2017年4月9日日曜日

読後感「幕末の三舟」松本健一著

著者の松本氏が好きな作家でもあるので、区立図書館で見つけて読んでみた。「幕末の三舟」と聞くと辛うじて勝海舟、山岡鉄舟までは出てきても、高橋泥舟の名前はすんなりとは出てこないし、どんな人かはとんと分からない。幕末、即ち明治維新の功労者として伝えられているのだが、3人とも徳川家では大した身分ではなっかった。年齢は勝海舟が一番上の1823年生まれ、次が泥舟の1835年生まれ、鉄舟が1836年生まれ。但し亡くなったのは鉄舟が1888年(明治21年 享年53)と一番早く、海舟が1899年(明治32年 享年77)、泥舟1903年(明治36年 享年69)である。

勝海舟は幕末の1868年に、官軍の総大将として江戸に迫った西郷隆盛と高輪の薩摩屋敷でさしの直談判(3月半ば)して、江戸市中の戦乱を避け無血の城明け渡しに導いたことはよく知られている。江戸開城は丁度今の時期、4月11日である。がしかし、官軍と幕府の戦はこの年の正月京都(鳥羽伏見)で始まっているわけで、この4か月間に、この3者には海舟の政治的配慮、泥舟や鉄舟の武士らしい生き方に絡んで様々なドラマがある。

話がそれたが、普通に考えれば幕末維新の功労者は当然薩長の武士が中心である筈だ。にも拘らず幕臣の3人が何故「幕末の三舟」と呼ばれているかである。そのように呼ばれるようになったのは明治も20年頃以降のことらしい。3人とも嘗ての賊軍だから当然かもしれぬ。海舟については無血開城の一方の立役者だから理解できても、他の二人は少し歴史を紐解かないと理解が難しい。

少し先回りして書くと、高橋泥舟は若い時から槍の名手の誉れ高く、幕末の動乱期には常に将軍徳川慶喜の個人的ガードマンを務めた。勝海舟は泥舟の単なる忠誠心だけでなく、江戸を戦乱から救うべし、との高い理想を見抜き、江戸城無血開城のために泥舟を西郷のもとに派遣しようと先ず考えた。しかし泥舟は、ありがたい使命だが、いま自分は将軍のそばを離れられない(味方にも不穏な動きがあり、何が起きるか分からない)ので、と言って義弟の鉄舟を推薦したのである。

かくして鉄舟が、静岡まで前進していた西郷に海舟の手紙を届けて、無血開城の下工作をすることになる。敵の最前線から本営までどのように辿り着くことができたか、がまた大きなエピソードだが省略。現在、西郷の言葉として有名な「命も金も名もいらぬ人間でなくては・・・」は、後に西郷が鉄舟のこと評して海舟に伝えた言葉である。そして明治5年に鉄舟は西郷隆盛のたっての依頼で明治天皇の侍従(平たく言えば教育掛とガードマン)を10年間の約束で引き受けることになる。

何れにせよ、日本が独立を保った明治維新は、薩長土肥など西方諸藩の功だけによるものではないし、幕府側の人材も大きく活躍した。明治に入ると国家規模での行政を進めるために、嘗ての皇軍側の人間も賊軍の人材を重用せざるを得なかった。しかし彼らは昔の賊軍、この三氏の生き方の違いが興味深い。嘗ては現代と異なり、皇軍賊軍を問わず武士(もののふ)が沢山いたのだ。

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