2019年7月8日月曜日

飯縄山(いいづなやま)

昼間一瞬晴れたが、1週間天気予報によれば梅雨は今週いっぱい続きそうだ。ここ数日陽射しが無くうすら寒くて元気が湧かない。たまには読書をしたり物思いにふけるの良いことかもしれぬ。昨日はしょぼふる雨の中。ある本を探して神田神保町の本屋街歩いたが結局見つからず、大正時代以前の山関係の本を何冊か立ち読みした後、歩きながら考えた。「俺は何のために山に行くのだろう?」

何のためと言われても大した目的がある訳ではない。強いて言えば気分転換と健康状態確認のためかもしれぬ。気分転換と言っても、それが必要なほど毎日厳しいプレッシャーに曝されている訳でもない。暇な極楽トンボではないか。逆に言えば、暇すぎるので少しは緊張感を感じたいのかもしれぬ。次の健康状態確認はその通りである。高かったり険しかったりする山はもう無理だが、目標とした山の山頂に至らなくても一定程度歩けることを確認できた時は大きな喜びに繋がる。

帰宅してから、これまで歩いた山に関して記録を確認してみた。記録は2004年9月20日「大町ー黒部湖ー室堂ー浄土山ー黒部温泉-欅平」から始まっている。それまで行ったことも無し、知らないことを自慢してたひねくれ者の悪い癖を母に窘められ「1度くらいは北アルプスを観ておいで」と言われたのがきっかけだった。信州人でありながら日本アルプスを観ずして山について知ったような口はきけないよ。室堂までは誰でも行けるのだから、と兄夫婦も口を添えた。

サラリーマン生活も終盤に入り、偏屈な性格も反省期に入っていたのかもしれぬ。64歳にして初めて観た室堂山からの雄大な光景は未だに瞼に焼き付いている。これは確かに我が愛する長野市界隈の里山とは大分趣が違う。人里の気配から隔絶した世界だ。よし、これから少し準備をしてこの辺を歩いてみよう。と決心したような気がする。高校1年の時、僅か3か月で山岳部をやめる時に父が言った言葉が思い出された。「山はいつまで経ってもそこにある。自分のお金で行けるようになってから行けば良い。」

その時からちょうど2年間、トレッキングシューズやリュックサック、ゴアテックスの雨がっぱ等を順次買い整えて近隣の山にボチボチ登り始めた。すぐに疲れもしたが不思議と山歩きが楽しくなってきて、ゴルフをやめたりして約2年後2006年9月初めて上高地に足を踏み入れた。以来これまで春から秋まで殆ど月1回は山に行っている。中でも多いのが先日も行った東京の雲取山8回と長野の飯縄山の7回。飯縄山は小中学生頃から数えれば優に10回は超すだろう。我が心のふるさととも言える山である。

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