2015年4月1日水曜日

読後感「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著

全くのノンフィクションで、ある意味歴史研究家の論文と言っていいだろう。著者は1924年生まれの元海軍大尉で、第2次大戦には太平・大西両洋の戦場に従軍して多くの勲章を貰っている生粋の軍人。戦後ジャーナリストとなって、アメリカが先の大戦に参加していった経緯に強い関心を抱いた。同時に開戦のきっかけとなった日本海軍による真珠湾攻撃の際にハワイ防衛の任にあったアメリカ陸海軍の最高責任者が、開戦翌年の1月連邦最高裁判所に大統領令で設置された査問委員会で、あっさりと職務怠慢と断罪されたことにも疑問を抱いた。

この著書が発表されたのは1999年であるが、著者は1976年以降カーター大統領の時代になってからのようではあるが、30年の秘密保持期間を過ぎた政府や軍の開戦前からの公式文書や通信記録、膨大な量にのぼると思われるが、それを丁寧に洗い出して、当時の政府や軍の動きを解明していく。ところが歴史の真実を追求する難しさを指し示す典型であろうが、秘密保持期間が過ぎた文書でさえ、歴史の核心に触れる部分は明らかにならなかったと書かれている。

それでも丹念な調査の努力は報われて、これまで謎とされてきたことが大分明らかになった。即ち、日米開戦のきっかけがどこにあったかについてである。1939年ドイツのポーランド侵攻で勃発した戦争が欧州全土に拡大して英国も危機にさらされ、英国は米国に参戦を求めてきていた。しかし米国国内には強い反戦ムードがあって孤立主義を取るべきとの世論が強かった。そのような空気の中でルーズベルト大統領は、欧州が全体主義国家に蹂躙されているのを黙視していいのかと深く思い悩んでいた。

1940年の9月に入ると日独伊3国同盟が結成されてしまうと大統領の悩みは一層深くなる。その翌月大統領の側近で海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐が1通の覚書を大統領に提出する。彼は長崎生まれで少年時代を日本で過ごし、18歳には帰国して海軍兵学校に入学、卒業して22歳で歳で海軍少尉に任官すると再び日本大使館付武官として日本に赴任、皇族にダンスを教えるなど迄した日本通であった。

この覚書を発見したのがこの著書の第1の味噌である。ここでマッカラムは、日米の於かれた軍事的立場を冷静に分析し、日本を経済的に締め上げて明白な戦争行為に訴えさせ、それをきっかけとして欧州に参戦すべきであると進言する。1940年10月以降の米国外交政策、即ちオランダと結んで、日本の資源供給を絶ち、中国大陸問題で因縁をつける、は正にこの覚書通りと言っても良い。その路線でに導かれるかの如く、日本は1年も経たないうちに戦争に踏み切らざるを得なくなる。

日米の外交交渉が行き詰まり始めた翌年秋口から、米国では外交電文は勿論だが海軍の暗号電文も詳細に解読していることが分かる。当時から仮想敵国日本の通信情報は、それこそ環太平洋に張りめぐらせた受信基地と優秀な通信士官の努力で然るべき地位の人間に届けられていることが証明されている。その情報の中には1941年11月に入って日本海軍が明らかに北太平洋で行動を起こすことを指示し、12月に入るとハワイに危機が迫っていることが明らかになるが、何故かハワイの陸海軍司令長官にだけはその情報が届けられたなかった。結果的にハワイの両長官は降格されてしまう訳だ。

これが第2の味噌で、情報公開が定められている米国でさえ、どんなに探っても分からない形になっている。本書には<ルーズベルト欺瞞の日々>とサブタイトルが振られているが、日米開戦にアメリカの謀略があったかどうかといった類の話ではない。開戦は日本から先に攻撃があるようにすべきこと、そのためのハワイに艦隊を置くことが適当と、政府の本当に一握りのトップが考えていたと類推することは可能であるが、それを証明する文書は永久に見つけることはできないようだ。

読んではっきり分かったことは、当時も現在と同じで、日本は丸裸状態で彼の国の思い描く通りに歩まざるを得ないようにされていたこと。即ち情報がダダ漏れであったにも拘らず、こちらの意図は悟られないであろうと思う幼稚さである。もう1点非常に感ずることは、1国のリーダーが戦争に踏み切る時の覚悟(勝利のための犠牲を含め)である。大統領一人の決断ではなかったろうが、米国のエリートが開戦に踏み切るまで、この書では開戦直前の11月からの極秘電報に接することが出来た官姓名が明らかになっている。

その中にハワイにいた陸海軍のトップの名前が無いことだけは事実だ。

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