2021年1月10日日曜日

読後感「円仁(えんにん)唐代中国への旅」

エドウィン・ライシャワー著 田村完誓訳

 副題が『入唐求法巡礼行記』の研究:読み終わるのに1ヶ月以上掛かってしまったが、実に興味深い読み物だった。副題になっている行記は昔から世界3大旅行記(他は西遊記と東方見聞録)の一つで、最も信頼性が高いと評価されている。平安時代の僧侶の円仁(実は本書を読むまで知らなかった)が最後の遣唐使節の一人として唐に渡り、仏教の勉強を志すも、当時の唐の国情の関係もあり、結果的に帰国出来たのは9年3ヶ月後のこと。この間838年6月博多湾志賀島出港から847年9月朝鮮の船で博多に帰港するまでの日記である。

本編は円仁自身が帰国後に整理して全4巻として政府に提出されたもので、原本はいつの頃か散逸し、最も古い写本(東寺本)は日記が書かれてから約四半世紀後の1291年に京都で兼胤という72歳の老僧が震える手で書写したもので、これを寛円という僧が原本と対稿(多分校正と同意だろう)している。もう一つの筆写本は信濃の慧日山津金寺の長海大僧都の写本(現在池田本と称される)。著者ライシャワー氏によれば、この二つの写本の違いはほんの僅かとのこと。

本文が散逸してしまったとは言え、この記録が現在残っていることだけでもある種の感激を覚えずには居られない。原文は日本語であるのは当然だが、残念なことに、現代人でこの7万に及ぶ全語を読み下せる能力ある人はごく一部に限られるだろう。その努力をして出版にまで漕ぎ着けてくれた著者ライシャワー氏には深甚なる感謝をするばかりだ。氏は同世代の方には、日本人の奥様がおられたアメリカ駐日大使として記憶されているはず。

もともと父上がキリスト教の伝道師且つ宗教学者で戦前から日本滞在歴が長く、著者エドウィン・ライシャワー氏も1910年明治学院構内で誕生されたそうだ。途中で戦争があったりしたので一時アメリカに帰国されてはいるが、日本は第二の故郷に違いない。本論に入る前に前置きが長すぎるかも知らぬが、著者にどんなに敬意を表しても足りない。自分自身読書は少ししたつもりでも古典は殆ど読めていない。

読んだことはないが最古の古典と思っていたのが「源氏物語」だが、この巡礼行記に比べれば100年以上若い。千年以上保存されている日記は立派な文芸作品だろう。

内容について少し感想を書きたい。戦後教育のせいで日本史を詳しく習っていないこともあって知らなかったが、日本は外国の文明文化を取り込むことを目的として、倭国と言ったか言われた7世紀初頭から遣隋使・遣唐使を当時世界最大の文明国であった中国に派遣を試みていたことを改めて認識したこと。日本では朝貢外交と卑下して言い習わされているが、呼び方は兎も角、当時の外交関係は極めてオフィシャルなもので円仁当時は首都長安に大使館まであったようだ。

阿倍仲麻呂は帰り船の遭難で帰国が叶わず、異国で寂しく生涯を遂げたとされているが、本当かねと思い始めている。1回数百人規模の使節団には、中国奥地のヒマラヤマまで分け入って消息を絶った親王(王子)まで居たようだ。昔の渡航者と言えば最澄に空海くらいしか思い浮かばぬ人が殆どだろうが、10世紀以前の日本は文明の輸入に必死だったに違いない。

円仁は往路はいきなり東シナ海を横断して揚子江北方に上陸、陸路や運河を利用して様々な仏教本山で修業を重ねて(セミナーに出たり、文献絵画を複写したりだろう)最終的には都に到達している。しかし、途中で皇帝が代わり武宗になると仏教弾圧(孔子を教祖とする道教が古来の宗教だったが、インドから輸入された仏教が秩序を破壊するとの理由)が厳しくなり旅程が進まなくなる。

唐はかなり広いが、それでも地方の支配者は外交的に中央の意に沿わないことを認めることは容易でなかったようだ。それでも彼が無事帰国できたのは偏に朝鮮人(主に新羅人)のお陰によるもの。特に彼等は造船と航海術と言語に長け、円仁も文字は最初からかなり理解できたもの発音はかなり手こずり朝鮮人通訳にかなり助けられている。

唐の政府も朝鮮人を積極的に採用していたようだ。日本も新羅以前に百済や高句麗から相当数を政府に雇入、遣唐使船には通訳として相当数乗船させていたようだ。円仁は最澄空海に次いで天台宗の第3代延暦寺座主となったり、全国各地で目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたとされている。

取り留めなくなってしまったが、9世紀の世界情勢と日本の外交的立ち位置、輸入文化の実態を知る上でも、とても有益だった。

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