2014年12月26日金曜日

歴史への興味

今日御用納めのところが多いそうだ。御用納めや御用始とは無縁だが、今日は昼前から出かけて事務所に戻らない可能性が高いので、早めにブログを書いておく。

昨日のブログで、孫への同情心から高校の詰め込み教育問題に触れているうちに、日本の歴史教育に少し言及してしまった。この延長について書いておきたい。先ず、歴史は記憶と記録だけが頼りなことゆえ、個人であっても国家の場合でも視点をどこに置くかで様々な受け止め、解釈が可能であるだけに厄介でもある。しかし個人的な興味で言うなら、それが逆にミステリーアスで、謎解きの面白さにもつながっていることは否めない。

中国では、伝統的に王朝の大事業として歴史書の編纂があるようで、何でも紀元前100年前後の漢時代に編纂されたとされる「史記」以来清代まで24(26?)の王朝による歴史書(正史)が現存している。中華民国から中華人民共和国に至る現代でも、中国では正史編纂の重要性は変わらず、時の政府が都合の良いように歴史を作り上げていることを知っておくことが大切かも知れぬ。日本帝国による侵略に関する記述で南京大虐殺なんてことが典型なんだろう。

時の王朝による歴史書編纂は何も中国だけのお家芸ではなく、むしろ現代に至っても、編纂しない国家の方が少ないのではないだろうか。我が国でも江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として継続、明治時代に完成した「大日本史」は有名である。これが現在どんな歴史的意味(価値)を持つかについては知らないが、100年以上経っても有名であるからには、それなりの意味があるのだろう。

韓国と日本の間で専門家だの学者が協議を続けているが、所詮歴史とは過去をどう認識するかの問題だから、喧嘩した加害者と被害者が歴史認識を共有するなんてことは永遠にできないと思う。中国の例を引くまでも無く、現在の力関係で強い方の意見が通るだけのことだろう。何たって、日本でもよくやる手だが、都合の悪い証拠は皆焼却してしまえばそれまでなんだから。むしろ水戸光圀ではないが、先の大戦後からカウントしても既に70年、明治維新から数えれば150年近くも経つのだから、歴史教育を考える前に政府が歴史書を編纂することを考えてほしい。

歴史書編纂は純然たる国内問題だろうし、国内的にこれが権威として認められることが重要である。結果的に外国からあれこれ言われても、言ってしまった者、書いてしまった者の勝ちではなかろうか。例えば韓国が面白くないからと言って、これを焼き捨てるためには日本に戦争を仕掛けて乗り込んでくるしかないだろう。しかしまともな史書である限り、そんなことが現在の国際情勢で許される筈は無い。

冗談みたい話になってしまったが、史書は概ね皇帝即ち日本では天皇の歴史を中心に記されるもののようである。江戸時代に書かれた「大日本史」は神武天皇を初代として記述されているが、もし現在新たに史書を編纂するならこれに一考を加える必要がありそうだ。誰もがご存知のように神武天皇は神話のお話なので、科学が進歩した現代の史書には相応しくない。年が明けて2月になると「建国記念日」の祝日があるが、これも遠因を探ると神武天皇に由来している。

そもそも「建国記念日」を祝日にする国家はアメリカなどの新興国であって、千年以上の歴史を持つ我が国には相応しくないと仰った人が居る。もちろん記念日制定前の昭和30年代初めことであるが、仰ったのは三笠宮殿下。殿下は軍人として大戦に深く関わったことを反省する一方で、歴史学に造詣が深くていらした。紀元節が天皇の神聖化に繋がり、国民に与えた影響を戦後深く憂いてらしたようである。

暦が我が国に伝来したのが6世紀半ばらしいが、歴史的に検証可能な史書の編纂がなされることを望んでいらっしゃるかもしれぬ。

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