2019年1月30日水曜日

人質司法

マスコミに登場する特捜検事出身者は多く、中には政治家になった人物もいる。この中で発言に共感を覚える数少ない人物が弁護士の郷原信郎氏だ。彼が最近発言したことにまた新たな興味を覚えた。一昨日ライブドアのネットに公開されたものだ。タイトルは『世耕大臣のダボス会議での「人質司法」擁護“失言”を、朝日はなぜ削除したのか』そもそもダボス会議なんてものは誰が呼びかけ、誰が発言資格を得るのかも定かではない。今年はトランプ大統領が欠席したことや、安倍総理がピント外れの発言をしたらしいが、殆どニュースにならなかったことぐらいしか記憶に無い。

郷原弁護士の記事は相当長文で、朝日新聞が世耕大臣の発言をいったん批判的に取り上げたのに、後にその部分を削除したことについて批判している。要するに政権への配慮があったのでは、との投げかけである。今日はそのことを問題とするのではなく、外国で盛んに言われ始めた我が国の「人質司法」について触れてみたい。江戸時代ならいざ知らず現代においても我が国の司法制度では、一旦警察や検察に逮捕されると例外なく即罪人扱いとなるのが当たり前となっている。

最近でこそマスコミ報道では「容疑者」と表現されるようになってはきたが、容疑者=犯罪者が常識化している。しかし他の近代国家では容疑者は推定無罪の概念が優先されるのが常識で、ここに大きなギャップがあるようだが、どうもそのことが理解されにくいようだ。これは必ずしも文明先進国だけのことでなく、前近代的と思われるロシア、中国、北朝鮮、ボリビア等の報道を観ていても、その建前を重んじる姿勢を示そうと努力しているように見える。

恐らくこれらの国においては、政権に不都合な人物は秘密警察が、秘密裏に身柄を拘束して社会から隔離し、拷問などに及んでいるに違いない。従って公然と逮捕した場合は法に則って起訴し、裁判で罪を確定させるよう振舞っている。日本の面白いところは公然と逮捕した場合でも、推定無罪の原則を適用せず、公開の裁判が行われる前から犯人とみなしていることだ。この認識のギャップを意識しなかったかどうか、現職の閣僚が世界中の有識者やメディアを前にして胸を張って次のように喋ったらしい。

『各国の司法制度は歴史上の成り立ちがそれぞれ違う。その一部を切り取ってその国の司法制度が正しいか間違っているかという議論はフェアではないと思う。』確かに仰るとおりだ。しかしこの法制度を恥ずかしく思う人もいればそうでない人もいることだろう。

2 件のコメント:

呑兵衛あな さんのコメント...

日本の司法は、江戸時代の牢屋や、戦前の特高から進歩が無い...と思います。

senkawa爺 さんのコメント...

呑兵衛あな さん
いつもコメントを有難うございます。
実は私も全く同感です。
マスコミを含め多くの国民が鈍感なことが不思議です。