2014年9月28日日曜日

読後感「秋月悌次郎-老日本の面影」松本健一著

あとがきで著者自身が語っているが、歴史を題材にした小説とか評伝の作家としては司馬遼太郎氏に似ているところがある。事実司馬氏の晩年の10年ほどの間には付き合い(直接会ったのは2,3回だったらしい)もあって、互いに相手の作品には敬意を表し合っていたようだ。しかし、取り上げる人材は極端に異なる。司馬氏は日本の官僚制度の創始者である大久保利通を高く評価し、著者は西郷隆盛が好きと言い切っている。

自分が著者を知るきっかけは、彼が「評伝 佐久間象山」を著したことにある。佐久間象山は、故郷の長野や母校の長野高校で幕末最大の偉人(開国=革命思想家)として尊敬されていた。著者が詳しい評伝を上梓してその根拠を示してくれて以来ファンとなった。本書は初版が1987年となっているので2000年に出版された「評伝 佐久間象山」より遥か前の作品である。主人公の秋月悌次郎は1824年生まれの会津藩士。18歳にして藩の推挙で江戸に上り、経術と漢学を極めたとある。

江戸時代の武士は誰も幼いころから四書を学んだようだが、秋月の場合はそれが徹底して、朱子学が身に沁みついていたと言うことだろう。朱子学が身に着くと言っても、現代社会に生きる我々には何のことか分かり難い。簡単に言えば学問の要諦は「道を知り仁義道徳に沿った生涯を送ること」に尽きるのかもしれぬ。江戸での学問は長期間に亘り、26歳の時には昌平黌(当時唯一の国立学問所と言うべきか)寄宿舎の寮長となり幕府から手当てを貰っている。

結局昌平黌在席は11年に及び、その後諸国漫遊をして西は薩摩まで足を延ばし、その間各地で当時の一流の論客と知り合っている。帰国後は藩主松平容保に重用されて目付、学校奉行、勘定奉行などの重職を経て、藩の公用人(国務相又は外務大臣と言ったところか)に取り立てられている。それだけ全国に顔が売れていたと言うことだろう。

時は恰も幕末の風雲急を告げる時代。藩主容保は京都守護職を命ぜられ、その下で秋月は公用人としての名前を上げていくことになる。幕末の情勢がどのように動いたかについて講談本の知識では、とても窺い知ることは出来ぬ複雑さである。尊王攘夷が薩長土肥で開国佐幕が会津や水戸だと簡単に2分出来るものではない。長州が禁門の変で一旦朝敵になったのを坂本竜馬の活躍で薩長連合が成立した話は有名だが、どうも300諸侯のどれをとっても天皇制無視は言っていないようだし、開国と攘夷も後で取ってつけた感が無きにしもである。

察するに天皇家を日本の象徴又は旗印にすることについては、諸藩は一致していたのだろう。察するに当時の孝明天皇と弟の明治天皇派なんてことはあったかもしれぬ。こんなことを書くのは、本書から松平容保が孝明天皇から大変信頼されていたと知ったからである。当時、幕府をどうするかについて諸藩の動きは複雑で、一時は秋月たちの奔走で会薩同盟が出来掛かった時期があるらしい。時代背景は兎も角、結局薩長主導の討幕が半ば成功して明治になり、江戸城引き渡しから、東北同盟の抵抗による戊辰戦争に会津も加わり、東北同盟は何れも悲惨な敗戦となる。

会津藩も白虎隊の話ではないが、実に悲惨な敗戦の日を迎えるのだが、この降伏儀式の会津藩側代表が公用人秋月悌次郎で、マッカサーの役どころが薩摩の人きり半次郎こと桐野利秋。秋月は命を取られず終身刑で青森に流さたが、結局3年ほどで恩赦となる。新政府には彼の学識を評価する沢山いたのだろう。郷里に帰っていたところを再び江戸に呼び出されて、新政府に仕えて東京では1高、東大、熊本の5高の教授などを歴任、晩年は東京で1900年75歳で亡くなっている。

秋月の経歴を長々書いてしまったが、著者が言いたいのはその経歴ではなくて、生き方の問題。本の初めは70歳に近い秋月の5高時代の話から始まっている。当時の5高は校長が加納治五郎、ラフカディオ・ハーンも同僚である。秋月はここで倫理と漢学の教授になっている。ハーンは秋月を「神のような人」とさえ言っている。白く長い髭を生やした温和な老人といった風情ではある。5高時代の秋月の様々なエピソードを積み重ねていくと、「人は誠心によって過不足なく各々の分を尽くすならば、別に名を挙げずともよい。それによって「中庸の道」に通じてゆき、天命にかなう。」と信じた生き方が鮮やかに浮かび上がってくる。

明治維新当時の侍のうち、生き残ったのは2流の人物ばかりとの説もある。確かに歴史に埋もれて忘れ去られている存在には違いないが、秋月のことなどを改めて教えられると、幕末激動の時代を生きた武士階級の知識人が目指したものが何であったかが、おぼろげながら見えてくる気がする。秋月の場合もそうだが、頭でっかちになっている訳ではない。藩の公用人であったのも事実だし、一方で戦争の際は会津城攻防戦の軍事目付でもある。

触れることが出来なかったが、後半に秋月と非常に親しかった長州藩の奥平謙輔のことが書かれている。彼は西南戦争の1年前明治9年長州の前原一誠が起こした萩の乱の軍事長官格で、結局は捕まって首を刎ねられているが、維新当時は皇軍側にいて、秋月が降伏側の公用人として登場して捕まったことを知って大いに心配してすぐ書状を書いている。それが6年後には立場が逆転してしまう時代である。

互いに詩人でもあり、著者の松本氏も又詩心が厚い。要所要所で秋月、奥平の詩作を引用して、解説を加えているのが松本健一氏の又良いところでもある。人の上に立つ人間の生きざまを考えさせられた思いの1冊であった。

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