慰霊に代えて

先の大戦終結直後、昭和20年夏ごろだと思う。七つ違いの末の弟を取り上げてくれた産婆さんがサイパン島から引き揚げてきて、一時我が住まい(既にに3家族同居していた)身を寄せた。ご主人は玉砕の道連れに、息子さんと二人でアメリカ軍に収容され、運よく故郷長野に辿り着いた人だった。ご職業柄もあるのだろう気丈な方で、玉砕と報道されていた島からの帰還だから家族は奇跡のように受け止めた。当然玉砕の真実は何度となく聞かされたことを子供心に憶えている。

産婆さんと我が家が親戚でないことは確かだと思うが、その後もちょくちょく遊びに来ていた息子さんについて我が家でもかなり心配していたようだ。暫くしてきっと父が口添えしたと思うが、県庁職員になることが決まり、我が家にもホッとした雰囲気があった。その後息子さんも我が家に来るたびに我々子供とも遊んでくれていた。今にして思うと所謂非正規雇用だったのではないか、給料もきっと安かったことだろう。

ところが数年後のある日、明日から遠くに行くことになったので暫く会えないとのこと。残念な思いをしながら理由を聞くと、警察予備隊と言う制度が出来たのでそこに入隊して、滋賀県に行くことになったとのこと。警察予備隊が軍隊もどきであることは、既に中学生ぐらいになっていた小生にも理解できた筈。しかし組織が県庁と同じ潰れる心配が無くて、生涯安心できるのでと我が家でも喜んでいた。それから数年は年に1回ぐらいは休暇の度に訪問してくれて、階級が少しずつ上がっていくことを嬉しそうに話してくれた記憶がある。

小生も未だ軍国少年気分から抜けきっていなかったのだろう、規則正しい生活に、衣食住の無償支給、アメリカから輸入された小銃の性能の良さなんか熱心に聴いたものだ。そして高校3年生になると祖母が、お前も最近創設された防衛大学に入れれば良いのに、なんて言うものだから、その気になって調べてみたが、防大の入試は他と違って9月か10月兎に角秋、我が学力ではとてもじゃないが無理なことがすぐ分かった。あれから半世紀以上、産婆さんはとうにお亡くなりになったろうし、お兄さんの消息も全く無い。

下らぬことを長々書いた。縁は薄いが今日は「沖縄慰霊の日」、最近トンと聞かない同じ玉砕。しかも市民の犠牲者は母数が異なるのでサイパンの比ではない。産婆さんの息子さんもそうだが、どんな悲劇を中を潜っても、再び軍関係の仕事に就く市民を非難することは出来ない。沖縄ではアメリカ軍のために働く人も沢山いるだろう。戦争を起こすのはこの人たちではなく、政治家や戦争で一儲けを企む商売人であること銘記する必要がある。

戦禍を潜った訳ではないが、きな臭い世の中なのでせめての心算だ。

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