2018年4月12日木曜日

子供と大人

喜寿を過ぎても相当子供じみているので、他人のことを論うのは些か気が引けるが敢えて言いたい。国会は国家の権威の最高峰だから、ここに集う人間は幾ら人気投票のような選挙で選出されるとはいえ、識見ともに大人の中の大人であると信じている人が多いだろう。小生もそう信じたいが、少し古い雑誌なんかと読んでいると、現代の政治家諸氏は名前だけしか知らない5、60年前の政治家と比べて相当に子供じみているようだ。

子供大人の違いはどこにあるのだろうか?ここだと断言することは難しいが、責任の取り方も大きな要素だ。悪戯したとき子供は謝れば済まされるが、代わりに大人が弁償したりして責任を取らされる。社会の常識である。先日総理の言葉の軽さを嘆いて書いた通り、最近の政治報道を見ていると「遺憾」とか「お詫びする」の氾濫とも言いたくなる。子供じゃあるまいし「ごめんで済めば警察はいらない」である。

まだ小学校に上がる前のことを思い出す。物心ついた時に父は南方に出征していて、我が兄弟を養ってくれていたのは祖母と母の女手だった。祖母の実家に初めて行った時のことである。祖母が小生を仏壇の前に座らせて手を合わせてお参りさせた後の言葉である。「ご先祖様たちはお前がどんなに状況になろうと、例え世界中がお前の敵に回るようなことになろうと、必ずお前の側に立って守ってくださる。但し、男の子は自分でしでかしたことについては自分で責任を取らねばならない。」

そして仏壇の下の引き出しを開けた。そこには過去帳と短刀が一振り置いてあった。過去帳は漢字しか書いてないので訳が分からなかったが、短刀は今でもはっきり覚えている。更に祖母が言った言葉も併せてである。「昔の侍は喧嘩をしたら相手を殺して、自分もすぐに腹を切って死んだものだ。だから侍は自分の腹を切るために常に短刀を懐に隠し持っていたのだ。男の子はそうでなくてはいけない。」我が家は百姓の系譜だったが、祖母は武士の娘だったので出自ついても誇りを秘めていたのだろう。

祖母の言葉には無理と矛盾があるかもしれぬが、子供心に強く響いたのも事実だ。その後祖母の教えを守っているとは言えず、相変わらず子供じみたことばかりしているが、他人のアラは目につくものだ。少なくとも日本の国会は小学校の生徒会以下に落ちていると言っても言い過ぎには当たらない。「いま明確に嘘つきとおっしゃいましたね、ならば証拠を示して頂かねばなりませぬ。」動かぬ証拠を突き付けられても、こんな強弁をする総理大臣である。本当に教育上悪すぎる。

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