2018年7月6日金曜日

お貰いネタ報道

日本のマスコミは毎年大卒の優秀な新人を多数採用しているが、その若くて優秀な人材を出来るだけ早く自社の色に染め上げてシステムの駒として活用、彼等を人生の墓場の住人にしてしまうところは霞が関官庁と似ていると思う。新人も月日が経てばやがて古参になる訳だが、組織内における評価は徐々に入社時と異なり組織への貢献度で測られることになるのは已むを得ないのだろうか。これは本人も気付かずに能力が劣化することに他ならない。

そもそも日本人は肥大化した組織を有難がる風潮があるので、大組織のエリートは日本のエリートと錯覚してしまいがちだ。これが日本の活力を削いでいるように思えてならぬ。凡庸なトップ(組織で生き残るのは凡庸と相場が決まっている)がいる組織内では優秀な才能を発揮するものは妬まれ、一匹狼として次第に敬遠されることも自然である。大手であればラジオ局や新聞であれば地方支社へとか、小中学生新聞へとか島流し状態にする場所には事欠かぬ。テレビ局であれば最近はBS放送なんかもある。

最近テレビを観る機会が激減しているが、NHKのニュースなんかBSの方が余程ましに思う。明らかに予算不足、人手不足なんだろう、外国ニュースの寄せ集め報道で構成されているものの方が余程見応えを感じる。今日もたまたま思ったが、朝のテレビ報道はどの局もお天気の話ばかりやけに丁寧流している。
気象庁が消防庁か知らぬが被災者の人数だけは大変細かく、義理で現場に地方局レポーターを立たせたりしているが、これがどんな意味があるのか?

話が少し変わるが、タイの洞窟遭難事故に関する報道も同じこと。各局とも現地にレポーターを派遣しているが、報道はみな同じ内容。要するに現地当局から提供された情報以外のネタを入手する努力はみられない。そこにいくと英国の放送局はタイ軍隊への同行取材を敢行した報道を流していた。中国であれば零細メディアが政府の意に反する報道をして、経営者が投獄されたり殺されると言うことがまま起きる。

我が国は言論思想の自由が保障されているそうだが、マスコミにその権利を行使する意欲は全く無いようだ。嫌がらせを受けコメンテーターが番組降板するのが精々で、常に記者発表、会見などのお貰いネタに頼り、ネタを独自視点で調査追及することは先ず見たためしがない。記者クラブ制度が云々されるが、それ以前の問題があるように思う。億兆心を一にして・・・・は悪名高き教育勅語の名文句であるが、どうも我々は心を一にすることに拘り過ぎるような気がしてならぬ。

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