2015年6月30日火曜日

ポイント・オブ・ノーリターン

昔、竹下登氏が総理大臣の頃だったろうか、当時政治に余り関心をもっていなかったが、マスコミが彼のことを「言語明瞭、意味不明」と揶揄していたことだけは記憶にある。ことほど左様に政治家の発言が昔から分かり難くかったのだろうか?話が前後して恐縮だが、竹下総理より少し前の田中角栄氏なんぞの演説は、実に歯切れが良くて、言わんとすることが理解しやすかったような気がする。そんなことを思う時、衆議院平和安全特別委員会に於ける現政府の答弁程分かり難いものは珍しいのではなかろうか。総理はじめ中谷防衛相に岸田外相、横畠内閣法政局長官にぶつけられる質問に対する答えの殆どが、分かりにくいなどと言う以前に、日本語の会話として成立していない。

日本語は、文章の頭で肯定か否定かを明確にしない構造になっているせいもあるだろう。英語なんか大嫌いだが、国会の質疑応答を聞いていると、国会での質疑応答を、現政府が大好きな英会話で及べばどんなに議事が捗ることだろうと思ってしまう。一つの質問に対して答弁する側は長々と同じような返事を繰り返すが、結局何も答えていないことがまま見受けられる。勿論当事者は承知のうえのことで、懸命にはぐらかしているつもりだろう。はぐらかすことで己にどんなメリットが生ずるのか聞いてみたいものだ。

同時にこのやりとりを追求しないマスコミの姿勢にも疑問を感じてしまう。昨日の衆議院平和安全特別委員会の長妻議員(民主党)の質問を聞いてつくづく思った。長妻氏が中谷防衛相に対して次のような簡単な質問をした。「先の大戦で我が国は国策(政策)を誤った。と思うが大臣も同じ思いで宜しいか?」これに対する大臣の答えが、何故か素直に「そう思ういます」とか「そうは思いません」とはならないのだ。何度も同じ質問が繰り返されて、しまいには質疑を中断し、委員長による裁定がなされても決して「はい、同じ思いです。」とは決して言わないのだ。

「我々の内閣は村山談話を引き継いでいます。」とは言うが、「歴史の問題については歴史家の判断に委ねるべき」と付け加えて、自分の言葉としてイエスとかノーの返事はしないのである。単に個人の思いを聞いているだけにも拘らず度々後ろから役人が紙を手渡すのも不思議な現象だ。昭和の初めに国策を誤ったとか政策を誤ったと言うことが現政権にどんなダメージを与えるのだろう?総理の祖父が関わっていたかもしらぬが、総理が関わっていた訳でもない。関係ないだろうと思うが、そんなに気にすべき事なんだろうか?

こんなやり取りは実にくだらないと思ったが、昨日の長妻氏の質問で一つ勉強をした。タイトルに書いた「ポイント・オブ・ノーリターン」である。高校時代に観た西部劇「リバー・オブ・ノーリターン(帰らざる河)」が懐かしく思い出された。長妻氏が言うには「昭和6年の柳条湖事件、これが満州事変の発端になっている訳だが、現在ではこれが日本側の謀略であったことは明らかになっている。」

「当時のマスコミは筆を揃えて支那の謀略だと書きたて、膺懲支那の世論を形成した。しかし現在になると、当時のマスコミは関東軍の謀略であることを知っていたそうだ。私はこれが世界大戦に繋がる日本の不幸の始まりであったと思う。即ち引き返す事の出来ない一線を越えてしまったのでポイント・オブ・ノーリターンと思っている。」とのこと。以下は長妻氏の発言ではないが、思うに選挙で選ばれない軍人が入閣したこと以上の意味を持つかもしれない。

時恰も現政権はマスコミをコントロールしようと懸命だが、余り邪な考えは持たず、素直に己の考えを披歴するに越したことはなかろう。

0 件のコメント: