2011年5月27日金曜日

読後感「沈黙の宗教ー儒教」加地伸行 著

寺もお宮も教会も聞いた事が無い、坊さんも説教する人も存在しない「儒教」が宗教だとは知らなかった。考えてみると、今年の春信州松代の文武学校を見学した際、このような説明を受けた事を思い出した。「幕末に開校したこの学校は近代的な思想を取り入れ、当時どの藩校にも必ず設置されていた孔子廟を置かなかった。」従ってお宮についてはかなり最近まで存在していたと言う事になる。

孔子は単なる学者であったばかりでなく、どうも宗教家として位置づけられるべき人で、日本人の宗教心に大いなる影響を及ぼしていた。と考えたのか著者の見解である。成程指摘を受けてみると思い当たる節が無いでもない。孔子の誕生は紀元前6世紀らしいから、釈迦やキリストなんかより遥か前の人である。従って大陸から仏教が伝来する6世紀以前に儒教の教えが我が国に伝来した事は容易に想像できる。

「論語」はまともに読んだことが無いが、日本人であれば論語の言葉を全く知らない人間なんか一人もいないかもしれない。小学校2年生の甥っこが祖母に向かって「お祖母ちゃん、老いては子に従え、ですよ。」と語ったとい言う笑い話を聞いたことがあるくらいだ。

著者が指摘するのは、どんな宗教でも、その説くところは道徳論が8割に死生観が2割としたものらしい。「論語」の何処に死生観が書かれているか知らないが、書いてあるらしい。その特徴は何かと言えば次のようになる。人は死んでも魂は空にあり、地上に住む子孫のもとに時に帰ってくる。その時に帰る場所として元の身体が必要で、これが墓の中にある。即ち招魂再生思想である。生命は永遠に不滅で今の私は遥か昔の先祖からの生命を受け継いでいる固体で、個体が子や孫に代わっても生命そのものは生き続けている。(秋川雅史の歌を思い出すな)

日本人的にはすんなり受けいる事が出来る思想で、仏教思想かと思っていたが、そうではないらしい。インドで誕生した仏教の根本は「輪廻転生」で、人は死ぬと極楽とか地獄と言ったとんでもない遠方に行ってしまい、生まれ変わる時は人が畜生になったりするので、遺体なんかは捨てたり流して始末してしまうものらしい。成程、思い込みは少し違っていたようだ。

先日修験道の話を聞いた時にも感じたが、価値観の新旧を考えれば6世紀以降に入ってきた仏教も、当時は新興宗教だからどしても既成の価値観を無理に打破する事はしないで、上手に取り込んで勢力を拡張しているので、以前から存在する自然な価値観が残ったのも当たり前でもあろう。その事は自然作用だから結構なのだが、著者が心配するのは、儒教教義の中心は「孝」にある、即ちそれは己を大切にすると同時に先祖から子孫に至る「家」を守る、大事にする精神に繋がるのだそうだ。

これが、昨今我が国でも西欧のライフスタイル取りこむばかりに、キリスト教精神の個人主義の吐き違えで、利己主義がまん延しつつある事を憂いている。少し読みにくいし、面白い本でもない。読んだからどうという事もないのでお薦めはしない。



1 件のコメント:

昭和2年生まれの航海日誌 さんのコメント...

死生観につきましても先達さんです。
 生家が仏教徒でありましたが、戦中は
 神道に導かれました。
 いま、
 お寺からは坐禅に来い。キリスト教は
 死生観をどう説いているか、関心を示すと
 毎日が勧誘。
 宗教も政界も勢力拡大をはかるだけなのか。
 指針になりました。