2015年1月22日木曜日

読後感「あなたのガラリアへ―聖書を読む」今井敬隆著

坊さんのことを書いた本であれば何冊か読んだが、我が家の宗派曹洞宗の開祖道元禅師の「正法眼蔵」の解説も読んだことは無い。序でに言えば僅か300字足らずとされる般若心経ですら「色即是空、空即是色」8文字しか記憶に無い。ましてキリスト教となると、教祖イエス・キリストと「アーメン」を知っているつもりだったが、イエスさんの姓はキリストでなくて、キリストは「神様」の意味と知ったのは、この本に書かれていたのではないが曲りなりにもこの本を読んだおかげである。何故イエス教でなくてキリスト教なんだろう、和訳「神教」となると「神道」と混同しやすいからか?残念ながら「アーメン」の意味も何語なのかも未だに分からない。多分「合掌」を声にするのがキリスト教の決まりだろう程度のことだ。

読書のきっかけは著者今井氏が小中高通して同窓の友人で、今でも付き合いがあることからである。著者が牧師になったことを知ったのは社会人になって相当経ってのことである。それもその筈で、氏も普通のサラリーマン生活を20年近く勤めてから牧師になっている。宗教界のことは分からないが、彼も少し変り種かもしれぬ。ともあれ、この本の恵贈を受領してから既に10ヶ月近い。送られてきて直ぐに20頁ほど読んでみたが、その後積み放しになってしまった。内容的には聖書の解説書ではなくて、著者の説教集。文書は話し言葉で平易ではあるが、基礎知識が無いので理解するのが大変なのである。

何が難しいかと言えば、聖書の背景、即ち聖書が書かれたとされるキリスト教の発祥時代の歴史的事実について知識が皆無故だ。せめて地理的背景だけでも分かればであるが、書名となった「ガラリア」がどうも地名らしいと想像できても、国名なのか地方名なのかが先ず分からない。地名ではっきり分かるのはエルサレムだけかもしれない。読み終わった今でもイエスさんは何国人であるかはっきりしない。ユダヤ人かと思い込んでいたが、ユダヤと言う国家はいつどこに存在していたのだろう?これも歴史の中に見つけることは難しそうだ。

ローマ帝国時代には文明発祥の地エジプトからメソポタミアにかけて人間が多数居住していたようで、紀元前の大凡2000年近くの間には様々な国の興亡があり、言語も多様化していったのだろう。従って人名一つとっても表記如何で多様な変化があって、登場してくる人物を系統的に記憶させるのは大変である。大体現在では富裕層ほど地球上を自由に移動するが、ロバくらいしか移動の補助機関が無かった大昔は、現在のホームレスではないが下層階級の方が必要に迫られ長距離移動をしたり、複数言語の習得をしていたのかもしれぬ。

聖書に精通するには英語は勿論ヘブライ語やらラテン語等ご苦労が多いことだろう。そこに畏友今井君が挑戦して、素人にも分かりやすく解説しようと努力してくれた訳ではある。先ずそこに敬意を表したい。

聖書はイエスさんの言動を後に弟子たちが文字に起こしたもので、古来布教に活用したようであるが、イエスさんが直接書いた原本(例えば「正法眼蔵」のような)は、若くして磔になっているのだから仕方ないのかもしれぬが、一切無いらしい。その弟子たちもいろいろで、福音書とされるイエスさんの言行録だけでも4人の筆者が4種類の聖書を書いて、同じことの筈が違った解釈から異なる表現になったりしているらしい。現代の牧師さんたちは、その日の気分かどうか分からぬが、その中から適当な文節を取り出して説教に使っているようだ。著者もその例に洩れぬだろうが、無批判に聖書を有難がらずに、適当な皮肉や批判を加えて福音としているのが如何にも信州人らしい。

結局読んでも何も分からなかったに等しいが、キリスト教も世の中が乱れて下々が塗炭のの苦しみに喘いだ時代に最下層の人間を救うとして、その階層の中から生まれきたこと。これはあらゆる宗教に共通(仏教は王様が開祖だから違うか?)することであり、救いは神に求めるのだが、結局のところ、どの宗教でも神が見守っている筈の世界には平和がもたらされることが無く、現世の苦しみは続き、死によってのみ救われる仕掛けになっている。文明が発祥して4千年、主だった宗教が出現してかれこれ2千年以上経つ現在も何も変わっていない。

「諦めて清く正しく生きなさい」が、全宗教共通の精神だろうが、著者は、神の名のもとに飲食を共にしないだけならまだしも。殺し合いにまで発展する教会や宗派の争いも古来のものであり、教会のあるべき姿に悩んでいることを説教の合間に指摘している。昨今の世相を見るにつけ誠に尤もだと思う。


1 件のコメント:

VZJ00372 さんのコメント...

意味深長なコメント、ありがとうございました。著者