2016年6月14日火曜日

読後感「李陵・山月記」中島敦著

未だ小学生だったかもしれない頃のこと、貸し本屋の講談本を殆ど読み終わった私に母が教えてくれた言葉が思い出される。「日本の講談話は全部と言っていいほど中国の歴史書のコピーになっているの。これからは中国の昔話を読みなさい。」その後暫くしてから子供向け「水滸伝」や「三国志」などの中國ものに向かうようになったが、子供の頃は母の言葉の意味は分からなかった。大分大人になって中国の史書口語訳を読むようになってから、少しずつ母の言葉の意味も分かってきたようにも思う。

確かに日本人の価値観の底流にある仁義礼智信とか武士道精神は、中国人が大切にしてきた価値観であることは間違いないだろう。この価値観が現代中国人に受け継がれているかは少し疑問も残るが、受け継いだ日本人の側にも記憶が薄れていることは否めないから似たようなものだ。読後感としては余り適切でないことから書き始めてしまった。することもなく書店に行って、読みたくなるような本も見つからず、たまたま見つけた安い文庫本がこれで、手ごろの厚さだったので山行き往復の徒然に読んで感激した。

中國ものと来れば学者の小川環樹や岡田英弘と小説家では武田泰淳とか陳舜臣の名前を知るくらいで、彼らの著作にもここ暫く接していなかったし、著者の名前は全く知らなかった。それもその筈で、著者は1909年生で1942年没の生涯が短かった作家である。あまり長編小説は書いていないようで、本書も中国に伝わる西遊記などの昔話に題材をとった幾つかの短編で構成されている。

著者が生まれた1909年と言えば明治も末期、この世代で現存する日本人は先ずいないだろうが、この頃の日本と中国は現代に比べると文字だけに限らず、文化精神的にもずっと近かったのかもしれぬ。特に著者は代々国学者の家系育ちとのこと、幼い頃から中国文には相当馴染んでいても不思議はない。何れにしてもメインの作品「李陵」とは、中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍の物語。また李陵は「史記」の作者とされる司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物であり、当然作中に盛り込まれている。

他の短編の中には西遊記に登場する化け物「沙悟浄」の話などがある。どれもが人間の寄るべき価値観を哲学的に描きながらも、ハリウッドの映画製作者や脚本家が読んだら飛びつきたくなるだろうと思うほどストーリーが活き活きと面白く構成されている。現代社会が見失っている古き良き人間像に思いを馳せながらも、面白く読めた秀作である。


0 件のコメント: