2012年12月5日水曜日

映画感想「三等重役」東宝昭和27年の作品

夜テレビを観ようとすると選挙関連の話題が多くてつまらない。そこで昨夜はNHK衛星放送で1952年に製作された映画「三等重役」を観た。当時は最大の娯楽が映画だったので、祖母に連れられて西部劇や時代劇は見せてもらえたが、このように大人向けの娯楽作品には縁がなかったようだ。ストーリーはドラマ性に乏しく、喜劇としてもそんなに面白いとは言えない。役者も現代的に言えば大物が沢山出演している。しかし演技については批評できるほどの見識が無いし、素人感覚で言えば大部分は「くさいなぁ」と言いたくなる。

画面は白黒、繋ぎ方も1秒か2秒真っ黒の暗転があったりして、上手い下手以前に時代を感じさせるものがある。しかし終戦から7年目、小学5年生の時に作られた映画である。ずっと引き込まれて見入ってしまった。何よりも記憶の底に眠っていた当時の風景風俗が鮮やかに甦ってくるのが、何とも言えないくらいに心地よい。タイトルの「三等重役」が示すように、当時の流行作家源氏鶏太の人気サラリーマン小説がベースになっている。

背景は架空の田舎町だが、心象風景はこちらの記憶と一緒である。会社の偉い人でも家に帰ると和服の下にラクダかメリヤスのアンダーシャツがのボタンが覗いている。会社の女子社員は皆スカートにブラウスの洋装だが、男子社員の奥さん連中が外出する時は全員和服姿である。この町の最優良企業が舞台だから当然だろう。面白いし、そうだったと思い出させてくれたのは、本社にも東京の出張所にも「給仕」がいて、お茶を汲んだりしていること。

確かに小学校時代は職員室にそれらしき学生さんがいた。こちらの記憶には全くないが、さもありなんと思ったのは、社長が東京出張の際に妾を同伴して、帰りに箱根でゆっくりすることを企てること。この社長の妾を演じる女優が藤間紫、これが何とも妖艶で美しい。昔猿之助、今の猿翁が浜木綿子みたい美人の妻を振って、何であんな婆さんと引っ付いたのか、不思議でならなかったがやっと納得した。

ストーリー的に面白くないみたい書き方になったが、描かれた終戦から10年足らずの日本社会を形作っていた様々な人間関係、或いは家庭、或いは会社、或いは飲み屋、そこで織りなされる人間模様は思いのほか明るい。戦後10年を経ずしてこういう娯楽作品を生み出したエネルギーはどこから来たのだろう。現代のテレビドラマ映画は先ず見たことがないので当たらぬかもしれないが、映像はやたらに明るいが、後味が暗いものが多いように思う。

暗いと思って忘れていたあの時代の、何か大切なものを思い起こさせて貰った気がする。

3 件のコメント:

kiona さんのコメント...

この作品は知りませんでしたが、あの時代の映画を見て感じる闊達さ、すがすがしさはわかる気がします。ある程度の時代の幅はあっても、昔の日本映画を見ると、日本って面白い国だったんだなと正直思います。これは社会の成熟の問題なのか、成長中のアジア諸国やBRICSには昔の日本に似たような雰囲気があるのか、それとも別の何かによって日本がつまらなくなったのかは定かではありませんが、今は不景気以前につまらない国。すべてにおいて予定調和的。それがまず先に立って意気消沈のムードに絡めとられます。これは取り戻せるのでしょうか。取り戻せるとしたら、何がポイントとなるのでしょうか。。

senkawa爺 さんのコメント...

kionaさん
コメントありがとうございます。
最近少し逆説的なことを思うのですが、人間貧乏しているときの方が明るく前向きになれるのかもしれません。
成長中の東南アジア諸国やインドなんかに行けば似たような雰囲気があるかもしれません。ブラジルやロシアについては文化そのものの情報が少なすぎてよく分かりませんが、これらの国の映画なんかどうなっているのでしょうか?
的外れかもしれませんが音楽なんかも、コンピュータの発達でイージーに作詞作曲がなされる時代になっているような気がします。紙と鉛筆に頼って頭の中で想像力を働かせながら生み出されたものには、それなりの格差も出るでしょうが、現代的手法で生み出されたものは平均的になりやすいなんてこともひょっとしてありませんか?
世の中の全てが似たような現象に陥っている可能性もありそうです。私が山に行きたくなるのも、そんな環境から少し抜け出てみたい気持ちになるからかもしれません。その行為でさえ、子供の頃を思うと随分予定調和にはなっていますね。

kiona さんのコメント...

そうですね、ハングリーさがなくなっただけなのかもしれません。中途半端に満足しているので、それすら失うことにbetできない。為政者にとってはこうした 'ぬるま湯' が最もコントロールしやすい状態なのかも知れません。しかしそれでも同様の成熟国である欧米にはクレイジーな奴がときおり出没するようにも見えます。

ブラジル映画と言えば子どもが犯罪に巻き込まれるようなのばかりですが、それが受けるから作られるだけかもしれませんし、ロシアは最近VFXに走っているように思えて作品数も多くないように見受けられ、どちらもそれほど個性的な何かを輩出している気はしません。

コンピュータによる音楽でアウトプットはイージーになったかもしれませんが、欠落しているのはインプットであるような気もします。音楽ソースは膨大な過去のデータベースがあるはずなのに、時代の空気にあわせてコモディティ化するのはなぜか。

コマーシャリズムというのが前提にあるとしても、かつてであれば、大ヒットした楽曲はそれまでの音楽とは一線を画していて、それがヒットしたために後に真似たものが氾濫するという構図だったのに、現在は(日本だけではないですが)中規模ヒットしかないし、それも革新的サウンドというわけでもなく、たまたま受けた。すると中規模にもかかわらずみんなそれにすり寄ってくる。とにかく LIKE されたい、tweetしてほしい。

つまりは LIKEし、tweetするコンテンツの受け手のレベルにあわせているわけだし、そのレベルが決して高くない。そして送り手もそれに合わせられるのだから同様ということかと。

プロシューマーという言葉が一時期もてはやされましたが(今もか)消費者が生産者でもあるということですが、消費者が作ったCMのほうが、プロのクリエーターが作ったものより訴求力が高いはず、みたいなことが言われましたが、そうはなっていない。

ああ、長くなってきましたね、すいません。

つまりキーワードは「個人」かなという落ちですが、またいつか飲みながらそんな話でもさせてください。長々と失礼しました^ ^