いつも土曜の夜から月曜の朝にかけてくしゃみと鼻水が酷い。風邪を引いたかと思って風邪薬を飲むのが恒例になっている感がある。別に熱が出る訳でもないし、花粉症のアレルギーも無いので不思議で仕方なかった。今日整骨医のお兄さんにその話をしたら「プールの消毒薬塩酸で鼻孔が炎症を起こしている可能性が高いですね。」とのこと。成程言われてみるとその可能性が高そうだ。次回から別の対処を考えよう。
今日は格別のこともなければ、書きたいことが何もない。
2013年4月8日月曜日
2013年4月7日日曜日
読後感「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」有馬哲夫著
昭和20年の敗戦以降の政治を、戦前から右翼活動をしていた児玉誉士夫なる少し特異な人物を通して描いている一風変わった政治史ドキュメンタリーである。主人公の児玉氏はロッキード事件でクローズアップされて、ロッキード社とコンサルタント契約を結んでいたことが明らかにされた。当時は、日本の右翼が何故にアメリカの航空機メーカーと関わったのか、奇異な感じもしたがこの本を読んで納得した。
著者は日本だけでなく、アメリカの公文書を丹念に調べてこの本を書いたようだ。日本では1976年のロッキード事件は既に遥か昔の出来事で、すっかり風化してしまっている。多くの人の印象では、金権体質であった田中角栄総理が、前後の見境なくアメリカの会社から政治資金を受け取ってしまった程度の理解ではなかろうか。本書を読むと、そんな理解が如何に底の浅いものかがよく分かる。
主人公の児玉氏が田中総理と全く無関係ではなかったかもしれない。田中氏のスポンサーであった小佐野氏と児玉氏はかなり古い付き合いもある。しかしそんなことはロッキード社と日本の政治家の絡みからすると全く枝葉末節に過ぎない。本質的な問題はアメリカの政治に日本の政治体制が常にコントロールされているところにある。ロッキード問題も当初はアメリカ国内の政治問題、突き詰めるとニクソンのウォーターゲートにまで遡らなくてはならない。
本書は終戦と同時に始まった米ソ冷戦状態が、アメリカに日本をフロントとして利用せざるを得ない事情が発生し、戦犯として確保していた児玉氏のような特異な存在を利用することがアメリカの国益に合致したことを明解に論じようとしている。児玉氏とロッキードの契約はなにも民間機の導入の際に始まる話ではない。遥か以前、CIAの斡旋で始まっているのだ。小生の認識としても児玉氏はヤクザか右翼の大物ぐらいのことで、政界といろいろな繋がりはあるにせよ、私腹を肥やすのが精々で余り問題視するほどの人物ではないと思っていた。
しかし、本書を通読して完全に見方が変わった。彼はひょっとしたら心から日本の自主独立を目指した本当の国士だったかもしれない。鳩山一郎、中曽根康弘等自主独立を唱えながら変節した政治家が多いようだ。中曽根氏に至っては児玉氏と特に深い関係にあり、自主路線を唱えていたのが首相になった途端日同盟論者に変わっている。その時彼を支えてきた児玉氏は既に司法に絡め取られ身動きが出来なくなっている。その時児玉氏は何を思ったか。
いろいろ考えさせられるものがあった。
著者は日本だけでなく、アメリカの公文書を丹念に調べてこの本を書いたようだ。日本では1976年のロッキード事件は既に遥か昔の出来事で、すっかり風化してしまっている。多くの人の印象では、金権体質であった田中角栄総理が、前後の見境なくアメリカの会社から政治資金を受け取ってしまった程度の理解ではなかろうか。本書を読むと、そんな理解が如何に底の浅いものかがよく分かる。
主人公の児玉氏が田中総理と全く無関係ではなかったかもしれない。田中氏のスポンサーであった小佐野氏と児玉氏はかなり古い付き合いもある。しかしそんなことはロッキード社と日本の政治家の絡みからすると全く枝葉末節に過ぎない。本質的な問題はアメリカの政治に日本の政治体制が常にコントロールされているところにある。ロッキード問題も当初はアメリカ国内の政治問題、突き詰めるとニクソンのウォーターゲートにまで遡らなくてはならない。
本書は終戦と同時に始まった米ソ冷戦状態が、アメリカに日本をフロントとして利用せざるを得ない事情が発生し、戦犯として確保していた児玉氏のような特異な存在を利用することがアメリカの国益に合致したことを明解に論じようとしている。児玉氏とロッキードの契約はなにも民間機の導入の際に始まる話ではない。遥か以前、CIAの斡旋で始まっているのだ。小生の認識としても児玉氏はヤクザか右翼の大物ぐらいのことで、政界といろいろな繋がりはあるにせよ、私腹を肥やすのが精々で余り問題視するほどの人物ではないと思っていた。
しかし、本書を通読して完全に見方が変わった。彼はひょっとしたら心から日本の自主独立を目指した本当の国士だったかもしれない。鳩山一郎、中曽根康弘等自主独立を唱えながら変節した政治家が多いようだ。中曽根氏に至っては児玉氏と特に深い関係にあり、自主路線を唱えていたのが首相になった途端日同盟論者に変わっている。その時彼を支えてきた児玉氏は既に司法に絡め取られ身動きが出来なくなっている。その時児玉氏は何を思ったか。
いろいろ考えさせられるものがあった。
2013年4月6日土曜日
4月の給料袋
浮世離れした生活になると新聞やテレビの報道に接しても、直接関係の無さそうなこと故に切実感が湧かず、消化不良即ち本当の意味を理解していないことが多いように思う。特に昨今話題になる景気が悪いとか、景気が良くなりそう、といった話は全然分からない。50年前に飛び込んだサラリーマン現役時代から、正直なところ好景気を実感したことが無いからかもしれない。
こんな風に書くと、働き盛り世代から「とぼけたことを言うんじゃない!」とお叱りを受けるかも知らぬ。確か給料がアップしなかったことは最初の転職のとき以外に経験したことが無い。昭和30年代後半からの高度成長期の恩恵をもろに受けたのも事実。昭和38年から62年まで在席した会社(広告業)は、今にして思えば毎年売り上げも利益も向上して社員も増え、給料もそれなりにアップしていった。ここを62年に辞職して以降は波乱万丈の意味もあるが、給与所得と縁が無くなって数年経つので、言及しない。
最初に25年勤めた会社は典型的な中小企業、労働組合なんてものは無く、4月の給料袋を開いて初めて、「今年はこれだけ上がったか。」或いは「これしか上がらなかったか。」と腹の中で思うだけだった。第一、毎度聞かされている社長の訓示で「今年は(或いは来年は)幸い景気が良さそうだ。」とは一度も聞いたことが無く「また景気が厳しい中だが諸君には頑張ってもらいたい。」と言ったことしか聞いたことが無い。そして受け止める側の実感としても全く違和感がなかったのも事実だ。
余り関心が無かったとはいえ、当時も世間には春闘があり、その報道を思い出しても、日経連(現在は経団連に合併されている経営者側)が労働側に言うセリフは「今年は厳しい」が決まり文句であったように記憶する。詳しい内容については注意も払っていなかったので曖昧だが、当時の労使交渉はいつも100円玉数枚が争点であり、なんでこれぽっちのことで芝居じみた大騒ぎをするのか不思議に思ったり、組合のあるような大企業の連中に内心同情したりした。そんなに太っ腹とも思えない自分の会社の方がずっと気前が良かったように思えたのだろう。
ところが今年は「春闘は満額回答が相次ぐ」と報道されることが多い。こんな表現に接するのは、何と言っても半世紀の間に見たことも聞いたこともなかったので、正直びっくりした。景気が良くなる兆しが何処かに見えるらしい。冒頭に書いたように、浮世離れのせいだけではなく、春闘と無縁のサラリーマン生活でもあったので実態も理解できないし、実感が伴わないだけのことなら結構な話だ。家の近くに魚屋さんも八百屋さんもあった時代の記憶が脳裏に焼き付いているのだろう。どうしても現代の雇用関係、労使のありようが理解できないので困ってしまう。
生半可な理解だが、最近は百数十万あるといわれる中小零細企業の経営が妙に大変と聞く。大企業だから安心とも言えないのだろうが、我々の時代と何かが違う。
こんな風に書くと、働き盛り世代から「とぼけたことを言うんじゃない!」とお叱りを受けるかも知らぬ。確か給料がアップしなかったことは最初の転職のとき以外に経験したことが無い。昭和30年代後半からの高度成長期の恩恵をもろに受けたのも事実。昭和38年から62年まで在席した会社(広告業)は、今にして思えば毎年売り上げも利益も向上して社員も増え、給料もそれなりにアップしていった。ここを62年に辞職して以降は波乱万丈の意味もあるが、給与所得と縁が無くなって数年経つので、言及しない。
最初に25年勤めた会社は典型的な中小企業、労働組合なんてものは無く、4月の給料袋を開いて初めて、「今年はこれだけ上がったか。」或いは「これしか上がらなかったか。」と腹の中で思うだけだった。第一、毎度聞かされている社長の訓示で「今年は(或いは来年は)幸い景気が良さそうだ。」とは一度も聞いたことが無く「また景気が厳しい中だが諸君には頑張ってもらいたい。」と言ったことしか聞いたことが無い。そして受け止める側の実感としても全く違和感がなかったのも事実だ。
余り関心が無かったとはいえ、当時も世間には春闘があり、その報道を思い出しても、日経連(現在は経団連に合併されている経営者側)が労働側に言うセリフは「今年は厳しい」が決まり文句であったように記憶する。詳しい内容については注意も払っていなかったので曖昧だが、当時の労使交渉はいつも100円玉数枚が争点であり、なんでこれぽっちのことで芝居じみた大騒ぎをするのか不思議に思ったり、組合のあるような大企業の連中に内心同情したりした。そんなに太っ腹とも思えない自分の会社の方がずっと気前が良かったように思えたのだろう。
ところが今年は「春闘は満額回答が相次ぐ」と報道されることが多い。こんな表現に接するのは、何と言っても半世紀の間に見たことも聞いたこともなかったので、正直びっくりした。景気が良くなる兆しが何処かに見えるらしい。冒頭に書いたように、浮世離れのせいだけではなく、春闘と無縁のサラリーマン生活でもあったので実態も理解できないし、実感が伴わないだけのことなら結構な話だ。家の近くに魚屋さんも八百屋さんもあった時代の記憶が脳裏に焼き付いているのだろう。どうしても現代の雇用関係、労使のありようが理解できないので困ってしまう。
生半可な理解だが、最近は百数十万あるといわれる中小零細企業の経営が妙に大変と聞く。大企業だから安心とも言えないのだろうが、我々の時代と何かが違う。
2013年4月5日金曜日
アベノミクス効果
今日は朝から素晴らしくうららかな行楽日和。何処へ出かけようかと考えていたらグッドタイミングで友人から電話。昼飯を上野あたりで一緒しようと意見が一致。早速11時半に上野駅で待ち合わせ、この一帯は友人の地元なので昼飯は一切お任せ、結局鰻にしようとなって、池之端の亀屋一睡亭でうな重をご馳走になった。近年鰻が高いと聞いていることもあり、敬遠しがちだったので料亭での鰻は久しぶりでもあり、実に美味しかった。
昼食の後は腹ごなしがてら上野公園から寛永寺を抜け、根津まで降りて喫茶店で一服してから、不忍の池1周の散策を案内してもらった。桜はもう八重桜しか残っていないのに、ウィークデイの昼にも拘らず人出は結構なもので、シニア-が中心ではあるが、葉桜の下には宴会待機の陣取りが行われているし、すでに昼から始めている若い人もいた。兎に角池袋とは大分趣を異にする花のお江戸の気分を満喫した。その間3時間近くになったが、いつものように政治談義も盛り上がった。
友人はビルの内装業、アベノミクス効果だろうか昨年末から仕事が増えて、新年度に入っても平年に比べるて発注量は減らないとのこと。「しかしこのトレンドが長続きするとは決して思えない、長く持っても1年ではないか、今年稼ぎが良くなったらその分はしっかり溜めなくては。」先々のことについては大いに不安視している。当然と言えば当然だろう。アベノミクス第1弾が昨日の日銀政策決定であり、これが素人の我々にはよく分からないにせよ、これまでの政策を全否定して正反対に舵をきるのだから。
新メンバー3人以外の政策委員の節操の無さと意気地の無さには腹が立つ。友人は競馬をするそうだが、競馬は損して当たり前と思って買うのだそうだ。経済はそうはいかない。日銀の政策転換が副作用を生ずることは誰も否定しない。しかし庶民は政府を信じてまさか悲惨な目に合うとは思ってもいない筈。政策運営の当事者は言うのだから「リスク?そんなことは分かっている。備えは十分だし、その時はそれなりの対応で対処可能。」
このセリフ「地震津波への対処はフェールセーフ方式で対応しているので全く心配ない。」としてきた原子力発電を推進してきた人のセリフと全く同じである。こちらは幸い小金も持っていないので競馬は勿論株に手を出すこともなければ、金を借りて不動産を買いあさるなんてことはあり得ないからどうでもいいが。
ホリエモンでさえ、学者を指すのか政治家を指すのか知らぬが、アベノミクスに浮かれる人を指して「バブルは又発生し、それがバブル崩壊に繋がる。学習能力のない人たちですね。」と言っている。その時に痛い目を見るのがなけなしの小金をつぎ込んだ日本人であり、再び美味しい思いをするのが外国の投資家だとすれば悲しい話だ。昼酒のせいばかりでなく、友人とは意見が一致する。
昼食の後は腹ごなしがてら上野公園から寛永寺を抜け、根津まで降りて喫茶店で一服してから、不忍の池1周の散策を案内してもらった。桜はもう八重桜しか残っていないのに、ウィークデイの昼にも拘らず人出は結構なもので、シニア-が中心ではあるが、葉桜の下には宴会待機の陣取りが行われているし、すでに昼から始めている若い人もいた。兎に角池袋とは大分趣を異にする花のお江戸の気分を満喫した。その間3時間近くになったが、いつものように政治談義も盛り上がった。
友人はビルの内装業、アベノミクス効果だろうか昨年末から仕事が増えて、新年度に入っても平年に比べるて発注量は減らないとのこと。「しかしこのトレンドが長続きするとは決して思えない、長く持っても1年ではないか、今年稼ぎが良くなったらその分はしっかり溜めなくては。」先々のことについては大いに不安視している。当然と言えば当然だろう。アベノミクス第1弾が昨日の日銀政策決定であり、これが素人の我々にはよく分からないにせよ、これまでの政策を全否定して正反対に舵をきるのだから。
新メンバー3人以外の政策委員の節操の無さと意気地の無さには腹が立つ。友人は競馬をするそうだが、競馬は損して当たり前と思って買うのだそうだ。経済はそうはいかない。日銀の政策転換が副作用を生ずることは誰も否定しない。しかし庶民は政府を信じてまさか悲惨な目に合うとは思ってもいない筈。政策運営の当事者は言うのだから「リスク?そんなことは分かっている。備えは十分だし、その時はそれなりの対応で対処可能。」
このセリフ「地震津波への対処はフェールセーフ方式で対応しているので全く心配ない。」としてきた原子力発電を推進してきた人のセリフと全く同じである。こちらは幸い小金も持っていないので競馬は勿論株に手を出すこともなければ、金を借りて不動産を買いあさるなんてことはあり得ないからどうでもいいが。
ホリエモンでさえ、学者を指すのか政治家を指すのか知らぬが、アベノミクスに浮かれる人を指して「バブルは又発生し、それがバブル崩壊に繋がる。学習能力のない人たちですね。」と言っている。その時に痛い目を見るのがなけなしの小金をつぎ込んだ日本人であり、再び美味しい思いをするのが外国の投資家だとすれば悲しい話だ。昼酒のせいばかりでなく、友人とは意見が一致する。
2013年4月4日木曜日
誕生日
昨日は余りに天気が悪かったので散歩をやめた。友人とお茶の水で食事の約束があったので出かけたが、地下鉄の駅が近いので歩行数が伸びない。帰宅して歩数計の履歴をチェックすると6500歩ほどしか行っていなかった。
今日は天気がいいので国会図書館まで出かけ、帰りに皇居のお堀に沿って有楽町まで散歩。桜はもう殆ど散ってしまっていたが、土手覆い尽くす新緑がみずみずしく鮮やかで、生命の息吹を感じさせ、お陰でこちらも元気が湧いてくる思いだ。
毎日が今日のような天気であれば有難いが、残念ながらそうはいかない。元気も天気に左右されるだろうし、他の要因も加わり日毎に変わるのは仕方あるまい。出来るだけ平衡を保って過ごしたい思いが強いが、今日から73歳。残されたエネルギーをそんなに期待出来る筈も無い。栄養補給と適度な運動、更に大切なのが休養か。気を付けているつもりでも身体の劣化は止めようがない。
特に注意を要する弱点は腎臓と前立腺にある。双方とも数年前から掛かりつけの医者から指摘されている。特に前立腺の腫瘍マーカーのPSA値が昨年15になってしまったので、今年はどうしても生体検査が必要なようだ。基準値が4なのでかなり高いのは事実。7年ほど昔の06年だったと思うが、掛かりつけの内科のドクターから泌尿器科の診察を薦めらた時の値が5弱だったのが上昇一本槍である。
確か数値が8に達したのでと記憶するが、09年の4月に一度生体検査を受けているのだが、この時点では悪性腫瘍は確認されなかった。ドクターに言わせると、前立腺球体に対してごく一部の点で生体を採取しているだけなので、たまたま癌を発見できなかったという可能性は大いにあるとのこと。再び検査は嫌だが、この初夏ぐらいには受けなければいけないだろうと覚悟はしている。
一方の腎臓が悪化すると透析とやらでこちらも相当厄介なことになりそうだが、幸か不幸かこちらのマーカークレアチニン値は基準よりちょい高めで15年くらい安定しているようだ。腎臓は血圧にも影響が出るとされているらしいが、血圧はずっと平常で安定を保っているので、減塩食とかにあまり神経質にはなっていない。但し岳父が「塩っ気も無い不味いものを食うくらいなら死んだ方がましだ。」と普段から毒づいていて本当に脳血栓でやられてしまった。
これも考えものなので、食事を管理している婆さんはそれなりに考えていてくれているだろう。身体の劣化は進み、何れは何らかの要因で死に至るのだろうが、出来るだけの注意は払いたいと思っている。
今日は天気がいいので国会図書館まで出かけ、帰りに皇居のお堀に沿って有楽町まで散歩。桜はもう殆ど散ってしまっていたが、土手覆い尽くす新緑がみずみずしく鮮やかで、生命の息吹を感じさせ、お陰でこちらも元気が湧いてくる思いだ。
毎日が今日のような天気であれば有難いが、残念ながらそうはいかない。元気も天気に左右されるだろうし、他の要因も加わり日毎に変わるのは仕方あるまい。出来るだけ平衡を保って過ごしたい思いが強いが、今日から73歳。残されたエネルギーをそんなに期待出来る筈も無い。栄養補給と適度な運動、更に大切なのが休養か。気を付けているつもりでも身体の劣化は止めようがない。
特に注意を要する弱点は腎臓と前立腺にある。双方とも数年前から掛かりつけの医者から指摘されている。特に前立腺の腫瘍マーカーのPSA値が昨年15になってしまったので、今年はどうしても生体検査が必要なようだ。基準値が4なのでかなり高いのは事実。7年ほど昔の06年だったと思うが、掛かりつけの内科のドクターから泌尿器科の診察を薦めらた時の値が5弱だったのが上昇一本槍である。
確か数値が8に達したのでと記憶するが、09年の4月に一度生体検査を受けているのだが、この時点では悪性腫瘍は確認されなかった。ドクターに言わせると、前立腺球体に対してごく一部の点で生体を採取しているだけなので、たまたま癌を発見できなかったという可能性は大いにあるとのこと。再び検査は嫌だが、この初夏ぐらいには受けなければいけないだろうと覚悟はしている。
一方の腎臓が悪化すると透析とやらでこちらも相当厄介なことになりそうだが、幸か不幸かこちらのマーカークレアチニン値は基準よりちょい高めで15年くらい安定しているようだ。腎臓は血圧にも影響が出るとされているらしいが、血圧はずっと平常で安定を保っているので、減塩食とかにあまり神経質にはなっていない。但し岳父が「塩っ気も無い不味いものを食うくらいなら死んだ方がましだ。」と普段から毒づいていて本当に脳血栓でやられてしまった。
これも考えものなので、食事を管理している婆さんはそれなりに考えていてくれているだろう。身体の劣化は進み、何れは何らかの要因で死に至るのだろうが、出来るだけの注意は払いたいと思っている。
2013年4月3日水曜日
さらば愛しの冬よ
夕方になってやっと陽が射してきた。雨降りと真冬みたいな寒さが2日も続いたのだからもういいだろう。出そびれて花見のチャンスを逃した人も多かった筈だ。小生も結局近所の桜だけで、少し足を伸ばして皇居の周辺とか鎌倉とか関西とかに出かけることにはならなかった。年によっては二度も三度も花見を楽しんだこともあるのに、今年は単に加齢による出不精とは言い切れない。天気の巡りあわせが悪すぎた。
明日、明後日はやっと本格的な春らしさになるらしいが時すでに遅しだ。花見は来年以降のお楽しみにする。社会に出る前の数年間、春休みはいつも志賀高原蓮池にある国立公園管理事務所の臨時雇いで管理員の雑用をしたり、この事務所が宿泊客を受け入れていたので、その世話をする下男のような仕事をさせてもらっていた。当時の国立公園監理員は厚生省の国立公園部所属の立派な国家公務員である。
しかし、給料が低かったに違いない。事務所の空き部屋に客を取ることが公然化していた。客の中核は国や地方の公務員だが、そこから山やスキー好きの知人に広がっていた。小生が初めて連れて行ってもらったのが小学5年か6年生の頃、父が県の役人をしていた関係で、父の部下だった人が連れて行ってくれた。1泊米5合持参3食付で250円だったことを記憶している。
志賀高原丸池のスキー場はそれまでに通っていた長野市郊外の大根畑とは異なり、スケールが大きいうえに初めて見るスキーリフトがあった。以降すっかりスキーの虜になり、年を追って通ううちに管理員さん夫妻に見込まれて、休みには手伝う代わりに只で泊めてもらうようになっていった。大学に入る頃にはスキーもそこそこ上達したし、体力もついてきた。またスキーを通して多くの友人が出来ていった。
高校の終りか大学生になった頃だったろうか、客の殆どがいなくなった3月末か4月初めのある日、管理員さんが「明日天気が良かったら竜王越えのツアーに行こう。」と言いだした。今のスキーヤーからすれば何でもないだろうが、昭和30年前半の志賀高原は、丸池から見て北の一番奥が高天原スキー場、ここにリフトが1本やっとできたばかりの頃である。一番若い小生にスキーの醍醐味を味あわせてやろうとの親心だったに違いない。
翌日が期待通りの快晴、番頭として兄貴分にあたる人(5歳年上だったが、長野のリンゴ園経営者で冬中管理事務所に住み込んでいた)、スキー狂の東京の友人数人で、シールをスキーに着けて大変な苦労の挙句焼額山を登り、山頂で管理員の奥さんが握ってくれたおにぎりを頬張ったことは未だに忘れられない。焼額から竜王までの降りと登りは緊張はしたが、竜王から夜間瀬スキー場までは快適そのもの、これぞスキーと思ったのも事実。夜間瀬から長野電鉄で湯田中に出て、湯田中で宴会をして1泊する。翌日蓮池に戻って荷物を纏めて帰宅する。
以降大学卒業まで、このツアーが冬を送り春を迎える定番の行事となった。今でも冬が去りゆくことを感じると、あの日あのスキーツアーが脳裏に甦り甘く切ない気持ちになってしまう。今では愛しの冬なんて言ってはいられないが、そんな時代も確かにあった。今日は正にそんな日と言える。
明日、明後日はやっと本格的な春らしさになるらしいが時すでに遅しだ。花見は来年以降のお楽しみにする。社会に出る前の数年間、春休みはいつも志賀高原蓮池にある国立公園管理事務所の臨時雇いで管理員の雑用をしたり、この事務所が宿泊客を受け入れていたので、その世話をする下男のような仕事をさせてもらっていた。当時の国立公園監理員は厚生省の国立公園部所属の立派な国家公務員である。
しかし、給料が低かったに違いない。事務所の空き部屋に客を取ることが公然化していた。客の中核は国や地方の公務員だが、そこから山やスキー好きの知人に広がっていた。小生が初めて連れて行ってもらったのが小学5年か6年生の頃、父が県の役人をしていた関係で、父の部下だった人が連れて行ってくれた。1泊米5合持参3食付で250円だったことを記憶している。
志賀高原丸池のスキー場はそれまでに通っていた長野市郊外の大根畑とは異なり、スケールが大きいうえに初めて見るスキーリフトがあった。以降すっかりスキーの虜になり、年を追って通ううちに管理員さん夫妻に見込まれて、休みには手伝う代わりに只で泊めてもらうようになっていった。大学に入る頃にはスキーもそこそこ上達したし、体力もついてきた。またスキーを通して多くの友人が出来ていった。
高校の終りか大学生になった頃だったろうか、客の殆どがいなくなった3月末か4月初めのある日、管理員さんが「明日天気が良かったら竜王越えのツアーに行こう。」と言いだした。今のスキーヤーからすれば何でもないだろうが、昭和30年前半の志賀高原は、丸池から見て北の一番奥が高天原スキー場、ここにリフトが1本やっとできたばかりの頃である。一番若い小生にスキーの醍醐味を味あわせてやろうとの親心だったに違いない。
翌日が期待通りの快晴、番頭として兄貴分にあたる人(5歳年上だったが、長野のリンゴ園経営者で冬中管理事務所に住み込んでいた)、スキー狂の東京の友人数人で、シールをスキーに着けて大変な苦労の挙句焼額山を登り、山頂で管理員の奥さんが握ってくれたおにぎりを頬張ったことは未だに忘れられない。焼額から竜王までの降りと登りは緊張はしたが、竜王から夜間瀬スキー場までは快適そのもの、これぞスキーと思ったのも事実。夜間瀬から長野電鉄で湯田中に出て、湯田中で宴会をして1泊する。翌日蓮池に戻って荷物を纏めて帰宅する。
以降大学卒業まで、このツアーが冬を送り春を迎える定番の行事となった。今でも冬が去りゆくことを感じると、あの日あのスキーツアーが脳裏に甦り甘く切ない気持ちになってしまう。今では愛しの冬なんて言ってはいられないが、そんな時代も確かにあった。今日は正にそんな日と言える。
2013年4月2日火曜日
慶応義塾入学式 期待が膨らむ
昨日は招待を受けていた慶應義塾大学入学式(午後の部)に行った。3時開会だが2時半までに来場願いますとあったので2:15には日吉の講堂に着いた。既に大変な人混み、式の冒頭に報告があったが今年の入学生6千数百人、その半分としても3千数百人に同伴父兄がいる。早めに会場に入ったがアリーナの新入生の席は既に八部通り埋め尽くされている。観覧席に父兄と我々招待されたOBが並んでいることになるが、こちらも七、八部通り埋まっていた。
着席して改めて会場を見回すと、5千人以上の収容人数を持つ建屋の大きさを改めて実感するが、如何にも古い。壁に取り付けられている大型スピーカーの表面の布が、焼けて色が落ちところどころ剥がれている。入学当時は何かピカピカに光り輝いていた会場だったような気がしたのだが。実はこの建屋の正式呼称は日吉記念館で、創立100周年事業の目玉で建築されたのだから、ピカピカだったのは当たり前。昨日招待された我々は104期生であったことにやっと気が付いた。101年目の入学である。昨日入学した新入生は155期生になる。
いつの頃から知らぬが、入学式に招待された50年前の卒業生はご祝儀を持参する。友人の学年幹事は一昨年からそのために大変苦労をしていた。結果的には4000人強の所在を確認、うち2000人強から寄付があって5千数百万円の目録を塾長に渡し、学年幹事代表が最後に祝辞を述べさせてもらった。前には塾長と学部長代表で医学部長、塾員代表(同窓会長みたいものか)の祝辞あり、全ての祝辞の後に入学生の挨拶で締めくくられた。最後に全員で塾歌を斉唱して、式はお開き。
後は日吉キャンパスの食堂で104期生の合同パーティー、続いて文学部同期生は帝国ホテル地下の三田倶楽に移動してパーティーの2次会があり、帰宅が遅くなったので日記も休んでしまった。塾長以下の大学側のスピーチは流石教育者、それぞれ新入生にとっては意味のある内容だったと思う。但し、OBの方になると傾聴すれば立派な事を仰っているのだろうが・・・。正直なところどうしても長ったらしい。小生のブログについても度々ご指摘を受けるが、年寄りは一人合点でどうしても長くなってしまう。
引き換え、新入生の答礼が実に良かった。これから究めていくことになる未知の世界と自分の抱負、課せられていると思う使命を語っても世界観が実に的確であった。簡潔にして極めて要を得ている。受験勉強の間か、代表に決まってからの一夜漬けか知らぬが、一夜ではとても纏めきれない内容だったと思う。6千数百人の中で100人少々しか取らない医学部、多分トップの成績だった学生だろう。残り6千数百人は彼ほどしっかりはしていないかもしれない。
それでも若い人への期待は膨らむ。年寄りよりはベターだろう。
着席して改めて会場を見回すと、5千人以上の収容人数を持つ建屋の大きさを改めて実感するが、如何にも古い。壁に取り付けられている大型スピーカーの表面の布が、焼けて色が落ちところどころ剥がれている。入学当時は何かピカピカに光り輝いていた会場だったような気がしたのだが。実はこの建屋の正式呼称は日吉記念館で、創立100周年事業の目玉で建築されたのだから、ピカピカだったのは当たり前。昨日招待された我々は104期生であったことにやっと気が付いた。101年目の入学である。昨日入学した新入生は155期生になる。
いつの頃から知らぬが、入学式に招待された50年前の卒業生はご祝儀を持参する。友人の学年幹事は一昨年からそのために大変苦労をしていた。結果的には4000人強の所在を確認、うち2000人強から寄付があって5千数百万円の目録を塾長に渡し、学年幹事代表が最後に祝辞を述べさせてもらった。前には塾長と学部長代表で医学部長、塾員代表(同窓会長みたいものか)の祝辞あり、全ての祝辞の後に入学生の挨拶で締めくくられた。最後に全員で塾歌を斉唱して、式はお開き。
後は日吉キャンパスの食堂で104期生の合同パーティー、続いて文学部同期生は帝国ホテル地下の三田倶楽に移動してパーティーの2次会があり、帰宅が遅くなったので日記も休んでしまった。塾長以下の大学側のスピーチは流石教育者、それぞれ新入生にとっては意味のある内容だったと思う。但し、OBの方になると傾聴すれば立派な事を仰っているのだろうが・・・。正直なところどうしても長ったらしい。小生のブログについても度々ご指摘を受けるが、年寄りは一人合点でどうしても長くなってしまう。
引き換え、新入生の答礼が実に良かった。これから究めていくことになる未知の世界と自分の抱負、課せられていると思う使命を語っても世界観が実に的確であった。簡潔にして極めて要を得ている。受験勉強の間か、代表に決まってからの一夜漬けか知らぬが、一夜ではとても纏めきれない内容だったと思う。6千数百人の中で100人少々しか取らない医学部、多分トップの成績だった学生だろう。残り6千数百人は彼ほどしっかりはしていないかもしれない。
それでも若い人への期待は膨らむ。年寄りよりはベターだろう。
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