豊葦原瑞穂の国

昭和37年の秋、そろそろ長袖シャツが欲しくなる頃のことだ。夏休み前はのんびり構えていたが、気が付くと周囲の友人の殆どが卒業後の行く先を決めていた。当時慶応の文学部なんかは、本当に勉強するつもりで入ってくる学生が少なかったように思う。家が経済的に恵まれている友人が多く、殆どが親の店や会社を手伝うとか、親が勤務する会社の関連会社に就職が多かったように思う。

一番仲が良かった友人は青山学院に在籍していたが、落第を重ねてまだ4年生になっていなかった。大阪で中堅ではあったろうが工作機械メーカーの御曹司である。毎晩のように連絡を取り合って遊びまわっていたが、翌年の3月で卒業できそうだと伝えると、「俺も考えなければならぬか。」俄かに寂しそうな顔になったことが忘れられない。

お父さんが立派な方でこちらも大分お世話になったが、青山学院中退で会社に入れる訳にはいかない。せめて英語くらいは喋れるようになれ、とのことで夏休み明けにはニューヨークへの留学が決まってしまった。そうなるとこちらも流石に就職を何とかしなければと考え始めて、先ず学校で求職案内啓示版を真剣に見始めた。ところが文学部への求人なんかおいそれと見つからない。

両親や両親の知人にも随分世話にもなったが、学部が文学部で成績証明にAの数が1桁となると、どんな企業でもまともに相手にされない。当たり前の話である。今でもお世話になっている方がある会社に一緒に行ってくれた。その時聞いた先方の台詞を今でもはっきり覚えている。「率直に言って、当方とすれば2億円か間違えば3億円ほどの買い物です。いくらあなた様の紹介でも慎重にならざるを得ません。」

一緒してくれた方も多分納得してくれたことだろう。「ま、一人で頑張ってみろや。」に発奮した訳でもないが、再度学校に戻って就職課みたいところで面談を受けさせてもらった。担当の先生か事務員か定かでないが、とても親切で「本当にどんな会社でもいいんだね。」と念押しがあって、直ぐに1社紹介してくれて、その場で先方の人事担当者に電話をしてくれた。明日すぐ面接してくれることになったとのこと。

何でも3年前に設立されたばかりの広告代理店で、幹部の大部分が慶応の先輩とのこと。広告代理店なんて仕事は聞いたことが無かったが、翌日面接に行くと総務部長で慶応OBと仰る白髪の老人が「仕事は入社してから覚えればいいよ。」極めて優しいお言葉。いやぁ感激しましたね。間もなく採用通知を貰って、学校の就職課にお礼の報告に行った時の気分は忘れられない。

この会社は全国農業中央会(JA全中)の指導機関と位置づけられた社団法人家の光協会が発行する雑誌「家の光」の広告を取り扱うことを専門とする生業であった。若そうな社員が十数名いたが、幹部は皆おじさんばかりで、ちゃらちゃらした風情は一切なかった。当時は農家戸数が600万戸、雑誌「家の光」の発行部数が公称120とか130万部と言われていたように思う。

入社して暫く広告なんかより農業のことを知らなくては商売にならないと言われて、2年前に公布された農業基本法とかを一所懸命勉強させられた。あれからすでに半世紀以上、ついにJA全中が安倍政権の標的になって解体の危機を迎えている。農林水産業を1次産業、製造業を2次産業、我が社なんかのサービス業が3次産業であり、今後はこの3次産業の伸びが大いに期待されている。

と教えられ、産業競争力は大いに伸長して現実もそうなっているかも知らぬが、何とも言えぬ虚しさを感じてしまう。

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