2018年4月14日土曜日

報道人のプライド

今朝テレビを観ていたら、興味深い発言を聞いた。新井紀子さんと言う方で近著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」がベストセラーになっているそうだ。著書を読む気にはならないが、以下の発言は考える価値があると思った。「現代の小学3年生ぐらいの子に火を見たことが無い子が結構いる。」なるほどガスは危ないから家庭内にガス器具を置かない、誰もタバコを吸わなければライターもないかもしれない。我が家は最近仏壇ができたので毎朝火を使うが、これと無縁ならば子供が火を見ない道理ではある。

理科の実験で初めて火を見る子供、切り出しナイフで鉛筆の削り方が分からない子供、けれど小学校低学年でもプログラムを考えることができる子供。世代で言えば僅か3世代、共にこの世に居ながら宇宙人のような人種が増えているらしい。同世代にも婆さんが「宇宙人」と綽名をつけた友人がいたが、彼なんか愛敬ある方だ。火を知らない人種を何と呼んだらいいのだろうか。もちろん善悪の問題ではない、あと何年になるか分からないが、彼等と仲良く共存していくためには、こちらも心すべきことが何かあるのだろう。と考え込んだ次第である。但し、残念ながら特段の知恵は思い浮かばない。

子供たちとは仲良くしていけるだろうが、テレビを観ていて閉口するのがいい歳をした大人、それもテレビに出てくるくらいだから、知識人とされる人種の日本語である。本当に「いい加減にしてくれ」と耳を覆いたくなるのが、最近よく聞く「もりかけ問題について、違法性は何も無いが道義的責任はある。」だ。これを最初にテレビで聞いたのは大分前になるが、伊吹元衆院議長の発言である。その後自民党議員などがテレビに出てくると必ずと言っていいくらいこれと似たようなことを口走る。「だから、最初から何も隠さず正直に言ってしまえばよかったのですよ。」

与党政治家が調子づいて「学校は一点の曇りもない法手続きに従って開校され、真面目な若者たちが学問に真剣に取り組み始めている。」「自衛隊員の皆様は今日でもまじめに災害復旧に汗を流していらっしゃる。文書の隠蔽なんか・・・。」なんて御託を並べて違法性無きことを強調するのは分かるとしても、放送局の人間やコメンテーターと称する者までが似たようなことを言って政権擁護に走るのを見るのはなんとも辛い。こいつ等「道義的責任」を明らかに違法性と比べて軽んじている。

思えば一時「法と事実に基づく法治国家」なる言葉が流行ったこともある。法に触れなきゃ何してもいい、見つからなきゃ何してもいいのか?局によって違いがあるが、この期に及んで未だ政権擁護に走るメディアは何をもって使命と感じているのだろうか?数日前図書館で読んだ1955年1月の文藝春秋に荒垣秀雄氏(朝日新聞論説員、天声人語執筆者として有名)が吉田ワンマン内閣総辞職に際し「言論は空しくなかった」との一文を寄せていた。言論は非力であるが、しかし・・・である。報道に携わる人間は、その矜持が無ければ資格がないのと同じだろう。

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