久坂玄瑞

昨日も結局夕方から夜半にかけて雨になってしまった。本当に今年の春の天気はおかしい。しかし朝は久し振りの青空が広がっていた。鬱陶しい日が続いていたので気分を一新するためもあって、久し振りに午前中から永田町の国会図書館に行った。前日の火曜日にテレビ東京「お宝鑑定団」を観ていたら久坂玄瑞のことが紹介されていた。名前は何となく知っているが、久坂玄瑞について書かれた本も記憶に無いので、何かあれば読もうと思ったのである。

図書館でキーワード検索すると、数冊上がってきたが小説らしいものは殆ど無さそうである。当てずっぽうに、昭和18年に発行された「久坂玄瑞の精神」和田建爾著をクリックすると、電子データ化されていて貸出手続きを要せず、そのまま読み進むことが出来た。長州藩々医の息子で天保11年(1840年)生まれ、幼くして父と死別、15歳にして両親兄を亡くし藩医久坂家を引継ぐことになった。ご典医は俸禄が低くて20数石と書いてあった。

医師の家だから幼い時から学問に親しみ、非常に優秀だったらしい。たまたま小生から見れば丁度100歳年長、家督を継いだ1955年と言えば、日本がアメリカ人ペリーに開港を迫られた翌年で、全国の武士階級に居る人達が、日本国の行く末、外交問題を真剣に考え始めていたに違いない。久坂も例外に非ずして、九州に旅して碩学の意見を求めたりして、結局攘夷論者に成長していくが、17歳の時(安政3年)に地元の吉田松陰に教えを乞うことになる。

松陰はこの時既に、先にペリーの船でアメリカ密航を企てた罪に問われており、江戸から萩に送り返されていたとは言え、自宅の座敷牢に蟄居する身分。年齢は久坂の10歳上だから27歳である。それでも親類縁者を頼って教えを乞う者が少なくなかったらしい。久坂の一つ年上の高杉晋作もその一人で、二人は非常に仲良くなる。兎に角現在の自分の考えではイメージすら出来ぬほど、昔の人は偉かったものだ。

僅か27歳の若者が、時の幕府の外交方針に疑問を抱いて自ら外国を知ろうと密航を試みるのも凄いが、それより更に1歳も若い少年がその若者に門下生にしてくれと頼みこむ。久坂が松陰の弟子入りを希望するに当たって交わした書簡がこれまた凄い。過激な松陰をして辟易させるほど、尊王攘夷論が過激なのだ。医師のくせしてアメリカ大使のハリスを殺してしまえと、なかなか聞かなかったようだ。松陰はそれをなだめすかして、結局は弟子にすることになる。

1840年代末から約20年、明治に至るまで幕末の日本は激動の時代となり、大小の騒乱が続く。久坂は松陰亡き後に彼の遺志を継いで、長州藩攘夷論者の中心的人物になって行くが、文久3年(1863年)を引き起こして、この戦いの最中に自刃して亡くなってしまう。こう書くと、彼が如何にも好戦派に取られかねず経緯を詳しく書けないのが残念である。しかし、この時敵対していた薩摩の西郷隆盛が明治政府の参議(政府の最高機関)になった時に、同じく参議の座にあった木戸孝允に語りかけた話が有名らしい。曰く「お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんな。」

久坂の信じた「日本国は天皇一人のものであって、支那なんぞの民主主義とは全く違う」なんてことは別にして、彼が日本国を外国と比肩しうる国家にするためは、幕藩体制をひっくり返してでも国家の統一を図る他ないとして、諸藩の志士たちと懸命に話し合いの努力をし続けたことはよく知られたことのようだが、25歳の若さで亡くなってしまったので小説にもし難いのだろう。かくして、歴史に名が残る者とそうでない人が出来てしまう。これが現実と言うものかと思いつつ図書館を出ると、上空にヘリコプターが何台も飛び回り、地上目前では警官の動きが少しおかしい。

常とは異なる多さで、いくつものグループが右往左往している。4月なので新人訓練でも始まったかと思ったりしたが、帰って確認すると総理官邸屋上に例の「ドローン」とやらか落ちていたとのこと。総理は外遊中で、昨日は中国の習主席と会談が出来たとお慶びのようだ。100歳年長の先人の凄さが余りに印象的だったせいか、俺も無駄に長生きしているなとの思い。そしてテレビで総理の緊張感に欠けた表情を見ていると、なんだか悲しくなってきた。

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