2017年6月18日日曜日

読後感「田中角栄 政治家の条件」
小室 直樹 著

通常国会が終わって余りにも後味が悪い。何が悪いのか、勿論この政治家を選んでしまった私たち自身の責任が大きいのはよく分かる。それにしても政治家の資質劣化が激しすぎる今日、改めて田名角栄について考えてみるのも意味がありそうだ。現在でも書店に行けば角栄本は多種多様が平積みになっている。殆ど一度は読んだような気がするし、最新出版については興味が無かったので、30年以上前、角栄氏が未だ生存中に執筆された本書を読んでみた。

実は小室直樹氏の著作を1冊も読んだことがなかったので、先月図書館の蔵書では最新(ひょっとすると遺作かな)の「天皇畏るべし」を読んで、氏の眼力と表現力に非常に興味を覚えたからでもある。本書も同様で非常に読み易く、多くの示唆に富んでいる。タイトルが示す通り田中角栄氏について論じている、と言いうより褒め上げているのだが、ちょっと普通の誉め方とは異なる。角栄氏生存中とあれば、刑事被告人となって引退を余儀なくされ、しかも病気に倒れて半分世の中から忘れかけられていた筈だ。

著者の意図に角栄氏を惜しむことはあったろうが、それ以上に訴えてくるのは日本の民主主義のありようだ。どっぷりつかっていると分かりにくいが、現在のように安倍1強体制を見せつけられると、日本の政治や民主主義への疑問が湧いてくるので、かなり興味深く読んだ。書かれた時代は中選挙区時代だから政治家の選ばれ方も現代とは違う。金銭感覚についても現代とはかなり違うと思うのだが、政治家は選挙民によって選ばれることでは変わりない。

著者は選ばれた政治家が何をするか、したかについて語るのである。政治家は法律を作るのが仕事であるのは言うまでもない。その過程において大事なのは政治家と官僚との関係である。アメリカでは議員が自分のスタッフだけで法律をどんどん作るので、法律同士の不整合が生じることになる。この不整合を司法が判断して、どちらを優先するかを決める仕掛けになっている。日本の場合は角栄氏を例外とすれば、法律は政治家によって作られることは先ず無くて、殆どが官僚の手で作られる。

ではその官僚が法律に詳しいかと言えば、そうでないところがまた悩ましい。但し法律を作る前に官僚同士が綿密な打ち合わせをして、不整合を事前調整してしまう。アメリカの場合のような司法に出番はなくなる。即ち官僚が作った法律で3権分立も担保されているので、司法も行政も全て官僚の手に委ねられてしまっているところに日本の特性があるようだ。現在もこの基本的構造に変わりはない様だ。

政権は常に官僚を篭絡すべく考えてはいるようだが、人事権と恫喝めいた言動だけで官僚が動かせると思うのは、大違いであることがよく分かる。角栄を見習えと言いたいが、基礎が全然違うのでまず無理だろう。



2017年6月17日土曜日

官僚の悲哀

安倍政権のみが満足して通常国会の幕が下りた。これでも政権支持率が下がらなかったら、日本人はお人よしを通り越して馬鹿になってしまったと思わざるを得ない。文科省では官僚の反乱に火が付いたようだが、他の官庁でもまともな人材であれば、この政権の横暴をこれ以上許すべきでないと思うだろう。昨日も書いたが、国会議員は院外では不逮捕特権を持ち、閣僚ともなれば護衛が付いてテロからもがっちり守られている。

官僚はそうはいかない。立法府なんて偉そうにしているが政治家なんて法律については疎いので、立法については1から10まで官僚頼みにならざるを得ない。国会での質問に対する答えも全て官僚が用意して、政治家はそれを棒読みするか、今国会の法務大臣のように答弁そのものを代わってやるかだ。最近は国会もテレビ中継が入るのでお馴染みの光景が蘇るだろう。そして挙句の果てに何が起きるか?

政治家に責任が及びそうになると、その責任を官僚に負わせてしまうことになる。先ず思い出すのは内閣府で安倍昭恵夫人付きとなった谷冴子さんだ。森友学園事件の肝心要のところで、罪を全て引っ被らされてしまった。彼女が独断で財務省室長と接触できよう筈がないのは誰もが分かっている。けれど夫人側が指示した覚えがなく、財務省側が問い合わせに丁寧に対応するのはよくあること、と言ってしまえばそれ以上の追及が不可能となる。

最近で言えば内閣府の国家戦略特区担当の藤原審議官なんか相当ヤバいことになるだろう。幸か不幸か政権が国会を手際よく閉じたので、加計学園問題がどこまで尾を引くか分からない。野党が本気で追い詰めれば、総理のご意向が無いにも拘らず藤原氏が勝手にその印籠を振りかざしたとしなければ決着がつかぬだろう。野党が彼をどんなに追求しようと、萩生田副官房長官からの指示がありましたとは言わないだろう。担当大臣もその意味では悪賢く先手を打って「副官房長官ではなく私が指示した。」なんて見え透いたことを言い始めている。

大臣は政治家だから、総理に恩を売れば見返りがあると期待もするだろう。しかし官僚はそうはいかない、谷さんのように一時は思いがけないポストにありつくかもしれぬが、官僚の人事は政治家の思惑とは異なる次元で左右され、それが生涯にわたる。胸の中に苦い思い出を抱え生涯を過ごすことが、果たして本人のためとなるかだ。少なくとも前文科事務次官前川氏のようにすっきりした気分になれないことだけは確かだろう。

2017年6月16日金曜日

安倍内閣も最終盤になってくれ

昨日はハイキングに行ったのでブログは休んでしまった。いつもよりかなり早く(5時頃だったかな)起きると、昨日からの続きで参議院本会議が間もなく開催されるだろうとのこと。夕方帰宅して風呂から上がり、冷えたビールを喉に流し込みながらテレビを観ると、案の定共謀罪法案の国会通過と文科省再調査でこれまで不存在だった文書が見つかったとの報道。当たり前過ぎて面白くもおかしくもない、うんざりするばかりだった。

疲れてもいたので8時前には床に就いて今朝5時までたっぷり寝てしまった。今朝は野際陽子さんの訃報がトップニュース、火曜日には亡くなっていたらしいが、テレビドラマや芸能ニュースには縁遠い小生にも惜しい人、凛とした表情なんて言葉はよく分かる気がする。2番手が家計学園絡みの報道で、文科省で見つかった文書の中に内閣府藤原審議官が手書きで修正を加え「指示は官邸の萩生田副長官からあったようです」と書かれたものが見つかったとされているようだ。

萩生田と言うおっさん、安倍政権発足以前は見たことも聞いたことも無かったが、現在総理の最側近だそうで、総理外遊の際だろうと記者会見であれ総理の背後霊の如く突っ立っているのをよく見かける。どんな能力が買われたかは知る由もないが、菅官房長官同様総理が杖とも柱とも頼っている風情はよく伝わってくる。国会での答弁を何回か聞いたが、人を小馬鹿にしたような答弁ばかりで、優秀さはかけらほども感じられない。内閣にあって警察なんかとの連絡役にはうってつけかもしれぬ。

何れにしても今日で国会は事実上の閉幕となる。いろんなメディアがこの国会についての論評をしているが、結構目立つのが「安倍逃げ切り」「安倍作戦勝ち」の見出しだ。事実を適切に評価するとそうなるのか、政権に胡麻をするつもりかは分からないが、一市民としては気分が悪い。確かに、参議院の幕引きも違法ではないし、国会議員の身分を持つ者は国会内の発言に関して国会の外で罪を問われることは無い。総理も国会議員だから「もし私や妻が関係していたら総理大臣はもちろん議員も辞めますよ。」と言ったことは嘘だったとしても何の罪にも問えないらしい。

従って今日半日、何を言われても黙って耐えればすべて目出度く幕引きができる。もとより都議選への影響何ぞ最初から問題ではないのだ。日を改めて書きたいが、つき合わされた内閣府藤原審議官他の官僚諸氏の行く末が気になるところだ。安倍政権が末永く続けば良いだろうが、そんなことはあり得ない。折角霞が関でかなりの地位まで上り詰めたのに、長い人生がハッピーになりそうもない。本人は自覚してるのだろうが可哀そうなことだ。

昨日のハイキングは下記からご覧ください。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1170371.html

2017年6月14日水曜日

遵法精神

ここ数か月首相の犯罪が問われているにも拘らず、首相をはじめとする政府はそれこそ一丸となって終盤国会を乗り切る構えを見せている。同盟国アメリカでも大統領の犯罪が議会で追及されているようだ。アメリカの政治の仕組みに関して無知なのでよく分からないが、報道のされ方から推し量ると我が国とは大分様相が違うみたいだ。少なくともトランプ氏の場合は、議会から被疑者扱いされていることは十分認識したうえで「好きなように調べてみろ、宣誓証言も受けて立つ。」と開き直っているように思う。

彼は司法長官に腹心を当てているので強気のようだが、法の手続きは無視していない。一方の我が国を見ると、強気は良いが強気の根拠がよく分からない。政府の態度は「全て法に則ってしていることだから、野党の追及なんか問題ならない。」でやり過ごすつもりのようだ。このやり過ごし方がアメリカと違い、法の手続きを無視しているようにも見える。野党の質問に対し、ある時は嘘をついてでもまともに答えない。政府から見れば、野党の質問は下らないかもしれないが、少数とはいえ野党議員も又国民の代表の一員である。

どう考えても質問を無視することはいけないだろう。政府の側に遵法精神が欠けると見られても仕方がない。そこで思うのは、自分を含め日本人全体の法に関する受け止め方の問題である。「法の最終判断をするのは裁判官」は日米の違いなく大部分の市民が理解できている。ところがその最終判断に頼るまでの経緯が日米では大分異なるようだ。アメリカばかりでなく共産圏を含む諸外国において「法」の権威は著しく、日本は全員が「法」を少し軽く見過ぎているみたいだ。

アメリカにも「赤信号皆で渡れば怖くない」ようなことはあるようだが、対人的に利害の衝突が発生した場合の裁判沙汰は、日本とは比較ならないほど多く、故に弁護士の数が非常に多いことはよく知られている。日本の場合は対人関係の円滑さを尊重するので、法に訴えることは出来るだけ避けることが良しとされてしまっている。一般市民のことはさて措くとして、官僚や政治家が「法」を軽く見るのは如何なものかである。

信号無視に立小便「誰も見ていないから大丈夫」で法律違反だらけなので、総理の犯罪について云々するのは烏滸がましい。内部告発した文科省官僚を法に則り処分ありうべしも結構だだろう。しかし、国会で嘘をつくのは何の法にも触れないのだろうか?

2017年6月13日火曜日

次の時代

このブログは参議院で共謀罪法案が審議されている最中に書いている。今日委員会での強行採決があり、政府の予定通り今週中に法案が上がるかは分からない。多分上がることになるのだろうが、国会が多数決原理で運営されている以上それはそれで仕方がないのだろう。問題はむしろその後が問題で、国民が安倍1強をどこまで許すかに掛かってくる。

野党の勢いが増して近い将来に与野党の逆転が起きるなら、トランプ氏のように、その時点で不都合な法案は変更すればいい。考えてみると民主主義とは手続きが面倒なものだ。現時点での「野党腰抜け、不甲斐ない」論に悪乗りたくない。戦後70年近く、現憲法の下で社会構造は大きく変化したものの、激変に伴う大きな社会的混乱を生ずることなく来たとも言える。それが安倍内閣になった途端に様子が一変したような感じだ。

先ず憲法解釈を変える、これに無言の抵抗を示されている天皇陛下の意向を無視して、国体の基本になっている象徴天皇制の将来について真剣な検討をすることなく棚上げ同然にしてしまう。天皇を無視して権力の横暴を極めた平氏や源氏の武士に連なる明治維新前の武将の如きか、それ以上の振る舞いに見えて仕方ない。政権に就いた昔の武将たちも、権力をフルに発揮して下々から見たら無法な行為は多々あったことだろう。

しかし彼等には「天下を治める」責任感があったことだけは間違いない。誰一人自分たちの仲間だけが良ければ民がどうなろうと構わない、なんて思った者は一人もいなかったのではないか。更に歴史に対する責任が感じられる。死んでしまえばそれで終わり、後は野となれ山となれ。と考えていた者も一人もいない筈。秀吉が臨終間際に側近に秀頼のことを「くれぐれも頼む」と言ったのは見苦しいと言う向きもあるが、普通の人間であれば死後の世界を思うのは当然だろう。

安倍内閣は幸いそう長く持たないとは思うが、いつも安倍総理について思うのは「次の世をどのように考えているのか?」である。これを言うと差別発言だといつも攻撃されるが敢えて言いたい。「彼の歴史に対する無責任さは、彼に子供がいないことに大きな原因がある。」

2017年6月12日月曜日

内閣支持率

2月から始まった安倍スキャンダル報道の影響がやっと出始め、今月に入ると流石に内閣支持率も下がり気味のようだ。当たり前のようにも思うが、それでも50%を割り込まない。もっと下がってほしい気持ちもあって内訳を見ると、なんと高支持率を支えているのは20代の若年層とのこと。卒業後の就職や有効求人倍率の高さが原因らしい。他人のことや老後の心配をする年齢ではないので気持ちは分からなくもない。

市民が自分の利益を追求することを責めることは出来ないし、為政者も市民が安心感を持てる社会を形成することに意を用いるのは当然だ。権力者である為政者たるものは間違っても己の利益や享楽を追及してもらっては困る。古来、「政治的権力を握っている者が「利」に走ると、欲望だけが渦巻き、世の中が乱れ、退廃し秩序有る社会が築くことが出来なくなる。」とされている。

若い人には「自分に自信を持て」と言いたいが、その辺のことはいくら言っても、目先の安定が大事で聞く耳は持たないのだろう。がしかし、年寄りからすると、道徳が乱れ何でもありの世の中は考えるだに恐ろしい。今の内閣は世の行く末をどのように思っているのだろうか?まさかこのような世が永遠に続くなんて考えてはいないだろうが、当面は好きなようにさせてもらう。即ち、法治国家のふりをし、法治国家であるかのように国民を洗脳しつつ、人治国家的システムで運営をしていくつもりのようだ。

以下に元検事で現在衆議院議員の若狭勝氏のブログからの引用しておく。
「警視庁本部 中村格刑事部長(当時)の暴挙と法治主義」逮捕状の執行を阻止した説明を納得のいく形でしない限り、私は中村刑事部長(当時)を許せない。・・・中略・・・・
現在、アメリカ大統領が、FBI長官に対する捜査妨害をした疑いで窮地に追い込まれている。捜査ないし刑事司法への不当な圧力は、どの国でも法治主義を危うくするものとして由々しき問題となる。

政治主導も結構だが程々にしてもらわないと困る。

2017年6月11日日曜日

読後感「敗者の戦後」入江 隆則 著

著者については全く知らなかったが、何でも保守派の論客だそうだ。本書の原本も、昭和の終わりころに産経新聞系列から出版されている雑誌「正論」に数回に亘り掲載されたもの。ただ18世紀から20世紀に至る西洋の歴史と19世紀から20世紀に至る東洋の歴史を「戦争」と言う補助線を置いて比較研究したものなので、著者の思想信条は余り関係ないように思う。

最近、特に第2次安倍内閣以来の5年くらいの間に日本も大分きな臭くなっては来ているが、生まれてこの方戦争とは縁遠い時代を生きてきたので平和ボケの感は否めない。しかし洋の東西を問わず先進国の近代史は戦争で得埋め尽くされているようだ。著者は18世紀末に起きたフランス革命以来、ヨーロッパではナポレオン戦争の1次2次が尾を引き、第1次世界大戦に発展し、それがまた尾を引いて第2次世界大戦に陥ったとしている。

尾を引きとは即ち戦後処理のありようで、敗者がどのように扱われ、それが次の世に何をもたらしたかを分析している。端的に言えば、ヨーロッパにおける18世紀の戦争と19世紀における東洋の戦争は似ているところがあり、何れも最初は、戦争は軍人同士の戦で、農民や商人は傍観出来た面があったようだ。日本も明治維新以後1894年(明治27年)には日清戦争がありその約10年後には日露戦争があって、幸いなことにこの戦争には勝つことができた。この戦後処理は日本国内に不満が残ったものの、ナポレオン戦争の処理に似ていたとしている。

ところがその後20世紀に入ると、世界的には第1次世界大戦が始まる。ここでは日本も国際的に恥じること無く振舞うことになるが、兵器の開発が進み戦争の仕方も軍人同士では済まず、一般市民を巻き込む形に変化してくる。国際法も戦後処理も大分様相が変わるが、細かいことを書いても仕方がない。著者が結論付けているのは、戦争に正義の戦争と不正義の戦争はあり得ない。政治の延長と言われるが、戦争は絶対悪である。

感想として最も印象に残ったことは、先に日清日露戦争に<幸い>勝つことができたと書いた。関連するのが「人間は恐怖する動物、言い換えれば恐怖する人間こそ正常な人間」(グリエル・フェレーロ)明治の元老(伊藤博文や山県有朋たち)には恐怖が正常に作用したので概して国策を過たずに済んだ。引き換え近衛文麿以下の新人類は歴史への恐怖が薄い。現代の政治家を思うとき、彼らに歴史への恐怖は如何だろう。