2023年6月7日水曜日

読後感「南無阿弥陀仏」柳宗悦著

 たかが342頁の岩波文庫、栞の代わりに書店のレシートが入っていたので日付を確認したら4月22日だった。元々遅読であるが、それにしても読破するのに時間が掛かってしまった。購入した理由もはっきりしないが、タイトルがいかにも宗教ぽくて興味が湧いたのだろう。だが著者に関しては何も知らず衝動的に買ってしまったことは確かだ。買った以上はと、読み終わって改めて味わいが深かったと思っている。

著者を改めて検索すると1889年生まれだから、両親の誕生前で、むしろ祖父母の年代の人だ。著者が2歳の時に亡くなった父は元海軍少将で爵位こそ無かったが、貴族院に在籍していた。その関係で著者は学習院に入学。1910年に高等科を卒業。学習院では優等生として知られており、卒業時には明治天皇から恩賜の銀時計を授与された。同年10月に東京帝国大学文学部に進学するが、動機は神学と宗教への関心とのこと。既に学習院中等科時代時代に武者小路実篤、志賀直哉らと知り合い交流し、同人文芸誌『白樺』の創刊を準備をし、1910年4月、『白樺』を創刊している。現代では考えられないような天才だと思う。

wikiから引用した著者の紹介だけでは読後感にならないので、読後感に移行したい。著者が本書第一の目的と書いている通り、南無阿弥陀仏の意味だ。阿弥陀仏とはお釈迦様と同意語とは知らなかった。南無は帰依するという意味だから、仏即ちお釈迦様に縋ることに他ならない。小生は毎朝観音様も念じているが、これもお釈迦様の化身のようだ。兎に角、仏様を念じさえすれば、仏様の方からこちらを救いに来てくださるそうだから、仏教徒に取ってこんなありがたい話は無いではないか。

南無阿弥陀仏を唱えるのは他力本願を願う浄土宗系の宗派だけかと思っていたが、そうではないらしい。我が家は曹洞宗で自力本願の系統のように思っていたが、これも間違いで、自力も他力も結局は同じ仏に救いを求めているとのこと。著者は東大文学部哲学科の出身、小生は慶応義塾の文学部哲学科出身。違うのは思考の深度、著者は海より深く、こちらは皿の深さの違いかもしれぬ。話が彼方此方するが、同じ浄土宗系でも著者が最も評価するのは、法然や親鸞でなくて最後に時宗を立ち上げた一遍上人。一遍上人は善人も悪人も南無阿弥陀仏の6文字を称えさえすれば他は何も要らぬ。として多くの信者を獲得したが、死ぬ間際に一切の書物を焼き捨て何も残さず旅立ったとのこと。感想を要約できぬほど中身の濃い読書だった。

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