2015年8月16日日曜日

日本では戦争が既に始まっている

一昨日の総理談話の中で安倍総理は大真面目な顔で次のように言っている。「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」誰に対して言っているか判然としないが、嘗て侵略した近隣諸国を相当に意識していることだけは間違いないだろう。

一方で、国際紛争を解決する手段として集団的自衛権の行使を容認する戦争法案を推進しているのだから、矛盾を感じて戸惑っても不思議はあるまい。そこで外国がどのように考えるかはしばらく置いて、自分の問題として少し考えてみた。この法案が多少意識過剰であったにしても、どこかで戦争が始まった時に日本や日本人を守るための方策であれば、目くじら立てて反対する必要は無いではないか。

微かな記憶や僅かな知識しか持ち合わせないが、70年前にやっと終焉を迎えることが出来た先の戦争で、我々が味わったあの悲惨さを再び繰り返さないためならば、致し方あるまいとも思う。しかし、あの悲惨さとは何か?国家が戦争を始めた。目的は国民の将来を安んじる為だったのだろう。その目的については異議を申し立ててはいけない。その崇高なる目的のため、国は国民に対して協力を求めた。受けた国民の中には強制された向きもあろうが、積極的に協力した人も多かったようだ。

で、結果的に国は国民を守ることはできずに、敗戦の道を選んだ。戦争を始めた時も終わる時も、国民に信を問うた形跡はない。どこの国でもそうなのかもしれぬが、戦争は国民の支持で始まるものではないようだ。国民の一部(よく言えば代表)である政府が意思決定して始まるのが普通だろう。だから、戦争が終わった時には、戦争の意思決定した政府は、国民に対して責任を明らかにする必要がある。

当時の総理一人が「私が最高責任者ですから」と言って済む問題ではない。経緯を含む事実関係を国民に明らかにしたうえで、問題の奈辺にあったかを先ず明確にすることが必要で、腹を切るなり首を切られるのはその後のことであろう。70年前に日本国政府がこれをしなかったことは紛れもなく、戦争の最終局面で終戦に導いた天皇美談だけが未だに巷間流布されている。

この美談を否定するものでもなく、天皇責任説に同調するつもりは全く無いことは断っておく。言いたいのは、何十年も前からの伝統かもしれぬが、現在に繋がる日本政府の無責任さである。政府とは閣僚や文官だけのことではない。軍隊を動かしていた軍官僚(今で言うなら自衛隊官僚)も同罪であるのは言うまでもない。終戦末期に政府や官僚がしたことで最も罪深いのは、誰からの追及を恐れたかは別として、組織的に記録を焼却する命令を出した事だろう。

現在は記録の焼却命令を出すまでもなく、記録を踏みにじって過去を抹殺するのだから始末に負えぬ。政府の無責任さは年金問題や国立競技場問題ばかり留まる筈もない。このこと(責任追及)をするにはどうすればいいのだろう?知恵のある方の力をお借りしたいものだ。

これも結果論だが、戦時中に日本軍が日本の市民を利用したとか見殺しにした話は嫌なほど聞くが、軍隊が市民を守って玉砕したとの話は100分の1もあるだろうか。ある若い人に言わせると、既に日本では戦争が始まっているそうだ。確かに、政府が市民(或いは国会でもいい)に正確な情報を提供せずに独走し始めていると言う意味ではそうかもしれぬ。

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