2017年7月20日木曜日

責任の所在

どんな組織でもトップの責任は重い。例え一寸したハイキングや海水浴などのレジャーでも同じことだ。万が一事故でも起きれば当然厳しく責任が追及される。昔は娘夫婦と小学生の孫を引き連れてよくスキーに行ったが、今にして思うと「よくもまあ、そんなことをしたものよ。」と冷や汗が出る。最近レジャーに一人で出掛けるのは、そんな責任感から解放されたい気分も半ばある。

ましてや、国家のトップともなれば、責任の大きさは凡俗の想像を超えるものがあろう。国家の運営と一口で言っても、端から端がよく見えないくらいの幅がありそうだ。当然乍ら、然るべき人間を見つけて各方面毎に仕事を任せて、最終責任だけを追うスタイルにならざるを得ない。これが内閣制度と言うものだと思う。ところが最近は内閣官房の存在が急に大きくなって、どうも昔の内閣とは異なる制度に変身しつつあるようだ。

専門的に調べたことがないので間違っているかもしれないが、記憶だけで大雑把なことを書く。先ず、昔は「末は博士か大臣か」で大臣と言えば相当偉い人のイメージがあったが、今は違う。何故かとても安っぽく感じてならない。昔のイメージで言えば、一つの省を丸ごと与るのが大臣で、例えば法務省・大蔵省・自治省・文部省・農林省・通産省・建設省・郵政省・外務省などがあり、省が無くても国家的に大きな案件がある場合は、国務大臣防衛担当などがあったと記憶する。

一人の人間が省を与るということが相当大きな責任であるのは言うまでもない。責任の割り振り方に関しては、行政改革がおきまりの念仏の如く唱えられて、省庁がくっついたり離れたりをずーっと繰り返している。結果何が起きたか、お役人の総数に対した変化はないだろう。もし減ったとすれば、郵政省がなくなり、大部分の官僚(主に中・下級官僚だろうが)が民間人に変わったりしているので、この人たちの責任の所在が曖昧になっているだけのことにすぎない。

今の内閣がどんな構成かをネットで参照してみて驚いたのは大臣の数だけではない、職名即ち肩書がやたらに長い大臣が多い。例えば鶴保庸介なんて大臣は正直知らなかった。この人の肩書は「内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策 クールジャパン戦略 知的財産戦略 科学技術政策 宇宙政策)情報通信技術(IT)政策担当」である。話題の山本幸三大臣「内閣府特命担当大臣(地方創生規制改革)まち・ひと・しごと創生担当 行政改革担当 国家公務員制度担当」である。逆に稲田朋美大臣は「防衛大臣」と極めてすっきりしている。まさに隔世の感ありだ。

何れにしても、一つの省を任せる以上は任命権者として相当悩む筈だが、安倍総理は法務大臣にしろ防衛大臣にしろ、はなから任せるつもりもなく、己のダミーとして置いただけにしか見えない。任命した方もされた方も、無責任の極み、ど素人に国家の操縦を任せている様なものだ。国民とすればたまったものじゃない。

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