2015年8月17日月曜日

日米関係を考える

日本の憲法を曲げてまでも同盟国アメリカの意向に従わざるを得ない、昨今の風潮を嘆かわしく思っていたら、同窓の誼で細やかな精神的応援をしている長野1区選出民主党衆議院議員篠原孝氏から国会報告が届いた。氏は農水省出身なので、農業と経済問題に強く、特にTPP問題については昔から詳細なレポートで警鐘乱打し続けている。予算委員会の質疑ではたまに見るが、安全保障特別委員会のメンバーではないようだ。しかし今回の便りに安全保障問題に関する一文があったので、これを是非紹介したい。篠原氏より8期も年上なので、生の歴史として当然認識していなければならない事柄なのだろうが、殆ど忘却の彼方である。篠原氏からのレポートを読み、教えられたことが多い。

アメリカは幼少の頃には敵国ではあったが、学齢に達する頃には戦勝国となっていた。現在は同盟国、むしろ宗主国の感さえある。終戦に際してと、終戦後の困難な時期に日本と日本人が相当世話になったことも事実だ。それなりの義理はあるだろう。しかし互いにその子や孫の世代になり、アメリカからの無理強いに対して、いつまでも「仰せの通りでございます。」で無批判に従属するだけでよいものだろうか?同盟国として日本の自主性をどこまで主張すべきかは、そんなに難しいことなのか?同じ悩みの人は多数いるのではないだろうか。この悩ましい問題に対するヒントを提供された思いである。

以下に篠原議員の国会報告から1文を引用する:

『1979年、イランの過激派学生によるアメリカ大使館人質事件が発生した。世界はアメリカの要請によりこぞってイランに経済制裁をしたが、日本だけ、ただ一国平然と石油を輸入し続けた。当然アメリカが呆れ、激怒した。悪く言えば当時は、日本は国際政治問題、なかんずく軍事問題には疎かったのかもしれない。よく言えば、日本はベトナム戦争でも動かず、海外に自衛隊を出すことなど考えられない自制のきく国家だった。戦後築き上げてきた反戦、経済重視、国際協調路線を堅持していたと言える。

さて、その後の中東外交で、日本は独自の平和外交を展開し、世界をアッと言わせることになる。その中心人物こそ当時の外相安倍晋太郎氏(総理の実父)である。1980年、イラン・イラク戦争が勃発、先の事件を契機にイランと他の国々との関係は冷え切っており、アメリカは敵(イラン)の敵イラクを援助、他の西側諸国はもちろんソ連もイラク支援で追随した。そんな中、日本だけが、アメリカの顰蹙を買いながらも、イラン・イラク双方とも良好な関係を保ち続けていた。

それだけに留まることなく、安倍外相は最高指導者ホメイニ師やラフサンジャニ国会議長を通した和平工を展開した。86年7月にラフサンジャニの来日が実現するなど、安倍外相は病に侵されながらも、中曽根首相と共に精力的に和平に取り組んだ。アラブ諸国の中に入り込み、仲介役として平和構築のために汗をかいたこの外交を、当時「創造的外交」と呼んだ。89年、遂にイランとイラクの停戦が合意した。安倍外相の地道な中東和平外交が大きな契機になったと言われている。

ところが今、安倍首相が進める「積極的平和主義」は、自衛隊を海外派遣し平和を勝ち取ると称するただの軍事介入主義で、先人の作り上げた日本の貴重な居場所、立ち位置をなくしてしまっている。このままでは、IS事件の時に聞こえてきたような「○国とは対話のチャンネルがない」ということに帰結してしまう。首相は、祖父、岸信介首相への思い入れが強いが、岸首相はアメリカべったりの外交を正そうとした人であり、義理の息子の安倍晋太郎外相もそれをしかと引き継いでいた。首相は尊敬する祖父に追いつき、超える為にも、父安倍晋太郎外相の軌跡こそ見習わなければならない。』

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