成程、思い込みは少し違っていたようだ。

先日修験道の話を聞いた時にも感じたが、価値観の新旧を考えれば6世紀以降に入ってきた仏教も、当時は新興宗教だからどしても既成の価値観を無理に打破する事はしないで、上手に取り込んで勢力を拡張しているので、以前から存在する自然な価値観が残ったのも当たり前でもあろう。その事は自然作用だから結構なのだが、著者が心配するのは、儒教教義の中心は「孝」にある、即ちそれは己を大切にすると同時に先祖から子孫に至る「家」を守る、大事にする精神に繋がるのだそうだ。

これが、昨今我が国でも西欧のライフスタイル取りこむばかりに、キリスト教精神の個人主義の吐き違えで、利己主義がまん延しつつある事を憂いている。少し読みにくいし、面白い本でもない。読んだからどうという事もないのでお薦めはしない。



2011年5月26日木曜日

雨に唄えば

今日は亡き父の誕生日だ。明日は日本海大会戦で日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した海軍記念日。この関連をいつも思い出す。もう一つは父がかなり確度の高い(笑)雨男であった事。この連想で明智光秀を思い出す。彼が反乱の覚悟を決めたのがやはり5月26日とされている。「時は今 天が下知る 五月哉」この句で有名な連歌の会が今日だったと思いこんでいたが、調べたら28,29日になっていた。歴史研究家でもないのでどうでもいいのだが、例年5月末梅雨寒のような日が来ると、何となくこんな事を連想してしまう。

昔の武人は風流なものだ、連歌会当日も雨が滴るように降っていたに違いない。信長の部下の中では、文武共に最も秀でたのが光秀だったと思っているので、今でもファンの一人と言っても差支えない。しかしこちらは年をとっても、風流を嗜むには程遠いのが実態で、極めて残念。絵を描いたり、歌を詠んだりする友人が羨ましくて仕方が無い。せめてと思って、このブログに精を出しているが、どう見ても風流にはほど遠そうだ。も一つ最近の趣味として時々山歩きしているが、血統のしからしむところか山で雨に会う事屡である。

父も無趣味で風流とは縁遠かった。小生はよく山で降られるが、「これ又風流なものよ」と思う事にしている。今年は既に2回(花見を含めると3回か)山に行っているが、毎回間一髪、下山してバスに乗るなり、駅舎に駆け込む迄雨にたたられていない。しかしどう考えても来月あたりからは、山で風流を決め込まざるを得なくなりそうだ。覚悟の程を1句読みたいが、何も浮かばない。

2011年5月25日水曜日

好き嫌い

食べ物なんかの好き嫌いも年と共に大いに変化する。子供の頃は兎に角甘いものが好きで、ザラメ砂糖が配給になると母と一緒にカルメ焼きを作るのが大好物だったし、野菜では人参牛蒡と言った根菜類は嫌いだった。魚と言ってもしょっぱいようなものばかりだったが、嫌いで、獣肉が好きで脂身部分を喜んで食べていた。しかし長ずるに及んで嗜好がまるきり変わり、最近は好んで野菜や魚を食べている。野菜なんかは昔のものに比べると味が変わったか、灰汁が抜けて食べやすくなっているのかもしれない。最近は特に旬の春野菜、ジャガイモにキャベツ、玉ねぎ、アスパラ等を方々から頂き、毎食いろんな形で美味しく食べている。

同様に歴史上の人物に対する好き嫌いも大分変化している。子供の頃は近くの大人と言うよりお兄さんやお姉さんかもしれないが、絵本か何かで「この人は偉い人だよ」と教えられると直ぐ好きになってしまった。典型的なのが上杉謙信である。武田信玄が悪い奴で、かなり大きくなるまで故郷の長野が上杉領だと内心誇りに思いこんだりして、川中島の古戦場に寝転んで、僧兵のような白い頭巾をかぶった武将の姿を想像したりしていた。そうこうするうちに、今度はやはり郷里が同じと言う事で、猿飛佐助と真田幸村が好きになったりした。ま、無邪気なものです。

小学校に上がって自分で絵本を読めるようになると、好きな人物にも幅が出てきます。野口英世博士やナポレオン、面白いのは戦前の絵本を読んだせいで、ヒトラーなんて人物も相当尊敬に値する人物だと思っていました。もっと進んで少年向きの本を読み始めた頃、父が小林一茶と湯川秀樹博士の伝記を買ってくれました。湯川先生がノーベル賞を受賞して1,2年後の4年生ぐらいの頃だったような気がします。この時は湯川先生より一茶の方がインパクトがあったように思います。

小学校も高学年になり、ある程度漢字も読めるようになると乱読が始まり、講談本や戦記ものをを大分読み漁りましたので、家康が悪い奴で秀吉贔屓とか、吉良上野介が大悪人で大石内蔵助が日本人の鑑とか、東郷元帥やら乃木大将、山本五十六に清水の次郎長。好きな人物は真に種々雑多一気に増え、その物語に登場する敵役は総て嫌な奴、悪い奴、従って嫌いな人物になってしまいました。このような幼少時の思い込みはかなり後を引きます。

しかし半世紀以上過ぎて、歴史的な知識も少し分かって来た現在、こういった思い込みは相当に是正されなければいけないと考えています。特に先の大戦と敗戦の責任者なんかについて、子供の頃は陸軍が悪くて、海軍は正しかったと思いこんでいました。戦争責任を糾弾するとすれば、真っ先に陸軍と近衛総理、更に引き継いで戦端を開く命令をした陸軍の東条総理、この二人が決定的な責任者とばかり思っていたものです。しかし最近は戦争の責任者については全く分からなくなってしまいました。特に海軍と陸軍の責任を分けて考えるのは、相当無理があるように思い始めています。

昔憧れの対象であった海軍にも国策をミスリードした責任は相当あるようです。広田弘毅の本を読んで外務省は可哀そうだと思った時代もありますが、外務省にしろ内務省にせよ大蔵省でも、今回の福島原発のように検証委員会でも立ちあげてきちんと調査すれば、相当問題点が抽出できたのではと思うこのごろです。歴史上の人物で今でも好きなのは「真田幸村」ぐらいかな。しかし歴史を詳しく学べばもっと違う評価になってしまうかも。

2011年5月24日火曜日

事故進行中を忘れていませんか?

震災から2カ月以上も経つので、さすがに宮城以北の地震や津波の被災地では徐々に復興の兆しが見えてきているようで、そんな報道に接すると何かほっとしたものを覚えるこの頃だ。しかし、福島を中心とする原発災害に関しては、放射能の漏えいが一時に比べれば遥かに少なくなっているとは言え、被害が拡大する一方である。いや被害の実感がと言った方が正しいのかもしれない。放射能なるものが桁数を聞いてもピンとこない程大量に拡散したのは、先先月半ばの大爆発の時らしい事も、やっと理解できるようになってきた。

以前からこのブログにも「俺は余り気にしない」と強がりを書いてきた。がしかし、段々理解が進み、東京と言えど放射能の影響はかなりあると想像できるようになると、怖くなっているのを否定できない。まして子供さんを持つ福島のお母さん連中が、東電・政府・行政に向かって「なんとかしてよ!」と強い調子で声を張り上げるのはいやな程理解できる。一方あまり理解できないのは、最近盛んになってきた事故原因の犯人探しの方である。確かに原発事故は100%人災である事は言うまでもない。政府や東電から出される情報が、too little,too lateであり、諸外国からのアドバイスや情報については未だに公開されていないものが沢山あるのも想像に難くない。

しかし何と言っても「原発事故対策本部長」は総理大臣であり、最終的には彼が全ての責任を取らざるを得ないのは誰もが承知の事ではないか。現総理閣下もかなりユニークな方だから、どんな形で責任をお取りになるかは分からない。自民党の石破政調会長が日曜日のテレビ番組で「菅さんに言いたい事(不手際)はトラック3台分もある」と発言したが、誰もがそう思っているのだろう。では事故収束に関わっているその他大勢の不手際はどうなるのだろう?少し冷静に考えれば、これだけの前代未聞の大事故だから、関わっている人間総てがてんやわんやの大騒ぎで、それぞれ少しずつまともな事が出来ていないようにも思えてくる。

被害者に取っては酷な話だが、誰が総責任者になっていたとしても大差はなかったのかもしれない。ただ、連休前後から報道や政治の世界では、官邸の判断ミスを非難する声が日を追って高くなっている。今更そんな事を言われても誰も救われないし、小生も同感、菅氏がご粗末であるのはもう分かった。しかし皆少し冷静になって、いま本当に「俺が総理を替ってやる」と腹のある人間が居るなら、小沢派でもいいし野党でもいい、「福島原発対策を今後こう進めます」と明かにしてほしいものだ。復興計画なんかその後の話しだろう。

2011年5月23日月曜日

神さま 仏さま

先週土曜日に面白い講演を聞いた。講師は京都の聖護院 宮城泰年門主と言う方である。日本には「○○院」なる寺だか神社かよく分からないところが沢山ある。高尾山の薬王院なんか典型的で、ハイキングに行くたびに疑問を感じていた。今回の講演で少し分かったのは、聖護院も薬王院もお寺さんで、祀っているのは仏様、お勤めにしている方は全員お坊さんと言う事になるらしい。ここから面白いのだが、仏さんを祀っていても、この聖護院さんは仏教のインディーズで、私の知っている何れの宗派にも属していない。強いて言うと少し神主ぽいところもある。あの創価学会でさえ「日蓮宗」の枝と知れているのだから、マイナーな新興宗教かと言えばそうではない。

現在は修験宗総本山を名乗っている。宗祖は忍者の草分けとして知られた役行者で、仏教が日本に伝来した頃の人とされている。聖護院は1090年の開山以来隆盛を極め、江戸末期には全国に2万5千の末寺を擁していたとの事。山岳で修行をおこなう坊さんが修験道行者、即ち山伏で、日本独特の仏教修行のようである。従って山伏が属する寺にはいろんな宗派が混在していて、彼の高尾山は真言宗の枝になっているとの事。聖護院も一時は天台宗に属した事があったようだ。

丁度今日本人の宗教観に関する本を読みかけていた事もあり、神仏混淆については興味を持ていたところだったので、2時間以上の長丁場だったが居眠りもせず熱心に聞き入ってしまった。そもそも我が国は仏教が伝来する以前から山岳宗教のようなものがあり、そこに行者は当然いた訳で、仏教が入ってくると、彼等が先ずその伝導を担ったのかもしれない。勝手な解釈で言えば、神様と仏様どっちが偉いかは知らないが、少なくとも自然界に宿る神様の方が先に居たことになる。

昔は寺の中にも神社があり、神社の中にも仏が祀られて当たり前の世界だった。神様と仏様が同居していた訳だ。それがどうした訳か、明治初年に神仏混淆の廃止に引き続き廃仏毀釈を政府が命令したのだが、理由がイマイチ良く分からない。ここも勝手に想像するに、先ず奈良・平安時代以降の仏教がその普及にあたって、日本古来土着の自然信仰(崇拝)をうまく取り込む努力をして神仏混淆思想が定着した。神道総本山の伊勢神宮だって当初は仏教を取り込む努力もしたはずだ。ところが明治新政府は「和魂洋才」思想のシンボルとして、仏教を舶来ものとして排斥し、神道を盛り上げようと馬鹿な事を考えたのだろう。しかし既に日本では伝来以来1千年以上を経過した仏教が定着して、神道の復興がうまくいかなかったに違いない。

にも拘らず、大正昭和に至るまで国家が明治天皇だの東郷元帥だの乃木将軍だのを神様に仕立ていたのだから、馬鹿な事をしたものだ。ま、そんな事はどうでもいいのだが、修験道は分かりやすい。山川草木これ全て仏性を備えているので、兎に角自然を有難く思う事が第一。勿論本尊は居るには居るのだが、余りランク(?)上位の仏様は祀らないものらしい。大概は菩薩か菩薩の化身の権現様のようだ。なによりも、お勤めする坊さんも修行がきつそうなので、悟りを開くためかと思ったら左に非ず。そんな高尚な事を目指さず、日々現世での菩薩業(毎日悪い事をしない程の意味か)を目指しているのだそうだ。

「山々は神の領域」日本人である小生にはとても分かりやすいが、死後の世界を何処か遠くの天国や地獄に想像する人達には理解しにくい話かもしれない。