2015年8月19日水曜日

基礎学問の重要性

日本が戦後70年の間、先の敗戦に対してまともな総括をしていないことは周知の事実だ。現在でも個人的な意見を言う人は多いが、どれを聞いても一つピンと来なかった。従って、今回の安保法制論議を聞いていても、共産党が「法案成立前に自衛隊内で検討するのは軍部の独走、戦前と同じではないか!」と激昂しても本当にそうなのかはよく分からない。理由を自分なりに考えてみると、戦前の軍隊と現代の自衛隊を同列に考えることにそもそも無理があるのでは、とも思ったりする。

戦前の「軍隊」と「自衛隊」は共に祖国防衛のためにある組織であっても、政治組織の中での位置付けがまるきり異なり、戦前は政治の中に位置づけられているように見えても軍隊の独立性がかなりあり、軍の暴走が戦争の引き金を引いたとも言われる。自衛隊は完全なシビリアンコントロール下で暴走できない仕組みだから、戦前と同じようにはなりようが無い。だから安心して政府に任せなさい、と政府は言いたいのだろう。

そこで専ら自衛隊の犠牲が増えるだろうとか、アメリカの戦争に巻き込まれるだろう、と言った将来実際に起るか起らないか、仮定の事態が専らの関心事となって議論が進んできた。ところがお盆前に共産党小池亮氏のヒステリックに「自衛隊も戦前と同じ」との根本的指摘である。政府は法案を自衛隊内で法案成立前に研究するのが、何の不都合があるのか。と冷ややかにやり過ごそうとしている。多分、多くの国民やマスコミも同様だろう。小生もそんなところかな、と思いかけていた。

しかし先日ネット上で保阪正康氏の小論文「昭和史の教訓とは何だったか」<軍事学なき軍事国家の危険性>を読んで気が変った。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44288?page=3

保坂氏は「軍事学」なる概念を提示して、日本には戦前戦後通して、これが決定的に欠けていると指摘している。先の敗戦の原因もそうだし、現在の安保法制論議にもその欠如が著しい。古来まともな国は殆ど例外なく独自の「軍事学」を持って、国家として武力の行使は如何にあるべきかを研究して、国家の方針を定めるとしたものらしい。勿論日本も例外ではなく、一時期までは、政治的に武力の行使は如何にあるべきかを真剣に考えていた節がある。

一時期とは明治末期日露戦争に勝利する頃までのことで、それ以降、特に大正を挟んで昭和の初め、満州事変が起きる頃になるとこの学問が等閑に付され、政治的にも軍事的にも支離滅裂な戦争指導が行われる結果になっている。何故か、この新説には全面的な共感を覚えた。政治にしても軍事にしても、古今東西の歴史に学ぶ基礎学問が欠けていると、固有の哲学は生まれないだろうし、国家の方針決定にしても腰が定まらず、上手く行く筈がない。

今の国会議員の中で中谷防衛相や参議院の安保法制特別委員会の自民党理事ひげの隊長の佐正久氏、又は民主党で防衛相になりながら現在は与党側の応援団となっている森本敏氏は自衛隊出身として有名だ。この3氏は何れも素人には分かり難い軍事の専門家として、政府やマスコミで重宝されている。確かに軍事の知識については素人を圧倒するものがあるだろう。しかし彼らが持ち合わせている知識と軍事学の基礎は別のものだ。

もし学問として真面目に戦争を研究(戦争の実体験が無いのだから余計必要だろう)していたら、国会議員になんかならなかったかもしれない。我が国で軍事学が学問として確立していたら、我が国における政治と軍事の関係も軍事同盟のありようも現在与党が考えるものとかなり異なる方向を見い出したように思えてならない。今回の法制議論に必要なのは軍事知識より、国際情勢を踏まえた政治哲学であるのは明白である。防衛の専門家と称する連中が、専守防衛に関して鵺のような言辞を弄する姿を見ていると、基礎学問無き政治家の恐ろしさを改めて感じてしまう。

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