この頃の日本は外国から攻められ、国内においては攘夷論などで騒然としていて、特に外国と正面から向き合った長州では、外国船を無差別攻撃する事件が発生、長州がボロ負けして国益を大いに損じたり、京都で天皇暗殺を謀ったりして「禁門の変」を起こり国内は騒然。赤松も1863年の秋、第1次長州征伐に伴い、公務にて江戸に赴く。これを奇貨として横浜在住のイギリス騎兵士官より騎兵術、英語を学び学問に磨きを掛け、翌年には第2次長州征伐に伴い
大阪に転勤。
【余事ではあるが、この1863年には長州で吉田松陰が殺され、長州の暗殺を避けるため孝明天皇を滋賀に逃がそうと図った佐久間象山が暗殺されたりしている】
赤松自身は1866年の春に「英国歩兵錬法」5編8冊の大著の完訳を成し遂げて出版している。この前後には赤松のもとに他藩から弟子が集まり始めていたらしい。その名声も全国に鳴り響いていたのだろう。徳川幕府はもとより会津藩やら薩摩藩からもスカウトを受けたりしていたようだが、上田藩の了解も取り付け京都にて塾を開学。上田の主君をはじめ、徳川幕府に対して「今の世の中でなすべき事」について建白書を提出。
更に1867年に入ると国内は一層内乱の危機が迫ってくるが、その中で赤松は幕府、越前の松平春嶽、薩摩の島津久光に公武合体して議会政治を求める「御改正口上書」を提出。薩摩の門人を通じて西郷隆盛らに対して薩土盟約を結ぶところまで漕ぎ着けるも、内戦を望んでいたイギリスの策謀でこれが破棄されて薩長同盟が結ばれてしまう。落胆した赤松が上田に帰ろうとした矢先の9月、大久保利通に使嗾された中村半次郎らによって暗殺されてしまう。
赤松について長々と書いてしまったが、この人の存在を知っただけで嬉しい。本書はこの「御改正口上書」を詳しく解説してくれている。この内容は日本国憲法と同様、民主主義を見事に表現しており、慶應3年に薩摩がこれを採用して薩長同盟に至らなかったら、その後の血なまぐさい内戦は起きず、日本の歴史も大きく変わっていたことだろう。ここでレバタラを言っても仕方がないが、現代の政治を思い、日本国憲法の普遍性について改めて深く思いを致すことになった。
併せて余り言いたくないが、明治維新で長州が作り上げた歪んだ国家像が現政権に大きな影響を与えていることについても考えさせられる。
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