2015年3月2日月曜日

閣僚=イエスマンばかり

安倍総理が戦後70年となる8月15日に、世界に向けて総理談話を出したいそうだ。どうぞ勝手にしてくれだが、なんでも戦後50年には村山談話があり、60年にも小泉談話があって、似たようなことを述べている。簡単に言ってしまえば「日本は、過去に於いて戦争をおっぱじめて世界中に迷惑をかけたが、敗戦後は反省して世界平和に貢献してきたし、これからもそうでありたい。」何百年経とうと概念的には変更のしようがない。別に70年目に何か言う必要もないとは思う。

しかし出したいならどうぞ、だが恥をかかないように注意する必要がある。趣旨が違わぬ限りそんなに難しい作文でもなかろう。国語能力に自信が無いのは分かるが、先ず自分で作文して、与党内でそれこそ識者に添削してもらえば済む程度の話だ。それを半年も前から大勢を集めて意見を聞く騒ぎになっている。結果如何なる美辞麗句を連ねることになるか分からぬが、本心では先の大戦への反省が足りないのだから、木に竹を接いだような文章となるのは目に見えている。恥の上塗りを指摘するする側近が居る筈もない。そのことが問題だ。

故郷北信濃の小藩に須坂藩がある。ここの殿様が幕末に15代将軍徳川慶喜の若年寄で外国奉行を務めていた、名前を堀直虎と言う。長野高校の同期生でも須坂から通っていた人以外は、殆ど知らないのではないだろうか。自分も知ったのは1年か2年前のことである。知ったきっかけは思い出せないが、強烈に印象に残っているのが次のことである。

徳川慶喜は慶応4年(1968年)正月、前年から京都を鎮静するためにと称して、自ら出陣して大阪城にいたが、幕軍の鳥羽伏見の戦いでの敗戦の知らせを受けると、軍艦に乗船して江戸城に逃げ帰ってしまう。当然江戸城内では連日の重役会議になる。その時に若年寄外国奉行だった堀直虎(28歳)が慶喜に向かって直言する。要するに「大政奉還して王政復古の道を進めるには、将軍一人が腹を切れば済むことだ。そうすれば公武合体も上手くいって、徳川家も安泰だろう。」と言った趣旨を決然と言い放ったらしい。

正確な記録が無いので真偽のほどは定かではないが、非常に分かりやすい話である。そしてその時、慶喜は黙って席を立ってしまったそうだ。当然「俺は切腹は嫌だ」の意思表示だった。それを見て、堀直虎は、もはやこれまでと思ったのだろう。屋敷に戻らず江戸城内で切腹してしまったそうだ。如何にも信州人の若者らしい分かり易さだ。徳川幕府の高官には、松平容保とか勝海舟とか講談本に登場するような有能な人材が多数いたので、この年の春、明治元年になって新政府誕生後も慶喜は長生きをすることになる。

150年前の政府でも、閣内にはそれこそ識者が沢山いたので、日本国は分裂もせず植民地になることもなく命脈を保って今日に至っている。殿はそんなに利口でなくてもいいと思うのだが、閣僚には相当な見識を持つ有為の人材が必要である。現内閣を見るにつけ、閣僚を初め内閣の取り巻きが、余りにもご粗末で阿諛追従の輩ばかりで末が案じられたならぬ。

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