2018年4月22日日曜日

相続すべきこと

兄弟が5人いるが、既に二人は泉下の住人。それは兎も角として、思うに誰一人あらゆる意味で親父を超えることができた者はいないように思う。学歴はもちろん社会的地位やら児孫や資産形成に至るまで何もかもである。両親が健在の頃から母が笑いながらよく言っていたものだ。「遺伝子学的に言えばお父さんは隔世遺伝で出藍の誉れ、あなたたちは残念ながら劣性遺伝が出てしまったようね。」

しかし少し冷静に考えると、親の後を継いで親を超えることは難しいらしい。昔から言うではないか「売り家と唐様で書く三代目」である。それを知ってか知らずか、5人とも早くから、父のように学を修めて官僚になる意思は放棄していた。お陰でと言えるかどうか、一人は教師を経て芸術家になり、一人は宗教家とでも言っておこう。残る3人は社長さんになることができた。と言っても何れも吹けば飛ぶようなケチな話で、とても社会的に成功とはいかぬだろう。(笑)

個人的な話はこの通り自慢にもならないが、親と同じ職業について親を超えることができる人が少ないのは古今東西共通のようだ。些か不敬に当たるが、統治者も同じらしい。最近読んだ本に書いてあったのだが、徳川家が15代に亘り統治者の地位を守ったのは素晴らしいと言えばそうだが、よく調べると、まともな人は8代将軍吉宗くらいで、他は極めて凡庸だったり虚弱だったそうだ。後継者つくりが仕事のような江戸の将軍でさえである。まして市井の庶民においておやだ。

特に長男相続なんて制度は愚の骨頂で、唐様で書くになりかねないとのこと。江戸時代には長子相続が認められるケースもあったようで、長女の婿に継がせてうまくいったというケースが多いとのことだ。現代は相続と言えば資産、銭金が全てのように考える人が多かろうが、世界の常識がそうとは限らない。親の意思は千差万別、権力だったりする場合もあろう。また中国の話になるが、近世に入ると功成り名を遂げた親は、一般的に子供に教育を授けることを優先したらしい。現代日本と同じじゃないか、との声もあろうが、その志では大分異なるように思う。

彼の国の統治者は数千年の歴史の中でいろんな民族があるが、民族を超えて1300年間受け継がれた制度に「科挙」と言う官僚の採用試験制度がある。権力者や金持ちの子供だから裏口で科挙になれたと言うことはなかったようだ。因みに初めて知ったのだが、この科挙の制度の難しさは想像を絶する。3年に一度最終試験があって数人が任用されるようだが、その裾野は数万人を超えていそうだ。基礎は読み書きと歴史、当たり前と言えばそれまでだ。20世紀初頭に廃止されたが、現在の共産党にもその精神が受け継がれているとすれば、我が国の政治家が足元にも及ばないのは理解できる。

2018年4月21日土曜日

小生には難しすぎる「経済」

これまでさんざ悪口を書いてきた北朝鮮の若旦那、国民の苦しみをよそに夜な夜な酒池肉林の宴に酔いしれているデブの大馬鹿者とのイメージがある。その若旦那が昨日「兵器開発でアメリカと張り合ってきたが、一定の効果が出たので今後は路線を変更し、経済発展のために注力する。」と国内的に宣言した。恐怖政治を布いていることは無視しても、国内的に否は無いだろう。但し、これが国際的にどう受け止められるかは分からない。日本は勿論懐疑的に受け止め、やれ欺瞞だとか騙されるなと言っているようだ。

この問題はさておき、少し飛躍して日本の経済問題について最近思うことがある。今ご臨終を迎えている安倍長期政権だけの問題ではないかもしれぬが、日本政府の経済政策を日本人は真面目に考えてこなかったのではないだろうか?1985年のプラザ合意が、戦後国民が営々と積み上げてきた日本の経済に非常なインパクトをもたらしたらしい。当時こちらは45歳の働き盛り。為替が云々と言う言葉に記憶があるが、意味するところは全く理解できないし、理解しようとも思わなかった。4人の家族が食っていくために懸命に働くことしか頭に無かった。

己のことをもって日本全体を推し量ることはできないが、政府の経済政策なんか自分とは無関係、ただ働くことあるのみと考えた人もいたと思うし、現在もおられることだろう。そこで勤め人の「働くこと」の概念である。「会社の目的のために貢献する、結果としてお給金が増える。」だが、類推するに当時はこの概念がある程度通用したが、現在は必ずしもそうはいかないようである。そしてそれが政府の経済政策とかなり密接に関連しているのでは、とぼんやり考え始めている。論理的には説明できないので、ものしりの読者の方からコメントでも頂戴できればありがたい。

何故そんな疑問が、であるが、中国の経済成長が目覚ましいのはよく聞くところである。低成長の我が国との違いは何か?はっきりしているのは人口の相違だ。しかし人口が10倍以上違ったのは昔からのことで、ここ10年やそこらの話ではない。GDP世界2位の日本が中国にとってかわられたのは高々8年前のことだ。以来日本と中国のGDPの差は拡大の一方。国民一人当たりのGDPでは日本は現在世界25位くらい、これがどんな意味かもよく分からない。

もちろん中国の経済政策なんて分かろう筈がない。しかし数日前の宋文洲氏のメルマガに次の記述があった。『そう言えば、中国では銀行も土日営業しています。「日本の銀行は3時まで」と言うと中国人は目が点になります。夫婦が共に働く中国では、行政サービスや金融サービスは仕事時間外に受けるのが当たり前です。』タイトルは<失礼な「働き方改革」法案>である。兎に角因果関係は分からないが、政策と個人の生活は密接しているのかもしれぬ。とすれば、俺より北の若旦那の方が理屈が分かっているのかもしれぬ。

2018年4月19日木曜日

結婚記念日

少し肌寒い日が続いていたが今日から暖かくなるそうだ。実は今日は49回目の結婚記念日、相手がいなくなって初めて当時をしみじみ思いだす。今年と逆で、前日までお花見に最適ないい陽気だったが、当日長野市内は霙から雪になったような日だった。婚礼は昼で、今は無くなってしまったが、市内の料亭(富貴楼)で行われた。先ず座敷に親せきが居並び、その中から伯父さんが進み出て謡曲「高砂」を謡う中、上座に座った我々二人が仲居さんのお酌で三々九度の杯を受けた。正に人前結婚である。

現代は神前だったりキリストの前だったりするのが当たり前で、今では映画の中でしか観られないだろうが、半世紀前まではごく当たり前の光景だったわけだ。引き続いての披露宴も同じ料亭で行われたが、これも現代とはかなり異なり、招待客は殆どが新郎側だけで新婦側は親戚だけとかなりアンバランスだった。もう忘れてしまったが、何でも「見立て」とか「出会い」とか何とかがあり、新婦側両親が当時静岡在住だったこともあったのだろう。当時の結婚は当事者より家と家のイベントの意味が大きく、いわゆる見合い結婚でもあったので当事者は殆ど意見を言えなかったように思う。

従って式の後の披露宴は当時勤務していた会社の親睦会の様相で、出席者約100人くらいだったと思うが、当時まだ市内に結構いた芸者衆が20人くらい呼び込まれての大宴会。出席者全員からのお酌を受けなければならず、几帳面にそれを全部真面目に飲んだので大分酔ってしまったことを覚えている。兎も角そこを無事突破して、その日の夕方には東京から来てくれた学生時代の友人と母の友人の4人で、信越線の普通車に4人向かい合わせに乗って東京に帰ってきた。

その夜は自宅で過ごして翌日から2泊、当時勤務先の真ん前のホテル・ニュージャパンが新婚旅行だった。6日目には出勤して、それから暫くは連日勤務先の同僚やら先輩後輩取り混ぜて仕事帰りに家に招待しての宴会だった。それを嫁は嫌な顔をせずご接待に勤めてくれた。爾来48年近くこちらは我がままのしほうだい、妻は一度もお手伝いを頼むこともなく、正に女手一つで二人の子供まで育て上げてくれたことを思うと本当に感謝の念でいっぱいである。一つ残念なのは婚礼の記念写真がどうしても見つからないことだ。

大手企業に就職した友人に比べれば引っ越しの回数は少ないし、身の回りの品に対する執着はあまり無いが、ものの管理方法で夫婦間に大きな違いがあったようだ。

2018年4月18日水曜日

総理大臣の資格

政治の世界は分からないことと知らないことが多すぎて、考えようではミステリー小説を読む面白さのようなものがある。眼前の事実を取り上げて皮肉でも書けば済むかもしれぬが、こちらの知識が浅いので笑われるのが落ちだ。だから安倍総理が訪米して仲良しの大統領に「ハイ!ドナルド」と言って喜んでいことにケチをつけるのは措きたい。

どうせ分からないなら少し先のことでも書こうかなと思う。昨夜テレビBSフジの「プライムニュース」に飯島勲氏が出演して、「安倍さん以外に現在の日本を託せる政治家はいない」ことを力説強調していた。併せて、5月の連休明けには解散して総選挙をすれば必ず国民の信頼を取り戻し、9月に予定されている総裁選もなくなるから更に長期安定政権に向かう、なる恐ろしいご託宣だ。この飯島氏同じ長野県出身なので言いたくないが、信州人には珍しい得体のしれない人物である。苦労人であるのは事実のようだが、少し節操に欠ける嫌いがあるので好きになれない。

そのことは兎も角、現内閣の命運が尽きて延命措置で息している状態に対し、問題は野党側に政権交代に対する準備が全く無いことが大問題と言うことだけはよく理解できた。番組には民進党・大塚耕平氏と希望の党・玉木雄一郎氏、その応援団として政治学者・山口二郎氏が同席していて、山口氏は飯島氏の早期解散と野党の無気力には賛意を示さざるを得なかった。野党の党首二人もその点については同意せざるを得ないわけで、目下二人で新党立ち上げについて協議中であると言っていた。先の総選挙から未だ1年も経っていない中で巡ってきたチャンスと言えばチャンスだろう。

言語感覚で言えば「舌の根も乾かないうち」であり、また新党となると一般人から相当な反発があるかもしれぬ。そのリスクを冒さなければ自公に他する対立軸ができないのも事実だ。ご苦労なことだと思うが、大いに頑張って野党共闘体制を早急に作り上げて貰いたいものだ。そこで何か餞でも探したい気持ちでこのブログの中を「小泉首相」で検索してみた。(彼が日本を相当悪くした思っているので)10件近いヒットがあったが、その中から次を掲げたい。
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2011年8月24日水曜日
「総理大臣の資格」
<自民党時代の総理の条件>
最近40年、つまり田中角栄以降の総理がどのような経歴の持ち主かというのを表にしてみた。自民党政権ではよく、総理・総裁の条件として、当選10回60歳前後、党三役1回、閣僚3回で、内外務か大蔵(現財務)を1回経験するということがあげられていた。もっというと、3回のうち経済関係閣僚が2回というのもあった。田中角栄、三木赳夫、福田赳夫、大平正芳まではこの条件を一つも外すことなく全部クリアしていた。三角大福中とか言われていたが、すべて条件を整えた大物が派閥の領袖をしていたことになる。
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*高校の後輩代議士のブログからの引用文である。

2018年4月17日火曜日

健康ブーム

両親は長寿(共に90歳以上)だったし、最近は長生きの人が多いのも事実だ。しかし、平均寿命が己の寿命を保証してくれるものでないことは言うまでもない。小学生時代に教わっていた平均寿命は確か60歳にも達していなかったように記憶する。昭和の前半は戦争があったり、保健衛生観念も現在とはかなり異なって幼児死亡率も相当低かった筈だから当たり前だろうが、近年生まれた赤ちゃんは人生100年時代だそうだ。誰がこんな無責任なこと言い募って拡散させているか知らないが、日本人の平均寿命が延びていること事実なんだろう。

平均寿命が少し変わろうと、人体諸機関の寿命、換言するなら運動能力は昔も今も大差あるまい。妻の心臓は71年間動き続けて72年目に入る直前に突然停止してしまった。アスリートであった訳でもないから特に心臓を酷使していたとも思わないが、特に養生していた訳でもない。ごく普通に生活していたある日、生体の中枢部が「もう、やめた」と、自動停止してくれたのだから、考えようではハッピーかもしれぬ。翻って我が身も普通の耐用年数は大分過ぎているので、今後は意識して用心深くしないといけないと思っているところでもある。

とは言っても所詮は78歳、身体諸機関の劣化は否みようがない。統計によれば今年生まれた男子は80歳まで生きても不思議は無いらしいが、小生の場合は精々50歳くらいまで生きればよしとされていた時代の生まれである。これから先はただ生きていれば良いというものでもなく、他人の世話にならずに食事ができる生活をどこまで続けることができるか?この恐怖感が常にあって拭い去ることができない。そのため従来以上に健康について神経質になっている。3食きちんと食べて、適度な運動に規則正しい睡眠だと?

独居になって100日はもったが、こんなことがいつまで続くのかと思うとゾッとする。風邪でも引けば一巻の終わりじゃないか。終わりになればまだしも、終わりにならなきゃもっと悲惨だ。最近飯を食いに行くと「ご飯は白米にしますか、それとも健康米にしますか?」と言って五穀米やら麦飯を出す店がやたらに多い。社会人になりたての頃、精麦業者の団体の仕事をしたので、家で「麦飯にしてくれ」とリクエストしたことを思い出す。「何も好んで不味いご飯にすることはないでしょう。栄養なんかは食事全体を考えれば良いのよ。」

そう返事をした妻がよく言っていた「これからの若者は長生きできないと思うわ。食事が貧相に過ぎるから。」世は健康ブームに見えるが実際がどうなるかはわからない。我が食事が貧相になっていることだけは間違いない。

2018年4月15日日曜日

お薦めネット番組

昨日思いがけぬ人から「ブログを読みましたよ」と声を掛けられた。最近使用しているメールの署名欄にブログのアドレスを入れているせいだろう。同年輩の友人知人には既に宣伝しつくしていたが、乏しいメールの往復で若い読者を得たことは何よりも嬉しい。此のところ他人と会話する機会がめっきり減って少ないので、手段は兎も角として他人と繋がることが喜びになる。従って余り無責任なことを書き散らすのは慎まなければいかんだろう。しかし毎度幼児的な感情から来る文章の脱線に後悔し続ける身には荷が重いが、固く考えずに書かせてもらう。

今日特筆すべきは昨日の米英仏共同でのシリア攻撃だろうが、国連決議無きこの戦争行為をどう評価すべきか?半ボケの老人に分かろう筈がない。皮肉を込めて言えば、政府はしっかりした情報を持っているのかも知れぬが、すかさずトランプ親父に100%同意のサインを送っている。17日に親父と会談がセットされえていることを思うと当然なのかもしれぬ。ロシアとの関係を心配する向きもあるが、今の総理にはそんなことを考える余裕は無いだろう。

もりかけ問題で追い詰められている国会から逃げ出し、フロリダでゴルフをすれば気が晴れるのか?その程度の人材だと言うことだろう。大臣の経験が一度も無く、学歴も社会人としての経験も碌に無く、親父の秘書で口利きだけを覚えた2世議員がどこでどうした訳か官房長官に抜擢され、更に総理大臣になってしまった。彼が一人前の政治家として国際社会で通用する筈が無いと指摘されるのは当然のことだ。とは言っても国内では安倍一強だから、周りの人間は皆言うなりではないか。

と思っていたら、強烈に反論する人間がいた。「周りに寄ってきている人間、特に政治家は全員二流三流の人材ばかり、官僚も意のままに操られているように見えるが、実際は馬鹿にしきっている。陰で本音を聞くとよく分かる。」その毒舌は田中真紀子氏。安倍総理と同期の自民党議員で大臣経験も2回ある。中身をここでバラスのは勿体ない、次の番組(前半の約40分)でお楽しみ頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=i2dW_hYZOWU&t=3862s

彼女の発言を聞いて思ったのは、こんな人材を総理に持ち上げた責任は有権者、言い換えれば己の責任も重い。今からでも遅くないから覚醒して真面目に考えたい。この番組を少しでも拡散することも些かの役に立つだろうと思って取り上げた次第。ぜひ時間を割いて御覧願いたい。

2018年4月14日土曜日

報道人のプライド

今朝テレビを観ていたら、興味深い発言を聞いた。新井紀子さんと言う方で近著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」がベストセラーになっているそうだ。著書を読む気にはならないが、以下の発言は考える価値があると思った。「現代の小学3年生ぐらいの子に火を見たことが無い子が結構いる。」なるほどガスは危ないから家庭内にガス器具を置かない、誰もタバコを吸わなければライターもないかもしれない。我が家は最近仏壇ができたので毎朝火を使うが、これと無縁ならば子供が火を見ない道理ではある。

理科の実験で初めて火を見る子供、切り出しナイフで鉛筆の削り方が分からない子供、けれど小学校低学年でもプログラムを考えることができる子供。世代で言えば僅か3世代、共にこの世に居ながら宇宙人のような人種が増えているらしい。同世代にも婆さんが「宇宙人」と綽名をつけた友人がいたが、彼なんか愛敬ある方だ。火を知らない人種を何と呼んだらいいのだろうか。もちろん善悪の問題ではない、あと何年になるか分からないが、彼等と仲良く共存していくためには、こちらも心すべきことが何かあるのだろう。と考え込んだ次第である。但し、残念ながら特段の知恵は思い浮かばない。

子供たちとは仲良くしていけるだろうが、テレビを観ていて閉口するのがいい歳をした大人、それもテレビに出てくるくらいだから、知識人とされる人種の日本語である。本当に「いい加減にしてくれ」と耳を覆いたくなるのが、最近よく聞く「もりかけ問題について、違法性は何も無いが道義的責任はある。」だ。これを最初にテレビで聞いたのは大分前になるが、伊吹元衆院議長の発言である。その後自民党議員などがテレビに出てくると必ずと言っていいくらいこれと似たようなことを口走る。「だから、最初から何も隠さず正直に言ってしまえばよかったのですよ。」

与党政治家が調子づいて「学校は一点の曇りもない法手続きに従って開校され、真面目な若者たちが学問に真剣に取り組み始めている。」「自衛隊員の皆様は今日でもまじめに災害復旧に汗を流していらっしゃる。文書の隠蔽なんか・・・。」なんて御託を並べて違法性無きことを強調するのは分かるとしても、放送局の人間やコメンテーターと称する者までが似たようなことを言って政権擁護に走るのを見るのはなんとも辛い。こいつ等「道義的責任」を明らかに違法性と比べて軽んじている。

思えば一時「法と事実に基づく法治国家」なる言葉が流行ったこともある。法に触れなきゃ何してもいい、見つからなきゃ何してもいいのか?局によって違いがあるが、この期に及んで未だ政権擁護に走るメディアは何をもって使命と感じているのだろうか?数日前図書館で読んだ1955年1月の文藝春秋に荒垣秀雄氏(朝日新聞論説員、天声人語執筆者として有名)が吉田ワンマン内閣総辞職に際し「言論は空しくなかった」との一文を寄せていた。言論は非力であるが、しかし・・・である。報道に携わる人間は、その矜持が無ければ資格がないのと同じだろう。