2017年11月5日日曜日

読後感「将軍慶喜を叱った男 堀直虎」
江宮隆之 著

秋の信州に観光旅行に行った友人が須坂市の観光ポイント「豪商の館」で買い求めた本を借りて読んだ。

現在「直虎」と言えばNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送中で、圧倒的にこちらがメジャーである。放送を観たことがないので知らぬが、城主直虎となると、江戸時代の大名に須坂藩主以外の直虎が存在してたかと心配にしてしまった。wikiで調べると「後に彦根藩の藩祖となった井伊直政を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎を主人公とした物語である。」恐らく実在した人物のようでもあるが、時代も大分遡りどうやら戦国時代のようである。

本書の主人公「直虎」は実在が明確で、亡くなったのは幕末の慶應4年(1868年)、つい150年ほど前のことである。時代は幕末の天下騒乱の時、直虎は信州須坂藩、僅か1.1万石弱ながら立派な大名であり、当時は33歳と年齢も若いのに幕府の要職である若年寄り(外国惣奉行)に就いていた殿様の詳伝である。徳川藩の役職としては大老・老中の下に位置するが、旗本全員を取り仕切る立場で、非常に大きな権限を持たされていた。幕末に直虎は、軍艦奉行勝海舟の上司になっていたことを留意しなければならない。

小藩ゆえの悲しさで、江戸常勤でなければならなかった11代藩主の父堀直格の五男として1936年江戸で生まれ、1861年12代藩主の兄が夭折したため、たまたま兄の養子になっていた直虎が若くして藩主となる。直虎は若い時から学問と武芸に励み、非常に聡明で藩政にも見るべき功績が多々あるが、何といっても江戸時代の最末期、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に逃げ帰ってからの出来事が彼の生涯を際立たせている。

幕府の大将である徳川慶喜が軍隊を見捨てて、大阪から軍艦で江戸に逃げ帰ってきたことはよく知られている。しかし江戸城には正確な戦況が届いていなかったので、徹底抗戦或いは謹慎恭順と小田原評定が何日もだらだら続いたらしい。そんな最中の慶応4年(1868年)1月17日、突如直虎は声を張り上げ、慶喜に向かって存念を口にする。この小説では「大将の腹を決めてくれ、我々はそれに従うだけ。」との趣旨としている。しかしそれを聞いた慶喜はプイと横を向いたまま置く引っ込んでしまった。

その後、直虎は屋敷に戻ることなく江戸城中で切腹してしまう。屋敷を出るときから切腹の用意がしてあったようだ。直虎の諫言には諸説あり、勝海舟は後年「直虎は乱心して自害」と言っている。勝海舟は江戸を火の海から救った幕府方の英雄として尊敬してきたし、慶喜が杖とも柱とも縋っていたようでもある。しかし、腹を切った直虎にとっては直属の部下でもあった。多分、勝は若い上司を小ばかにしていたに違いない。信州人としては何ともやるせない感じが残るばかりだ。

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