2014年8月21日木曜日

制御不能

広島の市街地で発生した雨災害の恐ろしさには驚くばかりだ。長野の育ちなので、子供の頃に山の奥で働く人から奥山川の鉄砲水の恐ろしさを聞いた覚えがあるが、まさか市街地で発生するとは。科学が進歩して気象予報もかなり正確になり、土木建築工学も高度になっている筈だが、最近発生している自然災害は、大方の想定を超えるものであるようだ。そもそも自然なんて解明し尽くすことが可能なんだろうか?人間が自然を克服なんて偉そうなことを言うので、神か自然かが怒っているような気がしてならない。

スパーコンピュータの発達は更に科学を進歩させ、月やお星さままでロケットを飛ばしたり、数十兆と言われる人間細胞の更に奥にある遺伝子まで侵入して、昔風に言えばフランケンシュタインではないが、人造人間製造まがいのことまでしている。数日前に読んだ雑誌(新潮45 9月号)に京都大学の経済学者の佐伯啓思氏が「こう言ったことは果たして自然の追及と言えるかどうか?」と書いていたが全く同感だ。原子力も含めこんなことは少なくとも自然科学とは言い難いと思う。未知の世界を追求したい気持ちは分からぬでもないが、何事も程々が肝心なようだ。

この佐伯氏が言うには視覚的且つ感覚的に「より高く」「より明るく」「より大きく」「より早く」「より便利に」「より便利に」などを目指すことが成長だとすれば、一旦その成長の価値を見直すところに来ているとのことだ。進歩とか成長は万人にとって永遠のテーマみたいものだろうから、見直せと言っても難しいだろうが、歳を取って試行停止状態となり、お迎えを待つ身になっているせいか共感を感じるところがある。

今から約半世紀前、大学を卒業して就職した当時の生活環境を思い起こせば、現在の生活は成長しすぎてしまったのではと考えても過言ではない。更に記憶を辿って少年時代に遡れば、今の生活は想像すら出来なかったほどの変化である。 偈に恐ろしきは人間の欲望とでも言いうべきかも。想像が出来なかったことに直面したとき、これを教訓として克服すべき手段を考える。これは当たり前で、ここで普通は科学の専門家が登場することになる。しかしこのイタチごっこのような仕掛けは何処までも上手くいくとは限らないのではないか?

年のせいばかりでなく、元来向上心に薄く諦めやすい性格でもあるので、何か無理だな思うと、そこで立ち止まって後退することを考えてしまう。今朝は4日続きの熱帯夜について「堪らんなぁ」と文句を言ったら「土砂崩れに巻き込まれた人のことを思えば、熱帯夜ぐらいで不満を言ってはいけません。」と注意されてしまった。あまり綺麗でもない空気と風景、ごみごみした都会の真ん中の狭苦しい家で、言いだせば不満に切りが無い。考えてみれば我が家には制御不能のことが多くて欲を言いだせばきりがない。

誰しも欲は切りが無い話だろうが、何処で我慢するかが問題で、余り無理をしない方がハッピーと言うこともあろう。総理閣下が胸を張る「アンダーコントロール」は結構だが、実態が伴っていないとの噂もよく耳にする。権力やお金さえ有れば何でも可能と言うことでもなさそうだ。

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