2021年6月10日木曜日

平和の祭典

 小さい頃から運動が好きなのに運動神経がイマイチだった。しかし普通の授業と比べれば体操の時間は好きだった。頭を使うより体を動かすのが好きなのだ。少し理屈ぽく言えば、運動能力の基本は駆けっこにあるらしい。子供の頃から足が遅くて徒競走ではいつも真ん中以下。鬼ごっこで鬼になると、次の鬼を捕まえられないとか苦労したものだ。それでも運動が好きだから鉄棒とか跳び箱は一生懸命練習した記憶がある。

もちろん正式な運動部に所属したこともないが、中学時代に数人の友達と体操班みたいなものを作り、学校から放課後に跳び箱やマットなどを使用する許可を得ていたような気がする。だから運動会の準備にはいそいそと関わり、運動場の石拾いや草むしりを真面目にしたことを思い出す。長じて人並みにゴルフもしたが、オフィシャル・ハンデ(所属クラブから与えられるハンディキャップ)は22が最高。アマチュアゴルファを絵に描いたようなものだ。リタイア後も高校同期のゴルフ会に数年参加していたが、ここからも離脱して久しい。

スポーツ観戦にも特段の思いは無いから、オリンピックへの関心も人並み以下だろう。アスリートの皆さんには申し訳ないが、無理に開催しない方が良いのではと思っている口である。学生時代から運動部や体育会の選手は一般学生からみればヒーロー、即ち英雄として憧れの的になる。昔のオリンピックは世界中から国を代表するヒーローが一堂に会して技を競い合う祭典だった。優勝すればメダルを授与され、帰国後英雄として持て囃されるロマンがあった。

これがいつの頃からか忘れたが、プロ選手の参加が認められ、そのロマンの匂いが消えてしまったように思う。日本でもスポーツを飯の種にするプロスポーツが盛んになった。スポーツを職業とする人を非難する人間はいないだろう。日本でも世界でも様々なリーグが設けられ、毎年或いは数年に1度と言った形で覇権が争われ、多くの人がその行方を固唾を飲んで見守り、応援する人が或いはチームが優勝すれば我が事のように喜ぶ姿を見るのが当たり前になった。

オリンピックもその一つで、特別な意味があるようには思えないが、これは特別だと言う人もいる。何が特別か分からないが、なんたって税金が数兆円単位で注ぎ込まれるのだから、仕掛けが途方もなく大きいことだけは確かだ。お題目は「平和の祭典」なんと空疎な言葉だろう。

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