2016年5月15日日曜日

読後感「江藤新平」毛利敏彦著

大昔に司馬遼太郎氏の小説かで読んで、おぼろげに知っていたことは精々次のこと程度ものだった。明治維新に登場したものの征韓論で西郷隆盛に組して破れ、西郷より先に賊軍の1武将と一旗揚げかかったものの、あっさり捉えられて殺されてしまい、そのまま歴史に埋もれている。言ってみれば明治維新で活躍した人物としては小物かな。

これだから生半可な知識は困ってしまう。要するに明治維新と軽々しく言って、知ったつもりでいても何も知らないに等しい。新書本1冊読んで明治維新が分かった訳ではないが、知らないことが分かっただけ儲けものだったかもしれぬ。本書の「まえがき」に紹介されていることからすると、アメリカの比較史家フランク・ギブニーの説として次のように紹介している。「明治維新をアメリカの独立革命、フランス革命、ロシア革命、中國革命と並ぶ近代世界史上の5大革命の一つに位置づけ、明治維新こそは<近代史の中で試みられた最初の全面革命だった>と喝破した。」

ここで本の感想から少し脱線して、これも最近知ったばかりのことを挿入したい。誰が決めたか知らぬが、幕末維新の功労者について、次のように言うのだそうだ。維新の三傑とは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3名。何となく分かるような気がする。続いて維新の十傑もあって、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・江藤新平・横井小楠・大村益次郎・小松帯刀・前原一誠・広沢真臣・岩倉具視とあり、伊藤博文や坂本龍馬は入らぬらしい。十傑の順番に意味があるようで、三傑に続き四番目に挙げられているのが江藤新平と言うことになる。

そんなこんなで明治維新についてにわか知識が湧き、本書に及んだ次第だが、読み終わって思うのは、明治維新をリードした幕末の下級武士たちの凄さに驚愕することである。革命であるから皆命を賭けているのは当然かもしれぬ。いわゆる志士たちであるが、彼らそれぞれが最初から国の転覆を図ろうとは思ってもいなかったに違いない。只管勉強を重ねることによって、このままでは外国の文明が進んだ国に蹂躙され、国民の全てが不幸になるだろうと、共通の思いを持ち始めたと理解すべきではなかろうか。

そもそも明治維新はいつ始まっていつ成ったかも知らない。勝手に頭を整理すれば、ペリー来航やロシア船来航(1853年)が開演合図の拍子木で、1860年の井伊大老暗殺で幕が上がったと見ることにしたい。江藤新平はその少し前1834年の佐賀鍋島藩の下級武士の子として生まれる。少年時代から読書に没頭、15歳で元服と同時に藩校に入門とあるから子供の頃から優秀だったに違いない。外国船来航の19歳の時に、彼最初の長文意見書「図海策」を藩主に提出している。

内容的には当時流行の攘夷論を戒め、徒な攘夷論は結果的に敗戦を招くのみとして、この時既に鎖国を批判している。彼は生涯を通して国民を平等な立場にすることで、始めて富国と強兵が成ると説き、そのために必要な国家制度の確立に邁進したと言える。そのためには欧米先進国の制度を十分研究して取り込む必要を唱えて、自らものすごい勉強をしているのである。1868年の王政復古が維新の第一幕終了とすれば、そこまでには邪魔者を殺して取り除く過激な行動に走った者が多く現れ、結果的にはこれが功を奏して王政復古が成ったともいえる。しかし本当の終幕である新しい国家の実現は、江藤の考えに従えば1889年(明治22年)の憲法発布まで待つべきであろう。

江藤新平も若い時に一旦脱藩と過激な行動はとってはいるが、暗殺のような行動はしていない。彼の考えは幼いころから積み重ねた外国に関する知識の吸収よって形成された、秩序だった考えに基づく民主社会の建設にあった。先日読んだ中江兆民なんかと共通しているものがある。先に挙げた維新の三傑はどちらかと言えば、腕力に長けて幕府を転覆するには大いに功があったのだろうが、新しい社会の建設に関して言えば、圧倒的に江藤の力に頼った部分が大きい。最終的には、征韓論闘争の中で政府に残った大久保利通なんかも江藤の知識には敬服して全幅の信頼を寄せていたようだ。

新しい社会実現のために協力し合った者同士でも、ある程度の成功を見ると初心を忘れて手にした権力や富に溺れる者が必ず出現するのが人間の悲しいところ。内部抗争が起こり、おかしなことになるのはここ十数年で出現して泡のごとく消えた非自民内閣ばかりではない。江藤も結果的には維新の完成を自らの目で見ることなく1874年(明治7年)に国賊として捕縛、碌な裁判も無しで即日打ち首、梟首の極刑で世を去る。享年僅かに41歳。ここには明治5年から6年にかけての征韓論や岩倉使節団の問題が大きく関わっている。これ以上は書かないが、明治初期の政府内紛についても認識が大きく変わったことだけ書いておく。

本書の記述からではないが、ウィキペディアから下記を引用しておきたい。
「明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。墓碑銘は書家としても知られる副島種臣が手がけた。同市の神野公園には銅像もある。」

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