昨日のニュースに依ると、市販薬でも深刻な副作用が発生することがあるらしい。化学の進歩で薬が多種多様になり、それぞれ効果が高くなっていることは認めたいが、薬の服用は確かに気を付ける必要がありそうだ。高齢の所為ばかりではないかもしれぬが、ここ何十年と毎日薬を服用している。最初は未だ60歳前だったかと思うが、痛風のアタックで歩行できなくなって医者に行った時からだ。
尿酸値を下げなければいけない、と言われて薬を飲み始めたが、医者によると一生飲み続ける必要があるとのこと。現在尿酸値は平常になっているが、8週間おきに処方してもらって、毎朝1錠ずつ服用している。次に習慣化してしまったのが前立腺肥大を抑える薬、これもかれこれ7年か8年、朝晩1錠ずつの服用となった。昨年から前立腺癌が見つかったので、このための薬(男性ホルモンの抑制だそうだ)がまた朝1錠増えた。これで朝食後3錠に夕食後1錠、併せると1日に4錠もの薬を習慣的に服用していることになる。
処方してくれている医者は3人でそれぞれ別人。そこへもってきて風邪気味だと言えば耳鼻咽喉科で処方してもらったりすると、今年も一度世話になったが、抗生物質とか消炎鎮痛剤とかアレルギー予防とかで一気に3種類くらい処方してもらったことがある。流石に耳鼻咽喉科の医者では、アレルギー予防の薬が排尿障害の可能性があるので、弱い薬にしてあるが、泌尿器科の医師に一応確認してくれとのことだった。
この時は泌尿器科の医師の方で「大丈夫そうです。」とのことだったので、服用して特段支障は生じなかった。どの医師も、数多の薬について成分や特徴を知悉している筈もない。薬名を聞いて辞書みたい本で、副作用をちぃと確認するだけであろう。処方薬局が隣なので、全ての処方箋をここに持ち込み、お薬手帳にも記録してもらってはいる。しかし薬剤師にしても、薬の副作用をどこまで理解できているかは疑わしいものだ。
と言うのはこんな事があった。火曜日の朝起きると、めまいがして気持ち悪くなってしまったのだ。それを婆さんに言って、朝食はいつもよりかなり少なめにし、寒い日でもあったので、日中の歩行もいつもの半分くらいで大人しくしていたら、夕方には何とか普通の状態に戻ることができた。そして夕方帰宅すると、婆さんが怒っている。「脅かさないでよ!これをご覧なさい、ここにちゃんと書いてあるでしょう。」と調剤薬局の薬についての説明書を突き付けられた。
前にこのブログにも書いたが、3週間前に腰痛が厳しくて整形外科に行った。ここでも4種類の薬が処方され、2週間服用したら足腰の痛みは劇的に回復した。そして6日の月曜日に念のためもう一度通院して、先生に報告して「薬を少し減らしてみて頂けますか?」と言うと、先生は「またぶり返すといけないので、一応前回と同様に処方しておきます。そちらで減らすのをトライするのは構いません。」言われてみればそれもそうだと思ったが、取り敢えず月曜日は処方通りに服用した。
婆さんに付き付けられた説明書には、婆さんが丁寧にマーカーで2か所に線を引いている。処方された4種類のうち、筋肉のこわばりを改善するお薬と神経の痛みを抑えるお薬の備考に、「眠気やめまいが起きることがありますので、車の運転や機械の操作は控えてください」はっきり書いてある。軽い脳梗塞でも起こしたかと大騒ぎしたのだが、ひょっとすると薬の副作用もありうる。火曜の夜はその薬を飲まずに寝たら、昨日の朝は何ともなかった。
昨夜も同様である。婆さんに言わせると「副作用が出ない薬なんか効かない薬なんだから、仕方ないでしょう。まぁ、半分ずつぐらい飲んだら。」とのことなので、今日からそうするつもりだ。
2015年4月9日木曜日
2015年4月8日水曜日
戦後70年、戦没者を思う陛下と未来志向の首相
知らなかったが、昨日は終戦間際の昭和20年に戦艦大和が撃沈された日だったとのこと。未だ学齢にも達しなかった子供の頃とて、先の大戦の戦時中について記憶に残っていることはほんの僅かではあるが、長い戦争が負け戦で終わり、戦後苦しい時代が続いた記憶はしっかり持っている。長ずるに及び、明治維新後の日本が鎖国を解いて、諸外国と交わることとなり、国際社会の一員と成長していく過程をおぼろげにではあるが知ることになった。
1868年の大政奉還以来1945年の終戦までの僅か80年足らずの間に、我が国は国内外で随分悲惨な戦争を幾つと無く経験してきた。その1945年から数えると今年は70年、小生が生まれた1940年からは75年になる。天皇の概念について詳しくないが、一昔前の歴史的には神武天皇以来とされるからかなり古いのだろう。しかし天皇が日本の統治者であったり、或いは統治者に担がれて統治の象徴となった時期は相当短いのだろう。大部分の期間は統治者にとってのお印程度で、民百姓とは無縁であったのではなかろうか。
勝手に解釈すれば、奈良時代はいざ知らず、平安以降の日本は統治者が入れ代わり立ち代わりしていて、天皇が統治者に対してある程度の認可を与えるような体裁は取っていたようだが、時の権力者や統治者の方も統治の為に積極的に天皇を担いだ形跡は伺えない。天皇は日本文化のある象徴だったに過ぎないと思う。政治的な天皇の時代が1868年から始まったとすれば、今年は150年目でその中間地点でこの世に生を受けた勘定になる。父が1905年生まれで、この年は日本が日露戦争に勝利した年でもあり、日本でも政治的天皇制が最も盛り上がり、天皇家も頂点を極めた年かもしれぬ。
それから又30数年の時を経て1945年以降日本は戦争から遠ざかり、国民的にと言おうか個人的思いでは極めて平和な国家であり続けることが出来た。天皇家に於かれても、政治的統治の象徴であったことは変わらなかったものの、政治体制がそれまでとは異なり、民主政治の枠組みに変更されたので、国家元首に地位に安んじてこられたものだと思う。国家の象徴と祀り上げられ、政治的に担がれてはいるが、国民が定めた憲法でその地位を保証されているので、安心して国民を信じ、只管国民の幸福を願うことが真の役目と考えておられるに違いない。
新憲法で政治体制が変わったのが1947年、今上陛下は1933年のお生まれであるから14歳の時のことだ。従って、陛下には過去の如何なる戦争についても責任は全く無い。父君の昭和天皇は米英蘭との開戦に当たって詔書を発しておられるので、その激変を身をもって経験されていたことになる。昭和天皇の苦悩は如何ばかりかと拝察せざるを得ない。先の大戦直後に退位を口にされたとも聞くが、尤もなことだ。今上陛下が常日頃国民の幸せを願い、国民を不幸が襲えば如何に心配しておられるかは、災害地を見舞われる映像をしょっちゅう見ている国民はよく分かっている。
更に感心と言っては余りにも失礼、有難く思うのは、陛下が歴史、わけても戦争について深く学んでおられるであろうこと、そして個人的責任は皆無とは言え、戦争が国民に多大の犠牲を強いてきたことに深く思いをされていることである。特に今年は戦後70年の節目にも当たる年だからであろう。新年早々のお言葉から始まり、折に触れ平和を願う気持ちを明らかにされている。そして今日は東京でも霙が振る寒さの中、風邪気味の身体をおして南方に戦没者慰霊の旅に出発された。南洋の海を20時間以上漂流して奇跡的に生還した元陸軍兵士の話を、1970年頃に聞いたことがある。
取引先の立派な会社の社長さんで、経済的に恵まれて海外旅行に不自由はなかった人だ。「グワムとかサイパンの南洋だけは行けない。あの海で泳げば、海底の昔の仲間に呼び込まれてしまうだろう。」彼の地には未だそんなに古くない仏が無数眠っているのだ。先代天皇からの意思を引き継ぐ、その慰霊の気持ちは誠に尊いと思わずにいられない。
そして勝手に忖度させて頂けば「現在は憲法成立の歴史過程も意味も分別しかねるような、不勉強な若い者達が政権を取って国を運営しているようだ。立場上批判できないが、せめて我が思いは機会があれば少しは述べたい。」との思いではないだろうか。政権の者どもの言動についてはもう書かないが、この周辺いる阿諛追従の学者の一人に八木秀次なる人物がいる。多分憲法学者か何かだろう。
この人物が昨年の暮れ以来「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないことだ。」と憂慮めいた発言を公然と繰り返しているらしい。少し前までは反権力が常識で、第4の権力とまで揶揄されたマスコミに、政権に恩を売るこの手の学者が増えていることは驚くばかりでもある。国民の思想表現の自由が制限され掛かっていることは別問題だが、こんな学者が多くのマスコミに登場してくるようでは嫌な世の中になってきたものだ。
1868年の大政奉還以来1945年の終戦までの僅か80年足らずの間に、我が国は国内外で随分悲惨な戦争を幾つと無く経験してきた。その1945年から数えると今年は70年、小生が生まれた1940年からは75年になる。天皇の概念について詳しくないが、一昔前の歴史的には神武天皇以来とされるからかなり古いのだろう。しかし天皇が日本の統治者であったり、或いは統治者に担がれて統治の象徴となった時期は相当短いのだろう。大部分の期間は統治者にとってのお印程度で、民百姓とは無縁であったのではなかろうか。
勝手に解釈すれば、奈良時代はいざ知らず、平安以降の日本は統治者が入れ代わり立ち代わりしていて、天皇が統治者に対してある程度の認可を与えるような体裁は取っていたようだが、時の権力者や統治者の方も統治の為に積極的に天皇を担いだ形跡は伺えない。天皇は日本文化のある象徴だったに過ぎないと思う。政治的な天皇の時代が1868年から始まったとすれば、今年は150年目でその中間地点でこの世に生を受けた勘定になる。父が1905年生まれで、この年は日本が日露戦争に勝利した年でもあり、日本でも政治的天皇制が最も盛り上がり、天皇家も頂点を極めた年かもしれぬ。
それから又30数年の時を経て1945年以降日本は戦争から遠ざかり、国民的にと言おうか個人的思いでは極めて平和な国家であり続けることが出来た。天皇家に於かれても、政治的統治の象徴であったことは変わらなかったものの、政治体制がそれまでとは異なり、民主政治の枠組みに変更されたので、国家元首に地位に安んじてこられたものだと思う。国家の象徴と祀り上げられ、政治的に担がれてはいるが、国民が定めた憲法でその地位を保証されているので、安心して国民を信じ、只管国民の幸福を願うことが真の役目と考えておられるに違いない。
新憲法で政治体制が変わったのが1947年、今上陛下は1933年のお生まれであるから14歳の時のことだ。従って、陛下には過去の如何なる戦争についても責任は全く無い。父君の昭和天皇は米英蘭との開戦に当たって詔書を発しておられるので、その激変を身をもって経験されていたことになる。昭和天皇の苦悩は如何ばかりかと拝察せざるを得ない。先の大戦直後に退位を口にされたとも聞くが、尤もなことだ。今上陛下が常日頃国民の幸せを願い、国民を不幸が襲えば如何に心配しておられるかは、災害地を見舞われる映像をしょっちゅう見ている国民はよく分かっている。
更に感心と言っては余りにも失礼、有難く思うのは、陛下が歴史、わけても戦争について深く学んでおられるであろうこと、そして個人的責任は皆無とは言え、戦争が国民に多大の犠牲を強いてきたことに深く思いをされていることである。特に今年は戦後70年の節目にも当たる年だからであろう。新年早々のお言葉から始まり、折に触れ平和を願う気持ちを明らかにされている。そして今日は東京でも霙が振る寒さの中、風邪気味の身体をおして南方に戦没者慰霊の旅に出発された。南洋の海を20時間以上漂流して奇跡的に生還した元陸軍兵士の話を、1970年頃に聞いたことがある。
取引先の立派な会社の社長さんで、経済的に恵まれて海外旅行に不自由はなかった人だ。「グワムとかサイパンの南洋だけは行けない。あの海で泳げば、海底の昔の仲間に呼び込まれてしまうだろう。」彼の地には未だそんなに古くない仏が無数眠っているのだ。先代天皇からの意思を引き継ぐ、その慰霊の気持ちは誠に尊いと思わずにいられない。
そして勝手に忖度させて頂けば「現在は憲法成立の歴史過程も意味も分別しかねるような、不勉強な若い者達が政権を取って国を運営しているようだ。立場上批判できないが、せめて我が思いは機会があれば少しは述べたい。」との思いではないだろうか。政権の者どもの言動についてはもう書かないが、この周辺いる阿諛追従の学者の一人に八木秀次なる人物がいる。多分憲法学者か何かだろう。
この人物が昨年の暮れ以来「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないことだ。」と憂慮めいた発言を公然と繰り返しているらしい。少し前までは反権力が常識で、第4の権力とまで揶揄されたマスコミに、政権に恩を売るこの手の学者が増えていることは驚くばかりでもある。国民の思想表現の自由が制限され掛かっていることは別問題だが、こんな学者が多くのマスコミに登場してくるようでは嫌な世の中になってきたものだ。
2015年4月7日火曜日
近所の風景がまた変わった
数年前から廃校となっていた近くの小学校が、特別養護老人ホームと保育園の併合施設としていリニューアルされ、その保育園が昨日からオープンとなった。旧小学校のプールのあったところで、道路から少し引っ込んでいるが、細い鉄棒を並べたような塀越しに中がよく見える。道路に面した南側が全面ガラス張りになっているためである。昨日見たのは夕方6時前、今朝は8時前だったが、既に沢山の子供たちが保母さん達と遊んでいるのが見えた。
待機児童が多いことは予てから聞き及んでいる。この辺も住宅街でアパートも多いので、この保育所の完成を待って子供を預け、今週から働きに出るお母さんも多いのだろう。旧校舎の方は3階建ての老人ホームのようだが、未だ入居者が入り始めていないようで、夜は灯りがほとんど見えなかった。校庭は綺麗に整備されて、一昨日の日曜日は町内会主催のお花見イベントがあり、昨日は大勢の子供が遊んでいた。
老人ホームと保育園の運営は宮崎県に本部がある社会福祉法人である。校庭は区が売らずに所有しているのかとも思ったが、そうでもないらしい。社会福祉法人が近所の町内会と協議しながら運営していくようにも見える。何れにせよ、廃校が生まれ変って綺麗になり、地域の人にも貢献するようになればこんな結構なことはない。半世紀前に豊島区に来た時は、なんて不便な田舎だろうと思ったが、気が付くと便利さは夢のような変りようだ。
この施設をネットで調べると、戦前から宮崎県西都市、初めて聞く地名なのでどこにあるかも見当がつかないが、に設立された保育園が戦後児童福祉法施行で認可保育園となって宮崎県内で発展し、一躍東京に進出して平成23年に大田区南馬込に「おおた みんなの家」を開園、この豊島区の施設「せんかわみんなの家」は中に「たまがわみんなの家」があるので既に3施設目のようだ。年寄りと子供を同じ施設内でケアするのは双方にメリットがあることは仄聞している。
恐らくその草分けなのかもしれぬ。地方で育った事業者も需要に比例しどんどん東京に吸い寄せられて発展するのだろう。我が家と事務所の間には、既にかなり大型の特養施設が別に存在していたが、保育園との併合コンセプトはやはり目新しい。こういった施設が増えることは、近隣在住の身としては歓迎すべきでことでもあろうが、個人的には出来るだけお世話になりたくない。地方創生などと言葉だけが空回りするが、老人施設から墓場まで首都圏に吸い寄せられつつある現状をどうすればいいのだろう。
オリンピック招致なんぞやめて、いっそ、不祥事続きの国会を福島県に持っていくとかした方が良かったのでは・・・な~んて思ったりして。
待機児童が多いことは予てから聞き及んでいる。この辺も住宅街でアパートも多いので、この保育所の完成を待って子供を預け、今週から働きに出るお母さんも多いのだろう。旧校舎の方は3階建ての老人ホームのようだが、未だ入居者が入り始めていないようで、夜は灯りがほとんど見えなかった。校庭は綺麗に整備されて、一昨日の日曜日は町内会主催のお花見イベントがあり、昨日は大勢の子供が遊んでいた。
老人ホームと保育園の運営は宮崎県に本部がある社会福祉法人である。校庭は区が売らずに所有しているのかとも思ったが、そうでもないらしい。社会福祉法人が近所の町内会と協議しながら運営していくようにも見える。何れにせよ、廃校が生まれ変って綺麗になり、地域の人にも貢献するようになればこんな結構なことはない。半世紀前に豊島区に来た時は、なんて不便な田舎だろうと思ったが、気が付くと便利さは夢のような変りようだ。
この施設をネットで調べると、戦前から宮崎県西都市、初めて聞く地名なのでどこにあるかも見当がつかないが、に設立された保育園が戦後児童福祉法施行で認可保育園となって宮崎県内で発展し、一躍東京に進出して平成23年に大田区南馬込に「おおた みんなの家」を開園、この豊島区の施設「せんかわみんなの家」は中に「たまがわみんなの家」があるので既に3施設目のようだ。年寄りと子供を同じ施設内でケアするのは双方にメリットがあることは仄聞している。
恐らくその草分けなのかもしれぬ。地方で育った事業者も需要に比例しどんどん東京に吸い寄せられて発展するのだろう。我が家と事務所の間には、既にかなり大型の特養施設が別に存在していたが、保育園との併合コンセプトはやはり目新しい。こういった施設が増えることは、近隣在住の身としては歓迎すべきでことでもあろうが、個人的には出来るだけお世話になりたくない。地方創生などと言葉だけが空回りするが、老人施設から墓場まで首都圏に吸い寄せられつつある現状をどうすればいいのだろう。
オリンピック招致なんぞやめて、いっそ、不祥事続きの国会を福島県に持っていくとかした方が良かったのでは・・・な~んて思ったりして。
2015年4月6日月曜日
信大山沢学長の訓辞
今日は都内のあちこちで入学式が行われているようだ。桜はすっかり姥桜になってしまったが、如何にも春らしい素晴らしいお天気になって、近所に多く存在している小中学校と高校の門前に日の丸が掲げられている。小さい小学生が晴れ着を着せられ嬉しそうな顔をして、親御さんと一緒に歩いている光景は何と微笑ましいことか。我が孫も一人が隣の区立小学校に入学の筈、晴れ着姿は既に拝ませてもらっていたが、昨日まで大荒れの天気だったので心配していた。本当に良かった。
先日の誕生日に、この孫と他家の高校生の孫達からも電話でお祝いを受けた。その返事にそれぞれ「○○くんも新学期からしっかり勉強してね。」みたいことを言ったら、横で聞いていた婆さんに叱られてしまった。「自分で出来もしなかったことを、孫たちに偉そうに喋るものではないでしょう。何の説得力もありゃしない。」言われてみればご尤もなことだ。子供時代に同じようなことを祖父母や両親からあまり聞いた覚えもないし、もし聞いたら愉快な気はしなかったろう。
相手が例え子供であろうと、目下、格下の人間であっても、自分が聞いたたら不愉快になりそうなことを濫りに口にしてはいけないと反省した。ところで、昨日は信州大学山沢清人学長の入学式での訓辞 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」がニュースになっていた。山沢学長は初めて聞くお名前だが、信大付属小中学校卒業の我としては信大には深い愛着がある。ものの喩えではあろうが、スマホやめますか、信大生やめますか?の問いかけもパンチが効いている。早速この全文をネットで確認すると、このキャッチフレーズ以上に素晴らしい内容だ。
この駄文をご覧いただいている皆様にも、下記から是非ご覧頂きたい。
http://www.asahi.com/articles/ASH455FQGH45UEHF004.html?ref=mixi_rel
くどくは書かないが、「自分で考えることを習慣づけましょう。」を力説しているのだ。全くもって最近は政治家の「この道しかありません」や「粛々と」とか馬鹿の一つ覚えで、まるで物事を己の脳みそで考えてみたことが無きが如き発言ばかり聞かされてうんざりしていたので、心から拍手したい気持ちである。信大の生徒諸君より総理や官房長官に聞かせてほしいものだ。
「流石信州人、よくぞ言ってくれた。」多分に誇らしげに思って確認してみると、山沢学長は東京の出身で東北大のOBとのこと。でも訓示の中で松本高等学校以来の伝統にも触れてくれている。ユーチューブで父の母校でもある松高至誠寮の寮歌等を聞きながら、小学4年生の時、旧松高であった信大文理学部校舎近くに住んでいたことを懐かしく思い出した。
先日の誕生日に、この孫と他家の高校生の孫達からも電話でお祝いを受けた。その返事にそれぞれ「○○くんも新学期からしっかり勉強してね。」みたいことを言ったら、横で聞いていた婆さんに叱られてしまった。「自分で出来もしなかったことを、孫たちに偉そうに喋るものではないでしょう。何の説得力もありゃしない。」言われてみればご尤もなことだ。子供時代に同じようなことを祖父母や両親からあまり聞いた覚えもないし、もし聞いたら愉快な気はしなかったろう。
相手が例え子供であろうと、目下、格下の人間であっても、自分が聞いたたら不愉快になりそうなことを濫りに口にしてはいけないと反省した。ところで、昨日は信州大学山沢清人学長の入学式での訓辞 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」がニュースになっていた。山沢学長は初めて聞くお名前だが、信大付属小中学校卒業の我としては信大には深い愛着がある。ものの喩えではあろうが、スマホやめますか、信大生やめますか?の問いかけもパンチが効いている。早速この全文をネットで確認すると、このキャッチフレーズ以上に素晴らしい内容だ。
この駄文をご覧いただいている皆様にも、下記から是非ご覧頂きたい。
http://www.asahi.com/articles/ASH455FQGH45UEHF004.html?ref=mixi_rel
くどくは書かないが、「自分で考えることを習慣づけましょう。」を力説しているのだ。全くもって最近は政治家の「この道しかありません」や「粛々と」とか馬鹿の一つ覚えで、まるで物事を己の脳みそで考えてみたことが無きが如き発言ばかり聞かされてうんざりしていたので、心から拍手したい気持ちである。信大の生徒諸君より総理や官房長官に聞かせてほしいものだ。
「流石信州人、よくぞ言ってくれた。」多分に誇らしげに思って確認してみると、山沢学長は東京の出身で東北大のOBとのこと。でも訓示の中で松本高等学校以来の伝統にも触れてくれている。ユーチューブで父の母校でもある松高至誠寮の寮歌等を聞きながら、小学4年生の時、旧松高であった信大文理学部校舎近くに住んでいたことを懐かしく思い出した。
2015年4月4日土曜日
誕生日
昨日はブログを休んでしまったので、週末お休みの趣旨をまた変更して、少し書いておく。
今日は我が誕生日、記憶では幼き頃から大抵麗らかな春日和と相場が決まって、母の心づくしになる「おはぎ」や「ちらしずし」などを食べたりして、柄にも無く新学年新学期への思いをしたりしたことを思いだす。ところが今日は花散らしの風がうそ寒く、何となくイメージにほど遠い陽気になってしまった。お天気はどうしようもないことだし、今更誕生日だからと言って目出度くもないだろう。
昨日は幼馴染と食事をしながら四方山話になったが、やはり定番の体の調子と健康問題の話題が一番で、関連して続くのが財布の中身の行方。どちらも余り前向きな話にはならない。小生は今日からだし、友人も数日中には後期高齢者になる二人である。友人は優秀ゆえ世の中の仕組みを常に十分ご存じで、後期高齢者になると医療費負担が増えると脅かしてくれた。
ただでさえ前立腺がん治療が始まり、今週月曜日には病院での治療費と処方薬代併せると請求額は7千円弱。結構なお支払い金額でショックを受けているのに、6月半ばから始まる放射線治療は40日連続(土日を除く)して通院しなくてはならない。未だ恐ろしくて費用を確認していないのだが、注射と薬だけの現在より放射線治療の方が高額であろうことは容易に想像できる。あと望みの綱は後期高齢者医療制度による自己負担限度額である。友人の説によると、後期高齢者に甘い顔をしていたのでは、健康保険制度が破たんするのでこれも従来とは変わるとのこと。
不安なのでネットで確認する限りそんなことにはなるまいと思うのだが、お上のすることはどうもインチキ臭くて困る。何れにせよ治療開始前にしっかり確認する必要がありそうだ。しかし満75歳ともなると寿命的には平均地価と思ったら、最近はそうでもないらしい。これもネットで調べると、昨年男子の平均寿命が80.2歳と80歳を超えたらしい。確かに中学にせよ高校にせよ同期生の大半は未だピンピンしている。
これも友人の説だが、大企業の企業戦士はえてして寿命が短く、リタイアして数年で亡くなる人が多いそうだ。言われてみるとそんな気がしないでもない。所謂燃え尽き症候群だろう。幸い、何をしても中途半端な人生で燃え尽きたものが無いので、これから先平均年齢程度までもたせて頂ければ有難いが、さてどうなることやら。先へ先へと欲をかきすぎるのも良くないそうだ。下手に施設に入ったりすると、栄養にせよ空調にせよ環境が抜群に良くなるのでなかなか死ねないそうだ。
友人の身内がつい先日107歳で亡くなったそうだが、周囲の人のご苦労をとくと伺った。死に方を自分で選べないのは承知だが、出来れば余り人様のお世話にならずに逝きたいものでもある。何も準備はしていないので、そろそろ身辺を少し整理する必要はありそうだ。
今日は我が誕生日、記憶では幼き頃から大抵麗らかな春日和と相場が決まって、母の心づくしになる「おはぎ」や「ちらしずし」などを食べたりして、柄にも無く新学年新学期への思いをしたりしたことを思いだす。ところが今日は花散らしの風がうそ寒く、何となくイメージにほど遠い陽気になってしまった。お天気はどうしようもないことだし、今更誕生日だからと言って目出度くもないだろう。
昨日は幼馴染と食事をしながら四方山話になったが、やはり定番の体の調子と健康問題の話題が一番で、関連して続くのが財布の中身の行方。どちらも余り前向きな話にはならない。小生は今日からだし、友人も数日中には後期高齢者になる二人である。友人は優秀ゆえ世の中の仕組みを常に十分ご存じで、後期高齢者になると医療費負担が増えると脅かしてくれた。
ただでさえ前立腺がん治療が始まり、今週月曜日には病院での治療費と処方薬代併せると請求額は7千円弱。結構なお支払い金額でショックを受けているのに、6月半ばから始まる放射線治療は40日連続(土日を除く)して通院しなくてはならない。未だ恐ろしくて費用を確認していないのだが、注射と薬だけの現在より放射線治療の方が高額であろうことは容易に想像できる。あと望みの綱は後期高齢者医療制度による自己負担限度額である。友人の説によると、後期高齢者に甘い顔をしていたのでは、健康保険制度が破たんするのでこれも従来とは変わるとのこと。
不安なのでネットで確認する限りそんなことにはなるまいと思うのだが、お上のすることはどうもインチキ臭くて困る。何れにせよ治療開始前にしっかり確認する必要がありそうだ。しかし満75歳ともなると寿命的には平均地価と思ったら、最近はそうでもないらしい。これもネットで調べると、昨年男子の平均寿命が80.2歳と80歳を超えたらしい。確かに中学にせよ高校にせよ同期生の大半は未だピンピンしている。
これも友人の説だが、大企業の企業戦士はえてして寿命が短く、リタイアして数年で亡くなる人が多いそうだ。言われてみるとそんな気がしないでもない。所謂燃え尽き症候群だろう。幸い、何をしても中途半端な人生で燃え尽きたものが無いので、これから先平均年齢程度までもたせて頂ければ有難いが、さてどうなることやら。先へ先へと欲をかきすぎるのも良くないそうだ。下手に施設に入ったりすると、栄養にせよ空調にせよ環境が抜群に良くなるのでなかなか死ねないそうだ。
友人の身内がつい先日107歳で亡くなったそうだが、周囲の人のご苦労をとくと伺った。死に方を自分で選べないのは承知だが、出来れば余り人様のお世話にならずに逝きたいものでもある。何も準備はしていないので、そろそろ身辺を少し整理する必要はありそうだ。
2015年4月2日木曜日
春なのに寂しさつのる
とかく法律の論議は難しくて何がどうなっているかさっぱり分からないが、現在国会で議論されている後期高齢者医療費の改正と言う奴は、どうも後期高齢者の負担増と支給減で目論まれているようだ。共産党の小池晃議員が盛んに「1500万人に上るお年寄りを見捨てて、そんなことでは景気も益々おかしくなりますよ。」と政府に文句を言っていた。対するに政府側に言わせれば、年寄りの医療費に公金を当てるのは社会の無駄、世代間公平の原則からしても、年寄りなんか早く死んでもらうことが唯一の社会貢献だろう。とのご趣旨のようだが、成程そうかもしれぬ。
月が代わって来週からは正真正銘の後期高齢者。全く社会のお役にたてぬ身となって生き恥を晒し続けるのは心苦しい限りだが、人間そう簡単に死ねるものではない。どうしても、今日1日の無事を感謝しつつ明日もまた今日のようにありたいものだと思ってしまう。過去を振り返ると20歳代の頃に仲良かった友人が大分幽明境を異にしている。今は亡き友より長生きした分、自分が何をしたか、何を見たかと考えると、大したことはない。歌の文句のようだが、俺もあいつもあの頃が一番輝いていた、としか考えられない。
明日は久し振りに未だ生き延びている古い友人と飯を食うが、どうせそんな話に終始することだろう。昔からスキーシーズンの終わり頃、朝日を浴びながら小鳥の鳴声を聴いても寂しさを感じたものだ。やはり少し変わり者なんだろう。
月が代わって来週からは正真正銘の後期高齢者。全く社会のお役にたてぬ身となって生き恥を晒し続けるのは心苦しい限りだが、人間そう簡単に死ねるものではない。どうしても、今日1日の無事を感謝しつつ明日もまた今日のようにありたいものだと思ってしまう。過去を振り返ると20歳代の頃に仲良かった友人が大分幽明境を異にしている。今は亡き友より長生きした分、自分が何をしたか、何を見たかと考えると、大したことはない。歌の文句のようだが、俺もあいつもあの頃が一番輝いていた、としか考えられない。
明日は久し振りに未だ生き延びている古い友人と飯を食うが、どうせそんな話に終始することだろう。昔からスキーシーズンの終わり頃、朝日を浴びながら小鳥の鳴声を聴いても寂しさを感じたものだ。やはり少し変わり者なんだろう。
2015年4月1日水曜日
読後感「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著
全くのノンフィクションで、ある意味歴史研究家の論文と言っていいだろう。著者は1924年生まれの元海軍大尉で、第2次大戦には太平・大西両洋の戦場に従軍して多くの勲章を貰っている生粋の軍人。戦後ジャーナリストとなって、アメリカが先の大戦に参加していった経緯に強い関心を抱いた。同時に開戦のきっかけとなった日本海軍による真珠湾攻撃の際にハワイ防衛の任にあったアメリカ陸海軍の最高責任者が、開戦翌年の1月連邦最高裁判所に大統領令で設置された査問委員会で、あっさりと職務怠慢と断罪されたことにも疑問を抱いた。
この著書が発表されたのは1999年であるが、著者は1976年以降カーター大統領の時代になってからのようではあるが、30年の秘密保持期間を過ぎた政府や軍の開戦前からの公式文書や通信記録、膨大な量にのぼると思われるが、それを丁寧に洗い出して、当時の政府や軍の動きを解明していく。ところが歴史の真実を追求する難しさを指し示す典型であろうが、秘密保持期間が過ぎた文書でさえ、歴史の核心に触れる部分は明らかにならなかったと書かれている。
それでも丹念な調査の努力は報われて、これまで謎とされてきたことが大分明らかになった。即ち、日米開戦のきっかけがどこにあったかについてである。1939年ドイツのポーランド侵攻で勃発した戦争が欧州全土に拡大して英国も危機にさらされ、英国は米国に参戦を求めてきていた。しかし米国国内には強い反戦ムードがあって孤立主義を取るべきとの世論が強かった。そのような空気の中でルーズベルト大統領は、欧州が全体主義国家に蹂躙されているのを黙視していいのかと深く思い悩んでいた。
1940年の9月に入ると日独伊3国同盟が結成されてしまうと大統領の悩みは一層深くなる。その翌月大統領の側近で海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐が1通の覚書を大統領に提出する。彼は長崎生まれで少年時代を日本で過ごし、18歳には帰国して海軍兵学校に入学、卒業して22歳で歳で海軍少尉に任官すると再び日本大使館付武官として日本に赴任、皇族にダンスを教えるなど迄した日本通であった。
この覚書を発見したのがこの著書の第1の味噌である。ここでマッカラムは、日米の於かれた軍事的立場を冷静に分析し、日本を経済的に締め上げて明白な戦争行為に訴えさせ、それをきっかけとして欧州に参戦すべきであると進言する。1940年10月以降の米国外交政策、即ちオランダと結んで、日本の資源供給を絶ち、中国大陸問題で因縁をつける、は正にこの覚書通りと言っても良い。その路線でに導かれるかの如く、日本は1年も経たないうちに戦争に踏み切らざるを得なくなる。
日米の外交交渉が行き詰まり始めた翌年秋口から、米国では外交電文は勿論だが海軍の暗号電文も詳細に解読していることが分かる。当時から仮想敵国日本の通信情報は、それこそ環太平洋に張りめぐらせた受信基地と優秀な通信士官の努力で然るべき地位の人間に届けられていることが証明されている。その情報の中には1941年11月に入って日本海軍が明らかに北太平洋で行動を起こすことを指示し、12月に入るとハワイに危機が迫っていることが明らかになるが、何故かハワイの陸海軍司令長官にだけはその情報が届けられたなかった。結果的にハワイの両長官は降格されてしまう訳だ。
これが第2の味噌で、情報公開が定められている米国でさえ、どんなに探っても分からない形になっている。本書には<ルーズベルト欺瞞の日々>とサブタイトルが振られているが、日米開戦にアメリカの謀略があったかどうかといった類の話ではない。開戦は日本から先に攻撃があるようにすべきこと、そのためのハワイに艦隊を置くことが適当と、政府の本当に一握りのトップが考えていたと類推することは可能であるが、それを証明する文書は永久に見つけることはできないようだ。
読んではっきり分かったことは、当時も現在と同じで、日本は丸裸状態で彼の国の思い描く通りに歩まざるを得ないようにされていたこと。即ち情報がダダ漏れであったにも拘らず、こちらの意図は悟られないであろうと思う幼稚さである。もう1点非常に感ずることは、1国のリーダーが戦争に踏み切る時の覚悟(勝利のための犠牲を含め)である。大統領一人の決断ではなかったろうが、米国のエリートが開戦に踏み切るまで、この書では開戦直前の11月からの極秘電報に接することが出来た官姓名が明らかになっている。
その中にハワイにいた陸海軍のトップの名前が無いことだけは事実だ。
この著書が発表されたのは1999年であるが、著者は1976年以降カーター大統領の時代になってからのようではあるが、30年の秘密保持期間を過ぎた政府や軍の開戦前からの公式文書や通信記録、膨大な量にのぼると思われるが、それを丁寧に洗い出して、当時の政府や軍の動きを解明していく。ところが歴史の真実を追求する難しさを指し示す典型であろうが、秘密保持期間が過ぎた文書でさえ、歴史の核心に触れる部分は明らかにならなかったと書かれている。
それでも丹念な調査の努力は報われて、これまで謎とされてきたことが大分明らかになった。即ち、日米開戦のきっかけがどこにあったかについてである。1939年ドイツのポーランド侵攻で勃発した戦争が欧州全土に拡大して英国も危機にさらされ、英国は米国に参戦を求めてきていた。しかし米国国内には強い反戦ムードがあって孤立主義を取るべきとの世論が強かった。そのような空気の中でルーズベルト大統領は、欧州が全体主義国家に蹂躙されているのを黙視していいのかと深く思い悩んでいた。
1940年の9月に入ると日独伊3国同盟が結成されてしまうと大統領の悩みは一層深くなる。その翌月大統領の側近で海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐が1通の覚書を大統領に提出する。彼は長崎生まれで少年時代を日本で過ごし、18歳には帰国して海軍兵学校に入学、卒業して22歳で歳で海軍少尉に任官すると再び日本大使館付武官として日本に赴任、皇族にダンスを教えるなど迄した日本通であった。
この覚書を発見したのがこの著書の第1の味噌である。ここでマッカラムは、日米の於かれた軍事的立場を冷静に分析し、日本を経済的に締め上げて明白な戦争行為に訴えさせ、それをきっかけとして欧州に参戦すべきであると進言する。1940年10月以降の米国外交政策、即ちオランダと結んで、日本の資源供給を絶ち、中国大陸問題で因縁をつける、は正にこの覚書通りと言っても良い。その路線でに導かれるかの如く、日本は1年も経たないうちに戦争に踏み切らざるを得なくなる。
日米の外交交渉が行き詰まり始めた翌年秋口から、米国では外交電文は勿論だが海軍の暗号電文も詳細に解読していることが分かる。当時から仮想敵国日本の通信情報は、それこそ環太平洋に張りめぐらせた受信基地と優秀な通信士官の努力で然るべき地位の人間に届けられていることが証明されている。その情報の中には1941年11月に入って日本海軍が明らかに北太平洋で行動を起こすことを指示し、12月に入るとハワイに危機が迫っていることが明らかになるが、何故かハワイの陸海軍司令長官にだけはその情報が届けられたなかった。結果的にハワイの両長官は降格されてしまう訳だ。
これが第2の味噌で、情報公開が定められている米国でさえ、どんなに探っても分からない形になっている。本書には<ルーズベルト欺瞞の日々>とサブタイトルが振られているが、日米開戦にアメリカの謀略があったかどうかといった類の話ではない。開戦は日本から先に攻撃があるようにすべきこと、そのためのハワイに艦隊を置くことが適当と、政府の本当に一握りのトップが考えていたと類推することは可能であるが、それを証明する文書は永久に見つけることはできないようだ。
読んではっきり分かったことは、当時も現在と同じで、日本は丸裸状態で彼の国の思い描く通りに歩まざるを得ないようにされていたこと。即ち情報がダダ漏れであったにも拘らず、こちらの意図は悟られないであろうと思う幼稚さである。もう1点非常に感ずることは、1国のリーダーが戦争に踏み切る時の覚悟(勝利のための犠牲を含め)である。大統領一人の決断ではなかったろうが、米国のエリートが開戦に踏み切るまで、この書では開戦直前の11月からの極秘電報に接することが出来た官姓名が明らかになっている。
その中にハワイにいた陸海軍のトップの名前が無いことだけは事実だ。
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